書評13.「終わりなき日常」という呪いの言葉

「小説という形式は、相対性の時代の芸術である」。

というようなことをクンデラが言っていたと思います。(例によって、うろ覚えの引用ですんません。)


つまり、「共同体の共通認識」とか「神による真理」とかが失われ、個々人の生きる世界が別々になった。

それで、お互いの価値観だとか見えている世界が違うものだから、そこに初めて小説という芸術の生まれる余地がある、と。

そしてクンデラはその形式の誕生を『ドン・キホーテ』に見出します。

(ネットにいい感じの読書ノートが落ちてたので、これでも見てください⇒ http://d.hatena.ne.jp/jmiyaza/20020128/1142096673)



今でも人間は、共同体(「土地」だとか「時代」)に片足突っ込んで、孤独に片足突っ込んでいるのがオーソドックスな人間のあり方でしょう。

今の私もそうです。

このカクヨムに文章を上げられる程度に社会参画している人ならば、大概誰でもそうでしょう。

「人間という存在は半島みたいなもんだ」と誰かが言っていた気がします。

島でもなく、内陸でもない。

大陸にくっつきながら、海に身をさらしている状態。


言葉を使うということは、大陸から持ってきた道具で、海を描くようなものです。

「自分は(あるいはその小説世界は)他の人と、何が同じで何が違うのかを知る」。

「同じものを使って、違うものをつくる」。

こういうことをするのが、小説ではないかと私は思います。



書評13.『涙の跡とホウセンカ』 作者 名無しの嘘人(ナナシノライト)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885350197


「普通」や「日常」に強くこだわる作品。

「普通」とか「日常」という、抽象度の高い言葉は、少し危うい。

たとえば「電信柱」と言われれば、それぞれに思い浮かべる電柱のイメージは同じではないだろうけれど、まぁそれなりに「電信柱」の特徴的な要素は含まれているだろうから、まだ何とか意味は通じる。

それでも、たとえば100年後とかになれば、「電信柱」なんて誰にもわからなくなってる可能性はあるから、もう少し具体的に(形とか機能とか生活における位置づけとか)説明しておいた方が安心かもしれない。

「普通」という言葉は「電信柱」よりももっともっと抽象度が高い。

抽象度が高すぎて、他人に伝わらないどころか、自分の目すら曇らせることがある。


この『涙の跡とホウセンカ』という作品では「普通」や「日常」という言葉で、ほとんどの事物が片づけられていく。

そこで描かれるのは学校生活の「普通」や「日常」だ。

「普通」や「日常」の抽象度をもう少し下げると、「習慣」とか「タイムスケジュール」とか「同僚・同級生」とかで構成されている。

その程度の具体性のレベルですら、この作者は描く気がない。

ほとんどこう言っているかのようだ。

「書く価値無し」と。


「そしたら最初から小説なんて書かなくていいじゃないか」という突っ込みもありそうなものだが、しかしどうやら作者が書きたいのは「不思議」のほうなのだ。

「不思議」というのも抽象度の高い言葉である。


「 誰もが一度は出会う、「不思議」。

  誰もが一度は思う、「不思議」。」


『涙の跡とホウセンカ』という小説は、こんな書き出しで始まる。

いったいどんな「不思議」なんだろう。

少なくとも私は、「誰もが一度は出会う不思議」と言われて、ピンと来るものは無い。

「誰もが一度は出会う」と言うからには、私もきっと出会っているのだろうけれど。



昔『スカイ・クロラ』というアニメを見ていて、なんだか肩透かしを食ったような気持ちになった覚えがある。

その映画のラストで「いつもの街角や、何気ない曲がり角でも、特別なんだ。」みたいなモノローグが入って、それで終わる。(例によって、うろ覚えの引用ですんません)

「何気ないものが、実は特別なんだ」って、ラストで言うようなことではなかろう、と思って、なんだか少し消化不良の気分だった。


私自身の経験を振り返っても、学校生活って、それ自体はとてもつまらないものだと思う。

学校生活(『スカイ・クロラ』で言えば寮生活)がつまらないことと、世界がつまらないことはイコールではない。

私がいつも学校生活に対して溜めていたフラストレーションは、「もっと面白くて特別なものになりうるこの生活を、学校生活というやつはどうしてこんなにつまらなくしてしまうんだろう」という不満だった。


だからこの『涙の跡とホウセンカ』という小説を読んで思うのは、「不思議」と出会って、「世界って面白いんだな」って気づいて、「学校生活だって悪くないんだ」と気づく。

そんな展開にはなってほしくないな、ということだ。

「普通」や「日常」という抽象的な言葉にとらわれなければ、あらゆるものは個別具体的で「不思議さ」や「特別さ」に満ちている。

その個別具体的を描くのが小説だ。

「具体的なものは特別なんだ」と気づいたところで終わってしまうのは、肩透かしなのである。

そこから、ちょうど始まるところだから。


主人公の普段の生活を「普通」の一言で片づけている以上、これから描かれる「不思議」におのずと意識はフォーカスされていく。

そこにこの作品の特別な何かが込められているといいなと、思うのである。


書評13.『涙の跡とホウセンカ』 作者 名無しの嘘人(ナナシノライト)

https://kakuyomu.jp/works/1177354054885350197


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