6 歯車①
サリヴァンには、魔人を宿す前と後で変わったことがある。
それは、自分より目端がきいて弁の立つ存在が、つねに影に張り付いていることだ。その感覚は形容がしがたい。
精神的には、おそらく周囲が想像するよりずっといい。同居する師アイリーンという存在に育てられたから、
しかしジジは普通の魔人ではない。特殊な経験を積んだ魔人である。人間の本質を人間より理解し、それを利用して生き延びてきた。
サリヴァンは、いまだにジジがいることを忘れることがある。そんな『現象』を起こすことができるのが、ジジという『手練れ』の手腕だった。
肉体的にはというと――――複雑怪奇だ。
目に見えて、感覚が鋭くなったただとか、虚脱感があるだとかの変化は無い。
その感覚は、ジジが宿り、移動など縦横無尽に利用するのがサリヴァンの影の中だからか。
学術的に【影】とは肉体の一部だ。投影された影法師を剣で刺すことで、肉体に刺し傷を作る転写の呪いだってある。
影とは肉体の延長であり、そのものの本質の一部が宿る。その一部を魂の表層と呼ぶこともあり――――だからそんな場所に、つねに自分以外の意志を宿しているというのは、悪く例えるなら吸血されながら疾患を防いでもらう虫と宿主の共生で、これはちょっとグロテスクな例えだが、妊婦と胎児の関係にも似ている。
そんなふうに、ときおり【いる】のを忘れることすらある存在。それが強い存在感を示すときには、体の芯のほうが【震える】のだ。これがまた奇妙な感覚なのである。サリヴァンはその感覚に【共振】という言葉を当てはめて表現する。そのとき、何が震えているのかは分からない。
――――サリー!
周囲には、ヒースとジジ、そしてエリカ以外の人間が、乗船準備を終えようとしたところだった。
そんなときに起こったそれは、いままでで一、二を争うほど強い【共振】だった。
持ち上げかけた荷物を取り落とし、目を
心臓の鼓動と異なる不規則な振動の中に、血の流れる傷と火のにおいも感じ取っていた。
次の瞬間、ジジから流し込まれてきた景色の共有に、サリヴァンは呼吸すら忘れて駆けだした。
ジジには強い制限がかけられている。サリヴァンがいなければ、誰かを攻撃することはできない。ーーましてや、それが彼女であったのなら。
✡
サリヴァンには廊下の内装と同じ壁紙に見えるそこを、エリカは凹凸に触れるようにして指でなぞった。
軌跡にそって青白い光がはしり、幾何学的な文様の
鼓動に似たまたたきを放ちながら、放射状に展開されていく紋様は、大輪の花にも見える。
「何をしてるんですか」
サリヴァンは、すっかり乾いた口を開いた。
「入口を開いているの。ここから先は誰に聞かせるわけにはいかないわ。とりわけ、アリスが宿っているヒースにはね。ジジの『目』と『耳』を借りれば、あなたもこの先にあるものが見ることができる」
エリカは座り込んだままのサリヴァンたちに、半身を見せて立っていた。
長い髪は束ねず背に落ち、寝巻のような黒いリネンの服を着ている。すこし皺がついていて、もう予定の昼時に近いというのに、眠っていたのだろうか。
靴だけが、彼女が好む艶のある黒革のパンプスで、かかとを踏みつぶしていることに気が付いた。 うたた寝から飛び起きて、慌ててベッドを飛び出してきた彼女の姿が浮かぶ。その瞬間、サリヴァンの胸には、ヒースのもとへ駆けだした自分が彼女と重なって思えた。それは懐かしい子供のころに見たきりの、家族としての彼女の姿でもあった。
紋様の光を残し、壁が消えた。
そこには点滅する配線と、透明なカバーが重なった奥に無数の歯車が見える。
内臓を揺らす駆動音は、怒り猛る動物の群れに相対したかのようだ。
「さあ、ジジ。行きましょう」
サリヴァンは立ち上がるジジからヒースを受け取り、膝に抱える。
ジジはほんの一歩踏み出してサリヴァンを振り返り、じっと見下ろしてきた。何かを言うわけでもなく、まばたき三回分ほど見つめ合い、エリカの跡を追って隣に立つ。
ジジがエリカに差し出した手を、彼女が握った。配線の中には人の通る道など無いというのに、ジジはためらわず足を踏み出し、黒霧になって配線の奥に消える。
手を引かれていたエリカの体からは彼女の形をした影がスルリと抜け、体は抜け殻のように床へ倒れ込んだ。
サリヴァンはヒースの体を抱えたまま、唖然として床に広かる長い黒髪を見つめる。
駆動音に掻き消され、肉が床に沈む瞬間が、まるで現実感が無かった。
≪サリー、見てる? ≫
ハッとしてサリヴァンは、目蓋を閉じた。
ジジの視界には、ごく淡い緑の光に照らされた無数の歯車が見えている。
〈……この浮島は、この装置を中心に増設されていったわ〉
エリカが言った。
〈あなたはヒースの誕生日を覚えてる? 〉
毎年祝っていた日を忘れるはずがない。
「ザグレの三日」
〈私もその日に生まれたのよ〉
ジジはぐんぐんと歯車の間を縫いながら下降しているようだった。暗がりを見つめながら数度呼吸をしたサリヴァンは、師の言葉の意味を考える。彼女は時に、持って回った言い方をすることがあるからだ。
〈3481年のザグレ月の三日。母は前日の昼から産気づいて、夜明けとともに私を産んだ〉
どこかで聞いた話だ。
(そうだ、
〈そして、3501年のヤヌスの末に、この世界から消えたの>
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