第250話 浮遊する大陸
「カクさん!?」「お父様!?」「陛下!?」
部屋の面々はそれぞれ一斉に叫んでいた。
九郎が乱暴にリンゴの樽から取り出したのは、紫色のスケルトン、アルム公国の代名詞でもある『不死の魔王』カクランティウスだった。
「ウ……ウェップ……」
皆の視線が突き刺さる中、カクランティウスは一言呻いてぐったりした。
リンゴ樽の中で強引にシェイクされ、気持ちが悪くなったのだろう。不死とは言え酒に酔う事を考えれば、船酔いもありえるのかも知れない。三半規管も無いのにと、九郎は驚きのままふと思う。
「陛下、お水です」
アルフォスが水を差し出す。
よろめきながら水を受け取ったカクランティウスは、そのまま一気に水を煽る。
ボタボタと水が床を濡らす。全く意味が無かったようだ。
「お、お、お……お父様?」
ミスラは驚きと羞恥と複雑な心境で言葉が継げないようだ。
見送りに姿を見せなかった父親が、樽の中に潜んで後を付けて来たと知れれば、誰だってそうなる。
姿は見せなかったが粋な計らいを見せ、感動の一幕に関わっていたと思っていただけに尚更だろう。
何とも言えない複雑な表情を浮かべたミスラに、カクランティウスはふいと顔を逸らした。
「お・と・う・さ・ま~?!!」
その態度にミスラが一変する。
両手でカクランティウスの頭蓋を掴み、強引に正面を向かせてギリギリと締め付けている。
第二王妃の一撃にも壊れなかった彼だから、粉砕されることは無いだろうが、見ている分には心臓に悪い。
「姫様、落ち着いてくださいっ! 私が見える状態になってしまっています! ああ、陛下、お久しゅうございます」
「オ、オ主ハくるっつぇカ!? 何故ソノヨウナ透ケタ体デ」
「お・と・う・さ・まぁぁぁああ!?」
いきなり現れたクルッツェに、九郎とリオが飛び上がり、カクランティウスも驚いていた。
それを気にせずミスラは真っ赤に染めた顔でギリギリカクランティウスを締め付け続ける。
表情だけは冷静を保とうとしているのか氷点下の眼差しだが、赤面していては意味が無い。
「説明して頂きましょうかぁぁぁ?
ミスラが両手でカクランティウスを持ち上げる。
その華奢な体躯からは想像もつかない力強さだ。膂力が強いのは知ってはいたが、父親の頭を締め付けたまま持ち上げる娘と言うのはそう見られる物では無い。
恥ずかしいのだろう。父親が心配の余り、密航して追って来ていたという事実が。
カクランティウスが現れた瞬間、部屋の全員がその理由に行きついていた。
「イ、イヤ!? 送別ノ晩餐デノ酒ニ酔ッテシマッテナ? 気ガ付イタラ
カクランティウスが必死に弁解する。
「リュージ!」
「吾輩ハマダマダみすらト過ゴシタイノダー……。嫁ニ行クノハ認メテモ、離レル事ハ認メテオラヌ。花火ハ只ノ目晦マシヨ。マンマト騙サレオッタナウハハハハー……」
それをミスラは一言で封じる。
龍二が疲れた表情を浮かべたまま、壊れた機械口調で言葉を発する。打ち合わせも無く良く合わせられる物だ。心を読めるのだから当然かと、思った以上に有能な龍二に、九郎は苦みの混じった感嘆の溜息を漏らす。
「国は!? お父様は王ではありませんか!? それが娘大事で国を離れる等、どうかしてます! その責務を放棄されたのですかっ!?」
ミスラの顔には最後一目会えなかった父親との再会を喜ぶ気持ち。旅に父親が同伴して来たと言う羞恥の心。そして何より、尊敬していた父が職務をほっぽらかして付いて来てしまったと言う、王族に有るまじき行為に対しての怒りが、複雑に絡まり合っているようだった。
感情が漏れ出ているのか、ミスラの周囲が発光し始める。
「待テ! 待ツノダ、みすら! 流石ノ吾輩モ、白ノ魔術ハチト痛イ!」
「るきふぐてすハ暫ク戦ハ無イダロウト言ッテイター。防人ノ仕事モ商人ヲ驚カシテシマウカラト、暫ク控エルヨウニ言ワレテシマッター。吾輩暇デアル。ナニ、転移陣ハ置イテキタ。吾輩ノ土魔術トりゅーじノ風魔術ガアレバ……うわっ、このおっさん俺の力も当てにしとる……」
カクランティウスが慌てだし、龍二が心情を読み解き呆気にとられて呟いていた。
その様子を苦笑を浮かべながら九郎達は見守り続ける。
親子喧嘩に口は挟めない。龍二は心は読めても空気が読めないようだ。
「なんだかどっかで見た光景だぜ……」
樽から人が飛び出てくるなど――そう思った矢先に懐かしさを覚えて九郎の口から言葉が零れる。
考えて見れば自分も同じ状況を作り上げた記憶があった。驚き奇妙な悲鳴を溢した少女を思い出し、ふと懐かしさが込み上げる。
(元気にしてっかな……あいつら。見に行きてえなぁ……)
初めてこの世界に降り立った九郎と、半年共に過ごした少女達。
別れを選んでからも、時折思い出してはいた。
九郎に純然たる好意を向けて来てくれていた、赤い髪の少女ベルフラム。まるで自分を父親のように慕い、懐いてくれていた幼い獣人の姉妹クラヴィスとデンテ。そして九郎がこの世界に来て、最初に惚れた実直な騎士レイア。
思い出すたびに心が温かくなるようで、それでいて苦いものが含まれていて少し胸が苦しくなる。
彼女達と別れてからもう3年以上の月日が過ぎた。思い出の中の少女達では無い事など分かっている。
あの当時でも美しかった少女達だ。どれだけ美しく成長しているか想像もつかない。
シルヴィア達の動向尋ねた時、九郎は何となくベルフラム達のその後もミスラに尋ねていた。
一時は情報料を払ってまで求めた少女達のその後だ。気にならない訳が無い。
だがしかし、得られた情報は少なかった。
アルバトーゼの街で領主をしていた事は分かっている。
しかし日記やその他、彼女達の生活を伺える情報と言うものは少なかった。2年程前、流行病が蔓延した時、最初にその病の対処法を見つけたのがベルフラム達であり、その後国から褒美を与えられたと言う事までは分かったのだが……。
(幸せに暮らしてるといいなぁ……)
願う事しか出来ないのが歯がゆくも感じるが、自ら尋ねる勇気は無かった。
懐かしいのは確かであり、会ってみたいとも思う――が、少し怖いのも本音だ。
恐怖に震えながらも、はっきりとした敵意を浮かべていたてレイア。
人の街では生きていけない――暗に語っていたクラヴィス。
どうしようもない状況に泣いていたデンテ。
何よりそれまで眩しいほど好意を湛えて見てくれていた、ベルフラムの緑の瞳が強張った瞬間を思い出すと、自然と足が竦む。
(会わねえ方がやっぱ良いよな。幸せに暮らしてたら俺が壊しちまうかも知れねえし……)
多くの仲間に囲まれ、自分の『不死』を見ても普通に接してくれる者達に出会った。
だが彼等の方が特殊であることを九郎はすでに感付いている。
アルムの国境で巻き起こっていた悲鳴の渦は記憶に新しい。死ぬことの無い肉体。増え続ける死体。この世界に於いても、九郎はやはり化物だ。そうならないよう、アルトリアと二人誓った仲ではあるが、恐れられる存在であることは間違い無い。
「今すぐ国に戻られるべきですわ! お父様ならこれくらいの距離、泳いででも問題無いでしょう!」
「みすら……吾輩今ハ骨デアルカラ沈ム……」
「ならば底を歩いて行けば良いのでは無いかしら?」
ミスラとカクランティウスの言い争いは続く。説教とも言う。
羞恥心よりも怒りが勝ったのだろう。ミスラは凍えるような視線で、カクランティウスを見上げ、今にも彼を海へと放り捨ててしまいそうだ。
「まあ、ミスラも落ち着けって。ほら、ギャラリーが集まって来てんじゃねえかよ」
「ああクロウ様……。申し訳ありません、父がとんだ醜態を……」
扉の外から人の息遣いが聞こえて来ていた。これだけ騒いでいれば人も集まって当然だろう。
そろそろいいかと、九郎は苦笑を浮かべて割って入る。
ミスラの言い分は至極尤もでもあるが、九郎はカクランティウスの心情も慮れた。
『不死』の身で他国の、それも魔族を恐れる人族の国へと向かう娘に、彼はいてもたってもいられなかったのだろう。九郎が今感じたのと同じように、彼も『不死』の体がどのように見られるかの本質を分かっているから――。
戦場で先頭に立ち、誰よりも危険に立ち向かったカクランティウスも、その身が「全てに受け入れられる物では無い」と気付いていたから――そう感じての事だ。
(っとまあ言い訳並べちゃいるけど、俺も不安がねえわけじゃねえし……)
「今でも過剰戦力やと思うで?」
九郎の内心の独白に龍二の突っ込みが入る。
龍二の言う通りアルトリアとミスラ。そして龍二と九郎の周りには強者が揃っている。
しかし人数が多く成れば成るほど、九郎の両手は塞がって行く。仲間が増えれば増えるほど、九郎に責任は重く圧し掛かる。
勝手な言い分であり、うぬぼれとも言われそうだが、それでも九郎はこの世界で出会った仲間が何より大切に感じている。
尽きることの無い自分の命と引き換えであれば、どれだけ犠牲を払ってでも守りたい。
先程思い浮かべた少女達が、どれだけ傷付いたか。それを思い出しての事だった。
カクランティウスが旅の道中いれば、これほど頼もしい存在はいない。今は情けない様子を見せているが、それでも九郎の目標だ。国の英雄として『不死者』であって尚愛される豪傑――言葉にしないながらも、九郎はカクランティウスに憧れていた。
「ルキさんとの情報のやり取りはいつでも出来るんだし、最悪俺がカクさん届ければいいしな? おっさんを産むのはちと抵抗あんが、まあミスラの実家の危機っちゃ比べるまでもねえし」
「オオ、くろう殿ッ!」
九郎と同じくらい高身長で、九郎の倍はある体格を持つカクランティウスを取り込む事は難しい。しかし、骨の姿の彼ならば取り込む事は可能だろう。最悪分割しても大丈夫なようだし――と九郎は自分から産まれるであろうカクランティウスを想像して、引きつり笑いを溢す。
『
この力は早めに皆に伝えておいた方が良いだろうと、九郎は自分の中の水筒の説明を続ける。
『不死者』の体に取り込む――これは九郎にとって仲間を守る為の最後の切り札でもあるからだ。
しかし信用、信頼……『フロウフシ』の化物を仲間と思って身を任せる――それが無ければ成り立たない。
九郎の傷付いた体から伸びる赤い粒子は、全てを削り取る。肉体も魂さえも。
取り込んだ先は時間が止まった世界だ。全ての攻撃から身を守り、どんな危機的状況も切り抜けられる。
だが危険な手段でもある。半端に削り取れば、赤い粒子は何物をも殺す鋭利な刃となってしまう。
それは多分――不死者さえもを殺す刃に間違い無い。
半端に削り取られた『
だからこそ予め言っておく必要がある。九郎がマズイと判断した時、その命を九郎に預けてくれる覚悟をしておいてもらう為に――。
「あきれてモノも言えんわ……」
九郎が説明を終えると龍二はドン引きしていた。
「お前の力の面版ってところかも知れねえな? ほれ、あのこの世界と関わりを断つって言ってた」
「ああ、『
『不死者』に対しても有効な問答無用の力。
その説明に龍二は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。思った以上に無茶苦茶な九郎の体に呆れているのかも知れない。
「僕が、く、クロウさんの中に……」
引かれてでも言っておかなければ、いざという時に対処に困る。
そう思って言った九郎の言葉を、フォルテが空気ごとぶちこわしていた。
「ならば今からお父様をクロウ様の中に! ……中に」
そのセリフにミスラが若干流される。
ミスラはまだ納得出来ない様子を見せていたが、少し心情がブレはじめていた。
このお姫様は本当に――ブレナイ。
「ボクは入れられる方がいいなぁ……」
なんとなく意味が一緒のようで全く違うであろう呟きが、アルトリアの口から洩れる。彼女だけは九郎のその力の一端を見ているので、平然としたものだ。彼女も彼女でブレナイとも言える。
「と……とりあえずお兄様に報告して頂けませんか? 内政を取り仕切っているのはお兄様ですし……」
若干別の事に気を取られていそうなミスラが、体裁を取り繕った様子でカクランティウスを放り投げる。
それもそうかと九郎は意識を離れた血液へと向ける。
いくら九郎が頼りに感じていても、それはアルム公国も同様だろう。カクランティウスがいるという安心感は何物にも代えがたい。
必要と言われれば梱包して送り返すのも止む無しと言った場の空気に、カクランティウスは項垂れ、
――陛下……いえ、父上にお伝えください。どのみち父上には暫く大人しくしていてもらおうと思っておりましたががが……、母上達から言伝です。一年後に万全な状態で戻って来い……と。回復していなければ死ぬこともあり得るだろうと私は思っております! ――
「仕置キサレル覚悟ハトウニ出来テオル!」
返ってきた答えにカクランティウスはビシッと親指を立てて見せた。
(こう言う頼もしさは見習いたくねえなぁ……)
九郎はカクランティウスを眺めて、そう思った。
「まさかお父様が
何やら不穏なセリフが九郎の耳に届いていた。
☠ ☠ ☠
魔族と言うのは森林族に次いで長寿の為か、時間の感覚が九郎達とは違うようだ。
アルム公国がカクランティウスの一年の留守を認めた背景には、その月日が九郎の感覚では2、3ヶ月ほどの感覚だと言うのもあった。ルキフグテスから理由を聞かされ、九郎は内心ほっと胸を撫で下ろす。
体面もありあの場では言い出せなくなった――と後から考えたからだった。
ルキフグテスは謝罪の言葉を何度も言い、最後に父を宜しくと一言加えていた。
自らの判断で父と妹を引き離してしまった事に、多少の罪悪感を感じているようにも感じられた。
――国にいても父上にはする事が無かったのは確かですし……下町で飲み歩いてばかりいられるよりは、働いてもらっていた方がいくらかマシでしょう――
そう言って笑ったルキフグテスの顔には、呆れの中に少しの労いが込められていた。
骨の姿になってでさえ、帰ってきてくれた父への想い。兄弟の中で唯一の妻帯者でもあり父親でもある彼には、末娘に対する
「陛下ぁぁ! 引っ張り過ぎです! もう少し力を加減してくださいや」
「吾輩は今は陛下では無い! ただのカクランティウスである! 親しみを込めてカクと呼ぶのだ!」
「お父様! 一番下っ端の癖に偉そうですわ! もっとこう……受け受けしくっ!」
九郎が意識を切り替えると、外から元気な声が聞える。
一年の猶予を与えられたカクランティウスだったが、その間全ての経費は自分で稼ぎだす事を言いつけられていた。曰く「勝手に城を抜け出した王に税は使えない」との事だ。
無一文で密航者でもあるカクランティウスは、現在船の船倉で寝泊まりし、船員たちに混じって働いて船代を稼いでいる真っ最中だ。だが、カクランティウスに暗さは一欠けらも見られない。
九郎でさえ時折王族であることを忘れてしまいそうになるほど、カクランティウスは気さくであり、どんな環境でも文句を口にしない。旅の道中大部屋で寝泊まりする事も、野宿も受け入れてきた彼の事。船倉であっても「屋根があるだけで充分」と思っていそうだ。
ミスラも未だに文句を口にしているが、父親に対する親愛の情は隠せていない。
国元を離れ開放的な海の旅に、童心に戻っているようにも感じられる。幼い頃からずっと国の為に働いて来たと聞いているので、親に甘えるという環境をなんやかんや言いながらも楽しんでいるのだろう。
「カクさん、俺が逆に入るぜ! 力だけは負けねえかんな!」
平和で騒がしい旅が続いている。それを嬉しく感じながら、九郎は部屋の外へと飛び出す。
ふと遠くを眺めると真っ青な海と同じ真っ青な空。波しぶきを写し取ったかのようにたなびく白い雲に、不思議なモノが混じっていた。
「おい、龍二。あれなんだ?」
九郎は甲板から釣り糸を垂れ、優雅な船旅を楽しんでいる龍二に尋ねる。
「うん? えらい遠いな……。蜃気楼? にしてははっきりと――!!?」
半分寝ていたのだろう。寝惚け眼を擦った龍二は、空を見上げたまま独り言を呟き、固まる。
「ラ〇゜ュタ?」
遠くを見たまま九郎は率直な感想を口ずさむ。
細い雲に混じって見えるそれは、天空に浮かぶ島に見えた。
龍二の言うように緑の木々や山が見え、蜃気楼に見えなくも無い。
徐々に近づいてくるような浮遊する島影を、九郎がもう一度尋ねようと龍二に目を向けると――龍二は震える手で刀を抜き放っていた。
「おい、姫さん! ライア・イスラって何や! はよ、答えて!」
刀を構えたまま龍二が叫ぶ。その叫び声は悲鳴にも聞こえるような悲壮なものだった。
☠ ☠ ☠
突然の叫び声に、作業をしていた船員たちも手を止め彼方を見詰め、龍二と同じように固まっていた。
その間にも島影はどんどん大きくなっていく。
「アニキ、アネサン呼んで来て! ヤバいっ、あれはヤバいっ! どうしょうもなくヤバい!!」
戸惑いの表情を浮かべたミスラの答えを待っていられないのか、龍二は刀をカタカタ震わせ九郎に叫ぶ。
龍二がアルトリアの力を当てにするのはよっぽどの事態だ。言葉にしないまでも、龍二がアルトリアを恐れている事は九郎も知っている。
龍二の目からしてみれば、カクランティウスよりも九郎よりも、アルトリアが恐ろしく見えていた。彼女もそれを気にしていたが、逆に言えばアルトリアは『勇者』や『魔王』も恐れさせるだけの実力を秘めているとも言える。
そのアルトリアを必要とするほどの脅威が迫っていると感じ取り、九郎が動き出す。
「僕が呼んできます!」
フォルテが慌てた様子で階段を下りて行く。
その間も空に浮かんだ島影はどんどんと大きさを増していた。
どれ程の大きさなのか想像も付かないその影は、海に雷雲のような黒い影を落としている。
「ライア・イスラ……竜よりも古い……神代の時代の魔物ですわ……。その体躯は山を凌ぎ、太陽を喰らうとされる伝説……いえ、神話の世界の怪魚……」、
ミスラが愕然とした表情のままに、言葉を溢す。
空高くに見えていた大きな島影は、徐々に高度を落とし、その姿を雲間から現し始める。
それを見て、刀を構えていた龍二は力なく腕を下ろした。
あまりにそれが巨大すぎて、逆に冷静さを取り戻したのだろう。
雲間から現れたのは、巨大な島影を遥かに凌ぐ、ターコイズブルーのエイの腹だった。
雲間から見えていた巨大な島影は、そのエイの頭にちょんと残った砂地でしか無かった。
イトマキエイ――マンタと呼ばれる魚を規格外に大きくしたような怪物。九郎を大地毎飲み込んだ『
その大きさに比べれば、この巨大な船も木端も同然。蟻と象ほどの大きさの隔たりがある。
「う~ん……。アレはボクも無理だよぉ……」
「ははっ……何だよ……ありゃ……」
アルトリアが階段から顔を出し、目の前に迫る怪物に弱音を呟く。リオの恐怖を飛び越えたであろう呟きが九郎の耳にやけに大きく響いていた。
今迄どんな魔物も一撃で屠ってきていたアルトリアでも、流石に空飛ぶ大地はどうにもならない。
アルトリアの言葉に、九郎はナイフを体から取り出し傷を入れる。
迷っている暇は無い。先日伝えた覚悟がこれ程早く必要になるとは思っていなかったが、あれだけ巨大な怪魚から生還する方法は一つしかない。
ライア・イスラ――巨大なマンタはゆっくりと高度を落とし、不思議なほど静かに海に着水する。
薄い紙が水に落ちたかのような着水に、船上の全員が息を飲む音が聞こえた。
その体の殆んどを海の下に沈めた『ライア・イスラ』は、速度をそのままに船に向かって突進してくる。酷くゆっくりにも見えるが大きさが大きさだ。例えどれ程足の速い船であっても、逃げおおせる事は不可能だろう。
「おい、龍二! 俺を切り刻め! 俺の血をみんなで浴びろ!」
九郎は焦った怒鳴り声を上げる。
自ら傷付け血を流していたのでは間に合わない。
その時――叫んだ九郎の耳に、小さな鳴き声が届いた。
「グロに躊躇ってる暇は無いってか……っておい、どこ行くねん!?」
龍二が力なく握っていた刀を再び掲げるのと同時、九郎は海へと飛び込んでいた。
「大丈夫だっ! こいつは危険じゃねえ! 命掛けてもいいぜ!!!」
「不死者の命になんぼの価値があんねん!!」
甲板で呆気にとられて見守る仲間に向かって叫び、九郎は大海原へとダイブする。
龍二の悲鳴に似た怒鳴り声がどんどん遠くなっていく。心を読む事が出来る龍二なら、九郎の行動も理解してくれるだろう。そう期待しながら九郎は水飛沫を盛大に立ち昇らせる。
ぐんぐん迫る三日月の形の入り江を持つ巨大な島。
その入り江の中央には大きな洞窟が暗い闇を湛えて迫っており、そこが口と言わんばかりに海水を飲み込んでいた。
そこに向かって九郎は一心不乱に泳ぐ。
懐かしい声に答えるように、大声で叫ぶ。
キューリョー!!!
「サクラぁぁぁぁああああ゛あ゛!!!」
この世界で誰よりも長い時を共に過ごした、可愛い妹分の名前を――。
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