狂国と共に

 晴れ晴れと透き通るような青空をこうして目にするのは、何年ぶりのことだろう。

 青々と茂った草木に、咲き乱れる花々。心の洗われるような美しい草原。

 なにより目を惹いたのは、その先に見える巨大な城だった。荘厳なる白亜の城だ。尖塔が天を衝かんばかりである。どうやら城下街も賑わっているらしい。

 らしい、というのは、空気に霞みながらも大きくハッキリ見える城の影に対し、城下街は細々としてハッキリとは見えないからだ。一つ一つの家屋は小粒程度にしか見えない。煙が立ち上って見えることから生活があるのだろうと察せるだけだ。

 それほど遠く、それほど城は大きかった。

 ただ、風景に対する感動ではお腹は膨れない。もう何日もなにも食べていなかった。城下街までの長い距離をとても歩けるとは思えない。

 薄れゆく意識で、数歩だけ進みはするも、しかし彼女は倒れてしまった。



「やあ。起きたようだね」


 白髪交じりの、初老の男がそこにいた。


「ここは……」


 木造の小屋の中、のようだった。彼女は粗末なベッドに寝かされていた。


「そうだね。まずは梨でもどうかね。瑞々しくておいしいよ」


 と、切り分けられて皿に乗った梨が出てくる。彼女は震えながら手を伸ばし、指でつまんで口に運んだ。


「おいしい……」

「だろ?」


 それから、夢中になって梨を食べた。水すらろくに飲めていなかった。完食したあと、まだお礼も言っていなかったことを思い出して恥ずかしくなる。


「あ、あの、ありがとう……ございます……」

「ん? この梨のことかい? 別に大したものじゃないんだよ」

「いえ、助けていただいた……みたいで」

「ああ、そういえばそうだね。ボロボロで倒れていて、なにごとかと思ったよ」


 彼女は記憶を辿る。皇都を目指していた。世界が滅んだなどと信じられなかったから。その目で見て、やはり皇都は滅んでいるのだと知った。問題はそのあとだ。

 男がいた。爽やかな男だった。風に揺れる赤髪。甘い微笑み。堂々とした立ち姿。

 ずっと見ていたかったが、彼をつけ狙うように“敵”が現れた。彼が注意を引いている間に物陰に隠れながらできるだけ遠くへ逃げた。

 そのあとで砲撃も起こったが、彼は無傷だった。そして――。


「ここって、どこなんですか?」


 記憶が繋がらない。彼は「助ける」といって、赤い爪を伸ばした。「信じて」そして斬られた気がした。だが、今こうして生きているし、斬られた傷もない。なにより、ここは皇都跡ではない。


「うーん、なんていえばいいのかな。いってしまえば、箱庭――かな」

「箱庭?」


 と、白くてふわふわした生き物が複数、ひょこひょこと床を跳ねているのが見えた。ウサギ、と思ったが違う。サイズはそのくらいだが、なにより耳がない。耳がないどころか、手足も見えない。あるのは尻尾、のようなもの。ただその動きだけで、なんとなく生物のような気がした。それくらいに雑なデザインだった。

 やがてそれらは、まるで雪のように溶けて消えてしまった。


「……?」

「ああ、“白雪徒”だね。ここらじゃ、たまにああして姿を見せることがある」

「なんなんです?」

「それがこれもよくわからない。いやー、すまないね。わからないことだらけで。でも、ここがどういう場所なのか、くらいは外へ出れば多少は話せるんじゃないかと思うよ。動けるかい?」

「はい。おかげさまで」

「おっと、肝心なことを聞いていなかった。お名前はなんというのかな。私はフォレスだ」

「ナジェミィです。よろしくお願いします」


 そうして手を引かれ、ナジェミィは小屋の外へと出た。


「見えるかい? あの王城が、この世界の中心だ」

「あ、いえ、その」


 フォレスが指差す方向とは別に、ナジェミィはもっと目の前のものに驚いていた。

 魚だ。巨大な魚が目の前を泳いでいる。海や川があるわけでもなく、空を泳いでいるのだ。

 全長は3mほどか。虹色の鱗を持ち、種類としては草食性の淡水魚に見えた。

 その表情は穏やかで、大きさはともかく人を襲うような凶暴さはないだろうとは察せられたのだが、空を泳ぐ巨大魚という時点でその常識も疑ってかからねばならなかった。


「ん? そうか、そこでまず驚くのか。“空魚”だよ。鱗が光ってるだろう? ああやってうまいこと風景に溶け込んで空を泳ぐんだ」


 言われてみれば、一部の風景が魚を通して透けて見える。


「いったいなにを食べて生きてるんでしょうか、この魚……」

「うーん。霞でも食べてるんじゃないかなあ。あ、人は食べないから大丈夫だよ」


 空魚はナジェミィを一瞥したようだったが、特に気にする様子もなく悠然とどこかへ泳いで消えていった。


「ここには、こういう生き物がたくさんいるんですか?」

「そうだね。なかには危険な種類もいるから気をつけた方がいいよ」


 貴重な助言だが、あまり考えたくもないことだった。いきなり思いも寄らぬものを見せられては、他にどのような脅威があるかなど想像もつかないからだ。


「ひとまず城下街にでも行ってみるかい? 街には大勢の人が住んでいるからね。私は俗世から離れて暮らす老いぼれ爺さんだが、若い君は賑やかな街の方が好きだろう?」

「まあ、そうですね……」


 とはいえ、まだ気になることは多い。


「フォレスさんは、ここにはどれくらいいらっしゃるんですか?」

「私かい。そうだねえ。たぶん、五年か六年ってところだろうねえ」

「六年……」


 思った以上に長い。しかし、生まれながら住んでいるというほどではない。


「それ以前はどちらに? どうやってここへ来たんですか」

「たぶん君と同じ。狂王さ」

「狂王……!」


 名前だけなら聞き覚えはある。そう、名前だけなら。

 おそるべき狂暴魔術師。国を生み、国を滅ぼした。かつて騎士団ですら彼を捕り逃したといわれている。

 そして繋がる。あの男は、きっと、おそらく、狂王だったのだ。


「一生を過ごすには、ここは少し狭すぎるかもしれない。でも、そう悪くはないさ。水浴びならそこの泉でできるし、食べ物だってある」


 聞き捨てならない言葉を残して、フォレスは小屋の裏側に回るように歩き出す。ナジェミィもそれについていった。


「“夢の果樹”――こいつがあるから、食べ物にはそうそう困らないんだよ」


 本当に、不思議な場所だ。

 たしかに、その名にふさわしい果樹だとナジェミィは思った。さきほどの梨も、きっとこの果樹から収穫したに違いない。

 だが、この樹は梨の樹ではない。梨以外にも多彩な果が実っていたからだ。

 肉。野菜。卵。魚。芋。とにかくなんでもありだ。「食べ物」と呼べるものならなんでも実る。これはきっと、そんな“夢の果樹”だ。

 しかも、わざわざ収穫しやすいよう頭を垂れるように幹が生育している。人間にとってのご都合主義の産物。それこそ“夢”である。


「葉もサラダのように食べられるんだよ。枝も甘くておいしい。そんなこんなで、食べ物にも困っていないし、君もしばらく休んでいっても構わないよ?」

「はい。ありがとうございます。それではお言葉に甘えて……」


 しかし、気になるのは。「ここで一生を過ごす」という言葉。

 そもそも“ここ”とは? いったいどこまでが“ここ”なのか?

 周囲を見渡す。城があり、城下街がある。あとは草原が広がり、泉があり、遠くには森があるようにも見える。ふと、地平線だと思っていたものが、あまりにも近すぎることに気づく。

 空にも違和感があった。満遍なく明るくて、太陽がない。

 まさか――と、急に寒気がする。フォレスは「狭すぎる」とも言っていた。「箱庭」とも。ここは、見える範囲がすべての「閉じた世界」なのではないか。

 ナジェミィは苦し紛れに静かに笑んだ。ともあれ、しばらくは退屈しないだろう。フォレスはなにか嘘をついている。まずはそれを暴く楽しみがある。


 ***


「僕はこの国を“狂国”と名づけた。僕が狂王と呼ばれるなら、それが妥当だと思ってね」


 狂王はその手に“ミニチュア王城”を乗せてそう言った。


「ああ、ちなみにこれはかつて遺物管理局から奪ったものだ。他にも興味深いものはあったが、なによりこれが欲しかったんでね」


 それはレグナにも聞き覚えのある事件だった。遺物管理局への襲撃。その事件をきっかけに、遺物の管理はより厳重なものになったのだという。


「先ほどの女性はこの中に避難させただけ。だから心配はいらないよ」


 彼はそう説明する。たしかに、目を凝らしてよく見れば、ミニチュアの中で縮小された人間が生活を営んでいるのが見えた。城があり街があり、人々がたしかに生きている。先ほどの女性も同様だ。衰弱していたようだが、どうやら初老の男性に助けられたようだ。


「なるほど。たしかに。殺したというわけではないらしい」

「わかってくれたようだね。僕はこうして各地を巡って生存者を助けているのさ」

「助けている、ねえ」レグナは怪訝な顔をする。「あんたがその“狂国”に人を集めてるのは、いつからだ?」

「痛いところをつくなあ。そうだね、六年ほど前からだ」


 つまり、それは皇都に火が落ちる前。魔術が機兵によって蹂躙される前。まだ、世界が「平和」だった頃の話だ。


「今となっては結果的に“助ける”形になっているとはいえるが、そもそもの動機は別だ。違うか?」

「うん。僕はこの“ミニチュア王城”に新しい国をつくりたかった。今でもその想いは変わらないよ」

「……俺も、そこに入れるのか」

「まさか。そんなもったいないことはしないよ。僕は君を待ってたんだ」

「待っていた?」

「探していた、というべきかな。とはいっても、当てはなかった。生きてたらいいな、出会えたらいいな、くらいの漠然とした希望さ。つまりこれは奇跡的な出会いだ。君だって探していたはずだ。僕のような、状況を打開する戦力をね」


 なにもかも見透かされているようだった。狂王に対し、仲間もなくただ一人で無策に立ち向かった、という事実からいろいろと察せられてしまっているのだろう。

 無為な日々を過ごしてきた。誰一人救えなかった。しかし、今なら。

 機兵の群れでさえ脅威としない魔術を持つこの男と共になら。


「わかった。なにか“当て”があると思っていいのか? 俺の力があれば、“なにかできる”という当てが」


 いずれにせよ、この男をここで看過ごすことはできない。

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