第6話

 激痛に呻きながら、アンナは目を覚ました。鋭利な刃物で付けられたような切り傷から血液が首筋を伝い、体中にぬらりと黒い粘液が張り付く。平時であったなら顔をしかめていたことだろう。しかし、彼女はそのことについて一切不満を漏らさない。そもそも、気づいてさえいなかった。


 頬を焼けるような熱が掠める。雪が降り積もっている筈なのに、辺り一帯だけ雪が溶け、深い霧が立ち込めていた。にも拘らず、視界が明瞭なのは、何か得体の知れない金属の塊が引き裂いていたからだ。


「悠雅……?」


 自分が気を失っている間に何があったのか? 呻く彼女の眼には悠雅と、彼の背中の肉を食い破って翼を広げるように、遥か彼方の天空を穿つ四対、計八本もの赫くギザギザとした金属の塊が映る。それと同色の、眩くも禍々しき円光を背負う彼のその威容は神仏のようで、だが、アンナにとってもっと身近な物に酷似していた。


「てん、し?」


 基督キリスト教縁の聖像イコンに数多描かれる、複数の翼を生やした人型の生物。天の御使いとして描かれる彼らと、今の悠雅の姿がどうしてか、重なる。

 さりとて、その神威は神仏にも天使にも程遠い。最早対極とも呼べる代物で、アンナは干上がる喉が張り付く。


「嗚呼、おぞましき剣翼よ。顕現しただけで微塵に切り刻まれそうな神威を感じるぞ」


 アンナの傍らに立つ褐色肌の男が口の端を上げる。その様子はどこか満足気で、彼が酷く機嫌良さげなのが見て取れる。

 そんな彼は傍らに座り込むアンナへと視線を落とした。


「ご覧下さい。あのおぞましくも神々しき御姿を。彼の背より生れ出ずるは緋火色金ヒヒイロカネ。彼に相応しい力でありましょう?」

「アンタ、誰よ……? アンタが悠雅をあんなにしたの!?」

「あんな、とは酷い言い草だとは思いませんか巫女殿? 彼は御身を救おうとして裏返ったのですから。そのようなことを言っては、彼が余りにも不憫というもの」


 薄ら笑いを浮かべるその男に、アンナの怒りは頂点に達する。彼女は男の胸倉を掴んで怒鳴る。


「悠雅に一体何をしたの? 何が起きたというの? 答えなさい!!」

「神格が反転するところを見るのは初めてですかな?」

「……反転? 反転って何?」

「ああ、そちらではこう言うんだったか。彼はね、堕天したのですよ」


 アンナはその場からすぐ様飛び出そうとして、踏み出すことができなかった。熱を帯びた荒れ狂う暴風と総毛立つほどの濃厚な殺意が乱舞して、足がすくんでしまったのだ。


 堕天とは天使の堕落を意味する。だが、こと現実において、その意味合いは少し異なってくる。それは天使の堕落ではなく、霊力の過活動――いわゆる祈祷いのりの暴走に他ならない。

 感情の臨界を越え、上位階梯への不正登攀とうはん


「堕天使。この国では“禍津神まがつかみ”と呼ばれている、正真正銘の化け物だ」


 瞬間、強烈な熱風が吹き荒れ、緋火色金の剣翼がぐらりと傾くと、恐るべき速度を以て水平に薙ぎ払われた。それを対峙する甘粕が受け止める。が、彼の体は容易く吹き飛ばされ、操車場を転がった。

 その様子を褐色肌の男がニヤニヤにやつきながら眺めて「中々やるじゃないか」なんて、さらに満足げに頷く。


 そうしている間に甘粕が砲弾のように悠雅の元に舞い戻る。


 コルヴァズの青銅の刃と天之尾羽張の赫銅しゃくどうの刃が鎬を削り、火花を散らす。甘粕の腕が小刻みに震え、全霊の膂力が込められていることが一目でわかる。対して悠雅のそれは微動だにしない。まるで凍てついているようだ。


「今のは流石に驚いたな」


 超然とした態度だった彼はここにきて、実に楽し気に破顔してみせた。甘粕は天之尾羽張を払い除け、一太刀浴びせる。血煙が舞い、彼の青白い頬がまだらに赤く染まった。


 肩口から下腹部にかけて裂かれた悠雅だったが、彼は顔色を全く変えず、薙ぐように天之尾羽張あめのおはばりを振るう。

 首目掛け殺到する凶刃に、甘粕はコルヴァズでいなそうとするも、圧力に耐えきれず宙を舞うことになった。そのまま集装箱コンテナに叩きつけられた彼は、禍津神へと裏返った悠雅を見据える。

 まだ、来る。そう予感した彼に強烈な熱風が吹き付ける。


「■■■■■■!!」


 およそ人体の発声器官では出しえない声で悠雅が叫ぶと、一枚の剣翼が熱を放ちながら一つの物体を作り上げる。

 それは鳥で言えば翼に生える羽と言うべきもの。剣翼と同様にぎざぎざと歪な形をした緋火色金の刃が産み出される。その刃は莫大な霊力が込められ、赤熱し、熱を発していた。


「これが、切断の祈祷いのりだと? 俺の目には少し違うものに見えるが。どうなんだ、悠雅?」


 答えはない。返ってくるのは甘粕への殺意と、きりきりと金属が擦れる音のみ。


「これは、少しまずいか」


 甘粕は刃と剣翼が奏でる金属音に剣呑さを気取り、手印しゅいんを結ぶ。


黒蛭子ショゴスども、俺を守れ」


 回避は間に合わぬ、と甘粕は大量の黒外套を召喚する。その数、およそ百。黒外套たちは一斉に質量を増大させながら融合していく。やがて、甘粕と悠雅の間に黒い城壁とも言えるほど巨大な黒外套の壁が出来上がる。


 直後、刃が放たれる。三鞭酒シャンパン木栓コルクの如く、内圧によって押し出されるように、刃が射出された。


 黒い城壁と赫い暴力が激突すると、目も眩むような光が操車場全体を照らした。

 その光景を見ていたアンナは咄嗟に磁力を用い列車を盾にし、光の後を追いかけて来た衝撃に備える。が、余りにも強烈な衝撃に意識が吹き飛びかけた。


 光に焼かれてまだらに滲む視界が定まった頃、彼女の目に飛び込んできたのは、赤熱して溶解するほどに焼かれた軌条レールや列車。そして、陥没した地面。その規模、実に広大な操車場の三分の一。最早、普通の現人神が個人で振える力ではなかった。


「こんな力を使っていたら……」


 ぼたり、と液体が零れ落ちる音。粘性を帯びた重さのある音。アンナが異形になり果てた悠雅を見つめた時、微かに聞こえたその音はじんわりと地面へと沁み込んでいく。

 過活動する霊力が体組織を破壊し始めたらしい。彼の口や鼻からは夥しい量の血液が流れ落ちていた。


(このまま放っておいたら本当に死んじゃう!!)


 堪らずアンナは踏み出す。熱風の中を出鱈目に飛び交う殺気に、思わず凍り付きそうになる足を彼女は強引に動かす。


「今の彼に近づけば死ぬぞ?」

「脇がつべこべ言わないで」

「御身に死なれると困るのだがね」


 そんなことを言いながら褐色肌の男がアンナの腕を掴んだ。


「離して下さる?」

「承服しかねる」

「離しなさい。私はこれ以上、家族を、友達を、失うわけにはいかないの!!」

「よく吼えた、小娘」


 アンナが男の手を振り払った瞬間、彼女と男の間を遮るように、一人の老爺が落下してきた。

 永倉新八。露西亜ロシア帝国を切り敗った男。大日本帝国を護った男。皇国の英雄。

 彼は浅葱色のだんだら羽織を翻して、腰に差した名刀・手柄山氏繁てがらやまうじしげを抜き放つ。


「ずいぶんなことをしてくれたな、東條とうじょうよ」

「とうじょう?」


 アンナは呻くようにその名を口にする。


「じゃあ、まさか、この男が……東條英機とうじょうひでき?」

「いかにも麗しきお嬢様クラスィーヴァヤ ディェーヴシィカ。私が東條英機にございます。お見知りおきを」


 驚きの声を上げる彼女に、褐色肌の男が恭しく頭を垂れる。仮面の様に張り付けた笑顔で。


「到着が思いの外、早かったようで。流石に禍津神の顕現には気づいてしまいますか。しかし、中々良い逸材のようですな。あれほどの力、制御することができればこの国を守る良き剣となってくれるでしょう」

「今すぐその軽薄な口を閉ざせ東條」

「褒めているのですよ、貴方の教え子を。ああ、しかし、まだまだ未熟に過ぎる。技も祈祷いのりも。未だ甘粕に及ばな――」

「黙れと言うておる。貴様に発言権を与えた覚えはない」

「おお、怖い怖い」


 カラカラと笑う彼は褐色の顔に三日月を浮かべ、妖しく輝く緋色の瞳で新八を射抜く。

 そこに飛び退いてきた甘粕が合流を果たす。


「この辺りが引き際か。帰るぞ正彦」

「巫女を攫わなくてもよろしいので?」

「今は英雄殿と正面から立ち会うわけにはいかないのだよ」

「逃がすとでも思っているのか?」

「逆に問いましょう。追えるとでも?」


 殺気立つ新八に問い返す東條は熱風を纏い、たどたどしい足取りで甘粕を追う悠雅を指さす。

 気がつけば皮膚が破裂して、血みどろの状態で彼は呻いていた。


「大切な教え子が苦しんでいるというのに、私などにかまけていてよろしいのですか?」

「……覚えておけよ、東條」

「覚えておきますとも」


 東條は懐から、古めかしい一冊の本を取り出す。カビ臭く薄汚れたその一品が放つ魔性を感じ取ったアンナは、その古書こそが自分の探し求めていた妙法蟲聲經ネクロノミコンであることを確信する。

 そこから先はもう、本能の赴くままだった。悲願達成への足掛かりがようやく見つかり、思考が吹き飛んでしまっていた。妙法蟲聲經ネクロノミコンを開く東條の下へと走り出す。

 もうすぐ、もうすぐ、また会える。アンナの頭の中はそれで一杯になっていた。瞼に焼き付いた、両親と姉たちと弟のほほえみ。しかし、その遠い昔日に微睡むアンナを切り裂くように、緋火色金の刃が飛来してくる。


 それはアンナと東條の間を分かつように突き刺さり、熱を放つ。それ以上先には行かせないと、暗に示すように。

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