記憶の欠片
長女が生まれた三年後に次女が生まれ―――次女が一歳になると同時に私は外に働きに出た。
サラリーマンの主人の収入はそこそこあったが、子供の将来の為に少しでも貯金をしたかったのと、子供達には充分な教育を受けさせてあげたいと思ったからだ。
――それから二年後。
第三子になる長男が生まれた。
思い切って育児休暇を一年間取り、その期間中は五歳の長女を保育園に預け、生まれたばかりの長男と次女の面倒を自宅でみることにした。
授乳とオムツ替えの無限ループ……。
三人目となると自身の年齢的な負担が重なった。
主人が育児に協力的なのはとても助かったが……それでも私の疲労は蓄積されていった。眠っても……眠っても全く疲れが取れないのだ。
子供の鳴き声に敏感になり、些細な少しの物音でも目を覚ます……。
そんな日々の繰り返し―――。
そんな中……。とても助かった事があった。
…………!?
眠さが限界を超え――落ちてしまった時。
想定していた鳴き声は聞こえず……『キャッキャ』と楽しそうな笑い声がした―――。
え?
驚いた私は思わずその光景を呆然と眺めてしまった。
三歳の次女の和泉が長男を宥めながら笑わせていたからだ。
「あ、ママ!もっとゆっくりねていていーよ?」
にっこり笑う和泉……。
次女は―――出来た子供だった。
空気を読み過ぎる子供だったのだ…………。
自己主張の強い長女と甘えん坊の長男に挟まれた次女。
まだ三歳そこそこだというのに殆んどワガママを言わない……親からすれば、全く手がかからない楽で助かる子供。
そんな和泉に甘えた大人達のせいで―――和泉は負の感情を表に出すのが苦手な子供へと成長してしまった……。
私と主人がその事に気付いたのは……和泉が小学三年生になった頃だった。
その年頃の子にありがちな、気になる女の子にわざとちょっかいをかける男の子。
大人になれば、その男の子の気持ちも分からないでもないが、その時にちょっかいをかけられている本人からしてみれば、ただただ苦痛でしかない。
良い子の和泉は案の定、私達には何も言わず―――。
ある日突然、限界を超えた。
私と主人は自分達の認識が違っていた事に、この時に初めて気が付いた。
和泉が今までに必死で良い子を演じていた事に。
私達の負担にならない様に気を付けていた事に……。
私は……自分が情けなくて仕方がなかった。
三人をみんな平等に育ててきたと思っていたのに、実際は全然出来ていなかった。
真ん中の娘に無理をさせて――それに今まで気付かずにいただなんて……私は母親失格だ。
……その事実は、私の胸の中にずっと残っている。
だが――あの時に和泉が爆発してくれたお陰で、私達家族の関係が良い方に変わった。特に姉弟間での仲が以前よりも深まった気がした。
自己主張の強い長女とワガママだった弟は次女の和泉を守る様な行動や言動をする事が増えた。
まあ、子供なので……些細なケンカも多かったが。
ケンカをする度に絆が深くなる――――そんな感じであった。
***
「姉ちゃん、彼氏と別れたって」
次女大好きっ子に成長した第三子の智志がある日言った。
「え?嘘……?」
「彼氏の方に好きな相手が出来たらしいよ。姉ちゃん、そう言って……笑いながら泣いてた」
私は絶句した。
その場面を見ていないというのに――まるでその時の事が頭の中で簡単に再現されてしまう。
……不器用な子。
私達大人が――――和泉をそんな風に育ててしまった。
***
「母さん、最近早く結婚しろって言わなくなったね」
「……うん。だってあの子の人生なんだもの。好きに生きれば良いわ」
――まだあの時の傷が癒えていないのだろう。
傷は決してそんなに簡単に癒えるものでもないだろうけど――――。
「お陰で姉ちゃんの部屋、見事にオタク部屋になってたぜ?『バーチャルに生きる!』とかなんとか……」
早まったかしら……。まあ、でも良いわ。
「和泉の事よりも、あなたと彼女はどうなのよ」
「んー……まあ、実は結婚を考えてる」
「あら!本当……?!今度連れていらっしゃいよ! あー、でも彼女のご両親に会うのが先かしら?」
「んー、それはわかんねー……」
「ふふふっ。まあ、良いわ。彼女とゆっくり話し合いなさい。家はいつでも大丈夫だから! 父さんにもそう伝えておくわ」
「ん……。ありがとう。母さん」
「あーでも、顔合わせの時は、和泉もみんなも揃ってる時が良いかしら?!」
「……母さん」
「あら、ごめんなさい!」
――――私があの子に結婚を望んだのは……和泉に心から許しあえる相手と出会って欲しかったから。
***
――その日。
私は智志とお茶を飲みながらでテレビを見ていた。
和やかなスタジオでの談話だったのに――――
急に緊迫した中継画面に切り替わった。
『〇×デパートで不審な煙を伴う事件が発生。この事件により負傷者が多数出ている模様です――繰り返し、現場からお伝え致します』
報道の女性がヘルメットをし、抑揚の少ない話し方で何度も同じ言葉を繰り返す。
「母さん……ここって……!」
瞳を見開いた智志がこちらを振り返った。
「……そんな!……和泉は?!」
勢いよく立ち上がったせいで、凄い音を立てながら椅子が後ろに倒れた。
心臓がバクバクと痛いほどに音を立てている。
あの子は……!和泉は……無事なの?!
「俺、姉ちゃんに電話してみる!」
智志はスマートフォンの画面を操作し始めた。
頭が真っ白になった私には祈る気持ちで、智志とテレビの画面を交互に見つめる事しか出来なかった。
………♪
不意に私のスマホの着信音が鳴った。
もしかして……和泉!?
震える手で画面を見ると――――――
「……私だ! 和泉は?! 連絡あったか?!」
主人からの電話だった。
いつもは落ち着くはずの主人の声を聞いても、心は全く静まらない。
寧ろ……嫌な予感だけが増してくる。
「まだなの! あの子からはまだ……!でも……忙しいだけだわ!きっとすぐに電話をくれるわ……!」
嫌な予感に蓋をする為に、ポジティブな言葉をどうにか重ねようとする。
…………♪
その時――――家の電話が鳴った。
スマホを片手に智志が急いで電話に出てくれた。
「あ、電話が来たわ。……ほらね、和泉だわきっと。私の電話が話し中だから家に掛けてきたのよ」
私は電話越しの主人に話し掛けながらも、意識は智志の方にだけ向いていた。
「はい、天羽です。はい!……はい!和泉は私の姉です……!」
――――電話の相手は和泉ではなかった。
しかし、話している内容は和泉の事の様だ。
「……どうしたの? 電話の相手は誰? ケガでもした?」
――――でも大丈夫。きっとあの子は無事。
だって――だって…………!
『たった今入った速報です。○×デパートで起こった不審物によるテロ行為とみられる事件により、このデパートの女性従業員一名の死亡が確認されました。女性の名前は、天羽 和泉さん。二十七歳。不審物の確認の為に女子トイレに向かった所で――――』
……う……そ。
画面の中から、あの子の名前が呼ばれるはずがない……。きっと……同姓同名の人だわ。
こんな……こんな……テロップは見間違えよ――――!!
こんなの嘘……!嘘、嘘、嘘!
私の和泉が死ぬわけない!!
私達よりも早く……こんな……こんな突然に!!
―――テレビの画面には見慣れた我が子の写真が写り込んだ。
「嫌ーーー!!」
持っていたスマホを落とし、震える身体を抱き締めるようにしながらその場に倒れ込んだ。
『母さん?どうした?!……亜矢子?!』
転がったスマートフォンから聞こえる主人の声。
私はそれに答える事なんて出来なかった―――。
***
どれだけの時間を呆然としていただろうか…………。
「……お母さん。和泉の事を迎えに行こう?」
長女の……沙耶がそう言いながら私の肩に触れた。
「そうだよ。きっと俺達の事……待ってる……」
「沙耶……智志……! 嘘よね? ……和泉が死んだなんて……悪い冗談よね?!」
「……お母さん! 落ち着いて」
沙耶と智志に縋る様に見るが……二人共、たくさんの涙を流しながら首を横に振っている。
「父さんは先に病院に行ってる……だから……」
――――これは私のせいだ。
私があの子を不幸にしたんだ――――!
私が――私が……もっと愛情をもって接していたら……こんな……!!
***
――――数時間後。
二人の子供達と一緒に案内されたのは――――病院の地下室だった。
線香の匂いの立ち込める室内の白い寝台の上。
白いシーツを全身に掛けられた――――。
「和泉……!!」
私はもつれる足をどうにか動かしながら寝台に駆け寄った。
寝台の脇には涙を流す主人が立っていた。
「亜矢子……。この子は……幸いな事に苦しまずに逝けたらしい……」
主人はそう言いながら、そっとシーツを捲った。
「い……ずみ?」
ブワッと涙が一気に込み上げて来た。
息が詰って……今までどうやって自分が呼吸をしていたのか分からなくなる。
苦しい……苦しい……でも……それ以上に…………。
こんなにも……こんなにも穏やかな顔をしているのに……もう、この子が息をしていないだなんて……信じられる訳がない。
「いず……み……。和泉ー!和泉!い……ず……み!!」
私が変わってあげたかった。
どうして……!私が生きているのに……この子が死んだの?!
ごめんなさい……。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい――――。
これは私が受けるはずだった報い。
なのに……優しいあの子が代わりに……巻き込まれたんだ。
やっぱり――――私はダメな母親だった。
「お願い……!!和泉を焼かないで!あの子は……まだ生きている……の!!」
***
……私の記憶はもうずっと朧気だ。
加害者の少年の両親が謝罪に来たが……私にはどうでも良かった。
「あんた達の息子のせいで、姉は……!」
長男の怒鳴り声がしたが、私どうでも良かった。
だって……和泉はもう戻って来ないのだもの。
和泉は私のせいで死んだのだもの――――。
……ああ、もう目覚めたくない。
あの子がいない世界になんて……私には生きている意味が無い。
『そんな事……言わないで』
――その時。私の身体を包み込む何かを感じた。
温かくて柔らかい温もり……。
『……お母さん』
この声は……?まさか…………
「い……ずみ?」
呆然としながら瞳を瞬かせると、愛しい我が子が目の前に立っていた。
『うん。私だよ。長い間……苦しめてゴメンね……』
「そんな事……!やっぱりあなたは生きて……!」
『んーん。私は死んだんだ』
「でも……でも!こうして……」
思わず包み込んだ和泉の顔はこんなにも温かいのに……?
『神様が私の願いを叶えてくれたんだ。……ねえ、お母さん?あなたはずっと私の事を負い目に感じていたのかもしれないけど、私は幸せだったよ?お父さんとお母さんの子供に生まれる事が出来て幸せでした。本当だよ?』
「和泉……?」
『私はお母さんに幸せになって欲しい。お父さんもお姉ちゃんも智志にも。だから……私の記憶は全部持って行くね』
「……嫌よ! お母さんは嫌!あなたの事を忘れてまで生きたくない!」
『もー……そんな悲しい事言わないでよ……』
和泉は泣きそうな顔で笑った。
『私ね。今……違う世界で生きているの。たくさんの人に愛されて……大変な事もあったけど、幸せだよ。こんな気持ちになれたのは、お母さん達がたくさんの愛情を注いでくれたから。……だからもう楽になって』
「和泉……?」
見慣れた娘の姿が、段々と別の女の子の姿に変わっていく。
『今の私はシャルロッテ・アヴィ。十六歳。もうすぐ大好きな人と結婚するよ。……合わせてあげられないのが残念だけど、私を大切にしてくれる優しい人なの』
「…………幸せ……なの?」
『うん。だからお母さんも幸せになって。あ、そろそろ戻らないと駄目みたい。……今までお世話になりました。親不孝な娘でごめんなさい……。でも、幸せでした。私を思って泣いてくれてありがとう。お母さん……ずっと大好きだよ』
私にギュッと抱き付いて来た和泉……は、そのまま光と共に消えた。
「………待って!!」
え……?
飛び起きた私は虚空に向かって手を伸ばしていた。
「うわっ!びっくりした!!母さん、寝ぼけたのかよ」
「寝ぼけ……そうかもしれないわ」
だって……さっきまで見ていたはずの鮮明な夢の内容が、綺麗さっぱり全て消えてなくなってしまっている。
「これから彼女が挨拶に来るんだからしっかりしてくれよー?」
……大切な何かを忘れてしまった気がするのに、それが何か分からない。
「うわ!デパートでテロだって!怪我人とか出なけりゃいいんだけどな……」
――――ポロリと涙が落ちた。
「母さん!なんだよ!!……どうしたんだよ!」
「……ふふっ。ごめんなさい」
私は涙をそっと拭った……。
「大丈夫よ。……ねえ、あなた達って二人姉弟よね?」
「当たり前だろう!?」
「そうよね……沙耶と智志の二人よね……」
「あー!もう……姉ちゃんも早く帰って来ないかな。今日の母さん変すぎるって!」
「私は普通よ……でも私が何か違うとしたら、夢のせいかもしれないわ」
私は苦笑いを浮かべながら智志を宥めた。
『幸せになって……』
――――この言葉を紡いだのは誰だったか。今の私にはもう分からない。
でも、私はその思いに応えて、しっかり前を向いて生きなければいけない。
大切な家族と共に…………。
だから、この言葉をくれたあなたもどうか――――。
「幸せになってね」
シャルロッテ15歳(入学)篇――完
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