新天地~女神の心➁
……ええ……と?
私はパチパチと瞳を瞬いた。
勢いよく振り上げた手は行き場を失くし、所在なげに宙を漂っている。
つまり、女神カトリーナの頬を引っぱたいたのは私ではない。
怒りで一瞬我を失った私よりも先に動いたのは、意外な事に彼方だったのだ。
「……っ!何をするのよ!?」
カトリーナは、引っぱたかれた頬を押えながら彼方を睨み付けた。
カトリーナが押さえている手の隙間から見えた頬は赤く腫れていた。
「すみません。ちょっとイラッとしちゃって」
彼方は笑った。
「いい年した女神様が、八つ当たりみたいに呪いをかけただなんて、馬鹿なんじゃないのかな?って思いまして」
わざとカトリーナを挑発するように。
……彼方さん。
今までとキャラが違いませんか……?
カトリーナを挑発する彼方の笑顔は、
クリスと距離を縮めていくヒロインに嫉妬したシャルロッテが、ヒロインの頬を思い切り叩くシーンである。
『薄汚い泥棒猫は、地べたに這いつくばるのがお似合いね?』
と、嘲け笑うシャルロッテ。
状況も言葉も全く違っているというのに、あのシーンを彷彿とさせたのだ。
……色々と衝撃的すぎて、頭の中がこんがらがっているのかもしれない。
自分で言うのもなんだが……こういった場面で感情的な行動をするのは、いつも私の役割なのだ。だからこそ、今の状況に戸惑っていたりする。
顔は笑っているものの、彼方の右手は微かに震えていた。
この右手はカトリーナを叩いた方の手だ。
人を傷付ける事に慣れていない彼方の手は、カトリーナを叩いた事を後悔しているのだろう……。
しかし、今は口を挟める雰囲気ではなさそうなので、黙ってこの成り行きを見守るしかない。
振り上げたままだった右手は――この機会にそっと下ろしておこう。
うん。そうしよう。
恥ずかしくなんてないんだからっっ!
って……ごめん!
金糸雀、ごめんって……!!
シリアスな場面になると、ついついおちゃらけたくなっちゃうんだよ!!
空気読むから睨まないで!?
「『置いてかれた』?そんなの当たり前じゃないですか。あなたみたいに幼稚な人を誰が頼るんですか?泣くだけしか能がない引き籠もりのくせに」
「……っ!うるさい!あなただって私と同じく、置いて行かれる側じゃない!!」
「はい。置いて行かれた側ですけど、何か?」
「『何か?』……って」
「置いて行かれたというよりも、捨てられたんですけどね?」
微笑みを崩さない彼方の言葉に、カトリーナは愕然とした。
彼方がこんな事を言うとは思わなかったのだろう。
――彼方は実の両親に捨てられた。
ずっと兄だと思っていた
止まない誹謗中傷と帰らなくなった父親。
代わりに仕事に出るようになった母親は、仕事に行くと出て行ったっきり行方不明になった。
一人残された彼方は、親戚をたらい回しにされ、酷い虐待も受けていた。
自分では逃げることができない無力な子供。
……彼方は神々の醜い争いに巻き込まれた被害者だったのだ。
アーロンはそんな彼方を助ける為に、この世界に喚んだ。
現在、彼方の父親と母親の関係は元に戻っているが――それは、彼方がアーロンにそう願ったからだ。
『両親も被害者だから』と。
しかし……関係の戻った両親の元に彼方の居場所はない。
彼方は過去の傷を全て負いながら、この世界で生きていくことを選んだからだ。
彼方の両親は、子供がいない夫婦として生活を送っている。彼方の事も何もかもを忘れて……。
「だから私はしっかりと前を向いて生きる。これからは絶対に黙って置いて行かせない」
彼方の瞳にはしっかりとした決意の色が見えた。
「置いて行かれたくないと嘆くなら、どうしてもっと足掻かないんですか?積極的に関わりもしないくせに……頼られなかった?置いていかれた?そんなの当たり前じゃないですか!」
何もかもを諦めて……本当は死にたくなんてないくせに『殺して欲しい』と願っていた、あの時の彼方はもういない。
彼方はとても強くなった。
「泣いて、駄々をこねるだけなんて子供だって出来る。私は早く大人になりたかった。大人になれば、自分で選択が出来るから……。全てから目を反らして、自分を慰めているだけのあなたと私は全然違う!」
「うるさい!」
顔を真っ赤に染めたカトリーナは、私から離れて彼方に掴み掛かった。
カトリーナを止めようと、立ち上がりながら手を伸ばした私よりも先に、大きな影が彼方の姿を隠した。
「カトリーナ、落ち着け!彼方に手を出すことは私が許さない」
彼方を背中で庇う様にしながらカトリーナの前に立ったアーロンは、カトリーナの両手を掴んだ。
彼方の方を窺うと、彼方の側に寄り添うセイレーヌの姿が見えた。
……良かった。
彼方に危害がなかった事に、ひとまず安堵する。
「何よ!……何よ……何よ……何よ!!あんた達もみんな置いて行かれたくせに!カーミラに、置いて行かれたくせに……!」
アーロンに両手を掴まれたカトリーナは、身体を捩って懸命にその手を振りほどこうとするが、子供の様な体躯のカトリーナと背の高い男性であるアーロンとでは力の差が明確だった。
ビクリとも動かない手を睨み付けながら、カトリーナは唇を噛み締める。
「何よ……。何なのよ……」
抵抗を諦めたカトリーナは崩れ落ちる様に、その場に座り込んだ。
アーロンから離された両手を固く握り締め、それを床に叩きつけるようにしながら、唇を噛み締めて俯いた。
そんなカトリーナに、掛ける言葉が思い浮かばない。
私は、カトリーナや彼方の言う『置いて行く』側の人間だから……。
――気まずい空気と沈黙の中。
「……女神カトリーナよ。そなたはもう少し自分を許してやるべきではないか?」
首元に付いた鈴をチリンと鳴らしながら、サイが動いた。
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