第3話

 悠雅は最初、ただ恩を返したいと思っていた。だから、死んで欲しくないと思った。恩は返さなければならないものだから。

 だが、気が付けば彼は目で追っていた。

 気高く、強く、そして美しい。それでいて、儚くて、弱くて、優しい。そんな女を。


 一途に家族を想う姿に憧れた。真摯な想いで紡がれる蜂蜜色の祈祷ひかりに焦がれた。

 だから――あの尊い光を守りたい。あの光を閉ざそうとする闇を斬り開きたい。


 一心にそう念じて、悠雅は天之尾羽張を更に深く握る。不意に、全身の全ての細胞が裏返るような、そんな感覚に襲われ、彼は己が願いに深く深く没入していく。まるで、生きながらにして生まれ変わっていくような、さなぎから蝶に変わるみたいな、肉体が進化していく感覚が全身を這いずり回る。

 進化というものは本来時間をかけて行われるものだ。一足飛びで起きる物じゃない。だがこれは、床の底が抜けたみたいに一気に落下していく。祈祷いのりの深度が一気に深まっていく感覚。



 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。

 いのる。



「――輝きは北にあり、切っ先は南を見ゆ。戦塵に走る剣閃一つ。我が刃で焔を切ろう。燃え盛るその肢体から焔を断ち切ろう――」



 かんぬきが抜き取られ、閉じられていた門が開け放たれる。魂から垣を切った水のように祈祷いのりが溢れ、流れ出す。背中から生える緋火色金の剣翼がずるりと抜け落ちる。一枚、二枚と順番に。



「――だからどうか目を閉じないで、私から目をそらさないで。私は置いて行かれたくない――」



 不定形で、ただ漂うだけだった切断の祈祷いのりが指向性を持って、収束する。



「――焔神と交わるは最先いやさきより来たる原初の斬刃――」



 想像する。

 膨れ上がった己の祈祷いのりをひたすらに打ち、鍛え上げる。己を一個の“剣”として鍛え上げる。この国を守る剣。師の意思を継ぐ剣。アナスタシアを救い、守り通す事ができる剣に。


 ただ敵を排除し、切り捨てるのではない。守れるように強くありたいと願い、祈る。



「――神話再現‟八十神・十拳の祝やそがみ・とつかのはふり”」



 そして彼は禍津神まがつかみより、国津神くにつかみに至る。


 怒りはない。ただ純粋に大事なものを守ろうと想う男の姿があるだけ。


 瞬間、赫い斬光が走る。同時に、天之尾羽張としのぎを削っていたコルヴァズが真っ二つに切り裂かれた。

 甘粕は寸でのところでその刃を回避し、改めて目の前に立つ青年を見据える。緋火色金の剣翼は無い。見た目だけを言えば、裏返る以前の彼だ。しかし、その手に握る天之尾羽張に込められた祈祷いのりの深度は桁違い。


 聖性は微塵も無い。さりとて、壮麗にして荘厳。その神威の圧だけでこの世の全て、余さず斬り開かれてしまう様を甘粕は幻視する。


「国津神。第二階梯。そうか、怒りを越えたか」


 深凪悠雅が放つ神威を前に甘粕はひっそりとほくそ笑む。


「さあ、後は純粋な力比べといこうか。なあ、悠雅」


 甘粕の肉体を構成する炎が大きく揺らめき、彼の頭上に熱を帯びた光球が現れる。“ルナパーク”の約八割を吹き飛ばした暴威の顕現に辺りの建造物が熱に耐えきれず歪み始める。

 接近することすら許さない熱量の塊を前に悠雅はただ天之尾羽張を構える。


「行くぞ」

「来い」


 光球が牙を剥いた。

 灼熱の波が怒涛の如く押し寄せ、秒も掛からぬうちに悠雅を蒸発させんと熱を発する。対する悠雅は天之尾羽張を振りかぶる。


 彼は感じている。彼が振るう切断の祈祷いのりは、さらなる高みへと研ぎ澄まされていることを。


「斬る」


 熱波を切り払うように振るわれた天之尾羽張の刃は、虚空を捉え、空間を斬り裂く。

 空間切断。最早、彼の剣に切れぬものは無し。熱波を斬り飛ばし、活路を切り開く。


 それだけでは留まらない。悠雅の莫大な霊力が放出された瞬間、その霊力は赫く巨大な金属へと姿を変える。それは先程まで彼が背中から生やしていた緋火色金であった。

 巨大な緋火色金の塊は光球目掛け放たれ、押し潰しながら墓標のように地面に突き刺さった。


「ああ、いいぞ……それでいい!!」


 壮絶に笑う甘粕の視界一杯に、隻眼の青年の姿が映り込む。


「ぶった斬る」


 神剣を振り下ろす。赫い赫い斬光。煌めいて。生ける炎。甘粕正彦。世界ごと、斬り裂いて。

 赫い血液の蒸気。その向こうに彼岸を見出しながら、甘粕は地面に転がった。


「心地がいい」


 何故か、酷く安堵した声で、甘粕は十字に割かれた空を見上げた。見慣れた夜空ではない、異形の空。しかして、それでも良し、と満足げに鼻を鳴らす。


「……なんで、反撃しなかった? お前なら、反撃できたはずだ。お前はいつだって俺を殺せたはずだ。なのに、なんで?」

「待っていたんだ。お前がここまで来るのを」


 そう言って、甘粕は生ける炎から生身の体へと戻ってきた己の体を晒す。胸部から下を失い、最早生存は絶望的だが、それ以前に瞠目すべき点があった。


 異様に青白い胸板のやや左。心臓があるべき場所に風穴が開いていた。その穴はこの戦いで開いたものではない。かなり時間が経っており、内側の肉が黒く変色して、腐り落ちていた。


「これは……」

妙法蟲聲経みょうほうちゅうせいきょうを回収した時にな。回収には成功したものの、結局俺は死んだらしい」


 薄く笑う甘粕は、あの日、自身の命を摘み取った銃声を思い返していた。凍える西比利亜シベリアの大地を絶命寸前になりながらも、浦塩斯徳ウラジオストクまで駆け抜けた。

 そこから記憶が途切れている。次に目を覚ました時には、寝台ベッドの上で東條を見上げていた。


「東條さんは俺に機会をくれた。蘇り、もう一度英雄を目指すのだ、と。だが、俺は死人だ。死人は還ってきてはいけない。そうでなければ、俺が奪った五十六人の同胞の命は地に落ちる。そんなこと、許容できるはずがない。だから、託そうと思った」


 甘粕は悠雅を見上げて、眩いものを見るように、目を細める。


「お前しかいない、そう思った。あの地獄から生還した人間。たった一人だが、同胞を守り生還してみせたお前ならば、と。だが、お前は弱かった。余りにも力不足だった。この七年何をしていたのか、と大いに落胆した。同時に死に場所見つけた」

「……蠱毒の続きか?」


 その言葉に甘粕は小さく頷く。


「永倉新八の乱入で、時が止まったままだった蠱毒の儀。その続きをすることでお前を強くしようと思った。願掛けには丁度良かったろう?」

「下衆め」

「だが、託せた。俺を含む、九十八人分の魂を」


 甘粕は続けて、悠雅にこんなことを問うた。


「魂はどこにあると思う?」


 いつか甘粕が口走った言葉。悠雅にとっては最も忌まわしい記憶の象徴であるその言葉に対して、彼は答えを持っていなかった。


 答えが見つからない悠雅に、甘粕は答えを教える。


「俺たちの心の中だ」

「お前も冗談を言うんだな」

「そうでも思わなければ、罪悪感に押し潰されていた」


 甘粕はこれまでにないくらい、笑みを深める。それも、超然さの欠けらも無い、実に人間らしい笑顔を見せて。


「あいつらが守れなかったものをお前が守ってくれ。俺は、偉そうなことを言って、守れなかった。お前なら、きっと奴らも満足するだろうさ」


 甘粕は最後に黄金の双眸を太平洋に浮かぶ、巨影を見据える。


「行け。あの怪物を殺せば、お前の蠱毒の儀は終わる。そして、お前は晴れて英雄だ」

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