17-6 二つの星

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 天空に六芒星が浮かんでいた。

 地上から見ると、コインほどの大きさしかないが、雲の端に迫る巨大な六芒星だ。

『銀杖』と銘を打たれた魔術師の杖で刻まれたものだと、『魔術師』はわずかに空気に滲む魔力で知った。

 魔術の残滓を消すのは、実践的な魔術師には基本だ。

『魔術師』は、六芒星を刻んだ『教皇』の焦りを感じて、僅かに面白く思った。


 六芒星は、魔術的に最も安定する紋である。『安定』『固定』『守護』『結界』『魔除け』『浄化』……使い所によって、少しずつ違う効果を出す。

 とつぜん顕れた『黒い卵』に、蝗たちをやられたのは不愉快だった。街を滅茶苦茶にしてやる予定が反故になってしまったからだ。

(しかし、蝗どもはまた呼べばいい……)

 蝗たちの襲撃は、大目的には組み込まれていない、いわば鬱憤晴らしだ。いなければいないで、目的達成の支障になるわけではない。


 問題は、蝗の群れを葬り去った、あの『黒い卵』はなんだろうということだ。

 今は六芒星に阻まれるかたちで停止しているが、明らかにあの『花』へ向かっていた。

 六芒星を結界として配置するには、陣が小さすぎる。

 では、あの六芒星に刻まれた術は、『固定』だろうか。

(……違う)


『魔術師』の真っ黒な瞳の奥で、青い炎の光がちらりと閃いた。

 袖から指先を出し、くうに、『情報』を意味するアンスルと『伝達』のラドの紋を描いて、両のこめかみを押す。

『魔術師』にだけ見える一つ目の鴉が、その頭から翼を広げて飛翔する。鴉の赤い目を通し、『魔術師』の視界は空を飛んだ。

『魔術師』自身の瞳は青白く白濁し、さらに伝達ラドを重ね掛けすると、赤目の鴉は距離を飛び越えて目的のもとへと飛んでいく。

『黒い卵』は、一部の隙間も無く、つるりとしていた。

『知恵』を意味するケンの紋を、額に刻む。


「『愚者』……そう、あれが『愚者』の……」

『魔術師』の唇から、その正体が呟かれた。



 その脳裏に駆け巡ったのは何か。

『24人の選ばれしもの』。その順番にも、意味が存在する。

『愚者』『魔術師』。この二つは、後続する『女教皇』からはじまるものとは、おもむきが異なるのだ。

『宇宙』を除けば、それは『旅の始まり』を暗示する。『愚者』が出会う最初の神秘……それが『魔術師』だ。『魔術師』もまた、『愚者』との出会いで変革への道を余儀なくされる。


 導き出されたのは、一言だった。

「では、この審判において、あなたはわたしのになるのでしょうね……」


 ゆっくりと、ゆっくりと、その顔に笑みが広がっていく。

「うふ……うふふ……うふ、うふ、うふふふふふふふ…………」


 鴉は飛ぶ。卵と『花』以外、何も無い空のどこからか『教皇』が箒にのって飛び出してきた。

 隠匿の魔術をかけた乗り物にでも乗っているのだろう。うわさに聞く『飛鯨船』だろうか。


 鴉の目が、『教皇』と『愚者』に繋がる絆を感じ取る。

 感情的なものではない、極めて魔術的な『絆』……力の受け渡しを行っている名残りという名のだ。

 そのむかし、塔の窓から見えた箒星のように、『教皇』は六芒星の網に捕まった黒い卵へ杖を向ける。

 一瞬、『教皇』の体が、赤い炎に包まれた。

 鴉は音を伝えることはできない。吹き出す汗を拭いもせずに、『教皇』は炎に宿る力を速度に変えて、空にオレンジ色の線を引いた。

 視えない力の受け渡しが行われ、『黒い卵』は内側から弾けて瓦解する。卵は黒い靄を上げながら消えた。


『教皇』は、そのまま城へと向かっていく。


(『愚者』とはどんな人物なのだろう……)


 そのときだった。


「――――誰! 」

『魔術師』は、鴉との繋がりを切って振り返る。

 そこには黒い荒涼とした丘が広がっている。

 乾いた短い草花がまばらに生えているだけの、火口へ向かう中腹である。起伏の大きいこの国の地形は、あちこちに瘤のように突き出した丘がある。

 眼下の街に溜まった霧は、魔術師の足首のあたりを舐めていた。


 ……枯草を踏んで、霧の中から坂を上ってくる足音がする。


 すん、と『魔術師』は獣のように鼻を鳴らして、耳をそばだてた。


 額に刻んだ『知恵ケン』と、重ねがけした『伝達ラド』の残滓はまだ残っている。風に乗ってやってくる情報は足音ばかりで、匂いがしない。

『魔術師』は、『伝達ラド』の効果を切ると、素早く水で瞼の上に二重に重ねた円を描き、足音の行方を耳で追った。

 耳を立てながら、『知恵ケン』を重ねがけし直し、刺青の刻まれた親指と人差し指で円をつくる。

 それを覗き込みながらあたりを見渡してすぐ、彼女は来訪者の正体を知った。


「……アルヴィン・アトラス」

『魔術師』は、現れた亡者のあまりの姿に眉根を下げた。

「ああ……なんてことでしょう。可哀想に……」

 唇を食み、『魔術師』は顔を悲痛に歪める。両手を祈りの形にし、王女らしい優雅な礼を、目の前に立ち止まった足首だけの皇子に見せつけた。


「哀れな魂……こうして我々の礎となったこと、決して忘れはいたしません。やがてあなたは一人ではなくなるでしょう。……いましばらくのご辛抱を」


 枯草を踏んで、皇子が歩み出る。

「頭も、腕も、胴も失い……ただ、ただ、歩むことでしか我が身を知らしめない……。なんと哀れなこと」


『魔術師』は、その爪先が近づくのを見つめ、悲し気に微笑むだけだった。


「あなたはわたくしのことを、どれほど覚えていらっしゃるのでしょうね。こうして仇敵を目の前にしても、あなたは文字通り手も足も出ない……」


『魔術師』は触れそうになる爪先を、躍るような足取りで後ろに跳んでかわす。くるりとローブをひるがえし、足だけの皇子と無言の攻防を交わすうち、『魔術師』の顔には酷薄な微笑みが張り付いた。


「うふ……うふ……うふふ……かわいそうに……かわいそうに……。うふふ……ふふふふふ……」


 少女の頬が上気すると、弾む吐息に赤い火花が混じり出す。腹の内で滾る銅板の欠片が、皇子と惹かれ合っている。


「うふ……うふ……。語り部の名残りがわたくしの中で熱く焦がれているわ。うふ……ふふふふふふふふ……」


 足首の上で青い炎が燃え上がる。心臓の位置から燃え広がった炎は、一瞬少年の姿をとった。慌てて火花を避けた『魔術師』は、今度こそ高く笑う。


「あはははははは! 今わたくしを睨んでましたね!? はははは! あはははははは! なんて可愛い人でしょうねェエ! 」


 ボウッとまた青い火柱が上がる。とっくに駆けだしていた皇子の足は、『魔術師』を捕まえようといっそう早まった。

「おっと、危ない……」ついに『魔術師』の足が地面を離れる。

 見えない地面を踏むように飛び上がった『魔術師』は、下から青い光に照らされながら、鼠を弄ぶ猫の顔をしている。


「……可哀想で、可愛いひと」

「―――—それはアンタもね」


『魔術師』が振り向くより先に、魔人の手がその顔を掴んだ。放り投げるようにして地に叩きつけられる。

 跳ねた少女の体を再び地面に叩きつけるように踏んだ白い裸足の上から、擦り切れたコートの裾が、バサッと落ちた。



「土にまみれるのがお似合いだぜ? 王女サマァ」

「――――なぁに、あなた……ぐっ! 」

「口を聞いていいと許可した覚えは無い」


 前髪を掻き上げて、ジジはぐりぐりと足に体重をかける。


「見下すなら、見下される準備もしとくんだな」

「ふ、ふふふふふ……そんな準備、するまでもなく知っておりますわ」

「……ああ、そうだったね。ウッカリ忘れてた」

 指で自分の顎をなぞりながら、ジジは『ヒヒヒッ』と笑う。




「じゃ、そろそろ形勢逆転と行こうじゃねえか。なア、悪役さんよォ」


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