万識眼鏡の朝⑤
レシィは震えていた。
中庭に逃げ込み、その陰で。
頭が真っ白のまま、気づけはそこで縮こまっていた。
――なんで? どうして? 見間違い?
それを確認する勇気もない。その場から身体はピクリとも動かない。
まずなによりグラスに知らせなければならない。そう思い、レシィは霊信を発する。これも一か月の間に学んだものだ。特定波長の魔力に通じる隠密通信。単純な信号を伝えるだけのものだが、軍による規格化で簡単な会話くらいはできる。
“機兵がいる”レシィは霊信を発した。“私は中庭にいる”だが、返事はない。
屋敷の障壁内なら端から端の距離でも届くことは確認済みだ。グラスがその外にいれば障壁が邪魔になって通じなくなるが、さきほど別れたばかりで外にいるということはないはず――そこまで考えて、気づく。
〈隠匿〉だ。その発動中は、霊信を発しても届くはずがない。
一時的にこれを解く。すぐに霊信を再度発し、また〈隠匿〉を発動する。
――これで大丈夫、のはず……。
足音。心臓が凍る。
これはグラスではない。姿はまだ見えないが、敵は確実に近づいている。先ほど〈隠匿〉を一瞬解いた際に、気配を察したのかもしれない。
「今行く」それはグラスの返信だった。「より詳しい状況を頼む」
それに対しレシィは答えられなかった。もはや〈隠匿〉を解くことはできない。死の脅威はすぐそこまで迫っているからだ。
「〈隠匿〉か。理解した。このような状況の想定はあった。君がそうだったように、そいつは偶然ここに迷い込んだのだろう」
グラスの言葉を聞き、レシィは少し落ち着く。
もしそうであるなら、敵もまだ状況を正確に把握していない可能性が高い。
「機兵は何体いる?」
それは、極めて重要な確認事項だった。
「二体以上いる場合は、君はそのまま隠れ続けていた方がいい。私としても勝算がないためこのまま離脱する。一体だけである場合は返信を。その場合は、この場で倒す」
返事を、しなければならなかった。
敵が本当に一体だけだったのか、それは定かではない。しかし、返事をしなければ。
一体だけのはずだ。一体だけだったはずだ。レシィは自分にそう言い聞かせる。そうでなければ、グラスは、この場から去ってしまう。離れ離れになってしまう。今後いつ出会えるかはわからない。
事前にそういう話はしていた。様々な状況を想定して対策を練っていた。
思えば、あまり真面目に聞いていなかったように思う。これまで何度も機兵に出会い、出会ってきた人々を殺されながらも、それらが現実だという意識が希薄だった。忘れてしまおうとしていた。
足音がする。硬質な重い足音だ。敵はすでに中庭まで来ている。
「敵は、一人です」
レシィはただ、グラスに離れてほしくない一心で、その旨を伝えた。
「了解。迎撃する」
銃声。二階からのグラスの射撃は機兵の右肩に直撃した。
レシィは、その両者の間に位置する形となる。
敵の足音が近づく。ただ、敵の見ている先は二階だ。このまま隠れていれば、敵はレシィには気づかず横を素通りすることになるだろう。
身動きせぬかぎり決して発見されることがない。それがレシィの固有魔術〈隠匿〉だ。
問題となるのはその“身動き”の範囲だった。検証の結果、たとえば呼吸や震えを許さぬほどに微動だにできないほどではないが、たとえば手を上げたり伸ばしたり、身体のシルエットが変化するような動きは“身動き”として〈隠匿〉は解除されることがわかっている。
敵がレシィの横を通り抜けようとしている。奇襲を仕掛けるなら今ではないのか。これまで一か月、なんのために斧を振るってきたのか。
立ち上がろうものなら、いうまでもなく〈隠匿〉は解かれる。やると決めたのなら一切の躊躇なく、一息に、一気に決める必要がある。こんなことなら、せめて、立ったまま身を潜めていれば――そんなことを考えても遅い。
敵がレシィの横を通り抜ける。レシィがこれまで何度も見てきた、人間を殺すだけの冷酷な人形。同じ顔で、同じ姿をしていた。奥底から湧き上がってくる恐怖を抑えることはできなかった。
ふと、レシィは疑問に思う。グラスは二階から銃を撃った。今は柱の裏に隠れている。敵はそのグラスに対し距離を詰めるよう歩いている。なにをするつもりなのか。
簡単なことだった。敵は、二階まで跳び上がるつもりだ。レシィ自身にはそんな脚力はなかったために気づくのに少し時間がかかった。
敵は今、レシィに対し無防備に背を向けている。位置としては見えてもおかしくなかったレシィの姿を、敵は発見できなかった。
今この状態から、そこにいなかったはずの人間が突如現れ、斧を振り上げたのなら。
ふつうに考えれば意表を突けるはずだ。相手が人間であるならば、確実に通じるはずだ。
しかし、敵は機兵。グラスから聞いた話によれば、反響定位による索敵や、後部にも眼があるため死角は存在しないのだという。
そんな相手に、果たして奇襲は通用するのか。そもそも、ただの人間相手にだって自身の固有魔術を奇襲に転用したことなどない。それでも。
ここで踏み出さなければまた、一人になってしまう。
「うわあああ!」
レシィは叫ぶ。奇襲を仕掛けようというのにそれは不合理な行為ではあった。だが、無力な少女が己を鼓舞するためには必要なものだった。立ち上がり、斧を振り上げ、全身の力を、その一点に向け振り下ろす。
少女の渾身の一撃が、機兵の背後より右鎖骨に食い込む。チタン合金の骨格のために刃は止まった。だが手応えはある。皮膚を裂き、骨に亀裂を与えたという手応えだ。
銃声。レシィに応じるように、すかさずグラスが二階から銃撃を加える。
三連射。肩、胸部、腹部に命中。グラスは駆けた。敵はそれを追うように銃撃。背後にいたはずのもう一人を見失う。
機兵は前方の銃撃者を優先。追跡のため二階へ跳び上がった。
「束縛」
グラスは、この状況を想定していた。認識妨害で覆われているとはいえ、偶然発見される可能性は十分にあると考えていた。だからこそ、そのための準備をしていた。
屋敷内にはいたるところに罠として利用できる術式が施されている。敵を誘い込んだのはその一つ。〈束縛〉の術式で動きを止める。
「劫火」
炎熱魔術。機兵を灼熱の炎が包み込む。
耐熱仕様の機兵とはいえ、現状グラスが使用可能な攻撃魔術でもっとも効果が高いものがそれだった。加え、グラスは弾倉に残る銃弾をすべて撃ち尽くす。束縛の効果は数秒しかもたない。
グラスは窓から外へ飛び出した。単体で行動する機兵は単純な思考回路で動作している。認識妨害があるかぎり外部との通信もできない。誘いに乗って追ってくるはずだ。そのまま死角へ隠れる。
追って来た。敵が着地する瞬間を狙い、グラスは術式を起動する。
「地柱」
大地が、砂埃を上げ牙のような鋭さで敵を襲う。狙いは右腕。何度も肩を執拗に攻撃した甲斐があり、その一撃は機兵の右腕を吹き飛ばした。しかし。
「――左手に?!」
敵は、あらかじめ銃を左手に持ち替えていた。すなわち、読まれていた。いや。
単に、右半身の損傷が激しかったために左手に持ち替えただけだ。
機兵には特に利き腕の概念はない。左手でも同程度の射撃性能を発揮できる。ゆえに、グラスはその腹部に致命傷を負うことになる。
「こっち!」
別方向からの銃弾が機兵の頬を掠めるように空を切る。それはレシィの銃撃だった。
反撃。レシィはすぐに壁の影に隠れる。度重なる損傷で機兵の狙いも正確ではない。
そのわずかな隙にグラスは本館の奥へ逃げ込んでいた。その道筋を血で示しながら。
機兵は、未だ無傷でいるもう一人の方が脅威度は上だと判断した。少女の隠れた壁まで歩を進める。
右肩に三発。胸部に三発。腹部に一発。頭部に一発。右腕を失い、炎熱魔術を受け全身の運動能力、演算装置や冷却装置に軽度の機能障害。満身創痍ともいえる状態だった。
それでも機兵は意に介すことがない。意に介するという機能がないからだ。目的はただ原住民を抹殺すること。そのためだけに歩みを進める。
奇妙なことが起こった。機兵は敵の姿を見失っていた。壁に潜んでいたはずの姿がない。
理解する間も与えず、突如斧を振りかぶる少女が姿を現す。遠心力に振り回された重い刃先が、その胸部に打ちつけられる。
ガキン。あのときと同じ、鈍い金属音が鳴り響く。
いけると思った。グラスは胸部にも銃撃を加えていたし、敵は全身黒焦げていた。
だが、硬い。胸部のリアクターを破壊すれば機能停止させられるというグラスの言葉を思い出し、渾身の力を込めたが、頑強な胸骨によってそれは阻まれていた。
死を覚悟した。失敗したのだと思った。
圧縮された時間の中で、レシィは敵が自らの勢いと共に倒れ込んでいるのに気づいた。体重を乗せたレシィのがむしゃらな一撃は、姿勢制御能力に支障をきたしていた機兵の態勢を崩していた。
もう一撃。倒れた相手にのしかかり、レシィはもう一度斧を振り上げた。その胸部へ。
ガキン。同じ音。だが、手応えが違う。刃がさらに深く突き刺さるのを感じた。
「やった……!?」
喜びも束の間、レシィは目の端で機兵の左腕が動くのを見る。銃を持っている手だ。慌てて足で左手を押さえつける。
仮にリアクターを破壊できたとしても、即座にその機能を停止するわけではない。たしか、グラスはそうもいっていた。機兵には他にも予備電源がある。
左手がレシィの足を押しのけようとしている。なんだかんだ損傷は与えられているのだろう。少女の体重でもギリギリで均衡している。
「はぁ、はぁ……」
斧を突き刺したまま、レシィは震えながら銃を取り出した。止めを刺さなければならない。この距離なら外すことはない。弾倉に残っていたすべてを胸部に向けて撃ち尽くした。
「はぁ、はっ……ふっ……」
左手はまだ足を押しのけようとしている。だが、その力はだいぶ弱まっているように感じられた。機兵の胸部からは煙が出ている。身体もあちこちが痙攣していた。
「いい加減……!」
そのままじっと、機兵の動きを押さえ続け、ついに。
機能停止。レシィは、敵が動かなくなるのを感じた。
勝ったのか。わからない。本当に?
レシィは胸部に突き刺さったままの斧を引き抜き、ダメ押しに左腕に振り下ろした。
断てない。だから何度も。皮膚が裂け、人工筋肉が剥き出しになる。白く輝くチタン合金の骨格に向けても、何度も。
「グラスさん!」
いてもたってもいられなかった。こんなことをしている場合ではない。
レシィは彼のもとへ駆け寄る。
「グラスさん……」
レシィが目にしたのは、腹部を押さえ、血まみれで柱に背を預けて倒れるグラスの姿だった。
「大丈夫、なんですか……」
「致命傷だ。積層プラスチックによる防弾服は着ていたが、撃たれすぎた。長くは持たない。君は無傷のようだな。敵も撃破できたらしい」
「あの、治癒魔術は……!」
「もう試したあとだ。だからこうして話せている」
「そんな、それじゃ、グラスさんはもう……」
レシィは治癒魔術を使えない。正確には習得効率が悪く、一か月ではとてもものにできなかった。仮に多少扱えたとしても、グラスの傷を癒すのは絶望的に思えた。
「手はある。着用者を乗り換えたい」
「着用者を……?」
思い出す。すっかり忘れていたが、グラスの本体は眼鏡なのだ。
「グラスさんは、その、人間の人格を乗っ取るって……でも、他に人なんて」
そこまでいって、レシィは気づく。
「まさか、私……?」
「わかっている。人格を乗っ取られることは“死”と同じことだ。君にそれを求めることは、君に自己犠牲を強いるのと同じことだ。しかし……」
グラスは言葉を詰まらせる。流暢に話してはいるが、傷は深い。
「もう一つ、手がある。機兵だ。今回、機兵のサンプルが新たに手に入った。これにより、私は二つの残骸から知識を得ることで、これを修理し再起動することができる」
「さ、再起動……!? 起こすんですか? せ、せっかく倒したのに……!」
「そうだ。そして、その機兵に意識を移す。そうすれば私と君は再び共存関係に戻れるだろう」
「……!」
驚くべき提案。たしかに、それなら。しかし、問題は。
いったい誰が、その修理をするのかということ。
「もしかして、つまり、それって」
「君の肉体を一時的に足掛かりとして利用させてほしい。君の身体を借り、修理に成功すれば私は自ら眼鏡を外す。その眼鏡を、再起動した機兵にかけ直してほしい」
息を呑む。
それは、レシィにとって賭けといえた。
グラスを失いたくないという気持ちはある。だが、果たして、グラスを信頼して、一時的にとはいえ、身体を預けてよいものなのか。
「本当にできるんですか、そんなこと……」
「可能だ。私が見るかぎりではな」
「…………」
では、グラスに身体を貸さずに、レシィ自身の手によって機兵を再起動させることはできないか。そうも考えた。とてもできそうにはない。それこそ、グラスの助けでもなければ。
「悩むのは理解できる。私を信頼できるかどうかの判断は君に任せる。信頼できない場合、せめて眼鏡だけでも確保し、他の生存者との合流を望む」
妥協案の提示。それは本心か、信頼を得るための誘導か。レシィにはグラスの言葉に嘘はないように思える。だが、そこにはなんの根拠もない。
「グラスさんも、死ぬのは怖いですか……?」
「私にとって“死”を定義することは難しいが、活動状態の維持を望む。すべてを知るにはそれが必要だ」
やはり、どこか噛み合わない。レシィは思わず苦笑したが、その笑みも長くは続かなかった。
「グラスさん……?」
もはや返事はない。グラスは――正確には、その着用者の肉体は、ひっそりと息を引き取っていた。
レシィは、決断を迫られる。
***
レシィが再び目を覚ましたとき、目の前には四肢のない機兵の姿があった。
だが、それは動いていた。確かに目を開き、動いていた。周囲にはその機兵より取り外されたかのように四肢が転がっていた。
「うわっ」
死体だ。先ほどまでグラスが着用されていた男の死体もまた同様に転がっていた。
そして、手元には眼鏡。
「これって……」
グラスは約束を果たした。
機兵を修復し、自ら眼鏡を外した。あとはこの眼鏡を、機兵にかけるだけだった。動いているが、四肢はない。恐怖はあるが、危険性はないはずだ。
そして数分。機兵の動きに変化が現れた。
「状況。着用者は四肢を失っている。目の前には少女と死体……」
姿は違う。声も違う。だが、その口調から、レシィは彼が帰って来たのだとわかった。
「グラスさん……!」
「少女、名をレシィか。グラス、私をそう呼ぶのか」
「えっと、グラスさん……?」
「元の着用者は君か。その前の着用者がそこの死体。状況の認識にしばらく時間を要する」
「あの……」
「理解した。レシィ、手順を説明するので四肢の装着を手伝ってほしい」
「は、はい!」
夜が明ける。レシィは朝日が目に沁みた。
「おはようございます。もう朝ですよ」
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