閑話

第114話 閑話 魔法


――――魔法について――――


創世記の記述を見るに、この世界には多くの神々が存在したと言われる。

だが今の世に神の姿を見る事は叶わない。

それは我々人がこの世に現れるずっと以前に死に絶えたからだと人々は口にする。


だが死に絶えたと言った言葉は誤りであることは、口にした人々さえも分かっているだろう。

我々は神々の力の一端を『魔法』という力に常日頃見ているからに他ならない。


この記録は『魔法』と言う神の力の一端をより深淵に解読する為にと、基本に立ち帰る為に記述する物である。


6柱の神、白を司るソリストネ、赤を司るミラ、青を司るベイア、緑を司るアーシーズ、黄を司るベファイトス、黒を司るグレアモル。


多くの神々が死んだ中、最後に残ったと言われる神々の、その眷属の力を借りて『魔法』はその加護を現すと考えられている。

神々の眷属――それは『魔力』と言う誰しもが、いや、どれ程矮小な物でも、人や動物だけでなく、物言わぬ石や花、水や風さえも持っている、『世界に存在する力』と言うべき力を分け与えてくれている神々の落とし子達の事だ。

天使、精霊、悪魔……呼び名は様々ではあるがその存在は世界の全てを管理している目に見えない力の総称と言われている。

魔術師はその眷属の力を神々の御名(みな)において使役し、その力を奮う。

青を司るベイアの名において水を凍らせ、赤を司るミラの名において炎を具現させる。

だが世界を総べる眷属たちもその全てを可能とする力を持っている訳では無い。

赤の神に願っても水を生み出す事は出来ず、緑の神に祈っても大地を耕す事は出来ない。

それぞれの神には領域と言うものが存在するからだ。


では魔術師はどのようにその領域を知るのだろうか。

それは『知識』を以ってである。

神々の領域は所謂『古代語』の中に隠されている。

伝記、政(まつりごと)、遺跡、壁画。古代の記憶を留めた文字の中にその領域は記されているのである。

魔術を志す者はまず古代の言葉を知る事から始まるのである。

先人たちの探求により我々は、赤―――炎を司るミラが戦いを総べる領域を持っている事を知ったように。

黒―――死を司るグレアモルが逆の意味の生命をも司っている事を知ったのだ。


その言葉は我々の生活の中にも隠されている事が有る。御伽噺の物語の中や、魔物の名前だったり街の名前だったりすることも有る。


例を一つ上げるならかの伝説の治療師(ヒーラー)、サナーティオ女史が有名であろうか。

彼女の名の意味は『治癒』。多くの人々を救った聖女の名はその生涯を現すに足りる意味を含んでいたのだ。


話を戻すとしよう。


古代の言葉を知った魔術師は次に呪文、または詠唱と呼ばれる言葉で以って魔法を行使する。

それは言葉の魔力によって神々の眷属にその力を借りる為だ。

度々無詠唱と呼ばれる言葉を発しない魔術に憧れを持つ者達が現れるが、私はお勧めしない。

我々は力を借りる立場であって、命令する立場では無いからだ。

言葉無く使われる魔法は、神々の眷属を無言で使役している様なものだ。

人は言葉で以って意思を伝える。言葉も無く動いてくれる者がいるとすれば、それは驚くほどに親しい仲でなければ只の無理やりの命令だ。

神の名前を借りて魔法を使う我々が、無言で眷属を動かすという事は王の臣下を無言で動かすという事だ。

その代償はとてつもなく大きな物になることだろう。

膨大な『魔力』と言い換えて良いかもしれない。


『魔力』。我々魔術師はその『魔力』で以って神々の眷属の力を借りる。


魔法とは世の理を曲げて行う物である。

掌から炎は普通生まれないし、空気から水は絞れない。

その理を曲げて行う魔法は、まさに神々の力の一端であると言えるが、それは我々が『魔力』と言う代償で以って願い出るからだ。

この『魔力』と言うものは前述した通り、世界の全ての物が持っている『存在する力』の事である。

魔力を失えば風は風としての力を失い、炎は何も燃やす事は叶わないだろう。

それは人でも同様で、魔力全てを失えばそれは人と呼ぶべき者では無くなってしまうだろう。

だが我々魔術師は『魔力切れ』と言う現象を起こす事が有る。

魔法を使い過ぎて内に秘めた『魔力』を使い果たして昏倒してしまう現象の事だ。

だがそれは文字通りの言葉の意味では無い。魔法を行使する力を使い果たしたとしても、人が人である魔力は別だからだ。

魔法を使う為に消費する『魔力』は我々の『存在する力』では無く、『意思の力』と置き換えると良く分かるかもしれない。

何かを伝えようとする力。それは知恵を持つ者に与えられた一つの特権と言えるだろう。

だから魔法は必ずしも人間種だけが使える物では無いと言う説明にもなる。

魔物と呼ばれる獣の中には我々の魔法と同じ現象を引き起こす種が数多く存在している。

彼らも魔法を使っているのだ。その言葉は違えども、彼らは『意思の力』でもって魔法を発現させているのである。その言葉は我々が知り得ぬ所だとしても。


ではそもそも魔法とはどのような事が出来るのであろうか。

答えは簡単だ。

全て。そう、全ての事が出来るであろう。

この言葉を聞いて魔術に係わる者なら疑問の念を抱くだろう。

我々はまだ時の流れを変える事は叶わないし、死んだ者を生き返らせることも出来はしない。

私とて魔術を調べ尽くしたと言って良い程なのに出来ない事の方が多いとすら感じる。

それは何故か。

それは神の権限を越えるからに他ならない。

これまでの魔術の文献の何処にも神は人を生き返らせることをした事が無い。

時を遡らせたことなど一度たりとも無いのだ。

神があえてそれをしなかったと考える物もいるかも知れないが、それは違うと私は思う。

多くの神々が死に絶えた時、神々がそれを考えなかったであろうか。

青の神ベイアは女性の神格を持つと言われているが、かの神はインベルと言う子供が居た事をご存じであろうか。だが、今の世にインベルと言う神はいない。インベルは死んだのだ。

青の神ベイアはその権能に治癒の領域を持っている。傷を癒す力持っているベイアが子を死んだままにしておいたのは、神にも生き返らせる事は出来ないと考えた方が納得いくと私は考える。


ごくまれにこの世界には『来訪者』と呼ばれる『英雄』が現れる。

彼らは神の目通りに遭い、直接神々と話をして『神の力ギフト』と『神の指針クエスト』を携えてこの世界にやって来る。

私はその立場から幾人かの『来訪者』と話をすることが出来た。

彼らは最初、「違う世界で『生を終えた』からこの世界に来た」と言う。

ならば神はやはり人を生き返らせることが出来るではないか。そう私も思った。

だがよくよく話を聞いてみると、どうやら彼らは皆『死する前に体を回復させて』この世界にやって来た事が分かったのだ。

彼らは死の一歩手前で神の目通りに適い、死を覆すのではなく、死の運命を書き換えられてこの世界にやって来た事が分かったのだ。


この話を聞いた私は酷く落胆したのを覚えている。

神も人を生き返らせることは出来ない一つの証拠と見てしまったからだ。


魔法は全ての事を可能とする。

それは神が可能とする全てに限られる話ではあるが……。


では人は神に出来た事の全てが出来るのであろうかと考えるだろう。

答えは否だ。

神にも領域が存在する様に、人にも領域が存在しているのだ。

それは素質、血統、環境によって変わると言えるが、魔術の素養を持った者でも大概は1つ、多くて2つの領域しか持たないのだ。

私は青と緑と白の領域を持つ故に『賢者』と称されていたが、それは今はどうでも良い。

人はその領域の中でならその魔法を使う事が出来ると言える。

ただし、自身の魔力に釣り合った物でないとならない。

神の力を奮うという事はその『意思の力』も神と吊りあわなければならないのは、考えずとも至るだろう。

人は神には成れないが為に神に出来た事の全ては出来はしないのだ。



長々と記述したがやはり人の領域は神を超える事は出来ないと思い知らされる。

私は神が魔法をもたらしたと考えるが、神は誰がもたらしたのだろう。


その事が分かれば『復活』の魔法も使えるのだろうか。

娘は生き返る事が出来るのだろうか……。




      ―――――西の賢者―――――

         ――――ルルグ・ルグアリア著―――


                    ――――死者の書より抜粋――――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る