第37話 毎日つけてね

 家に入って鍵をかけ、灯りをつけた途端。私は膝から崩れ落ちるようにしてしゃがみこんだ。残された僅かな体力を使って、近くに転がっていたリモコンへ手を伸ばす。ピという電子音と共にエアコンが起動した。


「あらあら、どうしたんだい?酷い顔だねぇ」


 すぐさま現れた黒づくめの美女。お化けらしく、足元は薄らと透けている。


「小百合。私に『良い風』を吹かせてくれてるって言ってたよね?」

「そうだよ。……結恵、何があったのか話なさいな」


 友達の小百合には、出会って以降何だって話してきた。でも今は何をどう話したらいいのかも分からない。


「ほっといて!」


 私は小百合と視線を合わさなかった。事情も何も知らない小百合は、口をきゅっと結んで私の後ろをついてくる。私は制服を脱いだ。


「ついてこないで!」

「寒気がするのかい?」


 ベッドの布団に潜り込んで、頭まですっぽり毛布を被った私は、カタカタと小刻みに揺れている。でもその理由は寒さではない。


「結恵、人生にはいろいろあるさ。憎い向かい風が突然上昇気流になってくれることもある。私は結恵の味方だよ。もっと良い風吹かせるから、今夜はよくお休み」


 私は少し息苦しくなって、毛布から顔を出した。顔は濡れている。エアコンからの風の質が柔らかになっていることに気づいた。小百合は私の手を取ると、しっかりと握りしめる。


「一人じゃないんだからね」


 その小百合の声を聞き終えるか否かの瞬間、ぶわっと大きな風が吹いた。私は魔法をかけられたかのように眠りに落ちる。流れ落ちた涙の粒は風に飛ばされて消えた。同時に小百合が低く呻いて蹲(うずくま)る。夢の世界へ旅立った私は、その異変に気づくはずもなく。














 翌日、エアコンをつけっぱなしだったお陰か喉が乾き、私は朝八時に目を覚ました。いつもより遅い起床。ベッド脇には眠る前と同じ格好で小百合が座り込んでいた。お化けは風邪なんかひかないかもしれないけれど、私はその肩にそっとブランケットをかける。


 私は新田くんに何も返事をしなかったけれど、無言はきっと肯定と見なされているだろう。我ながら律儀な私は、新田くんをガッカリさせないためにもシャワーを浴びて朝食に食パンを焼いて齧り、身支度を整えた。小百合は寝ぼけ眼のまま、ぼんやりとこちらを見つめている。私は、どうせまた私の蔵書を読み漁って夜更かししていたのだろうと決め込み、それ程気にもかけなかった。


「小百合、エアコン切るよ。小百合もよく休みなね?」


 十時十分前にアパートの一階へ降りると、既に新田くんは待っていた。羽織っているコートがいつもと違う。ファッション雑誌から飛び出してきたんじゃないかと思えるほどに、小ざっぱりとした垢抜けたコーディネート。特にシャツがオシャレで、ついつい目を奪われてしまった。


 そっか。これ、デートなんだ。


 今更その事実に気づいた私は、いつもスーパーに行く時と変わらない自分の格好を見下ろして恥ずかしくなった。だからと言って着替えに戻るわけにもいかず。どうせデート向きの服なんて持っていない。


「のりちゃん、おはよう」


 昨日の『結恵ちゃん』呼びは封印されたようだ。良かった。アレの破壊力はすざまじかったから、もう一度呼ばれた日には心臓がいくつあっても足りない。


「おはよう」


 私はなんとか声を絞り出して、新田くんの車に乗った。


 連れてこられたのは会社の近くの駅前百貨店。一階は広い化粧品売り場になっていて、高級ブランドが所狭しと並んでいる。売り場に立つ女性店員さんはもちろん完璧なメイクをしていて、私は格好からして場違いだ。化粧品なんて、ドラッグストアでしか買ったことがない。それも安いものばかり。確かに昨夜新田くんは「プレゼントさせて」と話していたけれど、まさか本気だったなんて。


 新田くんはしばらくキョロキョロしていたけれど、私の手を引いてある店のカウンターに立ち寄った。


「この子に合う口紅探してるんですけど」


 さすがの新田くんも、こういう女の子御用達のお店は不慣れらしい。言葉に詰まりながらも用件は話してくれたので、店員さんは早速キビキビと対応を始める。結局化粧水やらファンデーションやら、他のものまで勧められたけど、それは新田くんがうまく捌いてくれた。そして、手の甲にサンプルの口紅を試し塗りして好きな色を選ぶ。ちなみに、お値段がはっきりとは分からない。だけど見るからに高価そう。


「うん。のりちゃんにはやっぱりコッチかな」

「そうですね。お肌の色との相性を考えると、レッド系でしたらこちらがお似合いですね」


 新田くんと店員さんの意見が合致したところでお支払い。新田くんはわざわざプレゼント仕様のラッピングにと注文していた。レジのディスプレイは私から少し離れていて、結局値段は分からずじまい。


「新田くん、あのね、買い物に付き合ってくれたのは嬉しいけれど、ちゃんと自分のお金で買うから」


 私は店員さんの「ありがとうございました」に見送られながら、新田くんのコートの袖を引っ張る。


「駄目駄目。僕がのりちゃんにプレゼントしたいの」

「え、でも、私だって一人前に働いているから貯金ぐらいあるし、これぐらいちゃんと買えるもの! それにね、こういうことしたら男の子にたかってるみたいで、なんとなく嫌なのよ」

「好きでやってるんだから、気にしなくていいのに」


 新田くんはのんびりとした調子で、クスクス笑いながら百貨店の出口へ私を誘う。


「あ、それじゃ、今日は私がランチ奢るよ! 口紅の方が高いかもしれないけどね」

「すっごく魅力的な提案だけど、それはまた今度ね。今日はこれぐらいにしておこう?」


 百貨店を出た途端、新田くんは立ち止まった。


「え、何で?」

「この辺りはあの人のテリトリーだから。僕も生命が惜しいから、ゆっくりと攻めるつもりだよ」

「テリトリー?」

「行こう、結恵ちゃん。家まで送るよ」


 ハートを射抜かれるって、こういうことなのか。この歳で『ちゃん』付けで呼ばれるのはどこかくすぐったい。だけど、悪くない。


 家に着くまでの間、私は何度も何度も口紅のお礼を言った。新田くんは、「絶対に似合う色だから、できるだけ毎日つけてね」と言った。どうせ今持っている地味なベージュの口紅は残量が少なかったので、私は素直に頷いた。


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