擾乱(じょうらん)
王宮まで戻ってくると、入口前で王が待ち構えていた。王は目を吊り上げながら、早口でまくしたてる。
「ゼノン! お前がプシュケをこんな女にするから悪いんだ! こうなったのも全部お前のせいだ! 何もかもお前が悪い!」
久しぶりに見た感情的な王の姿に、プシュケは萎縮した。ゼノンは先に馬車から降りる。
「何を仰っているのか分かりかねますが、
ゼノンは余裕のある涼しげな笑みをたたえると、目配せをして王に周囲の状況を知らせた。警備の者や、庭師などが何事かと王に注目している。注目の的である王は、ぐぅっと唸り、ゼノンを睨むと踵を返して王宮へと入っていった。
王の姿が見えなくなってから、ゼノンはプシュケを馬車から下ろした。
「お怒りだったわ。私……私が何かしちゃったから……」
地に足をつけ、プシュケは震えながら俯いた。
「姫様を教育したのは僕です。姫様は悪くありませんし、そもそも誰が悪いという犯人探しをすべき話ではないでしょう」
「庇うのはやめて」
「庇うも何も、国王様が求める王女像と異なる教育を、僕がわざと行ってきたのは事実です。今まで国王様が何も言ってこられなかったのは、たんに僕が何も言えないように黙らせていただけです。あの男は、口を開けば馬鹿で身勝手なことしか言いませんから。内心、始めからずっと僕の教育への不満は抱いていたと思いますよ。ですが、僕が国王様の求める通りに教育すれば、姫様はただのお飾りの女王様にしかなれませんでした。それは、あの男の自己愛を満たすだけの道具になることであり、姫様は姫様の人生を何一つ歩むことができなくなるだけです。僕は、姫様にはお飾りではなく本物になって頂かねばならないと思いながら、教育してまいりました。姫様に姫様の人生を歩めるだけの力を与えてきたつもりです」
「アナタの教育を何の疑問も抱かずに受けてきた私にも非があるわ」
「僕の教育が間違っていると思わなかったのでしょう?」
「そうよ」
「ならいいでしょう。姫様は何も間違ったことをしていません。あの男が勝手に不機嫌になっているだけです。所詮、自分の感情をまともに扱えないから、ああやって他者に感情をぶつけて処理を人任せにしているだけです。成人しておきながら、自分の感情を自分で処理できずに他者の人生を踏み躙る輩は、
「それは頭では分かっている。でも、私はお父様の意に沿えない悪い
女らしくしていると母親に、男を誘っていると言われてしまう。男らしくしていると父親に、怒りを抱かせてしまう。
父親が私に求めている姿がある。女性である以上、女性らしく従順に、か弱く、反抗する力も持たず、それでいて聖母のように包み込む優しさを持ってして無条件に尽くし、外見や仕草や口調の中には清純さと扇情的な魅力を兼ね備えていて、常に父親を満足させていなくてはならない。吐きそうだ。
「姫様はあの男の期待を満たすために生きているわけではないでしょう?」
「そうよ。頭では理解しているの。私の人生を歩めるのは私だけだわ。でも……意に沿わないと私はぐちゃぐちゃに――」
その瞬間、プシュケの頭に激しい痛みが走った。プシュケはあまりの痛みに呻いてその場にしゃがみこんだ。目の前に映るのは地面ではなく、スノーノイズ。雑音と砂嵐の向こうに何かが見え隠れする。肺をえぐり取られたかのように乱れる呼吸。全身から吹き出す汗に湿る躰。割れそうな痛みを主張し続ける頭。痛みも、理屈のない思考も、父親の要求も、何もかもに逆らえない。私が壊される。映像から、嫌な感覚が伝わりそうになったところで、身をかがめたゼノンがプシュケの耳元で囁く。
「それは貴女ではない。だから大丈夫」
頭痛が消えた。スノーノイズが消え、地面が映る。肺が躰に戻ってきたかのように呼吸が落ち着いてきた。
額の汗を拭う。ゼノンを見上げると、プシュケは息を飲んだ。
「どうして同じ顔なの?」
今頃気付いた。ゼノンの顔は、とてもプシュケに似ている。プシュケが男性だったら、きっとこんな顔をしていただろう。どうして今まで気付かなかったのだろうか。
ゼノンはプシュケと同じように息を飲んだ。そして、哀しげな顔をすると、プシュケを抱きしめた。
どうして抱きしめられているのか理解できなかった。それでも抵抗してはいけないような気がして、プシュケは大人しくしていた。
「……行きましょう」
しばらくすると、そう言ってゼノンはプシュケを解放して立ち上がった。顔を見られたくないのかプシュケに背中を向けている。プシュケはゼノンを見上げるが、逆光が眩しくて目を細めた。
「ゼノン?」
ゼノンに触れようと伸ばした手を止めた。プシュケからゼノンに触れてはいけない気がした。
「どうしました? 立てませんか?」
振り返ったゼノンが手を差し出した。にっこり、蕩けるような笑みをして。
プシュケはゼノンの手をとり、立ち上がった。
「ありがとう」
プシュケも笑った。にっこり、蕩けるような笑みで。
神託の間は騒然としていた。臣下たちは、頭をかかえていたり、天を仰いで祈りを捧げていたりしており、泣き崩れている者もいた。祭壇の前にはブランキダイの巫女と、国王がいた。
『おかえり、プシュケ』
どこからともなく声が聞こえた。声の響きからして性別は男性だろう。水のように涼しげな透明感と、砂糖菓子のような柔らかな甘さと、深沈とした空気を兼ね備えた声だ。聴覚以外の感覚も刺激する、肉体を纏っているかのような存在感のある声をしている。騒然としていた周囲が静まり返る。
「何? 誰?」
名指しされたプシュケは辺りを見渡して声の主を探すが、それらしい人物は見当たらない。ゼノンは迷わず一点を見つめていた。ゼノンの視線の方向――天井をプシュケも見てみるが、何もない。
「何を見ているの?」
「風と蜜蜂です。……どういうつもりだ?」
ゼノンは一点を睨んで問いかけた。風は目に見えるわけはないし、蜜蜂もあんなところにはいない。一体何に問いかけているのだろう。
ゼノンはじっと睨みつけた後、額を手で抑えて俯き、長い溜息を吐いた。
「おそらく、アポロン様の声でしょう」
ゼノンの随分投げやりな言い方なのが気になるが、姿も見えなければ、どこから聞こえているのかも分からない声と、この状況であれば、そう考えるのが自然だ。プシュケはどこに向かって言えばいいのか分からず、さっきまでゼノンが睨みつけていた方向に顔を向ける。
「アポロン様、一体どのような神託だったのですか?」
『プシュケ。君が結婚する相手は、人間ではない』
どこから聞こえているのか分からない声――おそらくアポロンが答えた。臣下の者どもがまた嘆き始める。
「人間ではないなら、何者なんです?」
『ゼウスをも恐れる死の怪物だ。君はその怪物を一目見て恋に落ちる。明朝、君は喪服を着て、岩山へ行きなさい。今、怪物は機嫌が悪い。君が岩山でその怪物の機嫌をとらねば、怪物がこの国を滅ぼすだろう』
怪物の怒りを鎮めるために身を差し出せということか。
「その怪物の元へ輿入れした後、私はどうなるのですか?」
『……怪物に攫われる。人間の世界には戻れないだろう』
「私のいない国はどうなるのです」
『これ以上は答えられない。君は君の為すことをしなさい。――神託は本人にも伝えた。あとは神託通りに行いなさい』
風が吹いた。アポロンの声も聞こえなくなった。代りに、臣下たちがざわめき出す。泣き出す者もいる。
「この国はどうなるのだ!」「我等の女神を恐ろしい怪物に差し出せというのか」「終わりだ。何もかも終わりだ」「ああ、姫様! 私は一体何を拠り所にして生きていけばよいのですか!」
混乱が感染していくように、臣下たちのざわめきは広がる一方だ。
「アポロン様……お許しを……」
アポロンの祭壇の前。ブランキダイの巫女がうずくまって震えていた。
「話が違うぞ! どうして俺の命令通りにできない! 俺の言った通りに言えばいいだけが、どうしてこうなる! こんな簡単こともできないのか、お前はッ! 何故できない! 説明しろ!」
王は震えるブランキダイの巫女に怒鳴り散らす。
「アポロン様が直々に皆様に語りかけることなど、今までなかったのです。予想しえない事態です。私にはどうすることもできません」
震えながらも王をまっすぐに見つめて気丈に述べた巫女だが、その態度が王の神経を逆撫でたのか、王は拳を巫女に振り下ろした。
巫女の悲鳴があがる。周囲もピタリと静かになった。
「何がブランキダイの巫女だ! こんなこともできずに、何がブランキダイの巫女だ! 言え! お前の何がブランキダイの巫女だ! 言え!」
「私はブランスコの子孫でして……」
「なら、何故まともに神託ができなかった」
「ですから、前例のない事態だったので……」
「前例など関係ないだろうが! お前は巫女だろうが! 神託の一つもまともにできずに、何が巫女だ! お前のせいで何もかも台無しだろうが! どう責任を取るんだ! ええ?!」
「責任と言われましても……。そもそも、神託を正しくお伝えすることが私の仕事です」
「今回はお前が伝えてないだろうが。仕事してないだろうが!」
「そう……言われましても……」
巫女が困りきった顔をすると、王は再び巫女を殴った。殴られた勢いで、巫女は床に倒れた。
「ブランキダイの巫女様になんてことを……」
臣下の一人が呟いた。その小さな声も耳に届くほど、周囲は静まり返っていた。巫女の啜り泣く声が聞こえる。
「自分がブランキダイの巫女だと説明も満足にできない
そう言った後、王は啜り泣く巫女に感情のまま喚き続ける。誰も王を止めることはできなかった。空気の中に絶望が混じり、呼吸を息苦しくさせる。臣下たちも空気中の絶望にあてられ、惑乱の渦に呑まれ騒ぐ。プシュケにも王の止める術が見当たらず、プシュケは隣に立つゼノンを見遣った。ゼノンの顔色は青ざめており、酷く疲れた様子で顔に手を当て、俯いていた。その只事ではない様子に、プシュケは血の気が引いた。
「ゼノン? 大丈夫?」
「大丈夫です姫様。国王様のご乱心にあてられて、つかれているだけです……。ご心配なく」
疲れているだけにしては、顔色が悪すぎる。プシュケがゼノンの顔に手を伸ばすと、ゼノンは避けるように後退った。
「すみません。今の僕に近づかないで下さい。今の僕では、姫様はきっと吐き気を催してしまわれます」
ゼノンは壁際まで移動すると、壁に背を預けた。立っているのもやっとのようだ。
私は民のためにどうすればいいの?
ゼノンの「いけません」という声が聞こえた。
「一人で考えてはいけない。沼に足を取られてしまいます」
ゼノンの制止に従った方がいいとは分かっているが、荒れる国王を何としてでも止めねば、巫女様に大怪我をさせてしまいかねない。
私がどうにかしなきゃいけない。どんな手段を使っても。
「姫様……。自分を犠牲にしてはなりません。自分を損なう生き方をしては駄目だ。貴女の犠牲無しにやっていけないような国など、僕は要りません」
ゼノンの言葉は頭ではよく理解できていた。しかし、それ以上に内側から込み上げてくる何かが思考を支配する。
「私が何とかするわ」
プシュケは
もう何も見たくない。
いい加減、静かにして欲しい。
神託など、覆せる。私の何かを犠牲にすればいいだけだ。簡単だ。
「それは駄目だ。誰か、姫様を今すぐどこかに閉じ込めてくれ。つかれている今の僕では……」
弱りきっているゼノンの声はか細く、雑音によって簡単にかき消されてしまう。それでもプシュケの耳には届いていた。駄目だと言われようが、私がやらねば事態は収束しない。私には王位を継ぐ者としての責任がある。
「ナイフを貸しなさい」
プシュケは頭を抱えて悲嘆する護衛に手を差し出した。護衛はきょとんと差し出されたプシュケの手を見つめるだけで、反応がなかった。プシュケは再度、ナイフを催促すると、ようやく護衛はプシュケにナイフを渡した。
何も見る必要はない。
必要ないなら、もう不要だ。こんなものは要らない。
プシュケはナイフで自分の目元を横一文字に切り裂いた。最後に見えたのは、ナイフの刀身が反射させる光。後は血が吹き出る感覚と、一面の闇、口から内臓が飛び出しそうなほどの激痛。喉が今にも叫びをあげようと大きく広がるが、歯を食いしばった。脂汗が流れる。痛みに耐えるだけで精一杯で、手からナイフが落ちた。あまりの痛みに、血を噴き出し続ける目に手を当てた。食いしばった歯の隙間から、フーフーと荒く熱い息が漏れる。鼓膜の奥で、アポロンの声が再生される。
――君はその怪物を一目見て恋に落ちる。
ならば見えなくすればいいのだ。神託に穴ができた。神託は今、不完全なものとなった。上手くいけば、国は滅びずに済むし、私も怪物に攫われずに済む。
皆にそう伝えねば。
そうは思うものの、痛みに意識が朦朧とする。朧げな意識の中、誰かの笑い声だけが明瞭に聞こえる。実に愉快そうだ。
「姫様ッ!!」
泣き声混じりのゼノンの声がした。ゼノンの走る足音が近づいてくる。
「姫様……姫様……っ。なんてことだ……。これでは僕は一体何のために今まで……ッ!」
足音が止まった。ゼノンの息遣いが聞こえる。息の乱れ方からして、走ったせいで乱れたわけではなく、泣いているせいで乱れているようだ。ゼノンはプシュケの手を握ると、傷口を確認するためにゆっくり目からプシュケの手を剥がす。空気が触れるだけでも激痛が走った。傷口を見たゼノンが息を呑む気配がした。自分でやっておきながらだが、怪我は相当酷いようだ。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。でも、私は国のため、民のために犠牲にならねばならない。
「こんな下らない国のために貴女が犠牲になる必要なんてないッ!!」
それは慟哭に満ちた叫びだった。ゼノンのこんなにも大きな声は初めて聞いた。神託の間は啼泣に溢れていたが、誰かの笑い声だけが浮いていた。
「ゼノン……。一体誰が笑っているの……?」
痛みに引きつる喉から声を絞り出した。ゼノンの呼吸が一瞬止まる。プシュケの手を握るゼノンの掌に力がこもった。
「ゼノン?」
プシュケの目はもう闇しか見せない。ゼノンの表情も確認ができない。プシュケは闇の中、ゼノンの声をじっと待った。ゼノンは意を決したように、一語一句明瞭に述べた。
ゼノンの答えを聞いて、プシュケの視界だけでなく、心の中もサッと色を失った。
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