第30話 終焉の獣


「し、質も――ッ!?」



 俺の口が開くのと同時に、ビーストの爪がより一層、プツ――と、俺の首に、肌に、血管に食い込んでくる。

 痛いというよりも、気持ちが悪い。

 そんなよくわからない感触に、俺はおもわず顔をしかめる。

 すると、タラー……と、首筋を、生暖かい液体が伝っているのを感じた。

 ビーストは爪をそのままに、俺の首筋へ顔を近づけると――

 ペロリ。

 コーンに垂れたアイスクリームを舐めとるように、俺の首筋に舌を這わせてきた。

 猫特有の、すこしザラついた舌が、俺の首筋を妖しく撫でる。

 すこしだけ痛くて、すこしだけこそばゆい。

 恐怖からか、俺はビーストのその淫靡な行為に対して、ただブルブルと体を震わせていた。

 ……いや、もしかすると、興奮しているのかもしれない。

 だって、背中にあたってるし。デカいのがふたつ。

 あ、もしかしてビーストってこういうこと?



「おおっと、勝手に動くにゃよ? 次はにゃいにゃ。これは脅しにゃんかじゃにゃーよ? ……ま、それは、こうやって、爪を当てられてるおみゃーが、一等わかってるんにゃろうけど……でも、そこの……今にでもニャーに飛び掛かろうとしている、ショートカットのおみゃー……。おみゃーはなんだか、危険な香りがするにゃな? よしよし、ほんにゃら、おみゃーがミャーの質問に答えるにゃ」



 ビーストの声にハッとし、ユウの顔を見てみる。

 ユウの顔は、眼はこれ以上ないほどに黒く、暗く沈んでいた。

 ユウキの話を聞いたときと同じくらい。いや、実害がある分、あの時以上だな。

 こうなってしまうと、あの時の――ガキの時の『近所のガキ全員半殺しのち、逆さ吊り事件』を思い出す。

 たぶん、さっきのビーストが発した言葉は、今のユウには届いていない。

 だからビーストの読み通り、ユウはいつ俺たち・・・に飛び掛かってきてもおかしくないのだ。

 まったく、こうなってくると、どっちがビーストなのか、わかったもんじゃないな。

 ましてや、ビーストに口語を禁止されているため、うまく連携もとれない。

 なら、どうするか。言葉以外で、この俺の思いを伝えるべし。

 ……ということで、必死に瞬きをしてアピールした。

バチやめろバチバチバチ攻撃するなバチバチいまはバチバチバチバチ言う通りにしろ!!」

 ……やばい。

 失明しそう。

 瞼つりそう。

 それでもユウは気づきません。

 光の届かない深海のような顔で、じりじりと近づいてくる。

 このままだと……俺の首が胴体から分離してしまう。

 そして、こうしている間にも、ビーストの爪が、徐々に俺の首に食い込んでいる。

 どうすればいい?

 ユウとの意思疎通は不可能。なおかつ、残りの二人と会話している素振りを見せれば、速攻で俺の首が飛ぶ。

 俺はどうすれば……俺は……!



「おいおい、ショートカット。ニャーは脅しじゃにゃーって、言ったよにゃ? ほんとにこいつの首が飛んで……飛んで……?」



 やば――ん? なんだ?

 ビーストはそこまで言うと、黙ってしまった。

 気のせいか、爪に込められていた力が緩んだ気がする。

 それと俺の後ろで、スンスンと鼻を鳴らしているような気がする。

 何をしているのかを目視で確認したいが、それをした途端、俺の首が炭酸飲料入り瓶の栓のように、シュポーンと飛んでいくのだろう。

 うん、笑えないな。動かないでおこう。そうしよう。



「くんくん、くんくんくん……にゃにゃ? にゃにゃにゃ……おみゃー、にゃ~んか、いいにおいするにゃ? もしかして……おみゃー……」



 いいにおい?

 昨日、久しぶりに風呂に入ったからか?

 ……にしても、いきなり何を言っているんだ、このビーストは。

 いいにおい? 発情してんのか?



「これ以上……汚い手で、おにいちゃんに……触るな!」



 不意に腕が伸びてくる。

 完全に気を抜いていた俺の体が、瞬間的に硬直する。

 気がつくとユウは、憤怒の形相で俺の真ん前まで迫ってきていた。

 ユウの腕は俺の頬――その横スレスレを掠めていく。

 もちろん、狙いはビースト。

 逆上したユウは、完全に歯止めがかからない状態だった。

 幸い、いまはまだ首は飛んでいないが……、ヤバいな。

 こいつビーストの初速、反応速度を見る限り、俺が瞬きをするよりも先に、俺の首が宙を舞っているかも……しれ――ない……ない?

 解放感……?

 それどころか、俺の首に当てられていた爪も、どこかへいっている。



「ユウト! こっちだ!」



 不意にヴィクトーリアに名前を呼ばれる。

 俺はヴィクトーリアのいる場所を確認すると、そのまま名前を呼ばれた方向へと、全力で駆け出した。

 首はまだくっついている。

 俺を追ってこない。

 ……ということは……?

 俺はちらりと後方を見ようとした……が、運動不足の俺がそんな器用なことができるわけもなく――



「あいた!」



 盛大にずっこけた後、首を痛めてしまった。

 そんな俺を気遣うように「やれやれ」と洩らしながら、ヴィクトーリアが駆け寄ってきてくれた。

 ヴィクトーリアに介抱されながら、俺のいた場所を見てみると、アーニャとユウがビーストに応戦していた。

 ユウが飛び込んだと同時に、それを見ていたアーニャもユウに合わせたのだろう。

 咄嗟のコンビネーション。

それがなければ、今頃、俺の頭は……いや、それよりも俺の『におい』とやらに、ビーストが気を取られていたお陰でもある。

 におい……臭い……匂い……。



「大丈夫か、ユウト? 怪我は……?」


「ああ、問題ない」


「じっとしていろ、いま首の血を止めてやるからな」


「いや、血は出てるけど、傷は浅い。それに、いまはそんなことを言っている場合じゃない。ふたりに付与魔法をかけてやらないと……!」


「うにゃにゃ!? ユウト? 付与魔法?」



 ビーストが俺の名前に反応する。

 心なしか、その眼差しには殺気は込められていない。



「おい、なんだ? ユウト、知り合いか?」


「いや、獣人に知り合いはいない。……けど」


「けど……?」


「ちょっとだけ……、ほんのちょっとだけだけど、心当たりは、ないこともなくはないかもしれない、やっぱりないのかもしれない」


「ど……どっちなんだ……?」


「とにかく、俺がやることを静かに見ておいてくれ――」


「え」



 俺は立ち上がると、顔に巻き付けていた隠者の布を取り払った。



「おい! おまえ、俺に見覚えはあるか!」



 俺の声があたりに響くと、ビーストは攻撃の手を休め、俺に釘付けになった。

 アーニャとユウもなんとなく俺の意図を理解したのか、手を止め、俺の動向を見守ってくれている。

 しかし次の瞬間――ザァッと、目の前にビーストの顔が肉薄する。

 鼻と鼻とがくっつきそうになるほどの距離。

 でも、危害を加えてくる気配はない。

 だったら、なんでこんな事を――



「んにゃにゃあ! やっぱりぃ! ごっしゅじ~んっ!」



『ご主人』

 ビーストはそう言うと、両手を広げて俺に抱きついて来た。

 思いのほか体重の重く(俺の腕力がないわけではない)、俺の腰が悲鳴をあげる。

たまらず俺は背中から、草の上へ倒れ込んだ。

 ビーストはそんなことはお構いなしに、俺の顔面をぺろぺろと舐めまわしてくる。

 なんだこいつ、犬か? 猫じゃないのか?

 というか、ご主人ってことは……やっぱりこいつ――



「にゃにゃにゃ? ご主人、その顔……もしかして、ミャーを覚えてないのかにゃ?」


「や、なんというか……な……」


「ねえ発情猫、いい加減、あたしのおにいちゃんから離れて」


「だれがおまえのおにいちゃんだ。俺はアーニャのものだ」


「へ? ゆゆゆ……ユウトさん!? なにを仰って……!?」


「おにい……ちゃん……? なんだ、おみゃーはご主人の妹にゃが?」


「ユウト、こいつ、さっきからおまえの事、ご主人って……」


「あ、ああ……」


「おまえ、もしかして、そういうプレイ――」


「アホか! おまえはほんと、見た目によらず、いっつも脳内ピンク色だな! 自重しろ!」


「だ、だれが脳内ドピンク淫乱女だ、だれが! 失敬な!」


「そこまで言ってねえよ、この淫乱錬金術師」


「嗚呼……! ひ、ひどい……! ひどすぎる……!」


「わかってる。わかってるって、ユウ。説明する。説明するから……、その辺の魔物を、一発で焼き殺しそうな眼を向けるのを止めろ。……と、その前に、こいつをどけてくれ」


「うにゃ~ん、ごろごろごろ」

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