第60話 鍵
越智さんに渡された会社の構内図を見ながら、本社ビルを出て北へと進む。中央A棟、B棟を過ぎると、北棟に行きあたる。屋根の水色の鮮やかさが、この社屋が他の建物に比べてまだ新しいことを物語っていた。通用口の扉を開いてみると、中一面が緑色でツルツルの床。その上に、納入前の新品裁断機が整然と並んでいる。ここでは、出荷前の最終調整がなされているのだ。まだ昼休み真っ只中なので、人の姿はほとんど無い。天井は太陽光を取り入れやすいように工夫されているので、照明は一切落とされているのに明るかった。私は越智さんから聞いた言葉を思い出しながら、探し物を始める。
工場の無機質で飾り気の無い壁沿いを歩くと、白くて長い梯子を見つけた。制服は短いタイトスカートなので、このまま登るのは正直辛い。でも、行かなくては。
梯子なんて登るのはいつぶりだろうか。ヒールがある靴で、細いパイプだけでできた梯子を登っていく。
「もっと光一を信じなさいな」
という小百合の言葉。
「あの場所は、あなたに差し上げましょう。もう私が出る幕は無いのだから」
そう言って悲しげに笑った越智さんの横顔。それらが背中をすいずいと押して、私の身体は二階ぐらいの高さにある細長い踊り場へと導かれていく。
ようやく辿り着くと、私はスカートのポケットに手を入れてその存在を確認した。鍵が二つ入っている。これで、私は秘密の場所の扉を開ける。できることならば、あの人の心を。そして私の意固地な負の塊である思い出も全て解き放つことができれば。
鍵は簡単に開いた。扉自体は重くて、体当たりをするようにしてこじ開ける。
扉の向こうには、ソーラーパネルが並ぶ工場の屋根が広がっていた。その手前、エアコン室外機が並ぶ余白に大の字になって寝転んでいる男性が一人。
「え……結恵?」
私は、驚きのあまり動かない竹村係長に一歩近づく。
「この場所は、越智さんから私が貰い受けました」
もう一歩近づく。強風が吹き付けて髪がはためき、叱咤激励するがごとく私の頬を殴りつける。
「竹村係長って律儀ですよね。同一部署内での結婚と恋愛が禁止されているっていう暗黙の了解を守るために異動希望を出していたって本当ですか?」
「聞いたのか」
私は頷く。越智さんは「私がアドバイスしたことなのだ」と話してくれた。
「これで紀川さんは心置き無く竹村くんのこと好きになれるでしょ? そして私も次に行ける」
越智さんはそう言って、私に鍵を託してくれたのだった。この場所は、昔二人が会うのに使っていた場所らしい。そんな所を引き継がれても私としては微妙なのだけれど。現在、ここの鍵を持っているのは越智さんと竹村係長と警備員さんだけらしい。本社ビルの最上階に上がっても死角になるこの場所は確かに穴場ではある。開放感もあって、今日のような青空広がる晴れの日は立っているだけで気持ちも良い。
静かに目を閉じて深呼吸をする。二人きりでいるこの空間に身体を馴染ませる。私は、わざわざお節介を焼いてくれた越智さんの気持ちに感謝と敬意を占めすためにもここへやってきた。でも今からは、私は私のために動く。
ここを私の色に染める。
目の前にいる竹村さんは、コンクリートの地面の上に胡座をかいてこちらを見上げている。いつもと逆で、私が見下ろす形。たまにはこういうのも良いと思う。
「竹村さん」
会社でプライベートモードを発動するのは、真面目な私には荷が重い。でも。
「この場所は私のモノ。だから、ここにいる竹村さんも私のモノです。だから、ちゃんと貰われてくださいね?」
私は勢いよくしゃがみこむと、竹村さんの胸元に飛び込んだ。絶対に受け止めてくれるっていう自信があったから。いや、むしろ、そう信じていたから。
「結恵」
竹村さんは口をパクパクさせている。案外想定外の事態への対処は苦手なタイプなのかもしれない。私はポケットの中からもう一つの鍵を取り出す。
「はい、これ」
竹村さんの左手にねじ込んだ。
「さて、これはどこの鍵でしょうか?もし当たったら……キスしてあげます」
「え、そんなの、絶対に当てなきゃ」
「はい、後五秒しか待ちませんよ?五、四……」
竹村さんは急に眉間に皺を寄せると真面目そのものの顔つきになって悩み始めた。
「三、二……」
これは、私からする初めてのキスも持ち越しになりそうだな。
「一、ゼ……んん?!」
あぁ、この人ってこういう人なんだった。ゼロのロの字は言えないまま。敢えて言うならば制限時間の終わりは竹村係長に食べられて、私は呼吸困難に陥っていた。
「不意打ちなんて卑怯です!」
「馬鹿だなぁ。いちいち予告してからキスする人の方が絶対に珍しいよ」
私は、反射的に竹村係長の唇を指先でなぞった。私のベージュの口紅が移ってしまったかもしれないと思ったけれど、色が地味なのでほとんど分からない。それで良かったはずなのに、少し残念な気持ちになる。もっと派手に私の色をつけてみたかった。
「はい、俺からも」
私は促されるままに、竹村さんから何かを受け取った。
「え、鍵?」
「まさか先手を取られるとはなぁ。これ、結恵ん家のだろ?」
「え、なんで分かったの?!」
「そりゃぁ……」
僅か十センチという距離から見る竹村さんは、いつものちょっと意地悪そうな笑みをこぼす。
「俺は結恵のことが好きだから?」
そんなことを言うからだ。また私は『好き』を伝えるチャンスを逃した。
昼からはあっという間に現実に引き戻された。イベントは成功のうちに終わったけれど、やはり反省点や改善点は多々ある。そういった意見を社内中から収集してまとめて、次回への教訓として記録しておかねばならないのだ。レンタルしていたインカムや携帯電話、プロジェクターなどもリース会社へ返却し、会場だった市民ホールから戻ってきた荷物も倉庫へお片付け。フルティアーズ様をはじめとする、展示に協力してくださった会社様へはお礼状も書かねばならない。
仕事はイベント関連だけではない。経営企画部が解散、もしくは解体しようとも、間もなく開催される高機能プラスチック展への出展はキャンセルされたわけではないので、それにまつわる準備も業務に入る。つまりは、すごく忙しかった。
だけど、さすがに今日ばかりは経営企画部全員が定時上がり。今週はノー残業だと高山課長が宣言したからだ。竹村係長は、営業部の打上げに行ってしまった。ちなみに、部内でするイベントの打ち上げは今週末に予定している。
私は一度帰宅して夕食を取り、シャワーを浴びてから新しい服に着替えた。そしてもう一度会社方面へ向かう電車に乗る。スプリングコートのポケットの中で、貰った鍵を握ったり離したりを何度も繰り返した。
鍵があれば、オートロックも怖くない。高層マンションのエントランスをパスした私は、竹村さんの家へ到着した。ここへ今日来ることは家主に話してはいない。中に入るとふっと珈琲の香りがした。
「小百合?」
返事は無い。私は広い玄関で靴を脱ぐと中へ入らせてもらった。念のため、エアコンをつけてみる。ちゃんと稼働した。でも小百合は現れない。どこかへ出かけているのだろうか。
竹村さんに渡した鍵は、誕生日プレゼントの御礼のつもりだった。安上がりではあるけれど、これで充分だろう。何てったって、私の大切な友達、小百合が作る美味しいご飯を私に無断で毎日たらふく食べているのだ。そんな羨ましすぎる生活をしている奴に、これ以上の施しをするつもりは一切無い。
リビングに入ると、今夜もカーテンは閉まっていなくて、窓からは夜景を臨むことができた。駅や電車が見える。商店街や走る車。少し遠くには高速道路の光の帯も。急に、今自分が一人きりでいることを実感してしまった。私、ここで何してるんだろう。
――カチャッ
音がして慌てて振り向く。黒いシルエットが近づいてくる。
「結恵、お帰り」
「驚かないの?」
竹村さんは私にギュッと抱きついた。お酒の匂いがキツイ。けっこうたくさん飲んだのかもしれない。
「ただいま」
竹村さんは私の質問に答えなかった。代わりに、私の耳元をくんくん嗅ぎまわっている。犬か。
「おかえり」
くすぐったくって、誤魔化すように返事した。
「おかえりって言ってくれる人がいるっていいよね。もう、ここに住めば良いのに」
私も竹村さんの匂いを吸い込んだ。来月からは別の部署で働くことになる。一緒に仕事ができなくなるばかりか、顔を合わすことも難しくなるだろう。仕事熱心なこの人はどうせたくさん残業するだろうから、平日はほぼ会えないと思っておいた方がいい。
「寂しくなるな」
「寂しいです。ここが私の家だったらいいのに」
竹村さんに瞳で訴えてみる。もっと強引に求めてほしい。私が欲しいって言ってほしい。でも、私が元上司で八歳も年上の男性と同棲を始めたら、実家の両親は卒倒するかもしれない。特に父親なんてどんな反応をするか。想像するだけで胃が痛くなりそうだ。けれど、ここが私の帰る場所になるならば、多少のストレスにも耐えられそうな気がしてきた。だって、竹村さんの腕の中は世界で一番安全な場所に思えるのだ。
「そうかい。結恵もここに住むならば、今夜からは四人家族になるね」
「え、小百合?! どこに行ってたの?」
私と竹村係長は、さっと声がした方を振り向いた。そこにいたのは……。
「はじめまして、結恵ちゃん!」
「で、出たぁぁあああ!!」
叫んだ私は悪くない。ちなみに竹村係長は声なき声をあげていたと思われる。だって目の前の人物は、足元が薄らと透けていたのだから。
「結恵、こちらは松之助(しょうのすけ)だよ。私はこやつと付き合うことにしたんだ。仲良くしてやっておくれ」
今時古めかしいお名前の男性。いや、少年と言おうか。小百合と並ぶにはちと若すぎるその可愛らしい容貌。天使と見せかけておいて悪魔と言われても頷けるような不思議な雰囲気。真っ黒の制服のようなものを着ているので、どこか私立の小学校に通う良いところの坊ちゃんという格好だ。髪は金色で肌は色白。どこか儚げなのに妙な威圧感もあるのだ。美人すぎる小百合と並んだ絵はそこだけ現実離れしていて、夢でも見ているような気持ちになる。
「あの、どちら様ですか? 俺は家主の竹村です」
私よりも早く正気に戻った竹村さんは、松之助さんに尋ねた。家主という辺りを強調するあたり、さすが抜かりない。
「小百合ちゃんがエアコンお化けなら、ボクはコンピュータお化けってとこかな。お姉ちゃん、一つ屋根の下に住む者同士仲良くしてね」
竹村さんをほぼ無視して私に無邪気な笑顔を向ける松之助くん。つまりこういうことか。小百合は、オバケの癖にものの数日で年下の彼氏を作り、早速同棲まで漕ぎ着けたということ。私、どんな反応をすれば良いの?
会社はCADメーカーを買収し、私は異動。そして引っ越しまでして、同居人にさらなるお化けまで増えてしまったとしたら、私の生活はどうなってしまうのだろうか?
こんな不安でたまらない時はもうアレしかない。仕事だ! デザインだ!
私は近くにあったパソコンに電源を入れた。初めてここに来た時から気になっていたのだ。まだ詳しいスペックはチェックしていないが、ハイスペックな匂いがぷんぷんする。私の勘では、良いグラフィックボードが搭載されていて、処理速度も速そうな気がする。なんと外付けハードディスクもついていた。
ここは会社からも近い立地。ここに住めば終電も気にせずに夜中まで仕事ができるし、うっかり仕事を持ち帰ってしまっても良いパソコンがあれば作業することもできる。社内デザイナーとして働ける最高の環境ではないか!
「よし、私今日からここに住みます! ここなら、仕事も捗りそう!」
勢いで宣言した私を竹村さんが大変残念そうな目で見つめていることに気づいたのは、それからしらばらく経ってのことだった。
友達はエアコンお化け «社内デザイナー奮闘記» 山下真響 @mayurayst
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます