番外編[風邪]

 その日瑞樹は寝不足だった。鼻水を啜る音やくしゃみ、咳の音でどうにも眠れなかった。風邪を引いたのは自分じゃなくてビリーだが。事情が事情なだけに怒るわけにもいかず、どこへも発散できないモヤモヤを抱えたまま朝を迎えるはめになったのである。


「どうした?夜ずっとやかましかったけど、風邪でも引いたか?」


「んぁ?風邪ってのがどんなのか良くわからんけど鼻詰まりは酷いし、咳も出るし、頭も痛いしで最悪だ」


 一般的にそれが風邪だろう、瑞樹は不思議そうに首を傾げる。そういえばこの世界に来てお世話になった事が無かったので薬を見た事が無い。ビリーに尋ねてみると意外な回答をされる。


「薬だぁ?そんなもん家にあるわけねぇだろ。薬なんて常備してるのは王都に住む連中くらいなもんだろうよ」


 この世界の薬ってそんなに高い物なんだろうか?瑞樹が訝しく思いつつも、とりあえず病原菌のビリーを何とかしようと、一つ思いついた事を試してみる。


「なぁビリー…」


「何だよ…頭が痛いんだから大人しく寝させてくれよ」


『早く元気になぁれ』


 瑞樹はこういう状況で言霊を使うのは初めてだったので、ちょっとふざけて使ってみたがピロリンッと効果音が聞こえるような錯覚を覚えると同時に、でビリーの身体が一瞬薄く青白く光った。効果があったのかビリーに尋ねる。


「…お?おぉ、治ってる!いやぁやっぱり便利だなその魔法。医療系魔導師要らずだ」


 正直おふざけでやっただけなのに効いてしまうとは、若干引きながら驚く瑞樹。ただ魔力が減っている様な気怠さが少しだけあったので確かに発動していた。


 丁度良い機会だったのでこの世界における病気と薬、それに医者についてビリーに聞いてみた。まず大前提としてこの世界の住人は病気にかかりにくい特徴があり、それが何に由来するか解明されていないが、神の加護あっての事というのが定説になっている。勿論かかりにくいだけで発症してしまう人は少なからずいる。


 そんな時に必要なのが医者と薬なのだが、この世界ではそれも魔法が使用されている。まず、[医学]を司る神の加護を受けた魔導士についてだが、主に症状の診断、療法の選定、そして処置を行なう。次に、[薬学]を司る神の加護を受けた魔導士についてだが、主に症状に合わせた薬の調合を行なう。ここで言う薬とは薬草だとかそういった類いの物は使用されない。まず術式を展開し、薬を構成する薬液を魔素から一つ一つ変換させ、最後に調合する。これがこの世界の薬で、霊薬と呼ばれる品物だ。


 別に医学と薬学が分かれている必要が無いのでは?と瑞樹は疑問を投げかけるが現実はなかなかそう簡単ではないらしい。医学魔導士は診断から処置を行なうが、薬の調合は出来ない。薬の構成物を持っていたとしても調合魔法が使えないので意味が無い。対して薬学魔導士は薬の調合を行なうが、確かに医学の知識は勉強すれば身に付くだろう。それでも医学魔導師ほど完璧な診断とはいかないのだ。薬とは毒にもなりうる、万が一誤った薬を渡せば患者の命に関わるのだ。そういった事情があり、医学魔導師と薬学魔導士がペアとなっているのが普通である。そしてこの二系統の魔導士は絶対数が少なく、慢性的に人手不足に陥っていて、そのせいで薬の供給が追い付かない実情もある。それと所謂ヤブ医者が中途半端な知識で薬を調合し、それが原因で命を落とす人もいたりするので、あまり薬を買いたがらない心情というのも少なからずあるとビリーが付随する。


 お勉強会を含めた朝飯を終え、瑞樹は仕事でいつもの道を行くと、すれ違う人の殆どが風邪を引いている様で至る所からコンコンやらクシュンやらそこら中で菌をばらまいている音が聞こえた。初夏のこんな暑い時期に風邪でも流行ったのかな?瑞樹は手で口を塞ぎながら足早にギルドへ向かう。案の定中も風邪引いたような人がいた、というか受付のお姉さんも風邪を引いている様だった。


「お姉さんも風邪ですか?だいぶ具合が悪そうですけど」


「あら瑞樹さん、風邪というのは良く分からないですけど今日は少し調子が悪いんですよねぇ…」


 流石は受付嬢、気丈に振る舞っている。ただクシュンと可愛らしいクシャミをする度に、緑色の束ねた三つ編みはひらひらと宙を舞い、茶色い瞳が潤んでいていた。余りに愛らしく、可哀相な姿だったので瑞樹はあれを使う事を決める。


「お姉さんさん、ちょっと更衣室の方まで付き合ってもらって良いですか?」


「え?良いですけど、何をするんですか?変な事しちゃ駄目ですよ?」


 潤んだ目で瑞樹の方を睨む。その可愛らしさにナデナデしたくなったが、断腸の思いで瑞樹は我慢する。


「そんな事しませんよ、早く病気が直るようにおまじないをかけてあげるだけですって」


「そうですか。…ではお言葉に甘えて」


 二人は更衣室へ向かい、扉を閉じる。あまりあれを人には見られたくない、そう思い瑞樹は完全に閉じているのを確認して、お姉さんの方へ振り向く。


「じゃあ楽にして下さい、すぐに終わりますから」


「はい分かりました」


「それじゃいきますよ。『早く元気になぁれ』」


 ビリーの時と同じように一瞬薄く青白く光る、多分これで大丈夫だろうと瑞樹は一息つく。


「さて、終わりましたけど、調子はどうですか?」


「…あら、あら?すっかり平気みたいです。医療魔法まで使えるなんて本当に凄いですね」


 半信半疑だったお姉さんが先程の気怠さは嘘の様に解消された事に驚き、目を見開きながら体をピョンピョンとさせている。

「まぁ厳密には医療魔法では無いんですど、お姉さんが元気になって何よりです。…この魔法を使った事は誰にも言わないで下さいね?この魔法かなり魔力を使うのであまり使えないんですよ」


「あらそうだったんですね、すみません貴重な魔力を使わせてしまって」


 お姉さんが困った様に眉を顰め頭を下げる。慌てて瑞樹も手を振って気にしない様に促す。


「いやいや、逆に気を使わせてしまって申し訳無いです。俺は今あんまり魔法を使うことが無いですから、そんなに気にしないでください」


「そうですか…あの、大変申し訳無いのですがその魔法をもう一人使ってほしい人がいるのですが」


「えっ?それは誰です?」


「オットーさんです、あの人も今朝からかなり具合が悪そうだったので」


「あぁ、ギルドマスターが具合が悪いと何かと都合が悪そうですね。分かりました、

やってみます」


「すみませんお願いします。いつもの部屋にいると思いますのでよろしくお願いしますね。あと出来れば私の事はカーシャと呼んでください。いつまでも他人行儀だとこそばゆいので、ね?」


 受付のお姉さん改めカーシャが柔らかい微笑みを瑞樹に向ける。瑞樹は少し頬を染めながら「はい分かりました」と頷く。


 カーシャさんにお願いされていつもの部屋の前までやってきたが、ゴホゴホと中から頻繁に咳が聞こえてくる。聞くだけで辛そうなのが分かる。


「オットーさん?入りますよ?」


 瑞樹はそう言って中に入ると、よくそんな状態でここまで来たよとギョッとするくらいに顔を真っ赤にしていた。休めば良いのにと怒れば良いやら呆れれば良いやら複雑な気持ちになる。


「おう、瑞樹か。見ての通り具合が悪くてな、用があるならまた今度にしてくれ」


 今日は面倒事を持ち込むなと言わんばかりに、強い視線で瑞樹を睨む。


「あっ、別に用とかそんなんじゃないんです。まぁ良いや、ちょっとじっとしていてください」


 自身の感覚的に多分今日はこれが限界だろう、そう思いながらも瑞樹は言霊を使う。


『早く元気になぁれ』


 さっきと同じ現象が起こったのでこれで大丈夫だろう、しかし朝も気になったけどやけに風邪が多いな、こんなに早く感染するもんなのかな。瑞樹が訝しんでいるとオットーから歓喜の声があがる。


「おぉ、身体が楽になった。これはもしかして例の魔法か?」


「はい、他にも何人か使ってしまったので今日はもう使えなさそうですけどね。しかし同じ症状の人を朝からたくさん見てますけど早めに何とかしないとマズイと思いますよ?」


 瑞樹の提案に、オットーは無精髭を弄りながら考え込む。


「うぅむそうだな。分かった、こちらで対処しよう。今日は助かった、礼を言う…そういえばお前は大丈夫だったのか?」


「えぇ、ビリーは駄目でしたけど俺は大丈夫でした。運が良かったんでしょうね」


 一通り話しが終わったあと、今日は酒場を休業すると言われた。給仕の二人や厨房のジェイクさんも感染したらしく、とても開ける状況には無くなっていたからだ。しばらくは家で大人しくしているしか無さそうだ。


 後日、王都から医療魔導師が派遣されてきた。多分オットーからの依頼を受けてきたのだろう。そこからは早かった、医療魔導士の迅速な対応のお陰で数日後には完全に沈静化した。


 今回の一件、驚く事にこの町の住人のおよそ9割が発症していた。それでも早めに対応出来たのは不幸中の幸いだった。そもそもなぜこんな事が起きたのかというと、原因は意外な場所にあった。それは以前大量発生したアンデッドの仕業の可能性が高いらしく、あの時大量のアンデッドは浄化されたのは間違いないのだが残された怨念が悪い物、要は病原菌を呼びその病原菌が風に運ばれて町を襲ったという訳だ。死してなお嫌がらせをする、とことん邪悪な奴らだが、初期対応が早めになされたのはせめてもの救いだろう。


「依頼を受けてもらって助かった。礼を言う」


「いえ、これが我々の仕事ですから」


「そうです、初期対応が早く出来たからこそです。ギルドマスターから早く依頼がだされなかったら悪化していたかもしれません。貴方の迅速な対応あっての事でしょう」


 二人の医療魔導士がギルドマスターの部屋でオットーから労いを受けていた。若干顔に疲労の色が出ているが、表情は晴れ晴れとしていてやり切った様な感じだった。


「そういえばギルドマスターは症状が出ていませんでしたね、それも神のご加護あっての事でしょうか」


「…あぁ、今はいないがたまたま流れの冒険者の中に腕の良い医療魔導師がいてな。」


「そうだったんですか、さぞ良い腕だったのでしょう。縁があれば会いたいものです」


 二人は明らかに残念そうな目をしていた。日頃忙殺いるであろう、もしかしたら仲間が出来るかもと淡い期待があったのかもしれない。


「…ん、まぁそうだな。会えると良いな」


 瑞樹は当時こんなやりとりをしていたとは知らず、結果的に人生のターニングポイントが他人に委ねられていようとは夢にも思わなかったのである。

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