第10話

 すべてが崩れ始めたのは、私が孤児院に入って3年ほど経った頃、私が7歳になった年のことだった。


 ある日、孤児院に数名の軍服を着た数名の男女が訪れた。もともと、孤児院には里親を希望する夫婦や、孤児院を出た後に子どもたちが進学する予定の学院の教師などが客人として訪れることは多々あったので、軍服にこそ珍しさを感じたが、彼らの来訪自体は特別不思議に思わなかった。


 ただ、一つだけいつもと違う点があったとすれば、孤児院の先生が私と「空兄様」に、彼らに挨拶をするように言ったことだった。


 普段、客人と子どもが直接関わるようなことはない。あったとしても、精々、里親と引き取られる子どもの面会くらいなものだ。

 

 言われるがままに挨拶をすると、彼らは褒めてくれたが、その言葉の響きがやけに乾いていたのを子どもながらに感じ取った。そのまま彼らは、私たちを品定めするかのように見下ろして、何やら話し始めていた。


「……この子たちか」

「予備調査で、既に予想以上の数値が出ているようです」

「過去と未来を見据える軍師というのも、なかなか面白いではないか」


 彼らの言葉は、7歳やそこらの私が理解するには難しすぎた。その一方で、「空兄様」は、澄んだ深い色の瞳で彼らを見上げ、やがて表情を曇らせる。


「空兄様?」

 彼のその表情を不思議に思い、彼の名を呼ぶと、「空兄様」は酷く寂しげに笑って、私の手を握った。


「大丈夫だよ、憐。きっと、守ってあげるからね」



 文字通り、地獄の日々は、その翌日から始まった。


 その日は、いたって普通の朝だった。「空兄様」の隣で朝食を食べ、彼にぴたりと寄り添うようにして絵本を読んで貰う、穏やかな時間を過ごしていた。


 彼の優しい声音に耳を澄ませていると、不意に、先生が私の名を呼んだ。


 呼ばれるままに、先生の方へ向かおうと立ち上がった私の手を、ふと、「空兄様」の手が掴む。いつになく力強く、まるで縋るような手だった。


「空兄様?」


 彼の方を振り返ると、「空兄様」は酷く悲痛な表情で私を見上げていた。そうして、ぎゅっと、私の小さな体を抱きしめる。


「……憐」


 私の名を呼ぶその声に、彼がどんな感情を乗せたかは、幼い私には量り切れなかった。今だからこそ分かるが、彼はこの時にはもう、察していたのだろう。


「変な空兄様。先生が呼んでいるから、憐、行くね?」

 手を振りほどいたのは、私からだった。彼の憂いなど微塵も理解していない私は、そのまま彼を振り返ることもなく、先生の許へと駆けていく。彼は、遠ざかる私の後ろ姿を見て、何を思っていただろう。



 先生に手を引かれるままに連れてこられた先は、見知らぬ建物だった。最上階が確認できないほど高く、そのような建物を初めて見た私は無邪気にはしゃいでいた。


 高速エレベーターに乗り込むと、ふと、繋いだ先生の手が震えだす。驚いて先生の顔を見上げれば、いつも笑顔を絶やさない先生には相応しくない、暗い表情を浮かべていた。


「先生? どうしたの? おなかいたいの?」

「……大丈夫よ、ありがとう、憐ちゃん」

「先生、空兄様もあとで来る?」

「……ええ、きっと来るわ。いい子で待ってようね」


 エレベーターのドアが開いた先は、一面の白だった。行き交う人々も皆、白衣を羽織っており、幼い私には別世界のように感じたものだ。


「お待ちしておりました」

 その言葉通り、私たちを待ち構えていたかのように、数名の白衣の研究者たちが出迎えた。先生が私の手を握る力を急に強め、少し痛かったのを覚えている。


「この子は、こちらでお預かりします」

 そんな先生の手を振り払うように、白衣の女性が私の肩を半ば強引に掴んだ。突然のことに、私は声も出せなかった。


「あの、その子は、まだ本当に幼いんです。ですから、どうか――」

「私たちは、軍の命令に従うまでです。今までご苦労様でした。どうぞ、お引き取りを」


 まるで懇願するような先生の言葉を、白衣の女性は冷たくあしらった。先生は、エレベーターに押し戻されるようにして、私は白衣の女性に連れられるようにして、あっという間に二人は引き離される。


 先生と別れ、涙ぐむ私に構うことなく、白衣の女性は私の手を引いて歩き続けた。そして訳も分からぬまま、一本の注射を打たれると、抗う術もなく、私は意識を失ってしまったのだ。



 目覚めた先は、白を纏った地獄だった。


 白く広い部屋、白いベッドの上に寝かされた私の腕には、何本もの管が繋がれていた。そして、一つ上のフロアから、ガラス張りの壁越しに何人もの白衣の人々が自分を見下ろしていることに気づく。


「ここ、どこ?」

 あたりを見渡しても、白いだけの空間に人の姿はない。当然、答える声もない。


「憐、病気になっちゃったの?」

 腕に何本も繋がれた管を見上げ、再び涙ぐむ。管から液体が入り込むたびに腕が痛み、少しずつ意識が溶け行くようだった。



 その日から、一か月間、私に対する「実験」が始まったのだ。


 日に日に増えていく薬剤の数と採血。

 包帯で隠しきれないほどの無数の注射痕。

 ガラス越しに私を見下ろす白衣たちの冷たい視線。

 白い部屋の閉塞感。


 そのすべてが、幼い私に容赦なく襲い掛かった。とても、7歳の少女に耐えきれるようなものではなかった。


 始めこそ、泣き叫んでいたが、日を重ねるにつれ、やがてその気力も体力も奪われていく。

 

 どれだけ声を上げても、誰も助けてくれない絶望というものを7歳にして理解してしまった私は、殆ど精神崩壊の寸前だったように思う。

 

 それでも、私が心を壊さずにいられたのは、「彼」の言葉を信じて縋っていられたからだろう。


 気が触れそうなほど、鳴りやまない耳鳴りと頭痛の中で、私が最後まで口にし続けた言葉はただ一つ。


「――空兄様」






「――憐? 憐!? どうしたんだ?」

 焦るような声に不意に我に返ると、私の両肩を揺らすように合崎の手が添えられていた。ひどく、悲痛なその表情は記憶の中の「空兄様」そっくりだ。


「……なんでもない」

 すぐに視線を逸らしながら、やけに早まっている脈と呼吸を落ち着かせるように、息をつく。心臓の音が耳の奥でうるさいほどに鳴り響いていた。


「……また、何か記憶が蘇ったんだな?」

 彼は、私の肩に手を置いたまま離そうとしない。私は何も言えず、ただ息を落ち着かせることしかできなかった。


 時折、こうして突発的に記憶が蘇ることがある。何をきっかけに起こるかもわからない。もちろん、私に限らず、心に傷を負った人ならば起こりうる現象なのだろうが、私は頻度も記憶の鮮明さも桁違いだった。薬で回数を減らすことは出来ても、完全に無くすことは出来ない。

 

 肩に置かれた合崎の手を見ると、それだけで泣き出してしまいそうだった。あの日、私から振りほどいてしまった手だ。


 あの後、彼も同様に「実験」を行われたらしい。私と同様かそれ以上に酷いものだったのだろう。辛い実験の日々を耐え、再開した彼はもう「空兄様」ではなかった。再開した日に射抜くように私の目を見つめた、あの不安定な彼の瞳は今も焼き付いて離れてくれない。


 あと何度、私はあの日々の記憶に苦しめられるのだろう。無数の注射痕も、今ではすっかり無くなって、体の傷はすべて治ったというのに。


 もし、この記憶が、命の終わりまで薄れることはないというなら、もういっそのこと、ここで終わらせてはいけないのだろうか。


 合崎は、未だに不安げな表情で私を見つめていた。彼のその瞳に映る私の終末は、どれほど遠いものなのだろう。乱れた呼吸を抑え込むように背を丸めて、音のない声で、ぽつり、私は呟いた。


「……助けて、空兄様」


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