5 優菜
翌日。
彩音は智峰島で最初の朝を迎えた。
ひとまず潮見に従ってみることに、心は決めていた。
どうせ、あてがあるわけでもない。
それなら、どうしてか彩音の心をとらえて離さない潮見にあえて騙されてみるのも、悪くはない。
浴衣姿のまま、少し朝の散歩に出ることにした。
部屋を出て、廊下をふらふらする。
朝凪館の裏手のほうは、本堂のほうに続くらしき庭園になっている。
天気はよく、明けたばかりの陽射しが斜めに射し込んで、庭園の小さな池を照らしていた。
光を跳ね返して光る池に、足を浸している女性がいた。
翔真とともにいた優菜だ。
優菜は、彩音と同じ朝凪館の浴衣の裾を、ふくらはぎの辺りまでまくって、池のほとりの岩に腰かけている。
まるで足湯か何かのように足を浸し、首を傾けて空を見上げていた。
まだ夏でもないこの季節の朝っぱらから、池に足を突っ込んでいるとは、どういうことだろう。
優菜が、彩音の存在と視線に気付いたか、やや照れたようにはにかんで俯いた。
「あっ。杉山さん……じゃなくて、マスター? おはようございます」
彩音は苦笑した。
「おはようございます。……彩音さん、とかでいいよ。まだ何も始まってないし、無理にマスターって呼ばなくてもいいんじゃないかな」
なかなか人見知りな彩音だが、同性ということもあってか、昨日の翔真少年よりは反応がしやすかった。
「あたしも、思ってたんですよね。自分、もう小説家じゃないし。ペンネームはもちろん、ノベリストなんて呼び方も正直。あたしは、ただの石塚優菜でいいんです」
「じゃあ……優菜ちゃん、でもいい?」
「もちろん」
優菜は屈託なく笑う。
彩音はうらやましく思った。翔真といい、自分とは違ってさばさばした性格をしているようだ。
翔真は体育会系、優菜は文化系のようだが、二人とも彩音が失った、あるいは持ったことがない属性をもっているようだ。
「じゃあ、優菜ちゃん。さっきから気になって仕方がないんだけど、どうして池に足を?」
優菜は、自分の足元を見つめてニコニコした。
「池の水、触ってみてください」
言われて彩音は、屈んで指を池に浸してみる。
「……あ。あったかい」
「温泉がここに混ざってて。だからこの池は足湯ってわけです。どうですか、彩音さんも。気持ちいいですよ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっと失礼します」
彩音は優菜と並んで岩に腰かけて、足を池に浸した。
もう少し、優菜と翔真のことを知っておくのも悪くない。
早朝の、少しだけまだ冷たさが残る空気のなか、脚を満たす暖かさが心地よい。
「ふう~」
「昨日、船で翔真と一緒だったって」
優菜がぽつんと言った。
「うん。来るときね」
「そっか。翔真がね、綺麗な人と一緒だったって、やたらとうれしそうに言うから、ちょっと気になってたけど」
「綺麗……?」
「あ、違う、違うんですよ、嫉妬とかじゃないですよ。うらやましいなあって。ほんと、綺麗ですね」
「私は……たいしたことないよ」
あはは、と優菜が笑う。
「いーえ。やっぱり大人の女性って、いいですね。あたしだって大人だけど。なんか大人って、大人になってからもまだ三段階ぐらい、階段があるみたいな気がする。彩音さんは、あたしより進んだ大人さん」
彩音は曖昧に微笑んだ。
年齢を重ねて経験した苦痛や寂しさが大人に見せているのだとしたら、大人であることなど少しもうれしくはないのだが。
「翔真、あれで結構、悩んでたみたいだから。島に帰ってきて、彩音さんみたいな綺麗な人に会って、ちょっとでも元気そうな感じになるなら、よかったなあって」
優菜は屈託なく笑う。彩音には、その考え方のシンプルさは好ましく思えた。
「優菜ちゃんは、あの子……翔真君と昔から?」
「ええ」
「仲良かったんだ」
「みんな仲良しだから。智峰の子どもは学校一緒だし、きょうだいみたいなんです」
「うらやましい……」
彩音は率直にそう評した。
「そっか、二人とも、智峰島にUターンなんだよね。だいたいのことは昨日、聞いたけど」
「そうです」
「優菜ちゃん、小説家って……?」
「……に、なりかけて、ダメだったコですよ。昔っから夢の世界とか、お話とか考えるの好きだったんですけど。それで食べていくのはまた違うみたいで。だから彩音さんはすごいですよね。研究とかそういうので手に職があるって」
「私……も、ここに逃げてきたんだから、似たようなものだよ。好きなことでご飯食べるのは、難しいんだよねえ」
と彩音は苦笑した。
「彩音さんも、そうなんですか? 見えないけどなあ」
「ふふ。大人は強がるものだから」
「強がり、か。翔真もだなあ……。意地っ張りだから。あたしは自分のことは、才能がなかった、で、すっきりしてるけど、翔真はどうなんだろうなあ」
彩音は微笑ましく優菜の横顔を見た。
なんだかんだ言って、優菜も翔真に関心があるようだ。ただ、それは恋愛感情よりもっと近い、姉のような目線に見受けられる。
「翔真君は、水泳の特待性だったってね。どうして戻ってきたのかな…」
「詳しくはあたしも。怪我だか病気だって聞いてますけど。あたしの口から詳しいこと言っていいのかどうかは分からないから、本人に訊いた方がいいんじゃないかな。言いにくいことかもしれないけど……」
「そっか。うん、そうだね。……機会があったら、翔真君に直接、聞いてみるかあ」
彩音はその話題を打ち切った。翔真のプライベートに関しては、それほど興味があるわけではない。
優菜の人柄が垣間見えたことで充分だった。
社交的ではあるが、決して出しゃばったりぐいぐいとくるようなタイプではなく。
人への気遣いも自然で優しさがにじみ出ている。
優菜と翔真との関係性はどう見るべきか。お互いに柔らかい好意を相手に抱いていることは確かだろう。
恋愛感情よりは、家族的な親愛の情に近いようである。
ただ、どうも一つはっきりしてきたように思えることは。
彩音にしても、翔真にしても、この優菜にしても。
何かしらの輝かしい実績、あるいは成功体験、将来への期待、そんなものがあったにも関わらず、挫折を味わってここにやってきているようだ。
智峰島に来ることを決断するには、皆、そうした共通した事情が後押しをした背景があるのか。
あるいは、潮見が意図的にそんな人物を集めたのだろうか。
潮見の穏やかな笑顔の裏には、まだ何かあるようだと彩音は思った。
しかし、それがどうしたという開き直りもある。
今の彩音には、潮見が用意したこの状況は心地よいし、同じプロジェクトに参加する者として、優菜や翔真ともうまくやっていけそうだ。
今のところは、それでいいではないか。
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