終幕

結び

 小鳥のさえずりに誘われて目を覚ますと、見慣れた部屋が視界に広がる。これといった私物がない、殺風景な自分の部屋に安心感を覚え、悠雅は深く息を吸い込む。


 日が差し込む窓辺を見れば、四角く切り取られた風景の中に忙しなく行き交う人々の営みと、晴れ渡る青い空にくらりと眩んで目をすがめる。


「いい天気だ」


 柔らかな日差しに思わず心地よくなって、また微睡んでしまいそうになる。すると控え目に、ふすまを開く音。

 何者かと起き上がり、目と目が合う。澄み切った瑠璃色の瞳と。


「元気そうだな」


 無事で何よりだ、なんて続けようとした彼だったが、その言葉は突然の抱擁ほうように引っ込んでしまう。


「良かった、目が覚めたのね」

「……おかげさまで」


 胸の中で白百合が咲き誇る。その可憐に過ぎるかんばせに、悠雅は思わず上擦った声で返してしまった。

 らしくないな、とやや苛立ち混じりに頭掻く彼の左肩に、ほっそりとした白い腕が伸びてくる。指が川を流れるように肩をなぞり、肩口に来たところで止まる。そこから先には何もない。あるべき左腕がない。


 アナスタシアは改めてその事実を胸に刻む。


「困ったことがあったら直ぐに呼びなさいよ? 私には、それくらいしかできないから。この償いは、なんでもするから」

「問題ない、まだ右腕がある。なんだったら教授に義手でも作ってもらえばいい」

「お願いだから、自分が傷付いた事を平気そうに言わないで」


 彼女の真摯な想いに、悠雅は己を恥じた。目の前の少女は本気で己のことを慮ってくれているのだから、無神経な発言は控えるべきだろう。だが、同時になぜだかこそばゆくて、彼は少し笑ってしまった。


「本当にわかっているの?」

「済まない。そう怒るな」


 なかなか笑うのをやめない悠雅にアナスタシアは憤慨して、口をとがらせる。これ以上、笑ってしまえばへそを曲げるのも時間の問題だと思い、彼は無理矢理真顔を作って彼女を見つめた。


「そうだな、俺が笑い飛ばしてしまえばお前の気持ちはいつまでも宙ぶらりんのままだものな。だから、お前に一つ願いがある」


 そう言って彼は彼女の手を取る。


「もう一人になろうとするな。傍にいろ。居なくなるな」


 その一言に、心臓が大きく跳ねた気がして、アナスタシアは胸を抑える。やけに血の巡りが早く、熱くなっていく頬を知らぬ振りして、彼女は問う。


「……それはどういう意味で言っているの?」

「お前は――」


 答えが返ってくるまで、一秒も掛からない。しかし、その一瞬の時間が、彼女には永遠に思えた。

 逸る期待を胸に、彼女が見つめていると彼は薄く笑みを浮かべる。


「俺の大切な人だ。璃奈や教授、お嬢に爺さん。俺の仕事仲間で、友誼で、同胞で、家族。お前もその一人だ」

「……そう」


 落胆した様子で嘆息を吐くアナスタシアは、恨めしげに目を眇めて悠雅を睨む。だが、それでいて口元を緩めて、小さく笑っている。


「貴方はとても良い人。だけど、同時にとてもずるい人ね。女にこんな想いをさせているのに」


 口を尖らせながらも、微笑む彼女は大きく深呼吸して、改めて彼を抱き締める。


「私、貴方が好きよ」


 対する悠雅からの返答はない。ただ彼は、何か耐え忍ぶように口を真一文字に結んで視線を窓辺に投げた。


 すると、再び襖が開け放たれる。翠緑の瞳が悠雅とアナスタシアを行き来して、最終的にアナスタシアを睥睨する。


「どこの破廉恥はれんちさんですか? この阿婆擦れ」

「いつでも先手を打てる位置にいたのに、何もしてこなかった貴女が悪いんじゃない? このノロマ」


 にわかに殺気立つ二人の鬼女であったが、どちらかともなく互いに矛を納め合った。


「それで、病人相手に何をされていたのです?」

「何でもな――」

「私がたった今、フラれただけよ」


 誤魔化そうとした悠雅の発言を上から塗り潰すように、アナスタシアはありのままの事実を伝える。


「意外ですね。貴女は結構脈があると思ったのですが」

「何それ、嫌味?」

「嫌味というよりかは同情に近いかと」

「嫌味じゃない」

「いいえ、同情ですよ」


 何か確信した様子の瑞乃は、布団の上で胡座をかいている悠雅の横に腰を降ろすと、彼の胸ぐら掴み、一気に彼の口元目掛け――しかし、彼の大きな右手が、彼女の顔半分を塞いだ。その右手が一体何を未然に防いだのかは火を見るよりも明らかだった。


「酷い人ですね。女にここまでさせておいて」


 ゆっくり顔を遠ざける瑞乃は、アナスタシアと同じように、彼に笑いかける。どこか晴れやかに。


「なんで揃って笑っているんです? 理解に苦しみます」

「ある程度、予想ついてましたからね」

「まあ、少なくとも今のアンタにそういう余裕がないの、付き合いの浅い私にもわかるし」


 そう言って、意地悪そうに二人は目を細める。


「あんた方は男の趣味が悪い。良い男なら他にごまんといるだろうに」

「そう思わないから行動に移したんですけどね」

「最高の存在である私に釣り合うのは、私にとって最高の男だけよ」

「……自分のことを、最高の存在、とかよく言えますね。頭おかしいんじゃないですか?」

「いきなり胸ぐら掴んで、男の唇を奪おうとする女ほどじゃあないわね」

「なんですって!?」

「なによ!!」


 ついに取っ組み合いの喧嘩をおっぱじめた二人の少女を他所に、青年は沈鬱そうに彼女たちから視線を逸らす。


「……俺は、どうしようもなく穢れている。あんた方は綺麗なんだ。穢す訳にはいかない」


 右手で布団を強く握り締めながら、彼は思い出す。八咫烏ヤタガラスの研究施設で目の当たりにした地獄を。天之尾羽張で斬った、友の姿を。


「俺はみそぎを済ませていない。俺は友を斬った。生き残る為に。英雄にならなければ、爺さんが笑って後を託せるくらいの強い英雄にならなければ、その罪はそそげない」


 それは甘粕を斬ったところで変わらない。むしろ、悠雅にとってそれは始まりに過ぎない。


 斬った友のために。

 見送った友のために。

 これ以上、何も失わないように。


 英雄にならなければならない。強くあらねばならない。


「俺は爺さんの跡を継ぐまで、そういったことは考えられない」


 そう、絞り出すように話す彼の手は、不意に陽だまりのような温もりを感じる。気がつけば、白い細腕が二つ、彼の手を握っていた。


「わかっています。知っていますよ」

「アンタ、そういう人間だもんね」


 彼女たちはわかっている。彼が馬鹿で一直線にしか走れないことを。だから、これ以上彼から言葉を引き出すことはない。彼が望みを果たすのを待つと心の内で決めたのだ。


 とはいえ、女からすれば不誠実の極みのような態度。彼女らの女としての矜持プライドを著しく傷つけたのは変えようのない事実で。


「というかさ、私たち今、男に――しかも七十代のお爺ちゃんに惚れた男を取られたのよね」

「正確には師匠せんせいと男友達にですが」

「どっちにしろ男じゃない!?」

「あーうるさいですね。せっかく考えないようにしてたのに、一々口に出さないでもらえます?」

「だって、実際そうじゃない」

「せめて、そこは夢に負けたって言ってください。でないと、流石に精神的に耐えられません」


 どんよりと肩を落とす少女二人に、悠雅はかける言葉を持たない。その程度には、彼も空気を読める。二人の少女から悠雅は気まずそうに目を逸らすと、小さく溜め息を吐く音がした。


「今更ですけど、目が覚めて良かったです。腕以外でおかしな所はありますか?」


瑞乃が細腕を伸ばし、悠雅の左肩に触れる。


「特には」

「そう、それなら良かった」


 彼女は改めて安堵したように目を細めると、今度はその目をつりあげる。見るからに怒りを感じる形相に悠雅は思わず目をつぶる。


「無茶ばっかりしないでください……!!」

「すみません」


 怒鳴りつける瑞乃に萎縮する悠雅であったが、彼女は止まらない。

 これだけは言わないと、言って理解させないとと、その思い一心で声をはりあげる。


「謝るくらいなら最初からやらないでください!! こう言っても、貴方は今回みたいに次も飛び出して行くんでしょうけどね!! いつだってそう。貴方は私のことを認識しているようでしていない!! 私は貴方の後ろにいるんじゃない。隣にいるんです!!」

「俺はお嬢も守りたいんです」

「私も貴方を守りたいんですよ!! 貴方のためなら死んだって構わない!! 死んで欲しくないんですよ!! わかりなさいこのおたんちん!!」


 剥き出しの激情と共に放たれた辰宮瑞乃という少女の本音は、すとんと、質量を帯びたように悠雅の胸の内に落ちる。


 誰かを守りたい。それは他ならぬ悠雅自身が一番よく知っている感情だ。だからこそ、瑞乃の想いが痛いほどわかる。


 だが、そう思う一方でもう一つの想いが表面化する。


(それは、英雄じゃない……)


 英雄というものは誰かを守り、救う者。守られる存在ではない。

 目蓋の裏に今も焼き付いている。八咫烏から救い出された、あの日に見た光景を。


 力強い背中。この世の何よりも美しい太刀筋。目も眩むような強烈な光。


 それは断じて、誰かに守られるようなか弱いものではなかった。

 故に、彼は答えることができない。答えれば、その道が閉ざされてしまう気がして。


「――急に生き方を変えるって、難しいと思う」


 沈黙する悠雅を見かねたアナスタシアが、静かに零す。


「私も難しかったよ。ううん、今だって割り切れてない。家族を諦めたら、家族のことが、私の中でどんどん軽くなってしまいそうな気がしてさ。だけど、悠雅が止めようとしてくれたように、私も瑞乃も立ち止まって欲しいって思うの。貴方が私に死んで欲しくないって言ってくれたように、私たちも貴方に死んで欲しくないって思っているのよ」


 アナスタシアの白い腕が伸びて、それは悠雅と瑞乃を包み込む。


「……何をするんですか?」

「悠雅の為なら死んでもいいとか言った罰」

「私は――!!」

「誰かを失うのは怖い。あんな思いを誰かに押し付けちゃいけないの。私たちが我慢できないことを悠雅に押し付けちゃダメ。悠雅もそう。自分に我慢できないことを人に押し付けたら誠実じゃない。貴方は、救いたい誰かの中に自分も入れるべきなの」


 温かく、柔らかい何かが、胸の内に蓄積していく。その重みは確実に英雄への道を遠ざけるもの。だけど、彼はそれを捨てることができなかった。


「……善処はする」


 彼はぶっきらぼうに答える。確約はできない。だがそれでも、努力する、と。


「私、貴方たちがとても愛おしいの。助けに来てくれて、私に居場所をくれる貴方たち二人が。だから、いなくならないで欲しい。どちらにも欠けて欲しくない。もう嫌よ、誰かを失うのは」


 運命というものは何が起きるかわからない。殺し合いという、稀に見る最悪な出会い方をしても、今はお互いがお互いを愛おしく想い、抱き合って、笑い合っている人間がいるのだから。


「この国に来て良かった」


 アナスタシアは口の中で呟く。


「貴方たちに出会えて良かった」


 暖かな想いが心の中を満たす。七月十七日から続いていた地獄から今日、彼女はようやく開放された。

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