第四章[貴族]

新生活

 翌日瑞樹は喉の痛みで目を覚ます。というのも昨日の夜、ビリーの枕を頭に敷いてノルンの枕を抱きしめ、何とか寂しさを紛らわせようと努力はしていたのだが、いつまで経っても嗚咽が収まらず結局泣き疲れて眠りについていた。瑞樹自身も我ながら女々しいとぼんやりとした頭で思考しながら、けほけほと咳をする。風邪という訳では無いが、随分と彼の喉は荒れていた。


「……喉痛ぇ」


 瑞樹が忌々しく独り言ちると、突然どこからともなく女性の声が聞こえてくる。まさか部屋の中に人がいるとは思わず、彼はぎょっとしながら飛び起き声の主を探すと、メウェンの従者がベッドの傍らにいるのが確認出来た。突然飛び起きた瑞樹に彼女は少し驚きつつも、すぐに落ち着きを取り戻し恭しくお辞儀をする。


「お早うございます瑞樹様。お水をご用意しておりますが如何ですか?」


「え?あっはい、ありがとうございます、頂きます」


 瑞樹がそう言うと従者が「かしこまりました」と、机の上に置いてある水の入ったピッチャーを手に取り、コップへと注ぎ彼へ差し出す。瑞樹は軽く会釈をしながらそれを受け取り、喉へと流し込む。ひんやりとした水は彼の喉を潤し、ただの水ながらもとても美味しく感じられる。その後、瑞樹がお代わりを飲み干し満足気な表情を浮かべたのを確認した後、従者が口を開く。


「瑞樹様、朝食は如何いたしましょうか。ご希望であればこちらにご用意致しますが」


「う~ん。ではお言葉に甘えてここに持って来てもらっても良いですか? 」


 瑞樹が顎を撫でながら少し悩んだ後、従者にここへ持って来てもらうようお願いする。するとその女性は再びお辞儀をしながら「かしこまりました。すぐにご用意致しますので少々お待ちください」堅苦しく答えて退室する。瑞樹は彼女を見送った後、再びベッドへあお向けになりながら部屋の中を見回す。あの二人がいた形跡があるのに姿は微塵も無い。それは夜の暗い時間と比べると、明るい現在は随分と顕著に感じられ、瑞樹は目頭を押さえる。そうしていると先程の従者が再び部屋に戻り、テキパキと朝食を瑞樹の前に並べる。


「どうぞごゆっくりお召し上がりください。御用がありましたらそちらのベルを鳴らして頂ければすぐに参りますので。では私は失礼致します」


「あ…」


「どうかなさいましたか? 」


「いえ何でもありません。引き止めてすみませんでした」


 瑞樹の何か言いたげな表情に、従者は疑問に思うが何でも無いと言われれば詮索出来る立場に無い。彼女は再び「失礼します」とお辞儀をしながら部屋を離れる。正直な所瑞樹は彼女に傍に居てほしかった。一人でいるとどうにも涙腺が緩んでしまう、つくづく自分は女々しいと呆れつつ、用意された食事に視線を移す。白いパンにごろごろとした野菜の入ったスープ、それにサラダ。食の細い瑞樹にはこれでも十分御馳走で味も申し分ない、部屋には暫くの間咀嚼音が静かに響いていた。


「ふぅ食った食った」


 瑞樹はお腹を撫でながら独り言ちると、傍らの机に置いてあるベルをチリンチリンと鳴らす。すると先程の女性従者が入室し、食器の片付けを開始する。そういえば俺ってこれから何をしてれば良いのだろう、瑞樹の脳内にふとこんな疑問が浮かび、もしかしたら知っているかもと彼女に聞いてみる事にした。


「あの、一つ質問しても良いですか? 」


 瑞樹の問いかけに彼女は一度作業を止め、彼の方へ身体を向ける。


「はい、私が知る範囲であればなんなりと」


「これから俺ってどこで何をしていれば良いんですかね?まさかずっとここで寝ている訳にもいかないでしょうし」


「申し訳ありません。食器の片づけが済み次第お話ししようと思っていたのですが、身支度を整えて頂いた後にメウェン様の元へご足労頂く事になっております」


 従者は深々と頭を下げ、謝罪しながら今後の予定を説明する。予定自体は瑞樹も理解したのだが、何もそんなに謝らなくてもと、むしろ自分が恐縮してしまう程だった。


「あの…従者さん? そんなに謝れると俺もどうしたら良いか…別に怒っている訳じゃ無いので頭を上げてもらえませんか? 」


「瑞樹様がそう仰るのであれば…では瑞樹様、別の者が身支度の為に別室で待機しておりますので、そちらへご足労頂けますか? 」


「はい、分かりました」


 瑞樹は答えながら布団を払い退け、ベッドから立ち上がる。そのまま瑞樹は扉の前に向かい開けようとすると、すすすと彼女が近づき扉を開けた。


「…あの、別に一人でも大丈夫なのですけど」


「そういう訳には参りません。瑞樹様は今や高き身分にあるのです、故に身の回りのお世話は勿論の事、扉開ける事など些事に至るまで、全て私共の方でさせて頂きます。瑞樹様にとっては馴染の無い事かと存じますが、何卒ご容赦頂きたく存じます」


「…そういう話しなら仕方無い、のかな? 」


 ただ瑞樹はありがた迷惑に感じているようで、他の貴族諸兄には申し訳無いが子供じゃあるまいし、何より息が詰まりそうになる。瑞樹は心の中でとても大きな溜め息を吐きながら、渋々彼女の言う事に従いながら別室へと向かい、身支度を整えた。


 それが終わった後、瑞樹は別の従者に案内されながらメウェンの元へ向かう。そこは彼の執務室で、瑞樹も足を踏み入れるのは初めてだった。


「メウェン様、瑞樹様をお連れ致しました」


「入りなさい」


 部屋の主の許可を頂いた後、瑞樹は中へ足を踏み入れる。そこは数々の書棚や意味の分からない書類等が机に山積していて、さらに部屋の奥には机で書類と向き合っているメウェンと、傍らには執事のギルバートが確認出来た。


「おぉ瑞樹。いや瑞樹伯爵とお呼びした方が良いか。調子はどうかね?」


「冗談は止めてくださいメウェン様。私は――」


 瑞樹はメウェンに苦言を呈そうとするが、彼はそれを手で制止して一度書類から目を離し、視線を瑞樹の方へ向ける。その瞳は真剣そのもので、思わず瑞樹は固唾を呑む。


「確かにお主はまだ任命式が終わっておらぬが、既に国王陛下から直接その命を受けている。故にお主の事を以前と同じように接する事は憚らなくてはならぬ。理解出来るな? 」


 メウェンの正論に瑞樹はぐっと唸りながら顔を俯かせる。今の彼は既に貴族だ、だがそんな簡単に切り替える事が出来る筈も無い。彼のそんな気持ちを察してか、メウェンはふぅと一つ息を吐いた後、再び口を開く。


「…少し意地悪が過ぎたな。昨日の今日ではそうそう変えられぬだろう。故にあまり人目の無いような場所では君とは以前のように接する事にしよう」


 その言葉に瑞樹は顔をばっと上げ感謝の言葉を述べようとしたが、メウェンが「ただし」とさらに瑞樹を制止する。


「先程私が述べた事は紛れも無い事実だ、この先人前に出る事も多々あるだろう。その時君が恥をかかずに済むように教育を施すのは私の責任でもある。それだけは胸に刻みなさい」


「…お心遣いありがとうございます。一生懸命励みますのでご指導の程よろしくお願い致します」


 メウェンの優しくも厳しい言葉に、瑞樹はあまり見たくない現実を叩きつけられたような気がしたが、それも自分を思っての事と、深々と頭を下げて謝辞と自分の意思を伝える。すると彼は満足気に「うむ」と一言返事をしながらこくりと頷いた。


「それはさておき、貴族として迎える初めての朝はどうだったかな?是非忌憚の無い意見を聞いてみたい」


「そうですね。ではお言葉に甘えてはっきりと言わせて頂きますけど…正直あまり良いものでは無かったです」


「ほう、それは穏やかでは無いな。もしかして従者の者が君に何か粗相でも働いたのか?」


「いえ、そういう訳ではありません。彼女はとても優しかったですから、くれぐれも彼女を咎めるような事は止めてください」


 瑞樹の予想外の発言にメウェンは眉を顰める。今でも瑞樹に恐れを抱いている者は僅かながらも存在している。故に当時からそういった感情を持たない者をメウェン自ら選抜していたのだが、その者が真意を巧妙に隠していたのかと、自身の目に疑いを持ってしまったのだ。勿論粗相などある筈も無く、瑞樹は顔と手をぶんぶんと振りながら全力で拒否をする。


「ただ私にとってこのような待遇は慣れない物でその……どうにも息が詰まるというか何というか……」


「成る程、然もありなん。だが再三言うが君も貴族である事に慣れるしかない」


 目を泳がせながら発言する瑞樹を、メウェンはそう言う事かと得心しながら返答する。貴族に慣れる、その為の第一段階として、メウェンは執務の一部を手伝ってみるかと瑞樹に問うと、「是非お願い致します」と小気味良い返事が返ってくる。


「では簡単な財務関係を任せてみよう……一応聞いておくが読み書きと計算は出来るのだな? 」


「当たり前では無いですか」


 メウェンの発言に、瑞樹は馬鹿にされていると勘違いをして眉を寄せながら少し顔をむっとさせる。それに気付いたメウェンは「また何か勘違いしているな」と呆れながら言葉にしてさらに続ける。


「良いかね?君が思っている程読み書きの出来る平民はそう居らぬ。確か君は以前冒険者をやっていたな?他の者はどうだった? 」


「勿論みんな出来ていましたよ。だって依頼表を読んだりとか、それに自筆で署名しなければならいのですから。あんな荒くれ者が集まる冒険者が出来るのだから他の人だって出来るのではないですか? 」


 瑞樹は片眉を上げなあら疑問をメウェンにぶつけると、彼はギルバートの淹れたお茶で喉を潤しつつ、その疑問に答え始める。


「まずそこが君の勘違いだ。冒険者程度が出来るからではなく、冒険者だからこそと発想を変えた方が良い。君の言う通り依頼関連の読み書きは元より、報酬の勘定も出来なくては冒険者など務まらん。だが他の者は存外そうでは無い。計算は多少心得があってもおかしく無いが、読み書きが出来なくともそう困る事は無いのだ」


「……成る程、勉強になります」


「納得してもらえたのなら何よりだ。では執務に取り掛かろう」


「はい」


 最近の心労の原因である瑞樹を言い負かしたのが嬉しいのか、メウェンは少し口角を上げながら話しを切り上げる。その様子に瑞樹は、彼に気取られぬよう顔を顰めながらギルバートの淹れたお茶で気分を落ち着かせた。

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