3.3 軽い命

 それから檜佐機の操縦室周りの電装系の修復を多少手伝って、十五時。一度部屋に戻って洗濯物を回してから、檜佐が賀西に会うというので中隊司令部までついていって、その足で九木崎のプールに向かった。

 三十分ほどゆったりと背泳ぎと平泳ぎをして体を伸ばした。学校と共用なので二三レーンしか空いていない時もあるが、この時は子供も教師もいなかった。広々として静かだった。笛の音もしない。タイルの床すれすれまで潜水して腕を体につけ、足を揃えて水を押す。ヘビが柔らかい砂の中にうねうねと潜り込むイメージ。体を捩じって上を向く。水面に網目の波紋がゆらゆら揺れる。口を開けて空気を吐く。泡の塊が水銀のように光を反射しながら昇っていく。床に踵が触れ、腰が触れ、肩が触れる。

 私はそこで死んでいった同期たちのことを思い出した。彼らの多くは決して戦争で死んだわけじゃない。投影器の手術で命を落としたのもいるし、肢機に潜ったまま目覚めなかったのもいる。プールで溺れている友達を助けたあと具合が悪くなってそのまま死んでしまったのもいる。ここにいると人間は本当に些細なことで死んでしまうのだということがわかる。人間というのはそんなに頑丈な生き物じゃない。結構些細なことで駄目になってしまう。

 人の命は重くなんかない。

 むしろ軽い。

 でも軽いから大事にするのかもしれない。

 大事にするから重く見える。

 少なくともそう思わせたいのだろう。

 私より潜るのが上手い子供だって大勢いた。でも誰も生き残らなかった。あるいはより深く潜れたからこそその深みに足を掴まれてしまったのかもしれない。

 それから長い時間をかけて私は当時の彼らよりずっと深く潜れるようになっていった。私は彼らとは違う。この深みはまだ私の味方でいてくれる。

 採暖室で体に熱を溜め込んで水着を脱ぎ、ジャンパーを被ってさっさと寮に戻る。冬はこれがつらい。皮膚が凍りそうになる。部屋に飛び込んでシャワーを浴びる。ラジエータをつけておいたので浴室の中も温かかった。そして隅々まで完璧にぴかぴかになっていた。扉の桟の黒カビも、鏡の水垢もすっかりなくなっていた。檜佐がそれだけ暇を持て余していたわけだ。昨日まで九木崎の母屋で寝泊まりしていたようだけど、一日中母屋に閉じ込められていたわけでもないだろう。

 私も自分の体の汚れを完全に落とす。髪にトリートメントをつける。手足に乳液を塗る。柔軟剤の効いたシャツを着るととてもいい気分だった。それまで自分がいかに苛々して感覚や思考を閉ざしていたかわかる。出動の間はどうしても水拭きで済ますことが多くなって、水垢と同じように少しずつ汚れの膜が厚くなっていくような気がする。それを我慢して、それから自分が我慢しているということを忘れておくためには、やっぱり感覚の感度を鈍らせておかなければならなかった。

 ドライヤーでごうごうと髪を乾かして、バスタオルをラジエータにかける。ついでに体重を量る。少し増えた。実戦だと何かと待機時間が長くてその間操縦室の中でじっとしているから、その分トレーニングができない。しかもいざという時に動けないといけないからって食料はどんどん支給されるのでどうしてもカロリー過多になる。自分の顔と肉体の形を鏡に写して点検するようにじっくりと眺める。上から下へ、下から上へ。正面、半身、体をよじって背中。脇の下や腰の後ろに手を押し当てて皮膚を引っ張り肉付きを確かめる。

 洗濯機が止まった。中身を開けて一枚一枚几帳面に皺を伸ばしてから窓際の物干しに干す。瞼が重かった。ベッドに倒れ込んで布団の間で少し泳ぐように手足を動かして眠りを引き寄せる。柔らかく冷たいシーツの感触。その中にずるっと滑り落ちていくように意識がなくなった。肉体のあらゆる機能がその瞬間に休止することを前々から取り決めていたみたいだった。


 昼寝から目を覚ます。天井が辺りの陰を腕いっぱいに集めたみたいに暗かった。まだ外の方が明るい。窓の外を見ると西の空が赤かった。天頂の辺りは紺碧で、フルーツのようなグラデーション。カラスの鳴き声。気分はあまり良くない。頭が重い。檜佐は戻っていた。テーブルで本を読んでいる。レムの『ソラリス』。足首を重ね、左肩を背凭れに掛け、机の縁に右手を置いて本を支えている。

 台所の灯りが点いていた。あまり使わない灯りだ。青白くて、ちかちかする。天井の灯りは点いていない。ああ、私を起こすと悪いと思ったのか。足で吊り紐を引っ張る。かちっと鳴って一拍遅れてやや黄色がかった光が広がる。天井は陰を手放す。

「ソケット綺麗にしてあげるよ」と檜佐は私が起きたことに気づいて本を閉じた。綿棒を取ってきて私のベッドに上がり、私の首の横に正座して首筋の窩の蓋を開ける。綿棒で水気を拭い、ベビーオイルを垂らして綿棒のもう一方で端子の隙間を拭く。無鉛ガラスと金でできているが点検は必要だ。ガラスは硬いけど強度はないから金槌かなんかで叩けば割れる。蓋だけなら取り換えればいいけど、基部が割れると破片が体内に入ることもある。

「ほんとに怪我してないの?」私はうつ伏せのまま訊いた。

「体の方は全然。軽い脳震盪だけ」

「神経系の損傷は」

「それも。MRIもやったけど」

「麻酔は」

「しない。私あれそんなに嫌いじゃないの」

 MRIにかかる時の狭苦しさと輪転機のような轟音を想像して体がむずむずした。窩には結構な防磁シールドが施されている。それでもMRIの強力な電磁波を完全に遮断できるほどではない。磁力がかかれば端子は金属だから電流が生じる。それが神経に入るのだ。結構不思議な感覚がする。我慢ならないというやつも多い。檜佐とは数年の付き合いになるけど、一生にそう何度も受ける検査じゃないし、一緒に受けたことはなかった。学年が違うせいだ。

「敵は」今度は檜佐が訊いた。

「仕留めたよ」と私。

「何だったの?」

「パットン。結構砲塔が変わってたけど、だと思うよ」

「何がやったの?」

「どうかな、私かな」

「え、対空装備じゃなかった?」ミサイルでやったと思ったらしい。

「インファイト。機関砲」

「三十五ミリの榴弾じゃどこも抜けないでしょ」檜佐は半笑い。「ああ、いや、対ヘリ用のAPDSを積んでたね。あれか」

「そう。天板なら直上からで半々くらい」

「ふうん。すごいね、肢闘で戦車を」

「カーベラは足腰が強いし、瞬発力もあるからね。マーリファインじゃ無理。だけど、かな、っていうのは、相手は孤立していたし、こっちは二機で、上からの支援もあった。ほとんど支援機がやったようなもんだよ。ただ地上に対する制圧力がないってだけのことで」

 檜佐は私の窩の蓋を閉める。

「敵は。敵の人間は」檜佐はもう一度訊いた。

「死んだよ。顔だってきちんと確認した」

「私に傷があれば、それが彼らの痕跡だったのにね」

「あんまり深く考えるな。縁起でもない」

「だって碧は彼らの顔なんてすぐに忘れちゃうでしょ」

「いいよ。憶えとくよ。我が小隊に致命傷になりかねない一撃を食らわせた奴らだ」

 檜佐はそれ以上何も言わなかった。

 十五分ほどして石黒いしぐろのおやじが全館放送で「ごはん」とただ一言夕食の支度を告げた。

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