第四幕『袂別《べいべつ》』
第1話
「ずいぶんとひどい顔をしてるなー」
目蓋に光を感じて目を覚ますと、真上から間延びした声が降ってきて、悠雅は紅蓮の右目をその声の主に向ける。窓辺にどっかりと座り、ご自慢の
「教授……アンナは?」
「最初にそれ聞いてくるか。らしいっちゃらしいけどな」
けらけらと「あほやなー」なんて揶揄する真琴は、
「無事さ、ピンピンしてる。今は疲れて寝てるがね。んなことより、昨日はずいぶん大暴れしたらしいじゃねえの。お前、自分が何やったか覚えてる?」
「……大まかには」
「ん、なら良い。嬢ちゃんたちに感謝しろよ? あの嬢ちゃんたち、お前を治療しながら血を分けてくれてたんだからな」
その言葉を聞いて悠雅は驚いた顔つきを見せる。
「アンナにもお嬢にも、ずいぶん迷惑をかけたらしい。もちろん教授にも」
「はあ? なんで俺?」
「輸血の設備を用意できるのなんて教授くらいでしょう」
なんて、部屋の隅にまとめて置いてある医療機器に向かって顎をしゃくる。
「俺のことは気にしなくていいよ、それこそ輸血の準備しかしてないしな。触診にかこつけてお前の体も色々調べられたし、逆にありがたいくらいさ」
そんなことを嬉々として語るその男にじっとりとした視線を向けつつも、返礼がその程度のもので良いのだろうか? なんて、悠雅は考える。すると、その心の内を見透かしたように真琴は呆れ返って、嘆息を吐いた。
「お前も難儀な性格してるよなあ」
「そんなつもりはないんですが」
「いいや、してるね。お前の考える“借り”ってのは尋常じゃなく重いよ。重すぎておじさん引くわ」
「俺が生きていられるのは皆の御蔭です。だったら、それに釣り合う働きをしなければ、生きている資格がない」
「その為なら命を
「別に俺は
「そういう意味じゃねーよ、ばーか」
やれやれとうんざりした様子で真琴は退室していくと、入れ替わるように新八が入ってきた。
「教授が説教とは珍しいな」
「聞いてたのか」
「普段研究するかへらへらと飲んだくれているからな。思わず聞き入ってしまった」
酷い言われようだが、悠雅も内心同意していたので特に反論はない。
「それで、昨晩の傷は痛むか?
「痛みはないよ。というか、また幼名で呼びやがったな、このクソジジイ」
「それだけ吼える元気があるなら問題なさそうだ」
新八は大きく笑い飛ばすと、本題だとばかりに表情を引き締める。
「昨晩、裏返ったのは理解しているな?」
悠雅は無言のまま頷き、「悪かった」と一言、消え入るように呟いた。
「仕方あるまい。相手が
「それでもだ。俺が暴れたせいで爺さんにもアンナにも迷惑をかけた。きっと今頃、工業地帯も操車場も大騒ぎだろうし」
「そこはそれ、話は付けてある。そもそも、あの男に好き勝手させている軍に問題があるのだからな」
そう言って頬を緩める新八の顔を見ていられなくて、悠雅は目を伏せる。それは、永倉新八という英雄の威光があってこそまかり通る論理だった。つまり、悠雅一人だったなら罪に問われていた可能性もあったわけで、彼はここでもを新八に救われたということになる。
なんと情けなく、なんと不甲斐ない。彼は罪悪感の余り衝動的に首を裂いてしまいたくなった。その衝動を押し隠そうと歯を食いしばる。
「お前はつくづくアレな性格をしているな。まあ良い、話を戻すぞ」
「何だよ?」
「お前は昨晩裏返り、禍津神に反転した。一度裏返るとな、安全弁が壊れるのかわからんが裏返りやすくなる。だから、これからしばらく、
胸に刻めと言わんばかりに鋭い紫水晶の瞳に、悠雅は頷いて応える。
「それじゃあ、次は説教だ」
「勝手に警邏に行ったことか?」
「わかっているなら何故行った? 瑞乃嬢たちは止めようとしたらしいじゃないか」
腕を組んで睨む新八から、悠雅は思わず逃げるように視線を逸らしてしまう。瑞乃やアンナが止め、新八が怒る理由もある程度は察せられる。だが、悠雅にも譲れぬものがある。
「俺は甘粕を逃してしまった。黒外套を操り、人々を苦しめているあの男を。一刻も早くあの男を滅しなければ、また被害者が出ると思った」
「だから、行ったと?」
悠雅は首を縦に振って肯定する。そんな彼を見た新八は小さく溜息を吐くと、拳を固く握り込んで悠雅の脳天を打ち据えた。
「お前の主張に理解がないでもない。だがな、せめて私にでも教授にでも良いから報告しろ。我を通すならば、相応の行動を取れ」
「……はい」
「次は無いぞ?」
「わかりました」
肩を落として項垂れる悠雅に怒気を削がれた新八は、拳を解いて彼のざんばら髪を撫でる。
「まあ、お前がやったこと、一から十まで叱るつもりはない。昨晩お前たちが救った少女たちが無事を目を覚ました、と先ほど瑞乃嬢から連絡があった。お前が行かねば救えなかった命だったかもしれぬ。それだけは褒めてやらねばな」
尊敬する師に撫でつけられる悠雅は口を真一文字に結んだままだった。結局、彼は何もしていない。攫われたアンナを助け出そうとして、裏返って、操車場で大暴れしただけだった。
そんな己が賛辞されて良い筈がない、と静かに苛立つ悠雅はこつんと額が小突かれる。見上げると新八が木刀を差し出していたのだ。何度も血豆を潰して黒ずんだ柄が目印の、悠雅愛用の木刀を。
「起きろ。久しぶりに稽古をつけてやる」
薄く弧を描いた紫水晶の瞳が悠雅に向かって落ちてくる。決して乗り気というわけではなかったが、彼は木刀を強く握り返した。おぞましき記憶に囚われた己を斬るには丁度良かろう、と。
◇◇◇
――陽の光に照らされた道場内を舞う埃が乱反射していて美しい。
木刀を構えた悠雅の前に立つは老剣士。対峙するだけで彼は総毛立って、空気が張り詰めていくのがわかった。手にするはただの木刀であるが、こちらを斬殺せんという気迫が
「病み上がりだ手は抜いてやる」
「要らない」
突っぱねて、悠雅は踏み込む。上段から、新八の脳天目掛け、力いっぱい木刀を振り下ろす。
戦場において速力は何よりも尊ばれる。謀略のみならず白兵戦でもそれは同じだ。
しかし、新八は悠雅の木刀をあっさりと
悠雅は床板を思い切り踏み込んで跳躍する。彼にちゃちな小細工は向いていない。相手が格上だろうが格下だろうが平等に正面突破する。しかし、「踏み込みが甘い」その一言と共に新八は悠雅の木刀を弾く。
直後、悠雅は手首を掴まれ、六尺(約一八〇センチ)弱ある体が縦に回転。そのまま背中から床へと落下する。
「つぅっ……!」
「早いし力強い。ちゃんと教えを守った良い剣だ。だが、相変わらず真っ直ぐすぎるな、お前の剣は」
遠い。深凪悠雅はそう思った。昨晩、
強くありたい。強くあらねばならない。そう強く願う彼にとって、無様な敗北は罪と同義だった。
「……いつになったら強くなれるんだ、俺は」
「そう卑下するな。私は言ったはずだぞ? 良い剣だ、と」
「勝てなきゃ意味がない」
「そんなに勝ちたいなら、とっとと立ち上がって私から一本取って見せろ」
「言われなくても!!」
再度、新八に挑むべく木刀を握りこむ。
短い呼吸と共に、悠雅は床スレスレの低姿勢から
「流石の圧だ。並の人間なら圧だけで吹き飛んでしまうだろうな」
「なら吹き飛んでいないアンタはなんなんだよ!!」
「そら、文句を言ってないでさっさと来い。手を抜くなと言ったのはお前だぞ」
新八の言葉と共に、悠雅は木刀を振り被る。それを新八は僅かに体を逸らすことで回避してみせた。新八は速く、そして上手い。腕っぷしは体格に恵まれた悠雅の方に分があるが、新八ほどの力量があればそれは全く意味を為さなくなる。
「ぐぶっ――」
すり抜け様に胴を打ち込まれた悠雅は鈍痛に呻くも、床板を踏み込み、袈裟に木刀を振り下ろす。しかし、それも受け流されてしまう。
だが、今度は反撃される前に、新八との間の距離を更に深く詰める。相手の間合いよりもさらに深い懐の中であれば得物は振り下ろしにくい。そこを渾身の力を込めた左薙ぎで胴を打ち据える――筈だった。
ごりっという鈍い音が頭の中で反響する。悠雅はそのまま床に叩き付けられた。
「反撃される前に更にもう一撃加えるというのと、懐に入るという考えは悪くない。が、弱点という物はあらかじめ対策しておくものだ」
新八はそういって木刀の柄をこれ見よがしに見せつけてくる。
「クソ、今のは巧くいったと思ったのに」
「お前の剣は良くも悪くも馬鹿正直過ぎる」
「馬鹿だから搦め手なんか使うなって言ったのジジイだろ?」
「まぁ、そうなんだがなぁ。もう少し考えるのも大事だ」
新八は頭を掻きつつ「それでお前の良さが失われたら本末転倒なんだが」なんて少し苦く笑った。
「……悔しいな」
「その気持ちがあるのなら大丈夫だ。お前はまだ強くなれる」
そうだろうか、と悠雅は疑問符をつけたくなったが、他ならぬ恩師がそう言うのなら望みはまだあるのだろう。
「――おーい、
「もう、そのような時間だったか」
ふらり顔を覗かせる真琴の言葉に新八は思いだしたように相槌を打つ。
「稽古を終わらせるとしよう」
「依頼か?」
「いや、もっとめんどくさい連中だ」
新八は項垂れながら「最近の役人は好かんのだがなあ」などとボヤきつつ、心底嫌そうに渋面を晒して踵を返した。
「今日ゆっくり体を休めよ。昨日のように大暴れすれば我が奥義、龍飛剣が炸裂すると思え」
悠雅はそう言い残した老爺の背中を見送りつつ、そのまま道場の床に寝転がった。
悠雅は“強さ”に執着する。強ければそれだけ守れるものが増えるから。民を守る、国を守る英雄になるには、まだ足りない。
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