与えられた箱庭
「おはようございます。レシィ様」
声と共に、赤髪の少女は緩やかに覚醒する。
重い瞼を開き、もう一度瞬きする。手で目をこすり、ゆっくりと身を起こす。
どうやらベッドの上に眠っていたらしい。妙な弾力のある柔らかなベッドだ。身体には毛布とシーツがかけられ、頭には枕がある。
小さな部屋のようだった。床はふかふかのカーペットで、家具は机と椅子が一つずつ。クローゼットもある。気づけば、服も清潔な新品に着替えさせられている。特に飾り気のない簡素なワンピースだ。
また、彼女自身には意識できなかったが、気温も快適に調整されていた。それは計算された空調のためであるが、今の彼女にはその語彙はない。
「なに、ここ……」
「空腹ではございませんか? お食事が一階レストランにて用意されております。ぜひお越しください」
いわれて、お腹を軽くさする。たしかにお腹は空いていた。
しかし、今すぐにでもなにか食べたいというほどではない。それ以上に現状の把握に関心が向いていた。
そもそも、まずは声の出処だ。一体どこからこの声は聞こえてくるのか。
人の気配はない。まるで部屋そのものから聞こえてくるかのようだった。
気になることは他にもある。この部屋の清潔感。あのときの別荘以来だろうか。
いや、それ以上だ。ゴミ一つ、埃一つ落ちていない。壁にもシミ一つなく、日々念入りな手入れがなされていることが伺えた。
そしてもう一つ。壁に絵画のように掛けられている横長の薄い板。光沢のない真っ黒な質感の板だ。鏡にもならず、飾りにもならない。不思議そうに眺めていると、突如男性の姿が浮かび上がった。
「なにかお困りですか?」
それは、やはり絵画だった。ただし、普段はなにも描かれていない。だから真っ黒だった。そして、その絵画はまるで生きているかのように動く。
現れた男性は愛想のよい笑顔と気品のあるスーツに身を包み、少女に対して語りかけてきたようだった。この絵画は声まで発する。先ほどからどこからともなく聞こえていたのと同じ声だ。
動く絵画。怪談としてなら聞いたことはある。人物画の横を通り過ぎると、動くはずのない絵画の目が追って動いている、というような話。
だが、これはもはや怪談ではない。彼は絵画の中で、呼吸や瞬きまでしているのだから。
「あの、ここってどこですか」
「スターライトホテルでございます。レシィ様」
受け答えまでできる。いよいよもって気味が悪い。
「どうして私の名前を……?」
「チェックインの名簿を確認させていただいております」
「チェックイン……?」
「“保護派”の方々が代理で手続きをなさっています」
「……!」
保護派。レシィは思い出す。たしか、そんなふうに名乗る機兵が現れ、そして――。
「あの、グラスさんは!」
「グラス様、というお客様がいらっしゃるかという質問でしょうか。当ホテルには守秘義務がございます。大変申し訳ありませんが、その質問には答えることができません」
「私と一緒にいたはずの人ですが……」
「存じ上げません。レシィ様はお一人でした」
「あの、じゃあラ次郎さんは?」
「存じ上げません」
丁寧ではあるが機械的な対応。これ以上はグラスやラ次郎について尋ねても無為に思えた。
「私はどうやってここへ?」
「先ほども申し上げたとおり、“保護派”の方々が手続きをなされました」
「えっと、運び込まれたってことですか?」
「そのようです」
「あなたは誰なんです?」
「私は当ホテルの
なにをいっているのかいまいちわからない。ひとまず人ではないということだろうか。グラスがいれば、きっとその意味も理解できるのだろう。
ぐぅ、とお腹が鳴る。そうだ、空腹だったのだと思い出す。
「一階のレストランにてお食事を用意しおります。ぜひお越しを」
「一階って……」
先ほども聞いた言葉だが、そもそもの疑問がある。
「ここは何階なんですか?」
「七階になります」
「七階!?」
それほど高い建物は、果たして皇都にもあっただろうか。
そこまで考えて、ようやくレシィの頭は回る。
ここは、おそらく
信じがたいことだが、彼らはあのとき語りかけてきた。そのときの言動と今の状況は一致している。ならばそういうことだ。彼らならきっと、七階建ての建物だってつくることもできるに違いない。
「うーん……」
とにかく、部屋は出なければならないだろう。奥に扉が見える。おそらく出口だ。そこへ向かうと、右手にもう一つ扉があることに気づく。間取りから考えて先には小部屋があるらしいと察せられた。
「そちらはバスルームになります」
白い陶器製の空間。トイレに、カーテンに仕切られた先にお風呂。金属製の如雨露の先端を逆さにしたようなものが壁から生え、鏡もある。よくわからないものも多くいろいろと気にはなったが、いったん扉を閉める。そんなことよりお腹が空いているからだ。
出入り口の扉に手をかける。レシィはおそるおそる扉を引いて開いた。
外は廊下だった。右を見ても、左を見ても似たような扉がずらりと並んでいた。
振り返り、自分の出た扉を確認すると、扉は独りでに閉まりガチャリと音が鳴った。
「部屋はオートロックとなっております」
また、どこからともなく“接客AI”の声がする。扉には“708”と書いてあった。
「レシィ様のお部屋は708号室になります。お戻りの際は生体認証で開きます」
「生体認証……?」
「ノブに手をかけるだけで結構です」
言われたとおりにすると、再びガチャリと音がする。錠が解除されたらしい。扉が開くのも一応確認する。
「エレベーターは部屋を出られて右手奥にございます」
またしても知らない単語だった。とはいえ、話の流れからレストランへの案内だとはおおよそ察せた。
言われるがままに右を見る。床は赤を基調として金の装飾がなされたカーペットだ。天井には規則的に暖色の照明が並んでいる。薄暗く、人の気配はない。
ふと、レシィは不安感に襲われた。このまま指示に従うままでよいのだろうか。
文字通りに右も左もわからない状況である。聞こえる声以外に道標はない。部屋で動かずにいるわけにもいかないし、そもそも部屋が安全ともかぎらない。
――いや、彼らが殺すつもりならとっくに死んでいる。害するつもりでも同じだ。
今さら罠にかけようなどというのはおかしな話だ。彼らがそんな回りくどいことをするというのもイメージに合わない。しかし、囚われているというのは間違いない。ならば無意味に指示に逆らう方がむしろ危険だ。左の方もチラリと覗くが、レシィは指示通り右に向かって歩き出した。
他の扉にもそれぞれ番号がついていた。向かい側は“718”で、隣は“707”だ。ただ歩くだけで鋭利な刃物に触れるような緊張感があった。
そして“706”を過ぎたあたりで、異なるタイプの扉が見えた。見たところ両開きで、かなり大きい。ただし、取っ手は見当たらなかった。
「少々お待ちください。エレベーターは現在六階にございます」
待てばよいというのはわかった。待つと、チーンという音が鳴り、独りでに扉が左右に開いた。二重扉になっていたらしく、奥の扉も同じように開く。
「えっと……」
その先にあったのは、部屋というよりは箱というべき狭い空間だった。
「なんですか、これ」
さすがに問わずにはいられない。
「エレベーターでございます」
まず、それがわからない。彼からすれば知っていて当然のものなのだろうか。
「お乗りいただければ一階までご案内いたします」
と、困って立ち尽くしていたら答えが来た。乗る? 入れということだろうか?
整理して考える。ここが七階で、一階へ行けという。階段を降りるものとばかり思っていたが、案内されたのはこの“エレベーター”だ。そこで気づく。
鉱山などの採掘現場で昇降機という装置があるのを聞いたことがある。これはきっとそれなのだ。
今さら騙したり、罠にかけたりはないだろう。レシィは呪文のように心で唱える。だが、相手が悪意を持っていたら? 愉快犯だったら? 疑い出すときりがなかった。
「レシィ様? お乗りになられないのですか?」
催促するように声がかけられる。立ち止まっていても仕方がない。今のところ危険はなかった。危険があるにしても、その危険に遭ってみなければなにもわからない。わざわざこれほどの手間をかけるならば、なにかあるにせよすぐ殺されるようなことはないはず……。
レシィは勇気をもって、箱の中へと足を踏み入れる。
すると、今度は扉が独りでに閉まっていった。
「あっ」
思わず手を出し、閉まろうとする扉を防ぐ。腕が挟まれてしまうかと思ったが、扉はそれに気づいたかのようにレシィの腕を避けて再び開いた。
閉じ込めようというつもりはないらしい、というのがそれでわかった。というより、レシィは自分の足で入ったのだ。あとはもう、委ねるしかない。
今度は大人しく待っていると、ゆっくりと扉が閉まる。そして箱が動き出すのを感じる。考えが正しければ、きっと箱ごと一階へ降りているに違いない。
扉の上に数字が並んでいるのが見える。1Fから10F。7Fの表示が光っている。それが6Fに切り替わる。次は5Fだ。一定のペースで数字が下っていく。あれは現在位置という意味なのだろうか。
そして最後に1F。チーンという音が鳴り、扉が開く。思った通り、その先の光景は七階ではない。より広い空間だった。
「あ、やっと来たみたいね」
一階ロビー。
黒革のソファにゆったり腰を掛けていた二人の少女がレシィを出迎えた。
「聞いてるわ。レシィだっけ? あたしはミナセ。ミナセ・イヴァナス」
一人はウェーブがかった綺麗な金髪をした少女である。後ろ髪は短く束ねてある。鋭い碧眼からは気の強さが伺えた。レシィと比べ背は少し高いくらいで、同い年かやや年上といったように見えた。
「ぼくはコムだよ。よろしくレシィちゃん」
もう一人は短い銀髪で、赤目の少女だ。ボーイッシュではあるが、少女らしい愛らしさもある。柔らかな笑みには親しみやすさが感じられる。レシィと比べ少し背は低く、同い年かやや年下といったように見えた。
「その、レシィです。よろしく……」
よくはわからないが、とりあえず挨拶は返しておくことにした。
「堅苦しいわね。別に楽にしてもいいわよ? たぶん同年代だし」
「そ、そう? ミナセ、さん?」
「だーかーらー、ミナセでいいわよ。あたしもレシィって呼ぶし」
「ぼくのこともコムでいいよー」
「うん、わかった。ミナセ。コム」
「さて、食事しよっか。それで待ってたのよね。なんか新しい人が来たらしくて、それで同年代らしいから、あたしらが案内しろって」
そういわれたのを見計らったように、レシィのお腹がぐぅ、と鳴る。
「あはは……」
「ま、そうよね。もうお昼だけど、あなた少なくとも朝は食べてないでしょ。昨日の夜はどう?」
「さあ……。よく覚えてなくて」
「ふーん」
「あの、よくわかってないんだけど……ここって、どこなの?」
その問いに、ミナセの目つきが変わる。
「スターライトホテル。そう聞いてない? ま、要するに与えられた箱庭よ」
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