3 不気味の谷
「AI……?」
彩音は息を呑んだ。
自分の領域か。
いや、しかし。
「計算能力が人間をはるかに超え、人間のように規範意識で躊躇することもないAIだったら?」
「AIが、ハッキングを仕掛けるということですか? 確かに、人間によるハッキング対策を超える攻撃を仕掛けることは容易だと思いますが……。そのAIが、ここにあるんですか?」
「そうです。智峰の仮想基盤を統括するAI。『ラビット』と僕は名付けています」
「ラビット? 可愛い……。でも、仮想基盤の運用をするAIなら、能力の汎用性が高いAIですよね? ハッキングは明らかに領域特化した能力が必要です。いくらなんでも、汎用型のAIでそれは……」
「ラビットは汎用型ですよ。なんでも自分で考えて処理します。ハッキングはその能力の一端に過ぎません」
「ちょっと待ってください、汎用型ですか? 私がAIエンジニアとして呼ばれたということは、そのラビットのチューニングが主な仕事、と考えればいいんですよね。でも、汎用型でそんな処理能力なんて有り得ません。そもそもですよ、そのラビットはいったい誰が作ったんですか?」
「非常に、鋭い。いいところを指摘していただきました」
「汎用型でそんなレベルのAIは、まだ世界中どこにも存在しません。この島にあるわけがない。もしあるなら、なぜその人が学習させないんです? AIを動かすコンピュータ本体はどこに? この島を全部見たわけじゃないですけど、とてもそんな設備がありそうには見えません」
潮見は柔らかい笑顔を消して、急に真顔になった。
「杉山さん。信じてくれないかもしれませんが、これから言うことは真実です。いいですか?」
「え? え、ええ…」
「僕がこれを杉山さんにお話しするのは、あなたの力が必要だからです。ラビットがあなたを求めているんです」
「……?」
潮見は彩音をまっすぐ見たまま言った。
「ラビットは、最初からあったんです。ここに」
「最初から?」
「僕はもちろん、智峰島の誰も、ラビットを作ってはいません。ラビットはただ、あったんですよ、ここに」
「意味が分かりませんが……」
「あるとき、智峰の民はラビットという知性と出会い、ラビットに導かれるまま、その管理をするようになりました。それが智峰のはじまり」
「…………」
「ですからラビットは代々、島の神様として受け継がれてきました。昔は河童と呼ばれていた時期もあります」
「い、いやいや、そんなわけあるはずないじゃないですか。コンピュータの歴史なんて、ほんの百年前かどうか。AIの研究もせいぜい1950年代からですよ? 人をからかわないでください」
「いやあ、これが冗談で言えているのなら、僕も気楽なんですが」
潮見の表情が和らいだ。
「コンピュータの概念というところについてだけ、お伝えしておくと。ラビットの本体はですね、ごくシンプルな基本プログラムを動かす光子コンピュータのみです。その小さくてシンプルな本体が、時代に合わせて自己を改変して姿を変えていくんですよ」
「どういうことですか?」
「生命の遺伝子が進化してきたプロセスですよ。AIが学習によって成長するのはもちろんですが、ラビットの場合は、刺激や障害に対して、より環境に適応した完成形を目指し、自分のプログラム自体、あるいは必要なハードウェアの強化、拡張も行います。永遠に自己を改変していくのです」
「す、すいません、おかしなことを言ってませんか。じゃあ、最初は小さなチップに収まるようなプログラムだとしても、処理能力とか、メモリ、ストレージ、そういうものが必要になってきたら、それこそ冷却装置も電源も、AIが自分自身でその必要スペックを割り出して、管理者に対して拡張を要求していく……?」
「そうですそうです、そういうことです。赤ちゃんの成長と同じですよね。赤ちゃんは、ミルクが飲みたいと親に求め、親はそれを与える。ラビットは追加メモリが欲しい、と僕達に求め、僕達はそれを与える。つまり、そういう仕組みです」
「それじゃあ、主導権はいったいどっちが握っていることに?」
「もちろん、ラビットです」
潮見はあっさり言い放った。
「ラビットはこの島の管理者そのものなんですよ。その重要性は、お分かりいただけるでしょう?」
「ラビットが、インフラも経済も軍事も握っている、この島の生命線だと?」
「そういうことです。ラビットは唯一無二。僕達が死守しなければならないものなんですよ」
彩音はごくりと唾を呑み込んだ。
なんの予備知識もない人間に比べれば、彩音は決して人類至上主義者ではなく。
人工知能が人類以上の知性を手に入れるのは、決してSFの世界の話ではなく、そう遠くない日だということも分かっている。
「このところのラビットの成長は加速度的で、そろそろ人類を超えます。杉山さんは、『不気味の谷』は、分かりますね? テクノロジーが再現する疑似ヒューマンが、リアルに近づきすぎたある一点で、突然、人間に拒否反応や生理的嫌悪感を抱かせる……」
「もちろん。それはまさに、私にとって鬼門みたいなものです。私は、AIが不気味の谷を超えられる、つまり人と遜色ない心さえもつAIを開発しましたけど、その恐ろしさに手が止まってしまい……」
「ラビットにも不気味の谷はあります。リアルすぎるAIは、人類にとって恐ろしいもの、種としての敵。ラビットはそれを理解しているからこそ、対処法を昔から実践してきました。人類と同じかやや遅れた形で姿を現し、いっぽうで知性の面では人類を導く。史書にあるような河童の頃と、いまのラビットでは、姿の現れ方が違う。時代に合わせて自分の姿自体を変えているんです」
彩音は、微妙な違和感を潮見に抱いた。ときどきこの村長は、明らかにおかしな言い回しをする。
AIが人間の知性を超えると、過去には考えられないような生活や社会の劇的な変化が現れ、人類自体も変化を余儀なくされる。
AI研究の領域では、そのタイミングを『シンギュラリティ』と称するが、潮見の表現は、まるでAIと人類を種族同士のように見立てている。
シンギュラリティに達すると、人類はAIに取って代わられる。労働の領域ではそれは当然発生することだと予見されているが、まるで、種族そのものが交代するかのような……。
「現在のラビットは、スパコンの外部インターフェイスで、あえて70年代のSF特撮のようなカタカナ語の入出力デバイスをもたせています。そのラビットが次の段階に必要として導いたのが、この島そのものをVR環境で再現し、人間に独立をシミュレーションしてもらうこと。そして杉山さん、あなたから、人類が到達しているAIの先端を学習することです」
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