幕間:邪神狂騒曲5

 ロキが言った。


「そういうきみこそ、我々に渡すものがあるんじゃあ無いの? 」

「あっ、はい! 」

 アズマは慌てて懐をまさぐった。

 てっきり忘れ去られていると思っていたが、さすが奸智の神である。こちらの事情はおおよそ既知だったに違いない。


「……これなんですが」

 差し出された広い手のひらに、アズマは例の紹介状を乗せた。

 ロキ神は真顔になって紹介状をつまみ、明かりにかざしたり、包み紙の折れ目に規則性がないかを見定めていく。


「なにこれ。ゴミ? 」

「あなたの船長からの紹介状です。……一応」

「ははぁ……まあ、あの子らしい……」



 ロキはアズマにも見えるように肩を寄せ(反対側にクロシュカの巨体があるので、とても苦しい)シールが剥がれ、なんとか成していた手紙の体も薄れている、雑紙(ざつがみ)のメモを広げた。


 やはりそこには、変わらずの文字がある。神さまパワーで、触れた瞬間に隠されしメッセージが浮かび上がったりするのではないかと少し期待していたアズマは、緊張の面持ちでロキの反応を観察する。


 はたしてロキは中身を見て、「エェッ! 」と声を上げて、アズマと手紙を、五度は見比べた。

 微睡んでいたクロシュカが、ビクッと震えるほどの声である。


「あらまあ驚いた! てっきり船長の弟かなんかだと」

「まあ、諸事象ありまして」

「ちっちゃくなっちゃったのね。OK。……ン? てことはアンタ、あの女の夫? 」

「いえ、あの。えっと…………。そのぅ……妻と娘がたいへんお世話になったようで―――――」

「ヤッダァ!! やめてよ!! 」


「ほぇっ!? 」

 その大声に、陸に上がった魚のようにクロシュカが跳ねた。

 本当に嫌そうにロキが言ったので、驚いてアズマは背を伸ばす。



「船長にはお世話してるけど、あの女には一片の貸し借りも無いし、これからも作りたくないの! あんたがそういうこと言っちゃあ、あの女もこのロキに頭下げるじゃん。そういうのは嫌! ぜったいね! 」

「そう嫌うことも無いと思うけれど。私は好きだよぅ。意外と情熱的なところが好ましいじゃあないか」

「ディオはそらそうだろうけどさ! それに私は嫌ってるわけじゃなくって、なるべく関わり合いたくないの! 」

 とんだ厄ネタ扱いに、アズマは苦笑いでいる。



 アズマの人生の波乱の一つが、アイリーンと出会ったことだった。

 アズマの妻の『人間としての』名はアイリーン・クロックフォード。

『トラブルと急展開』に溺愛されている特濃の存在感(キャラ)持ちのこの女性と恋に落ちた時点で、アズマの人生は常に台風の目の近くに置かれているから、ロキの主張は「さもあらん」という態度でいられる。



 おもむろに、むっくりとテーブルの下から這い出て来た船長代理のディオニュソスが身を起こした。


「話はだいたい分かったよぅ。つまりこの船で行きたい場所があるんでしょう? 」

「……はい! そうなんです! 」

「ケツルの民が飛ばないんだもんねぇ……んん~……でもなぁ」


 ディオニュソスの蕩けた緑の目が、アズマの横でいびきをかいているクロシュカを見下ろした。


「……そういえば、この人……いや、クロシュカさんとは、どう知り合ったんですか? 」

「彼、有名なんだよぉ。今の人間の中でも格段に面白いひとだし。……知らない? 」


 本当に思い当たるところが無かったので、アズマは困った顔で首を傾げた。酒で舌を湿らせていたロキが、ソファの脇で胡坐をかいて欠伸をする酩酊の神の言葉を引き継ぐ。



「地質学者のクロシュカ・エラバント三世といえば、この多重海層世界を最初に踏破して『世界はひとつだった』って証明した人なんだよ。何千年も誰も証明できなかったたった一行の神話の記述を、彼は体一つで確かめた。その功績に報いて、船に乗せてやったんだ」


「エッ」

 アズマはまじまじとクロシュカの姿を見た。

 昨日見たよりもいくらか身綺麗になってはいるものの、身に着けているのは汚い腰巻と鉄仮面だけである。いつの時代の剣闘士だという姿だ。

 しかし、下界に降りているにしろ、まぎれもない神々が本人だというのなら、まぎれもなく本人なのだろう。


(本当に偉い学者さんだったのか……)



「……最初はねぇ、第16海層でニャルが見つけたんだよねぇ」

「そうそう。あれだけの功績をした……しかもまだ生きてる人間なのに! あんなところでドロドロのへろへろで行き倒れているものだからね。とても慈悲深いわれわれ『人間大好き同盟』は、雑用係として世話してやったってわけ」

「なるほど。それで、その『ニャル様』は? お姿が見えませんが」

「さぁ? 無貌の君はもともと流浪の民だし、同盟は有効だから害になるようなこともしないだろうってね」



(楽観視はまずいのでは……)

『這いよる混沌』の異名で有名な邪神(ここ重要)の数々の所業に、アズマはひやりとした汗を流した。



「マ、あの邪神サマは、忘れたころに顔出すでしょうよ。……ねえ、シオン。今はこっちの大切な話をしましょうよ」


 アズマを下の名前で呼んで、白い手がするりとアズマの太腿を撫であげた。とたんにピキリとアズマの全身が固く強張る。


 身体の左側にしだれかかってくる腕は、いつしかしなやかな筋肉と脂肪に覆われたほっそりとしたものになっていた。

 どこを見ても白い肌の中、赤毛と真っ赤に塗られた爪と唇が、艶々と輝いている。


 赤毛も華奢な肩の上を波打つほど長くなり、奇抜な下着のような赤い衣装は、変化した柔らかい肢体を微かに締め付け飾り立て、アズマのほうへ引き寄せた左腕で、真っ白な双丘が楕円に形を変えていた。



「ずるい」デュオニュソスが唇を尖らせる。

「この美少年は女のほうが好きなのよ」

「わたしのほうが絶対うまいと思うんだけどなぁ」


 そう言いながら、男神は猫のようにソファに座るアズマの膝の上に這いあがって頬をついた。


「そらそっちは開放的なご実家だもの。でも、個人的には負けるとは思わないね」

「む。こっちはいわばエリートの性技だぞぅ」

「なんだい。勝負してみるかい」


 酒精を香水のように纏った神格二人は、アズマの身体の半径三十センチ以内で、ささやくような言葉を交わしている。

 不味い方向に事が進んでいるのが分かった。

 デュオニュソスが艶然と微笑む。緑色の瞳が輝きを放った。


「その言葉、後悔するぞ」

「いいだろう。ヒイヒイいわせてやるよ」


 ロキの灰色の瞳が、髪色と同じ赤に変わっている。

 いつしかクロシュカは、ソファから落ちて床で大の字になって高いびきをかいていた。

 ただでさえ薄暗かった照明が、互いの顔の位置しか分からない程度に落される。


 クロシュカのいびきをBGMに、まず左側のロキの手が懐に、デュオニュソスの手が帯にかかった。

 耳たぶと首の間にある隙間に女の息が吹き付けられても、アズマは拳を握って体を固くしたまま、まだ打開策を考えていた。

 気持ちいいことはやぶさかではない。アズマにだって性欲はある。人間だもの。しかも相手は、経験豊富で美貌で知られる神々である。なんとなく怖いが、やぶさかでない。やぶさかではないのだ。


 問題はそこにはない。


 おそらく、アイリーンが怒る。


 アズマは妻が本気で怒ったところを見たことは無いが(彼女はけっこう寛容なのだ)、これはまずいのだということはわかる。

 アイリーンでなくとも、これは一般的に一発アウトの離縁まっしぐら案件だ。

 神話的にも浮気者は八つ裂きが基本である。いや、神話的解決の方がやばい。

 アイリーンの怒りのほどは分からないが、もし八つ裂き案件にまで本気で燃え上がらせたら……。


(きっと、魔法使いの国が最後の審判どころじゃ無くなっちゃう……! )


『不快には思っても怒らない』という可能性もあるが、それは考えると悲しくなったので、アズマは忘れることにした。

 ニッコリ笑って『いやあ、そうそう得難い経験をしてきたな』と言う妻なんて、悲しくなるから想像上でも見たくない。


(どうしよう。どうしたら。どうすべき……)


 アズマは混乱していた。

 ベストは、穏便に事態の収束ののち、二神の機嫌を損なわず、第18海層まで連れて行ってもらうことだ。


 そのためには……。


 そのためには?



 そのためには!


(無謀じゃないかそれ!? )



 おそろしいことに、思考に気をやった一瞬で、外套と靴と帯と長着が脱がされて、上半身がインナーだけになっている。そのインナーも、胸のあたりにまで捲られて、上はもう陥落寸前である。


 ロキはああ言ったくせに、さすがに神話に轟くトラブルメーカー&ハプニングマシンだった。この行為の先に、あれだけ嫌がっていたアズマの妻が待っているなんて考えていない。脊髄反射で欲望に生きている神格だ。

 インナーがわだかまる首元を挟むように、するりと後ろから二腕が伸びてきた。

 アズマは鎖骨のあたりを撫でて来るその冷たい肌におおげさに跳ね、ハッと我に返って、二神を跳ねのけるようにソファから跳び上がった。



 ゾブンッ! とハート形のソファの中心が絞ったように潰れて床に縫い留められる。

 巨大な甲殻類の脚のような、鋭い爪のある凶器だった。


 テーブルを挟んだ向こう側で、左手に刀袋に入ったままの長物と、右手に握った『杖』を構え、アズマはそれを見据えた。

 違いの表情も分からない闇でも、アズマの眼はとっくに慣れている。

 ソファの後ろからアズマを絡めとろうとしたその人物は、黒い影に見えた。塗りこめたように黒く、ゆらゆらと輪郭がぼやけて煙のように立ち昇っている。

 大きな音を立てて吐かれた吐息が聴こえた。……デュオニュソスのため息だ。


 明かりがついた。


「……ニャ~ル~ゥ! 」

 恨めしい声と眼差しをもって、ロキはその影を出迎えた。


 いや、もう影ではない。ちゃんとした輪郭をもっている。

 滑らかな陽に焼けた肌を持つ銀髪の麗人が、にやにやと口だけで笑っていた。

 影法師のように背が高く、痩躯である。黒々としたくっきりした瞳と、出来立てのチョコレートのような肌を、ピッチリとした黒い礼服に身を包み、床に届くほどに長い、硬質ながら透明感のある頭髪の銀色がよく目立つ。


「おれがいない時に面白そうなものを連れ込むんじゃない」

「ふだん好き勝手出歩いてるくせに、ずいぶんな言いぐさじゃないか」


 ニャル。

 ニャルラトホテプ。


 ロキと気安い会話を交わしているのを見て、ようやくアズマは武器を収めた。

 深い穴のような黒い瞳が、そんなアズマを横目で見る。



「やあ。きみも異邦人か。この世界だと初めて見たな」

「そりゃそうさ。『魔女』のときはニャルはいなかったもの」

「そうか……おれは若いからな」

「それ、神格には自慢になんないから。この人間、船長ボスのお父さんよ」

「……ほう? では、この世界の混沌の夫というわけか。彼女は異邦人を選んだのだな……」

「そういうわけ。これから18海層に行くわ。船長と合流するの。ねえ、ディオ? 」

「うん。さ、ニャルも帰ったし、行くかぁ~」

「……ん? おいロッキー。ディオのやつは、なぜ全裸なんだ」

「今日は運動したい気分だったんだって」

「そうか。……あっディオ! おまえは操縦桿を握ってはならんぞ! 」


 肩をまわして廊下に消えていくデュオニュソスの背に、ロキとニャルラトホテプが言葉を交わす。まるで何事も無かったかのようだ。

 いや、実際、ハート形のソファはいつのまにかもとに戻っているし、その脇ではクロシュカがむにゃむにゃと寝言を言いながら平和に寝返りを打っている。



(いや、まだ油断は禁物だ)


 無かったことにしたようなふりをして、実はまったく忘れていない。そんなのは神話の常套である。

 しかし、ちゃんと連れて行ってくれるのは確定らしい。

 第7海層から、第18海層までの旅路だ。実に長い旅になるだろう。


 東シオンの経験則。『トラブルと急展開は、いつもキャラが濃い人が持ってくる』。

 それが正しいことが、また証明されてしまった。




(困ったなぁ……)

 次に迫られたらどう躱せばいいのだろう。

 実に頭の痛い難題だった。



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