分水嶺─Ⅲ

 その後意識を失った瑞樹は、あれから三日後の夕方に漸く目を覚ました。


「まぁ瑞樹様!漸く意識がお戻りになられましたか」


「お嬢様、私はメウェン様をお呼びして参ります」


「えぇお願いします。ここは私一人で問題ありません」


 瑞樹が横になっているベッドの傍らには、エレナとその従者が甲斐甲斐しく彼を看病していた。その彼が目を開けた時は二人揃って目を丸くし、心底安堵した様子で胸を撫で下ろす。直後、従者はメウェンの元へ報告に向かい、エレナは瑞樹に話しかけるが、瑞樹の様子がどこかおかしかった。


「瑞樹様、お加減は大丈夫ですか?…瑞樹様?」


 瑞樹の意識は完全に覚醒しているとは言えなかったが、その視線は確かにエレナを捉えている。だが何かがおかしい、エレナはそう不安に感じている時、瑞樹が漸くその口を開く。


「あの、貴方は誰ですか…?」


「…え」


 瑞樹の脳内は完全に混濁していてここが何処か、エレナやメウェンすら誰か分からず、果ては自分が何者かすら分からなくなっていた。あの日、瑞樹の壊れかけた心はビリーの手によって首の皮一枚で大事には至らなかった。ただその代償は大きく、瑞樹の記憶に混乱を生じさせていたのだ。


 その後、エレナを始めとした従者達の献身的な介護も手伝って、瑞樹の意識や記憶は徐々に鮮明になり、丸二日かけて完治する事が出来た。


 さらにその翌日、瑞樹はベッドの上でエレナと共に朝食を取り、この後の事に備えていた。


「朝食は済んだようだね。さぁエレナ約束通り退室しなさい。ここからは私と瑞樹だけだ」


 がちゃりと扉が開き、部屋に入って来たのはメウェンだ。というのも、朝食後に瑞樹はメウェンからあの日の事の顛末を聞く事になっていたからなのだが、退室を命じられたエレナはぶすっとした表情でメウェンに視線を向ける。


「お父様…やっぱり私もここに残る訳には参りませんか?」


 エレナのお願いをメウェンは駄目だと一刀両断する。その目つきはやけに険しく、苦々しい顔をしている。


「エレナ、以前にも言っただろう?…今の瑞樹は…ともかく駄目なものは駄目だ。早く出なさい」


 ばっさりと断じられたエレナは、しゅんと顔を俯かせながら瑞樹に視線だけ送りそのまま退室する。その視線はとても心配そうで、不安そうだったが、瑞樹にはそれがどういう意味か理解出来なかった。ともかく、室内は瑞樹とメウェンの二人だけになり、メウェンはふうと一息つきながらベッドの隣にある椅子に腰を下ろす。


「メウェン様…この度は本当に申し訳ありませんでした…この罰はなんなりと仰ってください」


「良い。これからするのはそのような話しでは無い」


「ですが…!」


 瑞樹の顔が少しずつ強張るのを見て、メウェンは手で落ち着けと制止する。


「君の頭の中には疑問が数多あるだろうが、まずは落ち着いて聞いてくれ。君は恐らく今精神的に酷く不安定だ。それでも話さなくてなならない事がある。故に心を落ち着かせて聞いて欲しい」



「分かりました…ところでこれは何ですか?私こんな者身に着けた覚えが無いのですが」


 それは瑞樹の右手首にはめられた腕輪で、金色のリングの所々に小さな水晶のような物がはめ込まれている。そしてそれはどうやっても外す事が出来ず、エレナに尋ねても遂には教えてもらえず仕舞いになっていた。


「それも順序を追って話そう。…さて、どこから話したものか」


 メウェンがうぅむと顎に手をやりながら思考していると、瑞樹の脳内にどうしても聞いておかなければならない事が生まれる。今までどうして忘れていたのかと、自身を恨み唇を噛むがその答えは目の前の人物が持っている筈だと、声を荒げてメウェンに問う。


「あの、メウェン様。ビリーは…ノルンは無事なんですか!?」


 メウェンを問う瑞樹の目は、若干正気を失っていた。そしてその目は、瑞樹が壊れかけたあの時に少しずつ近づいていく。メウェンは固唾を呑み、最良の回答を瑞樹に提示するべく思考を巡らせ、重く口を開く。


「結論から言えば無事だ。ただ…現在は私の家で幽閉されている」


「ゆう…へい…?何で…二人は何も悪い事をしていないのに…悪いのは…あぁ…あ」


 瑞樹の瞳がどんどん暗く濁り、頭を抱えながら取り乱し始めたその時、メウェンが危惧していた事が現実になり、あの時と同じ黒い靄が瑞樹の身体から噴出し始める。ただあの時とは違い、その黒い靄は瑞樹が身に着けている腕輪の方へどんどん吸い寄せられていく。が、それも束の間、みるみる内に腕輪が黒く変色し、遂には吸収が止まりメウェンへと襲い掛かる。


「ぐう…!瑞樹…大丈夫だ。二人は幽閉されてはいるが大事は無い。丁重に扱っているから心配するな…」


 メウェンの顔色がどんどん青ざめていくのを見て、瑞樹は正気に戻る。ただメウェンは酷く具合が悪そうに息を荒げさせていた。


「メウェン様大丈夫ですか!これも私が…?」


「大丈夫だ、大丈夫。私は大丈夫だから落ち着きなさい」


 焦点の合わない目を震えさせ錯乱しかけていた瑞樹を、メウェンは何とか落ち着かせ、漸く場が静けさを取り戻す。その後、廊下で控えていた従者にお茶を用意してもらい一息ついた後、メウェンは話しを切り出す。


「身を以て感じたと思うが…今の君は酷く不安定で、それがより顕著になると君の身体から何かが噴出するのだ。それを防ぐ為にその魔道具の腕輪が取り付けてあるのだ」


「はい…ですがあの黒い靄は一体…」


 顔を俯かせ瑞樹は呟くように問いかける。


「その疑問は後にしよう。まずは事の顛末からだ」


「はい」


 そう言ってメウェンはカップに残っていたお茶を飲み干し、説明を始める。


 曰く、あの後瑞樹は何故か国王から何のお咎めも無く、ビリーとノルンを伴ってメウェンの邸宅へ戻っていた。さらに国王はあの場で箝口令を敷かず、貴族諸兄らに事態が広まっていくのを黙認する始末。本来であれば謁見の間で不祥事などあってはならず、しかも王都最強の六柱騎士が手も足も出なかったなどとは、国王の任命責任にまで発展しかねない事案なのだが、それでも国王は現在も沈黙を保っているとの事。


「国王陛下は…一体どんな目的があって私にあのような事をしたのでしょうか」


 瑞樹の疑問は至極当然、というよりあの場にいたほぼ全員が抱える疑問で、無論メウェンも例外では無い。ただメウェンにもその真意が分からないようで、彼は眉間に深く皺を寄せていた。


「残念ながら私にもその真意は分からない。ただ、ある文官に聞いたのだが…ここ最近国王陛下の様子が少しおあかしかったそうだ」


「おかしい?」


「あぁ。何か焦っているように感じたらしい。…一応言っておくがこの事は他言無用だ、人に吹聴しているなどと知られては面倒だ」


 メウェンに釘を刺され、瑞樹は口に手を当てながらこくこくと頷く。その後メウェンは目を伏せ、何かを考え込むように眉間の皺を指で解し、意を決して瑞樹に視線を向ける。


「あと一つ…君にとって重要な事を伝えなければならない」


 先程とは明らかに違う空気の重さに、瑞樹はごくりと固唾を呑む。


「それはだな…君はあの時の記憶はどこまであるかね?」


 その問いに瑞樹は、顎を撫でながら当時の事を思い返す。正直思い出すだけで気持ちが悪くなるのだが、こればかりは致し方無い。


「私が覚えているのは…ノルンが…その」


「あぁ良い。分かったからそれ以上思い返してはいけない」


 口籠る瑞樹をメウェンは、また錯乱されては困ると手で制止する。


「ならばその後の事は覚えていないと、そういう事で良いな?」


 瑞樹は唇を噛んだまま黙って首を縦に振る。何とか心を落ち着かせようと、痛みで無理矢理自我を保たたせていた。


「そうか…瑞樹、どうか落ち着いて聞いて欲しい。その時文官の誰かが錯乱した瑞樹を見てこう言ったのだ。まるで悪魔だ、とな」


「悪魔…?ってあの悪魔ですか?」


「以前私が話した事があるだろう?あの悪魔だ、六柱騎士の魔法がまるで児戯のように防がれたのだ。そう思うのも致し方無い。だが本質はそこでは無いのだ、その言葉も貴族内で広まってしまい危険分子は排除すべしとの声が強まっている…つまり―」


「さっさと首を刎ねろって事ですか」


「…!端的に言えばそうなる」


 瑞樹の言葉にメウェンは身を丸くし、直後目を伏せて苦々しく答える。瑞樹はメウェンはに冷ややかな視線を送り、口を開く。


「ならば私が昏睡状態の間にやってくれれば良かったじゃないですか…!わざわざ目を覚ますのを待って処刑を宣告するなど、随分とご立派な趣味をお持ちなのですね」


 瑞樹が吐き捨てるように言うと、メウェンは酷く不愉快な顔をしながら語気を強めて返す。


「君に言われずとも…私の不本意ながらもう試している」


「…え?」


 その衝撃的な言葉に思わず瑞樹は目を丸くする。苦々しい顔のままメウェンは深く溜め息を吐き、一度心を落ち着かせてからさらに続ける。


「私は拒否したのだが…貴族諸兄らに大挙されるといくら侯爵の身でもどうにもならない。故に彼らに一度君の身柄を預けた」


 曰く、その後瑞樹はその喉元に刃が刺さるか、弓矢で射貫けるか、果ては毒が通用するかなど、人が考え得る処刑方法を一身に受けたが、結果は瑞樹の身体に傷一つ付ける事が叶わなかった。全て黒い靄に防がれ、挙句攻撃を仕掛けた人が黒い靄に襲われる始末となっていた。


「そうだったんですか…あ、メウェン様申し訳ありませんがそのペンを取って頂けませんか?」


「む?別に良いが何をするのだ?」


 瑞樹はメウェンからそれを受け取り、それを自身の喉元に突き立てようと試みる。だがペン先が喉元に触る直前にそれは粉々に砕け、瑞樹を強烈な虚脱感が襲う。


 それは恐らく黒い靄の影響で、敵意のある人間の魔力を強制的に吸収する。そして瑞樹自身も例外では無く、自身の魔力が吸収され、それを取り込むという今まで経験した事の無い気持ち悪さが瑞樹を襲い、遂には嘔吐してしまう。その後瑞樹は乾いた笑みを浮かべ、虚空へ呟く。


「アハハ…自分で終わらせることも出来ないなんて…」


「瑞樹…取り敢えず一月後に君の処遇が決まる。それまではここで過ごしなさい」


 瑞樹の問いに、メウェンは顔を背けながら話題を切り替える。ただ瑞樹は何の反応も無く、乾いた笑みを顔に張り付けていた。

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