邪なる導き手
狂国の城下街では場所を問わずに果樹が生育している。
果樹といっても、その果実は一つ残らず捥ぎとられ、葉も毟られ枝も折られている。もはや枯れて落ちる寸前である。どの果樹もだいたいそんなありさまだ。
そんな果樹が最も密集して生育しているのが教会の庭である。そして、比較的無事な果樹が多いのも同じく教会であった。
教会は小高い丘に位置している。ゴミや死体が散乱する街中に比べ、あたかも独立自治区のように清潔さを保ってもいた。
今もその屋根に、紫色の装束を着た女性三人が祈るように立っている。
「教主様のお導きのままに」
「夢として永劫の血肉とならんことを」
「狂国と共に」
そして、三人ともが自らの心臓に短剣を突き刺し、屋根より飛び降りる。
彼女たちは果樹となった。ありとあらゆる食物を実らせる“夢の果樹”である。
教会周辺に死体が転がっていないのはそのためである。教会に関する死者は、みな果樹となるからだ。
***
タス・マキレーンは一人、王城の門を守っている。
ただし、王なき城である。守っているといっても、城そのものよりも城に向かおうというものがないように守っている。
仮初めの秩序は崩壊し、果樹が人の命を苗床とすると知れ渡った今、生き延びるには開き直るしかない。それでも、先を思えば誰でも絶望するだろう。
吐き気を堪えるのは難しい。
どこかに、まだなにかあるはずだ。
希望は未来へと向かい、生きるための糧にはなる。ただし、その先が王城に向かう場合。
最悪の事態になりうる可能性があると、タスは不確かな予感を覚えていた。
王城にはなにかがある。未知を包み込む“闇”がある。希望か絶望かいずれにせよ、現況が絶望の底なら行くしかない。事実、新たに編成された探索隊が向かってはいる。
ただし、慎重に。
希望とは、繊細で脆く崩れやすいものだからだ。
「……?」
外が騒がしい。広場の方だ。
もはや喧騒も混乱もありふれたものだ。いちいち構うようなものではない。ただ、タスがそれを無視できずにいたのは、彼女の名を呼ぶ声が、彼女に向かう罵倒が多く聞こえてきたからである。
「なにごとですか」
広場には巨大な木箱が置かれていた。成人男性が三、四人ほどで抱えてこなければ運べないような大きさの木箱だ。サイズだけでなく、重さもかなりのものらしい。人々は箱を囲んで蹴ったり叩いたりしている。開けようとしているようだが、ビクともしないので癇癪を起こしているようだった。
「タスだ」
「ようやく出てきやがった」
「あのクソババア」
箱には、大きくこう書かれていた。“親愛なるタスへ。ジルジルより”。
その名を、タスは激しい嫌悪で睨みつけた。
眩惑邪主ジルジル。“夢の果樹”の秘密を暴露し、体制と秩序を崩壊させ無法を招いた張本人。この国を“狂国”へと貶めた元凶。教会に陣取り多くの信者を獲得し、新たな体制を築こうという勢いだが、最悪なのは彼もまた狂王と同じタイプの人間であるということ。
彼には悪意しかない。狂気と混乱を愛し、彼は彼に心酔する信者たちを平気で死に追いやる。
この贈り物も、そんな悪意に基づくものに違いない。
「おい、タス! てめーへの贈り物だぞ!」
「どういうことだ! ジルジルと通じてやがったのか!」
人々は不信と憎悪をタスに向ける。それが正当なものとは言い難いと半ば自覚しつつも、それを打ち消すためにこそ叫ばずにはいられなかった。
明らかに罠だ。しかし、タスはこれを無視できない。
まずは箱がなんなのか。中身はなんなのか。危険はないのか。それを探らねばならない。
「離れてください」
タスは箱に歩み寄り、これに触れた。それが解術の条件である。タスの魔力波に反応する封印魔術だったのだ。
「――!」
弾けるように箱は開き、ぎゅうぎゅうに詰まっていた中身を晒した。
リンゴ、蜜柑、メロンなどの果実。ケーキやクッキー、様々な形のパン。外遊魚が一匹丸々に、大きな肉の塊。樽入りのワインまである。多種多様な食材が一斉に姿を現した。
「飯!」
「食い物だ!」
「どけ! 俺のだ!」
「家には妻と子供がいるんだよ!」
箱を警戒し距離をとっていたものたちも一心不乱に駆け寄ってくる。前に子供がいようが、誰が転ぼうがお構いなしである。
「下がりなさい」
タスは剣を抜き、これを制する。
静かで、しかし重く厳かな一言に、暴走していた人々はピタリと動きを止めた。タスの放つただならぬ魔力を前に、本能が怯んでしまったからである。
タス・マキレーン。彼女は軍属魔術師であり、その魔術階級は獅士である。
獅士とは、
「なっ――てめえ」
手は出せない。声を一つ上げるにも、それはある種の勇気であった。
「独り占めするつもりか!」
「ふざけんな! てめえが、てめえが俺たちを騙していたから……」
「やっぱりジルジルと組んでやがったんだな!」
「あんたらなに考えてんだよ!」
「俺らはお前たちの食糧に過ぎないってのか!」
ただし、暴力ではどうすることもできない現実がある。
飛び交う罵声を無理に脅して止めたところで、人々の内にある不満が消えてなくなるわけではない。
「ここにある食糧はあなた方に分け与えます。子供や弱っているものを優先し、順番に並んでください」
「分け与える? 何様のつもりだ!」
「その食糧は誰から実ったものなんだよ!」
「聖人気取りかクソババア! まだ俺たちを騙すつもりか!」
「てめえが種飲んで死ね! 死んで詫びろ!」
「ジルジルと結託して私たちをどうするつもり!」
いっそ、彼らを皆殺しにしてしまえば――。
そんな誘惑に駆られてしまう。タスは右手を押さえる。
どのような形であれ、食糧は無駄にはできない。形だけ見れば、それが
この国において、ジルジルに対する人々の態度は両極端に分かれている。
彼を心酔し命すら平気で投げ出すもの。その様を気味悪がり邪悪そのものとして嫌悪するもの。
この場にいるものはほとんどが後者であり、言葉ではタスに罵倒を浴びせて止まぬものの、逆に言えばそれは「タスを信頼したい」という気持ちの裏返しである。タスにまだ「為政者としての責任」があると認識しているからこそ怒りの捌け口となっているのだ。
だが、そのタスがジルジルと通じているのなら。
ただ生きるためならジルジルの元へ下ってしまった方がいい。なぜなら、彼の元には自己犠牲による食糧供給体制が確立しているからだ。
今生きているということは、人の命を食らうということに対し開き直ったということ。
ならば、もう一段階開き直ってしまえばいい。その発想へ辿り着くのも遠くはない。
こうして送られてきた食糧も、そんなふうにして得られたものなのだから。
人々は寄る辺をなくし、信じるものを失っていく。
「どけ! 道を開けろ!」
人集りの奥から聞こえた声はよく響いた。口は悪いが女性の声である。タスはその声に聞き覚えがあった。
「メイリ……?」
かつて評議軍第二小隊の隊長を務めていた女だ。短めの銀髪に鋭い目つきをしている。評議会が事実上の解散を余儀なくされたあの日、彼女もまた姿を眩ませていた。
「よお。大変そうだな」
「今までどこに……?」
「こっちの台詞だ。なんでまた王城に戻った。ここになにがあるってんだ」
「秩序を取り戻さねばなりません」
「秩序。秩序ねえ」メイリは振り返り、人々に向かう。「お前たちもわかっているだろう。“夢の果樹”に頼るかぎり先はねえ。一本の果樹でどれだけ食い繋げる? 少し指を折って計算すりゃわかることだ。長くは保たねえってな」
わかりきっていることだ。言われるまでもない。人々は拳を握り、眉間を寄せ、歯軋りする。
「ならばどうする。どうせ死ぬならと自棄になるか? いんや、どこでどんな生活を送っていようが人はいずれ死ぬ。自棄になるこたねえ。やるべきことをやるべきだ」
そして再び、メイリはタスに向かう。
「オレがなにしてたって? オレは街中の死体処理に奔走してたよ。放置してりゃ病気の温床にもなるからな。かといって、ただ燃やして埋めて捨てるわけにもいかねえ。腐ってねえのは食肉加工だ。果樹になりたくねえと死んだやつには悪いが、食えるもんは一つも無駄にはできねえからな」
「それはご苦労様でした。誰がか為さねばならない仕事です」
「タス。もう一度聞くぞ。王城にはなにがある?」
「わかりません」
「わからない、だと? あんたはなにをしていた?」
「……王城にはなにかが潜んでいます。一方で、希望が残されている可能性もあります。我々は今そこに挑んでいます」
「肝心なことは話さねえってのは変わらずか?」
「……いえ」
「タス・マキレーン。オレはあんたを許せねえ。果樹のことを隠していたからじゃない。オレを信じてくれなかったことがだ。オレがビビって逃げ出すとでも思ってたのか?」
「情報はどこから漏れるかわかりませんでした」
「漏れてるじゃねえか! よりによって、あのやろうに!」
つまりは、ジルジルのことだ。
「どうすんだ。あいつも。放っておくのか」
「現状では打つ手がありません。それに」
「あいつがいなくなれば、むしろ混乱は悪化する、か」
「はい」
「だが、確実にまたなにかしでかすぞ。
「なりません」
「くそ。わかってる。信者どもがやつを固めているからな……」
「いずれにせよ、ジルジルへの対抗策は彼の打倒や拘束ではなし得ません」
「別口で食糧供給源を見つけなきゃ話にならねえ。そういうわけだな」
「はい。その通りです」
「ま、あんたがまだ諦めてねえってのはわかったよ。オレもオレで希望は見つけてきた。――来てくれ」
メイリに呼ばれて現れたのは、白髪の老人である。
「ランドシープ、というものじゃ。この状況、わしの固有魔術が役に立つじゃろうと思うてな」
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