第103話 強行軍
山道は木々が消え、岩肌がごつごつとした渓谷へと繋がっていた。
髙く切り立った崖の中を縫うようにして細い道が通っている。
人2人が並べばそれで一杯になってしまう程の細い道が、崖の中腹辺りに削られるようにして作られていた。
春なので所々に疎らに緑が見えるが、影が多くひんやりとした空気が漂っていてココだけ季節が戻った様だ。
九郎が見下ろした崖下は、山から溶けた雪水が細く青い光を反射している。
夏になれば水嵩が増えるのか、段々に水によって削られた痕が見える。
グランドキャニオンを思わせるような、雄大で荘厳な大自然に暢気に見惚れている余裕は、九郎には無かったが……。
「『
「――『流れ廻る青』ベイアの眷属にして凍てつき穿つ青の氷柱よ! 貫け!
『クリス・グラキエス』!!」
九郎が『
炎によって撒き散らされた『
もうなりふり構っていられる状態では無かったので、『不死』に気付かれるのもやむなしと考えて放った九郎の『
レイアの氷の
雄一が『召喚』した5000体の『
崖に沿っての細道で、相手が飛び跳ねたりはしないのでどうにかなってはいるが、九郎の攻撃が全て当たる訳でも無い。結構な頻度で躱されるし、動きも元兵士だったりする為か、フェイントを織り交ぜての攻撃を仕掛けて来る。
加えて武器を持っているのも悩みの一つだ。
感情を表すかのように、いまやカンカンに怒った炭のような九郎の体は、鉄の刃を難なく溶かす。
しかし『
それよりも気にかかるのは他のメンバーの疲労の方だ。
九郎以外は生身の人間で疲れるのに対し、『
もう何時間もこうやって、走ってはベルフラム達の休憩をとり、追いつかれては攻撃しながら時間を稼ぐ戦闘を繰り返している。
(俺も
レイアの氷の槍に貫かれたまま、未だに進み続ける『
水面蹴りと言うよりも低空ドロップキック。
『
「――『深淵なる赤』、ミラの眷属にして鋼を溶かす原始の炎よ、舞い踊れ!
『アブレイズ・フラム・トリア』!!」
九郎の背中にベルフラムの声が届く。
次に迫って来る『
ベルフラムの魔法によって現れた3つの炎の剣は、自ら踊る様に『
魔法に対する抵抗力を持っている『
目の前で振りまわされる炎の剣舞を九郎は苦渋の視線で見やる。
「休憩してんのに疲れる事してんじゃねえっ! こいつらくらい任せとけって言ってんだろっ!!」
「クロウが転ぶのが見えたのよっ!!」
「転んだんじゃねえっ! 蹴っ倒しただけだっ!!!」
特にベルフラムの炎の剣の魔法は強力で、例え『
だが、この魔法はベルフラムが日に4回程しか使えない程魔力を消費してしまう。
朝から魔法を使い通しだったベルフラムは、既にかなり疲労した様子が見て取れる。
「使っちゃったものはしょうがないでしょ! 暫く持つ筈だから行くわよっ!!」
そういったベルフラムが足を縺れさせる。
「ベルフラムしゃまっ!!」
デンテがすかさずベルフラムを抱き抱える。
そのまま横抱きにされたベルフラムが眉尻を下げる。休憩していた筈がよろめいてしまってバツが悪いのだろう。
「まだ大丈夫だって……」
「ベルフラム様の大丈夫は大丈夫ではありませんっ! デンテ! 行くよっ!」
ベルフラムの強がりをクラヴィスがぴしゃりと撥ね退ける。ベルフラムにも多大な信頼を置いているクラヴィスだったが、その信頼はベルフラムの強がりには適用されないようだ。
空腹で倒れそうになった事をデンテから聞いたクラヴィスは、ベルフラムは自分の事を顧みない性格だと分析していた。誰かをいつも思いやるクラヴィスの主人達は、得てして自分の事を後回しにする傾向が強い。
九郎はそれでも何故かどうにかして来た実績があるが、ベルフラムは一度倒れかけてデンテが泣き喚くまでになっている。
飢えと言うクラヴィスのもっとも恐れる事態を、ベルフラムが自らの強がりで引き起こしてしまった事をレイアから聞いたクラヴィスは、ベルフラムが心配で堪らない様子だ。
(意地っ張りなベルもクラヴィスの慧眼の前じゃ形無しだな)
九郎がそんな二人の関係に少しだけ笑みを浮かべる。
そんな場合では無い事は分かっていたが、自分を見て欲しいと泣いていたベルフラムにとって、これ程自分を見てくれているクラヴィスの存在はさぞかしありがたい存在な気がした。
「うっし! ベルがちゃんと休める様に、俺もいっちょ数減らしてくっかふぃっ!!」
少しでも時間を稼げるようにと踵を返そうとした九郎の首に、レイアの柔らかなラリアットが直撃した
「何戻ろうとしてるんですかっ! クロウ様は全然休んで無いじゃないですかっ! 大人しく逃げますよっ!!!」
涙目で横を見ると、レイアが半眼で睨みつけてくる。
ベルフラムに多大な信頼を寄せているレイアも、九郎の行動に対しての信頼は薄い。
雄一を退けた経緯や今迄の戦闘から、ある程度肩を並べて戦う事くらいの信頼は得ていそうだが、九郎の行動で事態がどう傾くか分からない事に不安があるようだ。
つい先程、自らの力で山の一画を毒まみれにしてしまった事も関係しているのかも知れない。
「クロウもレイアに心配かけさせないでよっ! ただでさえレイアは心配性なんだから」
「ベルフラム様ももう少しご自分の体力を心配してくださいっ!!」
デンテに運ばれながら言ってくるベルフラムの言葉に、レイアが抗議の声を上げる。
そうは言っても、もうかなりの時間をこうして戦っているのだ。既に太陽は真上を通り過ぎている。
(アンデッドだったらちょっとは弱体化しても良いんじゃねえのかよっ!! てか弱体化してこれだたらやべえな……)
九郎は炎の剣に刻まれるままに進もうとしている『
ベルフラムを心配するレイアの顔にも疲労が色濃く出てきている。
ベルフラム達少女組を後列に置いて、『
振り回す事が主体の
レイアの様に突き放す攻撃で足止めするか、九郎の様に当たれば何とか倒せる攻撃と違い、剣で斬るだけでは『
それでも流石にベテランの冒険者だけあって一人で数分抑える事は出来ていたが、道中罠があることも考えられるだけに、先導してもらった方がありがたい。
「あんな魔法は私にとっては朝飯前なのっ! さっきのだって少し足を躓かせただけで……」 クゥ~
ベルフラムの反論に同調して可愛い音が鳴る。
ベルフラムが口を開けたまま固まり、顔を真っ赤にしていく。
余りのタイミングの良さに、どう弁解して良いのか分からなくなってしまったようだ。
「そういや朝飯前だったもんな? それじゃあ仕方ねえ」
九郎はニヤリと笑い、デンテが抱えていたベルフラムをひょいと奪い取ると左腕で抱きかかえる。
「ま、まだ大丈夫よっ! ってどうしてこんな時に音が鳴っちゃうのよっ!!!」
ベルフラムは九郎の腕の中でキャンキャン吠えている。
だが朝食を取る前に襲撃に遭って、今はとうに昼を過ぎている。
腹が鳴るのも仕方ないと、九郎はベルフラムの顔の前に右手を差し出す。
右手は再生したばかりで『
「な、何よっ! …………え? いいの、クロウ?」
一瞬戸惑う素振りを見せたベルフラムだったが、直ぐに九郎の手の意味を理解し顔を輝かせる。
九郎がニヤリともう一度笑みを作ると、ベルフラムは九郎の指にしゃぶり付く。
赤子が乳を飲むようにして、ベルフラムの九郎の指を吸う音が聞こえてくる。
走りながら補給が出来ないかと考えての事だが、それ以上に甘みに対する喜び方が大きい気がする。
「ちゅぷ……ん……クロウ……ありがと……。私はもういいから、デンテ達にも吸わせてあげて?」
「皆に順番にやっから遠慮してんじゃねえぞ? 倒れちまう前に言えよ」
暫く九郎の指に吸い付いていたベルフラムが、少し物惜しそうにしながら口を離し九郎を見上げる。
その様子に眉を下げた九郎がもう一口蜜を与えて、ベルフラムを降ろす。
少しは元気を取り戻したのか、再び自分の足で走り始めたベルフラムが彼方に視線を向けながら驚いた様に呟く。
「でもこのクロウ汁凄いのね……。魔力もちょっと回復したみたい……」
「汁って言うなつってんだろ……。しかし魔力か……。触れなかったのが関係してんのかね?」
食料らしきものが『クリスタル・バグ』の蜜しか持ち合わせていなかったから、それを供しただけだったが、思わぬ効果があったようだ。
最初に食べた時はそんな事は言っていなかった筈だが、考えてみればあの時は6時間以上寝てからの食事だった。魔力は休憩すると回復するとの事だったので、あの時は感じられなかったのかも知れない。
そんな事を考えながらも、九郎はデンテ、クラヴィスと順番に蜜を与えて行く。
「ご馳走様です、クロウ様。レイアさんお待たせしました」
クラヴィスがニコリと笑って九郎の腕から飛び出すと、レイアに意味ありげな視線を向ける。
「わた、私はま、まだ大丈夫ですっ! いく、いくら非常時と言えど、流石にそそそれはっ……」
レイアが顔を真っ赤にして慌てる。
小さな子供のベルフラム達ならまだしも、とっくに成人した自分が抱きかかえられて、男の指を舐るのは恥ずかしいのだろう。
だが、レイアの言っているように今は非常時だ。
外聞などは気にするなとばかりに、ベルフラムが眉を上げる。
「私だってデンテに運ばれちゃってるんだから、レイアも観念なさいっ! クロウ! 問答無用でいいから蜜をあげてちょうだいっ! レイアも抵抗したら駄目だからねっ!!」
主であるベルフラムに言われてレイアが泣きそうになっている。
ただ問答無用と言われたところで、九郎であってもレイアを片手で赤子の様に抱きかかえるのは難しい。
力は充分にあるのだが、女性としても背の高い部類のレイアは九郎の片手では納まらない。
「レイア、前からか後ろからかどっちがいい?」
「ま、前とか後ろとかっ! 抵抗できない事を良い事に何をなさるつもりなんですかっ!?」
九郎の問いにレイアが顔を更に赤くして、ピンクな脳みそをフル活用して来る。
こんな状況で何を言っているのか。レイアの中で、自分の立ち位置がどんなものなのか、一度聞いてみる必要が有りそうだ。
「いやあのな?」
「レイアッ!!」
言葉の意味を説明しようとした九郎を遮り、ベルフラムの叱責がレイアに飛ぶ。
「ベ、ベルフラム様ぁ…………。……クロウ様……前からでお願いします……」
ベルフラムに怒られて、レイアは涙交じりの声で従った。
何を想像していたのか気になりながら、九郎は短く「了解だ」と答えて、右手でレイアの肩を抱き、そのまま両手で抱きかかえる。
左腕をレイア膝裏に通し足を支え、右腕でレイアの背中を支える。所謂『お姫様抱っこ』と言うものである。
そのまま回した右手をレイアの顔の横から口へと突っ込む九郎に、レイアは一瞬体を強張らせる。
「んちゅ……クロウ様……んっ……ちなみに後ろを選んでいたら……ちゅぷ………どういう体勢だったんですか……」
観念したのかレイアは顔を赤らめ、涙目ながらも九郎の指を咥える。
美しい容姿のレイアが羞恥に身悶えながら指を舐める姿に、九郎も前を行くナッシュも唾を飲み込む。
九郎の腕の中では涙目で指を
(思ってた以上に絵面がエロくなっちまったぁぁぁあああ! いかんよ
九郎は擡げてくる情熱を抑え込みながら、何食わぬ顔でレイアに告げる。この程度で狼狽えていては、レイアのピンク脳を笑えない。
「そりゃあ後ろったら、おんぶして肩越しに補給だったぜぜ? べべ別に、尻とかおっぱいとか期待してたわけじゃありますんっ!!」
事無げに言い放った九郎の言葉は、レイアの視線を半眼に変えただけで済んだ。
半眼涙目で見つめられながら、指を咥えられる光景も――それはそれでエロい。
「んじゃ……残りはナッシュさんスけど……」
レイアの補給を終えて九郎がナッシュに視線を向けると、ナッシュは慌てて右手に握った何かを掲げる。
「お、俺はいざって時の携帯食料があっからな! プロの冒険者として当然の事だしなっ!」
穀物を練って乾かしたものを持っていたらしい。
30を超えたであろう男が男の指を咥える光景を目にせずにすんで、誰もが胸を撫で下ろした。
☠ ☠ ☠
渓谷を走る頼りない道に、平野よりも早い夜が訪れる。
九郎達はじりじりとしたひりつく補給と戦闘と休憩を繰り返し、ひたすらに渓谷を進んでいた。
「数が減った気がしねえなぁっ!!!!」
九郎が脇腹に『
振りかぶらなくても発動できる『
「どうわっ!!」
胸にぽっかりと空いた穴をなんら気にする事無く『
開いた手で剣を防ごうとするが、手首に当たって嫌な音をたてる。
「クロウ様っ! 不吉な音がしましたが大丈夫ですかっ!?」
「『
影の色が濃くなり暗闇に近い渓谷にレイアの心配する声と、九郎の嘘が木霊する。
「クロウっ!! そっちにも灯りを作る!?」
先を進むベルフラムが振り返って尋ねてくる。
先頭を進むナッシュの前方にはベルフラムが作った魔法の灯りが漂っている。
オレンジ色に光る光球が、渓谷の中の光景を一際不気味に演出している。
「明るいとグロイからこっちはいらねえよっ!」
呻き声とも叫び声ともつかない声を発しながら襲い掛かって来る『
九郎が感じた嫌な予感は、確実に当たりを告げていた。
昼なら一撃で吹き飛ばせたはずの『
押し寄せる圧力を何とか押し止めながらも、九郎の体にはいくつもの穴が開いては塞がって行く。
剣の刃は溶かせても、槍の穂先は多少溶けても九郎の体に容赦なく突き刺さっていた。
そしていつまで続くか分からない死体の奔流に、誰もが精神的にも疲弊して来ていた。
「いったん押し込む! その間に逃げっぞ! オラァッ!! 『青天の
九郎は両手を広げて『
暗闇の中で九郎の弾ける音と、『
九郎は赤い粒子を身に纏いながら唇を噛みしめる。
後続に後どれくらいの数が残っているのかも分からない程、走って来た道は黒い影が蠢き犇めいている。
これから長い夜が始まる――――。
明らかに能力を増した『
☠ ☠ ☠
体に伝わる不規則な振動を感じ、レイアは薄目を開けた。
(もう……揺すらないでください……ベルフラム様……」
心の中で呟いたはずが、後半口から漏れ出てしまいレイアは辺りを見渡す。
まだ夜中なのか、闇夜に浮かぶオレンジの光だけが斜め頭上に輝いている。
「出来るだけ紳士的にエスコートしてるつもりなんだが……」
憮然とした男の声が真上から降って来て、レイアは水を浴びせられたように一気に覚醒する。今置かれている自分の状況を思い出し、途端に顔から血の気が引いた。
「ぴひゃっ! す、すいませむっ! クロウさみゃっ!」
慌てて体を起こそうとするが、横抱きに抱きかかえられたままでは足に力が入らない。
体をくねらせると、九郎がその度に肩をビクつかせている。
男に抱きかかえられたまま寝入ってしまう事など、レイアの経験には無い物で、引いた血の気が熱くなって戻ってくる。
(いつの間にか倒れてしまったのでしょうか……)
暴れる事を諦め、九郎を見上げながらレイアが頭を捻る。
後方からはこの世の者とは思えない……いやこの世の者では無い呻き声が暗闇に湧き出すように木霊していた。
『
突き放しても突き放しても、溢れ出るかのように湧いてくる腐った死体の群れに、昼間よりもさらに休憩の時間が取れなくなってきていた。
最初に意識を無くしたのはか弱いベルフラムだった。
崩れる様に倒れ込みそうになった所を、クラヴィスとデンテが素早く抱きとめていたが、岩肌の荒いこの場所で走りながら意識を失えば、一歩間違えれば大惨事になるところだった。
体力も少なく、小さな体で魔法を連発していたベルフラムは、泣き事も言わずに耐えていたのだろう。
その事を分かっていたのか、クラヴィスもデンテも慌てることなくベルフラムを抱き抱え、一人が警戒に、一人がベルフラムを運ぶ役と役割を決めて、何も言わずに走り始めた。
一人を除いて誰もが口数を少なくしていた。
ベルフラムが意識を無くした事で、魔法の灯りが消えて、ナッシュが持つ松明の灯りだけが頼りの、その暗闇の中で時折男の吠える声が響く。
一人信じられないような元気さで、九郎一人が後方に迫りくる『
「大分下に落としたったぜ! ベル達は大丈夫か?」
――大丈夫……。この青年の口癖であるこの言葉は、他人に使う時は気遣いの言葉なのに、自身に使う時は何故か自分を軽んじている言葉に聞こえる事が有る。
ふとそんな思いを抱きながら、レイアは焦燥した顔を九郎に向ける。
「先程倒れてしまいました……。クラヴィスさん達が傍にいたので大事にはなっていませんが……」
あとどれくらい続くのかも分からない、死の行軍との戦いは夜になると更にレイアの心に焦燥を生んでいた。
「そっか……少し道を壊して来たから暫くは追って来れねえだろ……。だがあいつらの『橋』はズルくねえかねぇ……」
運ばれているベルフラムに心配そうな視線を向けながら、九郎が溢す。
細い道に差し掛かった所で九郎は道を崩す暴挙に出ていた。
他の旅人の事などもはや知らんとばかりに、大地に拳を打ち込み道を分断していた。
しかし他人の迷惑を省みずに行った九郎の暴挙も、それ程時間を稼げる物では無かった。
進行が阻害された『
個々の命の価値が違うアンデッドの魔物の恐怖に、誰もが言葉を失った瞬間だろう。
「クラヴィス、デンテ! お前らは眠くねえのか? って聞くまでもねえか……」
九郎はベルフラムを抱えて走っているデンテをベルフラムごと抱えあげると、両手に分けて抱きかかえる。
「クラヴィス! ほれ来いっ!」
両手に少女を持ったまま、さらにクラヴィスを胸の中に誘う。
「私はまだまだ大丈夫ですから、ですから!」
「子供が気ぃ使ってんじゃねーよ」
頭を振るクラヴィスも強引に抱きかかえ、両手で三人の少女を抱えて九郎は後ろを振り返る。
「レイアはもうちっと我慢してくれ。後で紳士的にエスコートすっからよ」
「私は結構ですっ! それより後方は私にお任せください!」
これ程逼迫した状態で、何故この男は笑えるのだろうか……レイアが呆れる様相を見せる。
今日一日戦闘を繰り広げていたが、九郎は一度も休んでいない。
レイアはナッシュと交代する事もあったが、九郎はずっと殿を務めながら『
ベルフラムの心配の声に耳を貸そうともせず、一言「大丈夫だから」と言っては、体を広げて道に立ち塞がる。
男と女の体力の差では説明がつかない程、九郎の体力は底無しに感じられた。
底無しの体力と力強さは少女達に多大な安心感を与えたのだろう。
体力的にも限界だったのか、クラヴィスさえも九郎の胸の中で体を丸めて直ぐに瞼を落とす。
「坊主の体力はどうなってやがんだ……」
走る者が三人になった事で、久しぶりに先頭にいるナッシュが声をかけてくる。
レイアも感じたように、ナッシュも九郎の無限とも言えそうな体力に舌を巻いている様子だ。
「丈夫に出来てんスよ! 俺の体力は底無しっス!」
「そりゃあ、そっちの姉ちゃんも大変だな……」
「なんで私が大変なんですか!? いや、確かにクロウ様といると大変な気がしますが……」
九郎の言葉に何故かナッシュが、レイアに憐憫の視線を向ける。
意味が分からず言い返すが、九郎の行動は何をするか分からず、どうなるかも分からない事ばかりで大変な様な気がしてレイアが口ごもる。
「ナッシュさんっ! レイアと俺はそんな関係じゃねっス! レイアも分かってねえのに意味深な発言すんじゃねっ!!!」
何故か九郎が焦った様子でナッシュに向かって弁解していた。
(へ? クロウ様が体力が底無しな事と私が大変な事の関係が……クロウ様と私がそんな関係じゃない? …………)
そこまで考えてレイアの耳が熱くなる。疲れていても、いや疲れているからこそピンクな脳みそは健在だ。
「ナッシュさんっ! 違いますからっ! 違いますからねっ!?」
「なんでえ。あんな仲良さ気だったのに、坊主、意外に奥手なんだな」
レイアの激しい否定の言葉に、ナッシュが意外そうにそう言いやる。軽口でも口にしていないと持たないのか、からかう言葉なのに表情は硬い。
歴戦の冒険者と言えども丸一日ぶっ続けで走り通しだ。体力的には限界に近いのかも知れない。
そう思いながらレイアも表情を曇らせた。
(あれからかなり速度を上げて先を進んで……暫くしたらクロウ様がナッシュさんにベルフラム様達を預けて戻って来て……そしてまた『
九郎が忙しなく動いていた事を思い出しながら、レイアは再び九郎の顔を見上げる。オレンジ色の光に照らされたその顔には、焦りの表情は見て取れたが、汗一つ掻いていない。
(何度か繰り返している間にベルフラム様達が目覚めて……ベルフラム様が炎の剣の魔法を使った所で私の意識が途切れて……)
ベルフラムが目覚めた事で、レイアの緊張の糸が切れてしまったのだろう。
安堵と呼べない安堵の中で、レイアは主に先に逝く事を詫びながら崩れ落ちた筈だ。
(クロウ様は私に中々厳しいと思うんですけど……)
このような強行軍では、倒れた者から置いて行かれるのは常識だ。
力尽きた自分が未だに生きている方が可笑しいくらいだと、レイアは口にできない文句を思い浮かべる。
ただ、時折後ろを振り返りながらも、大事な物を抱えるようにして走る男を見上げて、少しの胸の高鳴りも感じていた。
「ク、クロウ様っ! どうして私をおぶらなかったのですか? その……その方が楽でしょうし……あと……おっぱいとか……」
高鳴る心臓の音を聞かれないようにと何となく口にした言葉は、逆にレイアの鼓動を早くする。
誤魔化すつもりが何を口走ったのかと、レイアが顔を赤らめ俯く。
だが九郎はそのレイアの言葉に眉を下げて口をへの字に結び、血の涙を流さんばかりの表情を浮かべた。
その九郎の背中に何かが当たる音が聞こえる。
「俺もそうしたいのは山々だったんだが……あいつらとうとう弓射って来やがってよぅ……。レイアが気がついたら『ソードベア』みたいになってたら危ねえじゃん?」
「そんなっ!? クロウ様も『ソードベア』みたいになっては嫌です! その……大丈夫なのですか?」
パラパラと何かが地面に落ちる音を聞きながら、レイアは焦って九郎に尋ねる。
――大丈夫? ――この言葉にこの青年が何て答えるのかなど、分かっているのに――それでも聞かずにはおられなかった言葉に、九郎は予想通りの答えを返す。
「俺にゃあいつらの攻撃は殆んど効かねえよっ! 大丈夫! 心配いらねえっ!」
二カッ笑った九郎の顔に、レイアは再び顔に熱を感じていた。
中距離で槍を使って戦っていたレイアと違い、九郎はそれこそ前衛に出て一人で多くの『
だが、その体には傷一つ付いておらず、血の一滴すら流れていない。
『英雄』と呼ばれた雄一の攻撃にもビクともしなかった九郎の頑丈さに、レイアも大きな安心を覚える。
(ベルフラム様
レイアは自分の心に浮かんだ言葉に、少し戸惑った笑みを浮かべる。
「クロウ様、もう大丈夫です。走れますので降ろしてください」
レイアはそう言って九郎の首に手を回すと、いちどギュッと腕に力を込めた。
突然レイアに抱きしめられ、九郎が顔が驚愕したまま固まる。
ひとしきり九郎の体を堪能すると、レイアは力が抜けたように立ち尽くす九郎の腕から体を降ろす。
(はしたないとは分かってるのですが……これくらいのお礼はしょうがないですよね……)
誰に言い訳するでも無く、心の中で体をくねらせるレイアに九郎は複雑な表情を浮かべて呆けている。
「クロウっ! レイアもそろそろ起きたかしら? 少し道が悪くなってる箇所があるらしいから、抱えたままでは通れそうにないの」
「起きました! 起きてますので大丈夫ですっ!」
前方からベルフラムの声が聞こえ、レイアは俯いた顔を上げて返事を返す。
「どうでした? 背中で無いので希望とは違うかも知れませんが……結構自信はあるんですよ?」
走り出したレイアは、少し照れた様子で九郎にはにかんだ笑顔を向けた。
絶望するには充分な状況の中、自分の感情に少しだけ素直になれた気がした事に言い知れぬ寂しさと、満足感を抱いて。
「結構なお手前で……俺も起きました……」
走り出したレイアの耳に、九郎の頓珍漢な答えが風に乗って聞こえていた。
春の少し寒い風が、白みはじめた空に流れていた。
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