英雄の落日⑤
第三皇子の両脚が瓦礫に圧し潰されたあのとき。
――俺はあのとき、笑みを噛み殺せていただろうか。
幸いにして、他の近衛は俺を見てはいなかった。皇子の容態に全神経を向けていたからだ。ただ、皇子とはたしかに目が合ったのを覚えている。俺がそのときどんな顔をしていたのかは、よく覚えていない。
それは復讐のチャンスだったと思う。近衛たちは必死になって皇子の止血や手当をしていたが、まさか命を狙うものがいるとは想像もしていない。実行すれば反撃にあって俺自身も死ぬだろうが、皇子を殺すことは確実にできる。
だが、できなかった。
死ぬのが怖かったからじゃない。
「そんな場合ではない」という理性の声が俺を押し止めたからだ。
――そんな場合ではない?
兄の仇をとる以上に大事なことが、この世にあるというのか。
俺はいつも兄の後ろをついていた。
兄は強く、賢かった。兄の語る夢に俺はいつも目を輝かせていた。
その兄が皇都へ向かい、皇王御前試合に参加するという。俺も無理をいってついていった。
一般参加はまず予選に勝ち抜かなければならない。思った通り、兄は強く、次々に勝ち進んでいった。そのたびに会場が湧き、兄の強さが世間に認められるようで俺も嬉しかった。そして瞬く間に本戦出場権を獲得していた。
そんな兄が、死んだ。
本戦開始の前日だった。
卑劣な罠にはめられたことは明白だった。でなければ、兄が殺されるはずがない。
本戦での兄の対戦相手となるはずだった選手は、不戦勝でそのまま二回戦へと進んだ。
――こいつだ。
いや、正確にはその推薦者である第三皇子の仕業に違いない。
調査を進めた。兄は「共業主義者」たちと接触していたことがわかった。
共業主義とは、反魔術主義とも呼ばれる一つの政治思想だ。「魔術によらない平等な社会をつくる」というのがその主張である。
魔術主義の強いアイゼルではその考えは異端だ。数年前までは共業党が下院で与党となっていたが、大規模な汚職が発覚しその権威は失墜していた。今では共業主義者たちは寄る辺をなくし、過激派として活動する事件も目立っている。
その思想はかつて兄が語っていた夢そのものだ。
俺のような大した魔術を持たないものでも、虐げられることのない世の中をつくる。そういっていた。「そのために魔術師である俺が動く」そう語っていた。
それが口実になったに違いない。
その日、第三皇子暗殺計画があったとして、共業主義者たちへの強襲作戦が実行されていた。
その指揮はすべて第三皇子自身による独断のものだった。兄はその最中に死亡している。その強行手段には批判もあり、御前試合での対戦者がいたことについて「偶然だった」と発言している。
そこまで状況証拠が揃えば疑う余地はない。
俺は第三皇子への復讐を決めた。そのためにはまず第三皇子に近づかなければならなかった。
第三皇子は毎回御前試合で新しい出場者を推薦し、優勝を狙っている。
兄を殺しておきながら、彼は今回その優勝を逃した。
決して許してはおけない。
それから紆余曲折あり、俺は第三皇子に見出され狙い通りに御前試合で優勝した。
俺は俺の能力にまるで気づいていなかった。兄が死んだことで枷が外れたかのようだった。あるいは、兄の力を一部受け継いだのかもしれなかった。
チャンスは来た。しかし、すべては第三皇子の手のひらだった。
いわれるがまま二年を騎士団で過ごし、訓練を積みながら第三皇子を殺すための牙を磨いてきた。そしてついに、彼の近衛として採用されるに至った。
次の日に、世界が燃えた。
彼はその絶望のなか、脚もないのに立ち上がった。
そして、やがて思い知る。
彼は偉大な指導者なのだろう。優れた為政者なのだろう。
この滅んでしまった世界でも、彼は再び一から国を築き上げ、再興していくことができるのだろう。
だが、それでも、彼を許すことができない。許すことはできなかった。
ただ理性が、いま彼を殺すべきではないと告げる。彼がいなくなればすべてが終わると、理性が情動を堰き止める。
「復讐なんてくだらない」という考えがある。一般的にはそうだろう。特に、死んだもののために生きたものが魂を囚われ骨を折るなど、くだらないことだ。
ただそれは、「生きているものが死んでいるものより多くを成せる」という前提があればこそだ。
兄より価値のある人間はいなかった。生きてさえいれば、兄は間違いなく偉業を成し遂げただろう。だが、それはついぞ叶わなかった。
そして、それを知るものは俺一人しかいない。ならば、俺にはその義務がある。兄は死ぬべきではなかったと証明する義務が。
復讐を諦めるということは、兄の存在を貶めることのように思えた。「志半ばに殺されながらも、黙って見過ごされる」程度の存在だと、そう認めることに思えた。
復讐はくだらない。だが、兄はそうではない。
死んだ兄がどう思うかなど重要ではない。死者はなにも思わない。だからこそ残されたものがその尊厳を守るために戦わねばならない。
兄は死ぬべきではなかった。死ぬべきではないものを殺したものはどうあるべきか。
「異日を殺したものは落日によって報いを受ける」という絶対の
だが、今はまだ。
***
「らぁ!」
落日は吼え、アーガスを刺した機兵に向かって斬りかかる。
アーガスを背後より貫いた機兵は、その刃を〈硬化〉によって固定され引き抜けずにいる。姿は見えない。だが、たしかに返り血がついている。憎むべき敵は間違いなくそこにいる。
確実に斬り伏せられるはずだった。しかし。
機兵は右腕を自切し、それを躱す。
返り血のみで全容の見えない敵が、跳び退いて距離をとった。
「へえ。で、それでどうやって戦うつもりだ?」
赤熱刃がないのであればなにも恐れることはない。思う存分に剣を振るう。
見えづらい敵ではある。だが、動けば動くほどその輪郭が見えてくる。
機兵は蹴りで反撃してきた。見えていなかったがために直撃するが、同時にその足首を斬り落とす。機兵が片足でうまく直立できていないのがよくわかった。
「バランスが悪そうだな……? ちゃんとバランスよく斬り落としてやるよ!」
一閃。腰に入った剣は上半身と下半身を切り離し、続く回転力の勢いは宙を舞う上半身を斜めに斬り裂く。光学迷彩が解け、分割された残骸がボトボトと地に落ちた。
「……ふぅ」
一息つき、あたりを見渡す。
アーガスは〈硬化〉したまま立ち往生している。ノエルは胸を斬られ、爆発の破片を直に浴びて動いていない。出血が止まっているのを見ても、もう息はないのだろう。
「俺だけが、生き残ったのか」
――いや、まだいる。
グラスと、そしてレシィという少女。あの二人がまだいたはずだ。たしか、塔の二階に。
「いない……?」
どこか不穏なものを感じた。
すべてが終わったという安堵の一方で、まだなにも終わっていないという警告が脳の奥でちりちりと痛む。
足音。囲まれている。
見えない。しかしよく目を凝らすと、幽霊のように人の輪郭がうっすらと空間に滲んでいる。
光学迷彩で透明化し、潜入していた機兵がなしていた任務。
それは、障壁の解除である。
第一砦に施されていた障壁は最低限の二つ。対認知、並びに対侵入である。
その障壁が解除された以上、機兵はなに不自由なく砦に侵入することができる。
正確な数は不明。だが、どれだけ少なく見積もっても千以上である。
***
「グラスさん、どうして……どうして逃げるんですか!」
「無理だ。もはやあの場では生き残れない。落日の固有魔術は強力だが、物量の前に圧倒される結果となるだろう」
「だからって、そんな……砦を離れたら、もう新生アイゼルとは……!」
「新生アイゼルはもう終わりだ。“敵”はあのとき、抜け目なく第三皇子にも“虫”を付着させていた。見慣れぬ赤い機兵が現れ呆気とられ、慌てふためき第三皇子を逃がしたあのときだ。アーガスが死に、落日が死に、ノエルも死んだ。第三砦もすぐに滅びる。新生アイゼルには、もうなにも残っていない」
「そんな……! ら、落日さんはまだ……!」
レシィを背負って駆けていたグラスが足を止める。人差し指を口元に立てるジェスチャー。それは、〈隠匿〉を発動させろという合図だ。
機兵の集団が群れを成して歩いてくる。目標は砦に違いない。
今まで見たこともないような数の機兵が亡霊のように行進している。
レシィは、“身動き”に抵触しかねないほどガタガタと震えた。これだけの数に囲まれたのなら、誰だって生きては帰れない。
グラスは、いつも正しい。
***
「こんなものか? ああ!?」
落日は剣を振るう。もはや、どれだけの機兵を残骸に帰したのか。
傷つき、息は乱れ、発熱した身体を冷ますための発汗は滝のようで、限界まで酷使された筋繊維はプチプチと音を立てて千切れていく。
「固有魔術とは本人の人格や願望を反映して生じるものだ」という、魔術学で根強く支持されている説がある。
だが、それは多くの事実と反する。
どちらかといえばその固有魔術が人格形成に影響を与える場合が多く、また本人の願望や目的などとはまったく適さないこともある。
彼は〈英雄属性〉を持っていた。だからこそ彼はこうして最後まで生き残った。彼はそんなことを望んでいなかったのに。
彼はただ偉大な兄に付き従うだけの人生を過ごしたかった。自らが英雄になる気概など微塵もなかった。
彼はただ復讐を成し遂げたかった。私怨に基づくその行動は決して英雄的な振る舞いではなかった。
だが、それでも、彼は英雄にならざるを得なかったのだ。
第三皇子はあのとき、落日を前に怯えていた。
一対一で戦ったとしても負けるはずがないと確信していた。だからこそ余裕綽々と自らの命を狙う復讐者を近衛に加えた。
その前提がただの一瞬で崩れた。
両脚が捥がれてしまっては、もはや誰でも容易く第三皇子を殺せるだろう。
彼にはそのとき、落日を除いて三人の近衛がいた。三人に指示を出せば、落日という危険因子を速やかに摘み取ることは容易だったろう。
だが、彼はそうしなかった。落日が復讐者であることも伝えなかった。
彼にとっては、そんなことは些事に過ぎなかったからだ。
世界が滅んだ今となっては、落日のような貴重な戦力を失うわけにはいかない。残された近衛で不和が生じてはならない。その判断を、彼は彼一人で下したのだ。
落日は彼を殺すことができなかった。
今はまだ、彼を殺すときではない。
英雄となり、この世界を救ったあとで、第三皇子なしでも世界が回るようになったのなら、改めて息の根を止めてやる。彼は彼一人でそう決意した。
彼は戦い続けた。
第三皇子の剣として、英雄として、なすべきことをなすために戦い続けた。
なにがあっても第三皇子を守る。いつか、彼を殺してもいい世界を実現するために。
「いったい、何体来るんだよ……」
敵を屠り、残骸の山を築きながら、もはや視界すらぼやけてきた。
英雄はただ剣を振るう。振るう。振るう。
そんな英雄の物語は、やがて物量に圧し潰されて、その幕を下ろした。
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