君の隣に立ちたくて ― Challenge of 海幸彦 後編



「お爺ちゃん、何か面白いものでも見えるの? 例えば、テメーが絶望のどん底に追いやった魔女とか?」


 喧嘩腰にメチャ子が声をかけると、その者はゆっくり首を捻り配達員の方へと向けた。水着の少女がいきなり目前に立ったというのに、その瞳には感情の起伏など欠片も見当たらなかった。野生動物のように澄みきった瞳だった。

 目と目があった時、ようやくメチャ子はそれ気が付いた。斜に被った帽子の下、老人の左目が眼帯によって覆われている事に。


 暫しの沈黙を経て ――低く重い、サバンナに轟く雷鳴よりも圧のある声が老人の罅割れた唇から紡がれた。


「あんなものは絶望どころか不幸にも入らん。娘よ、お前は自らが用いた言葉の意味すら知らぬようだな」


「ヒデェ言い草! アンタ誰なの、何の目的があって人に呪いをうつす?」


「さて、数多ある名の一つを上げるなら、ヴォーダンでよかろう。自由のみを友とし、放浪に捧げたこの命。特に目的などないが…強いて言うなら、旅の道程で目に付くゴミを拾い集め、その用途を探している。お前が呪いと呼ぶゴミを」


「ん? え? 呪いがゴミ?」


「左様。人が生きていく上でどうしても出てしまう心のゴミよ。お前らにとっては世界を壊し汚すだけの不純物だが、その一つ一つに因縁があり、暗き物語がある。愛しいものよ。縁深き者ならその呪われた歌を継ぎ、続きを描けるやもしれぬ。ワシはな、歌の続きを聴きたかった。誰もが忘れた古き唄の続きを…」


 しわがれた声に微かな悲哀を感じ取り、メチャ子はたじろいだ。何だか回りくどいし、呪いを「愛しい」などと言われても困ってしまう。しかし、思っていたほど悪意に満ちた相手ではなさそうだった。メチャ子は少しでも探りを入れて情報を聞き出そうとした。


「縁深き者が呪いを継ぐって言った? あのさ、アモが呪いを受けたのは彼女に因縁があったからだって…そういう意味かな?」


「本人はそれを知らなかったようだが…な。あの家系は古き歌姫の末裔、雨乞う巫女の一族だ。長く雨が降らぬせいで火あぶりになった先祖が、恋人を想い、死の間際に残した怨念。それこそが、あの呪いの正体」


「そんなの、アモには関係ないじゃないの! お願い、もし貴方に出来るなら彼女を苦しみから解放してあげて!」


「ワシにものを頼みたければ、まず自分がそれに相応しい人間だという事を証明してみせろ。それが戦士の流儀、我らの流儀だ。手順を踏まぬ身の程知らずにくれてやる慈悲などないわ。ワシに意見できるほどの知識か武勇をお持ちかな」


「知恵はともかく、武の方なら」


「そうこなくてはな!」


 老人はメチャ子から目線を逸らし、丘の下はるか遠くに小さく見えるパーティー会場を杖で指し示した。その口は愚弄とも、享楽ともとれる歪みが浮かんでいた。


「お前の仲間たちが車で此処に向かっているようだな。足元がぬかるんだこの状況では到着まで10分以上かかるだろう。そこでだ」


 ヴォーダンを名乗るこの老人は、どうやら己の尺度でメチャ子の器量を測ろうとしている様子だ。つまりは「私の試験を受けろ」と。このタイプは金でも脅しでも信条を曲げさせる事など出来ないだろう。杖の先でパンパン掌を打ちながら、老人は試練の話を続けた。はめた真っ白な手袋がやたら目に付いた。


「奴等の邪魔が入るまで『ワシをこの場へ足止めが出来たのなら』お前の願いをきいて託宣をくれてやろう。いくら何でも全員を殺すのは忍びないからな。試練を諦めたのなら降伏はいつでも受け入れてやる。途中で死ねばお前の負け」


「荒事でも何でも、貴方を逃がさなければ良いのね? やってやろうじゃない。縛り上げちゃおうかな?」


 身構えたメチャ子を目にして、ヴォーダンは腹を抱えて高らかに笑った。


「勘違いするな。ワシと戦うのではない。もっと良い相手が居るぞ。その儚い命を燃やし尽くし、高潔ないくさの輝きでワシを魅了してみろと言うのよ。イタリアでの一部始終は拝見させてもらった。白き武勲の歌がお前には似合いそうだ。太陽のごときお前の歌を、ワシの集めた呪いが塗り潰せるか…ふふふ、興が乗ってきた」


「なーに? アタシにも呪いでもかけようってのかな、お爺ちゃんは」


「応。お前と縁深き呪魄、我が胸中に確保せり」


 ヴォーダンが右の手袋を外すと、その下には石炭よりもドス黒い変色した手があった。黒い霞のようなものが五指から立ち込め、手の甲にはNの字に似た文様が青く発光していた。狂戦士めいた野太い蛮声をあげながら、ヴォーダンは黒い握り拳を地面へめり込ませた。


 大地そのものが命を得たかのように、二人の立つ丘が激しく揺れた。

 老人が拳を撃ち込んだその箇所に土の隆起が生じ、その盛り上がりはジグザグ左右に走りながらメチャ子へと向かってきた。潜む者がモグラだとしたら、地下を蠢くそれは人よりも遥かに大きな化け物だ。やがて泥を跳ね飛ばしながら、怪物が土を破って姿を現す。


 天までそびえんばかりに鎌首をもたげたそれは、妖怪と呼んでも遜色ない大百足であった。しかし、その形状も束の間のもの ――百足はメチャ子の眼前に頭から突っ込んだかと思えば、着地するなり形を崩して黒いガスのようなものへと変化した。煙玉が爆ぜたかのように、触れただけで怖気をふるう邪気が周囲へ立ち込めた。

 そのガスが一点へと収束し、不定形で粘着質な闇は別の姿をとろうとしていた。形を成した敵を目にしてメチャ子は声を張り上げた。ヴォーダンは笑って解説をいれた。


「ア、アンタは! 何で此処に!?」


「見覚えがあろう? 精霊ソウルレスの娘。ワシをも含んだあらゆる神性存在の大元ルーツらしいな。さあ、歌の続きを聴かせてくれ。それとも ――ここで人生の幕となるか」


 驚かずにいられようか。ヴォーダンの言ったその縁、メチャ子には思い当たる節があったからだ。彼女の前に立ったのは獅子の頭を持ち、背中からワシの翼を生やした巨躯の獣人。

 かつて竜宮を襲い秘宝を奪った太古の邪神。アンズーそのものだった。


 しかし、アンズーとは一時敵対したものの後に和解を果たした。コイツが本人ならメチャ子を前にして何らかの反応を示すはずだ。話しかけても応答は無し。命令を待つ人形のように立ち尽くしてなどいないだろう。そして先ほどの百足から獣人への矢継ぎ早な変わり身。導き出される答えなんて一つしかなかった。


「お察しの通り、アンズー本人ではないぞ。ただの呪い。彼が北極の地に残した憤怒の残りかすといった所だ。ああ、だからといって手を抜くなよ。実力は全盛期のものと大差ないはずだから」


 ヴォーダンの言葉がメチャ子の希望を打ち砕く。もし、相手が単なる影であるなら…あの強敵と再度戦わずに済んだというのに。竜宮襲撃時に一度拳を交え、メチャ子は手痛い敗北を喫していた。


「ふん、リベンジのチャンスをくれるっていうのね」


 気後れなどしていられない。本物と同等なら少しでも後手に回れば…。

 だが、敗戦の苦い記憶が僅かにメチャ子の出足を遅らせた。躊躇した間隙を縫ってアンズーは天へと吠え、高々と右腕を頭上へ掲げた。彼が得意とするのは雲と雷を操ることだ。


 至近距離に落雷があった。―― 全てを白と黒に染める閃光が走り、コンマ一秒だけ後から轟音やって来る。鼓膜破りの大音量にメチャ子は気を失いそうになった。クラクラする頭で必死に状況を整理しようとする。


 ―― なに? 近すぎてわからないけど、どこに雷が落ちた? まだ死んでない、外したの? とにかく攻めなきゃ。


 閃光で目がくらみ、耳鳴りが止まぬ中で腰の引けた反撃。メチャ子の跳び蹴りが棒立ちになったアンズーの胸板にヒットした。しかし、キックが当たった瞬間、剥き出しの足に電流が走って彼女は後方へと弾き飛ばされた。彼女が描いた放物線は豪打をくらった野球ボールのような軌跡だった。


 さきほど稲妻が下ったのはアンズーの肉体。些細なミスではなく、自身が帯電することで常人には触れることすらかなわぬ障壁を作り上げたのだ。アンズーは嵐を司る太古の神、雷を武器とする力を持ち、今回はそれを鎧と変えた。落雷をその身に取り込んだ獣人は全身を黄金色に輝かせていた。


 電撃に弾かれホームランボールと化したメチャ子は水溜まりに肩から突っ込んだ。全身が痺れ、視野が明滅する。アイツと戦う事が判っていれば絶縁体の防護服ぐらい用意したのに。ビキニの水着一丁で戦う羽目に陥った挙句、降雨のせいで泥まみれになるとは。今日はきっと仏滅に違いなかった。


「もう終わりか? 参ったでも良いぞ、それとも死ぬか」


 高見の見物を決め込むヴォーダンの呑気そうな声が耳障りだった。

 ひとの人生を弄んだ輩に降参なんぞしない。メチャ子はそう決めていたし、今日という日が決戦に選ばれたのは、何から何まで全てが不運尽くしというわけではなかった。


 だって今日なら助っ人が呼べるのだから。

 メチャ子は荒々しい叫びと共に痺れる体を無理やり立ち上がらせた。彼女の角には婚約者から贈られたペアリングがはめられていた。一つはメチャ子に、もう一つは海幸彦の角に。

 メチャ子の角飾りに埋め込まれた大真珠が、着信を告げる携帯よろしく光っていた。彼女はそれに優しく指先で触れ、マジックアイテムを発動する定型句を唱えた。


「おいで、愛しい人よ」


 角飾りから一条の白煙が立ち昇り、メチャ子の傍らに集まって小さな雲の扉となる。その雲から鉄砲玉のような勢いで飛び出してくるものがあった。


「アンズゥううう、てめぇーーーー!」


 召喚された海幸彦は親の仇でも目にしたような調子で、アンズーに挑んでいった。ハーフパンツ型の水着一丁だが、その手には竜宮から持ち出した如意棒のレプリカが握られていた。本物同様に伸びたり縮んだりする為、孫悟空さながら耳の穴へ収納可能なのだ。


 メチャ子が止める間もなく、海幸彦は如意棒で殴りかかっていた。硬質化した翼を盾のように用い、アンズーは一撃を受け止める。電流の障壁によって、再現映像のように海幸彦も弾かれてしまう。しかしメチャ子と海幸の違いは、彼が列記とした龍の一族で並外れた耐久力の持ち主だった点である。


「…ッ! 効くかぁ、こんなモン!」


 高圧電流に晒されて尚、微塵も闘志を失っていなかった。弾かれて着地するや否や、彼は再びアンズーに打ちかかっていった。いや、その結果は耐久力の差だけで生じた差異ではない。

 決戦のサバンナにはアモの呪いによって雨が降り続けていた。帯電を示すアンズーの光が、先よりも明らかに弱まっていた。空中へ放出される分は勿論、水を伝って地面へも電気が散っているのは明白だった。地の利はむしろメチャ子達にあると言えた。


「へへへ、どうした? 痛みビリビリが和らいできたぞ」


「………」


 数度打ち合っていると、軽口を叩く余裕を海幸彦が見せるまでになった。アンズーは応じようとしない。所詮は呪いの具象化。本人ではなく、生き物であるかも怪しい存在だ。


「油断しないで! 稲妻でチャージした直後は、一発で動けなくなるよ」


 メチャ子が警告しながら、己の痺れ具合を確かめた。太ももを揉み摩ってやると、痙攣が幾らか収まってきた。もうすぐ加勢できる。二対一ならあの怪物が相手でもどうにかなるかもしれない。けれど…海幸彦はそれを歓迎しないだろう。




 竜宮の道場で角飾りのギミックを説明しおえた際、海幸彦は言った。


「もし、姫がピンチになって俺が駆け付けることになったら…その時は自分の安全を第一に考えてくれないかな。俺に任せて逃げるくらいでいい」


「なんでよ? そんな薄情なこと…出来るわけがないでしょ」


「竜宮が陥落したあの日以来、よく夢を見るんだ。俺が負けちまったせいで姫が死んでしまう夢を。目が覚めると自分が許せなくなる。俺は何の為にこの世に生きているのかって…」


「…海幸彦。でもさ、もしアンタがアタシのせいで死んでしまったら、今度はこっちが同じ悪夢に苦しむ事になるんだけどね」


「そうはならねーよ。だから俺を信じて…逃げてくれよ。頼むわ」


 あの時は黙って頷くしかなかった。けれどこれは、いまやっている闘争は、メチャ子から首を突っ込んで売られた喧嘩だ。アモの為に、メチャ子自身の意志で戦っているのだ。彼に任せて逃げられるわけがなかった。


 メチャ子は尚しびれる太腿を拳で打ってカツを入れると、大地を蹴って走りだした。



 ――――――



 激闘の最中、ふと我に返った海幸彦が視線を巡らせると…戦場にもうメチャ子の姿は見当たらなかった。よしよし、彼は独り満足した。約束通り姫は逃げおおせたようだ。


 ―― そんなら、あとは俺がコイツを葬るだけだな!


 メチャ子が逃げたのなら海幸彦も角飾りのギミックを用い、後を追って脱出するという選択肢もある。賢明な読者諸兄ならそうお考えかもしれない。だが生憎、角飾りの効果は一日一回までだった。

 まして、彼の前に立つのは因縁の敵アンズー…屈辱を味わされた張本人が相手ときては、逃げることなんて頭を掠めもしなかった。海幸彦が死ぬか、リベンジを遂げるか、どちらかだ。


「いくぜぇ! オラァ」


 雄叫びをあげて海幸彦は決着をつけにいった。

 真正面から無策に殴りかかる…寸前までそう見せかけておきながら如意棒で足元を突き、そのまま伸ばした。それによって海幸彦の体は上空へ持ち上げられ、相手を飛び越して背後をとれるという寸法だ。即座に棒を縮めれば棒高跳びと違って得物を手放す必要もなかった。


 闘技場で最も効果的だったのが、こうしたトリッキーな動きだ。事前に如意棒の伸縮を見せていなければ、相手は何が起きたのかも把握できずに幻惑される。

 今回もアンズーは無防備な背中を晒すだけで海幸彦の動きをまるで追えていなかった。


 いける。そう確信して如意棒を振り下ろすも、渾身の一撃が打ったのはサバンナの泥に刻まれたアンズーの足跡だけだった。そう、海幸彦は失念していたのだ。敵は四枚の翼を持っていることを。


 意表を突かれ、死角から攻撃を受けたのは海幸彦の方だった。上空から黒い影が滑空し、気配を感じて顔を上げた海幸彦をさらっていく。その様は総合格闘技の低空タックルにも似ていた。アンズーは両腕で海幸彦の腰をつかみ、そのままみるみる高度を上げていった。


 海幸彦からすれば、大男に肩へ担ぎあげられたような状態。どちらが上で、どちらが下かも判別がつかなかった。そして、避けようのない捕獲体勢のまま黒雲を切り裂く稲妻が二人に降り注いだ。


 声にならぬ悲鳴を発しながらも、如意棒を手放さなかったのは海幸彦の執念が成せる業だ。だが、それも意味があったかどうか。アンズーは落雷によって帯電し、再び金色の光を放ち始めていた。抱きかかえられたまま、高圧電流が海幸彦の体力と気力を削り取っていった。


 岩に腰を下ろし、それを眺めていたヴォーダンは欠伸をした。


「終わりだな。娘の従者は死んだ」


 だが、欠伸を終えた時、彼はその判断が早計であることを悟った。

 老人がふと下に目を向ければ、何時の間にかカラフルなビーチパラソルが幾つも丘の上に転がされていた。パラソルは開いたまま、ちゃんと立てられるでもなく地面に放置され斜になっていた。それは20キロ以上離れたパーティー会場から俊足の配達員によって持ち出されたものだ。


 上空からすれば、視線を通さぬ遮蔽物そのもの。

 そのパラソルの陰からメチャ子が飛び出し、空へと声を張り上げた。


「アンズー! こっちはまだピンピンしてるぞ」


 呪詛から作られた人形は、遥か眼下のメチャ子を一瞥し掌をそちらへかざした。アンズーの体から雷が放たれ、地上のパラソルを完膚なきまでに破壊した。


 されど、メチャ子は既に別のパラソルへと逃れていた。電撃照射が止むなり、再び彼女は姿を見せて挑発する。それは終わりのないモグラ叩きだった。


 業を煮やしたアンズーは視界に入る全てのパラソルへと稲妻を放った。地上は一掃され、お邪魔虫は沈黙した様子だった。アンズーは満足気な笑みを浮かべたが、今度は彼が失念していたのだ。雷を放てば放つほど、アンズーの体から金色の光が失せていく事を。


 勝負は常に水物。流れの傾きは刹那で切り替わる。


 既に絶命したかと思えた海幸彦が息を吹き返すと、アンズーの首に腕を絡めて絞めにかかった。動揺し、飛翔するアンズーの体が大きく揺れた。それでも海幸彦は揺れの中しっかりと視界の端で捉えていた。人生の伴侶が七里靴の力で跳躍し、二人の頭上をとった事を。


「ウミサチィーー! 行くぞォおおお!」


「はいよ、いつでも来な」


 錐もみ回転を加えながら落ちてきたメチャ子の蹴りがアンズーの頭を直撃した。ピンポイントで踵が脳天へ。衝撃が奥まで突き抜ける蹴りだった。

 アンズーが咆哮を上げ、三人はもつれてそのまま地上へと ――落ちていく。そこからの展開は刹那の渦中で行われた。


 まず海幸彦がアンズーの腕を振りほどき、メチャ子へと手を伸ばした。落下中であっても、一切のコンタクトが取れずとも、示し合わせたかのようにメチャ子は一回転して差し出された腕の中へとその身を滑り込ませた。自室で座椅子に身を投げ出すかのように落ち着いた仕草だった。

 胸で彼女のヒップアタックを受け止め、海幸彦は左腕でメチャ子をホールドした。残った右手には決して離さなかった如意棒が握られていた。

 伸びた如意棒は彼らの落下速度よりも速く大地に到達して突き刺さった。それが二人の転落死を防ぐ柱となった。


 七里靴を使えば27.5キロの高度まで跳び上がる事は出来る。だが、そこから先のアフターケアは一切請け負ってくれない。何かを蹴れば次の一歩が踏み出せるが、空中に足場など存在し得ないからだ。それで落ちればどうなる? 

 その点に関してはメチャ子とて貴方と同じだ。

 

 そして幾ら海幸彦が龍人とはいえ、落下の勢いと二人分の体重を右腕だけで受け止めるわけにはいかなかった。片足を棒に絡ませ、右手は表面を滑らせて、ゆうに数十メートルは下ることでようやく動きを止めた。摩擦によって手と腿の皮が剥け、如意棒には生々しい血糊が付着していたけれど…海幸彦は笑顔だった。満面の笑みを浮かべていた。


 一方でアンズーは体制を立て直すことも出来ず、きりきり舞いの有様で地面に引かれている最中だった。ヴォーダンは腰かけて両手を杖にかけたまま、配下のために指一本動かそうとしなかった。

 アンズーの体は遠ざかっていくにつれて豆粒のように小さくなり…そして遂には激突の時を迎えた。鈍い衝突音がサバンナにこだました。

 特に血が飛び散ったり、体が欠損した様子はないが、それは元から血の通っていない呪詛の塊だからなのだろう。肝心なのは再び起き上がらないかどうかだ。どうやらそれも大丈夫。


 如意棒を縮めて海幸彦がサバンナに帰還し、お姫様抱っこしていたメチャ子を傍らへと立たせてあげた。

 二人はハイタッチを決めて即興のコンビネーションを称え合った。そこへ、キャンピングカーが丘の麓に到着し、皆が応援へ駆けつけてくる。


 メチャ子はヴォーダンの方へ向き直ると叫んだ。


「さぁ10分経ったぞ。アタシ達の勝ちだ」


「もう時間か。楽しい時は過ぎるのも早いな」


 老人に動転した気配はない。腰を上げて杖を振るうと、絶命したはずのアンズーに異変が起きた。百足からアンズーの姿へと変じた時と同様だ。遺骸が黒い霞へと変わり、その気体がヴォーデンの方へと飛んでいった。


「呪詛を媒介に。…甦れ、フレキ」


 ヴォーデンが命令すると、粘着質の闇は馬ほどもある巨大な狼の形をとった。老人がそれに跨ってこちらに背を向けようとした為、メチャ子は慌てて追いすがり呼び止めた。


「ちょ、アモの呪いをどうにかしてくれるんじゃないの? 負け逃げかよ」


「ふっ、戦う前にも言っただろう? あの呪いはアモの先祖が生み、彼女が受け継ぐべきものであったと。我が巫女の末裔が一神教の悪魔に救いを求めたのは腹立たしい。だが、それだけが付けた理由ではない」


「どうにもならないっていうの?」


「正確には『今更する必要がない』といった所か。褒美は託宣だったな。雨の呪いは今や彼女にとって人生の一部。いや、人生そのものと言ってもよい。そして現状すでに呪いは弱まっている。幸福こそが呪いを忘れさせる最良のもの。あとは遠からず結末を迎えるであろう」


「え、それって」


「不遇にも途絶えた歌の終わりを見届けられ、ワシは満足だ。そして、より興味深い物語と出会うこともできた。闇を克服し、一人では越え得ぬ壁を二人で越えるか。見事だ。アースガルドが滅ぶ前にお前のような者を招きたかった。灯火を掲げるお前は、黄昏へ挑む戦士達に勇気を与えただろうな」


「貴方はいったい…誰?」


「知らぬならそれで結構。ではな、人生の伴侶とアモに宜しく」


 ヴォーダンが掛け声を出すと、主人をのせた狼は疾風のように走りだした。その速度は目で追うのもやっと、ほんの僅かな時間で地平線の彼方へ見失ってしまった。


 首を捻りながらメチャ子が海幸彦の所に戻れば、勝利の報酬が出なかった事実に彼も悪態をつかずにいられなかった。


「何ィ!? 放っておけば呪いは解けるって? やれやれ、戦い損じゃねーか」


 口ではそういっても、その声には嬉しさが滲み出ていた。偽物とはいえアンズーにお返しを済ませた事が自信に繋がったようだ。彼は武官、戦いで失ったものは戦いで取り戻すしか手段はない。これできっと悪夢も終わりを迎えるだろう。

 メチャ子は人生のパートナーに労いの言葉をかけてやった。


「でも無駄じゃなかった。そうでしょう? 水着のアタシを抱けたんだから」


「はは、違いねえ」


 メチャ子が約束を違えて逃げなかった件? それに関しては、お互い口に出そうともしなかった。言葉に出さずとも通じるもの、それが信頼だから。



 そんなわけで、駆けつけてくれたキャンピングカーはそのまま送迎車へと早変わり。パーティー会場へUターンする事になった。メチャ子は運転手であるアレックスにパラソルを無断で(ほぼ全部)借りて壊した事を謝らねばならなかった。


「いえ、気にしないで下さい。傘というのは人を護る為にあるものです。貢献できたのなら製作者として冥利に尽きますよ。勿論、アモの夫としても」


 無断使用が許され、胸を撫で下ろした所で新たな疑問が沸いてきた。

 敵は何者だったのか?

 その疑問には車の中でイザベラが答えてくれた。


「ヴォーダンってオーディンのドイツ語読みでしょ、北欧神話の主神。アンタが知らないのはマズイでしょ」


「あっ、そうかあ。道理で聞いたことあると思った」


 メチャ子から詳細を聞くと、アモが神妙な顔で頷いた。


「この呪いは私の祖先が生んだものだと…そうオーディンが言ったのですね? 確かに聞いたことがあります。私のひいお祖母ちゃんは、ゲルマン人の歌や詩を語り継ぐ巫女だったと。それゆえ儀式の生贄に選ばれて亡くなったそうで」


「ふーん? それが、雨ごいの儀式だったのかな? 気持ちは判らなくもないけど、子孫に厄介な種を残しちゃったねぇ」


「いいえ、私が目の前でキリスト教の悪魔にすがれば彼が怒るのは当然のこと。ゲルマンの聖歌エッダは、一神教から強い宗教弾圧を受けて当時ですら語り部が激減していました。ある学者の方が論文で取り上げなければ、そのまま忘れ去られていたのではないかと聞き及んでいます。その巫女の血を引く私が、いまや一神教の言う所の魔女! ふふ、世の移り変わりは何と激しいことか」


「ミー・トゥー」


 イザベラがアモの肩を親し気に叩いて言う。二人は暫し見つめ合い失笑した。

 そしてアモは、運転中の旦那へ顔を向けながら続けた。


「でも、今は感謝したい気分です。ひいおばちゃんと北欧の主神に。長生きしたお陰で沢山の素敵な出会いがあったのだから。私は呪いを克服し、彼と添い遂げます。オーディンのお墨付きをもらった今、怖いものはありません」


「感動的ね、でもそうしたら無職になる…手に職つけた方が良いわ」


 意地の悪い突っ込みにアモが顔を顰めた。イザベラにすればいつぞやの魔女会の意趣返しといった所であった。


「これで おあいこ。旦那をディスらなかったんだから感謝しなさい」


「おやおや、メリケンの魔女ときたら…目上への口の利き方もご存じない?」


 せっかくまとまりかけていたのに、また口論が始まってしまった。でもきっと、喧嘩するほど仲が良いという奴だろう。メチャ子は話を切り上げて疲れた体を休めている相棒の隣へ行くことにした。


「まぁ、アレよ。自然の恵みはお金で買えるものではないし、個人におしつけて解決する問題でもない。雨を売って稼ぐより、きっと大切なものもあるよね?」


「アモさんがそう決めたんでしょう? なら俺達が口を挟む事じゃない。バーベキューで随分飲み食いしちゃったし」


 アモの決断について二人の見解はこんなものだ。アフリカの旱魃を救う個人事業も、やがては運命の手へ委ねられる事となるだろう。全てはあるがままに。

 そして口には出さずとも、海幸彦はアモの新たな門出を応援していた。


―― 大切な人の隣に立つ為なら、三流だって一流になれるさ。俺でもどうにかやれたんだ。しっかりな!




 そして、最後に。

 イザベラが古文書を引っ張り出して調査した結果を報告したい。


 北欧神話の主神オーディンは、物語の終焉『神々の黄昏』にてフェンリル狼と戦い命を落とした。その後、古い世界は炎の巨人スルトによって焼き払われ、新しい神々の統治する世界に生まれ変わったのだとか。されど、神々が住まうアースガルドよりも高い天の聖域、ギムレーと呼ばれる場所だけはスルトの炎すらも及ぶことがなく、誠実なる者だけがそこで永久に過ごせるとエッダには記されていた。現実にそれがあったかは判らない、単なる神話の物語だ。


「オーディンには幾つも異名があってね。旅の神だとか、詩の神だとか、知恵の神だとか呼ばれているの。彼が片目なのも、知恵の泉から水を飲む為に代償としてくれてやったからなんだって。どうにも知識欲を抑えきれない御方のようね」


「ラグナロクの話ぐらい流石に聞いたことあるけど。実際には、オーディンはそこで死ななかったって事なの?」


「さて? 死を偽装してギムレーに逃げ延びたのかも? 終焉を越えて生まれ変わった世界の先を知りたい。そんな欲求を抑えられなかったのかもね。そうやって未来を放浪し、時代が過ぎるにつれて…新しい神々が生まれ、消えていくのを目撃した」


「嫌な気分だろうね。自分の作った世界が沢山ある神話の一つに過ぎないと判ったら」


「話を聞いた限りじゃ、今をエンジョイしているようにも感じるけど? 君子は状況を受け入れ豹変するものよ。呪いと『それにまつわる物語』を集める『魂の掃除屋』さんねぇ? 当に終わった神話の神がする事にしてはなかなか洒落てるじゃないの」


 イザベラはそう言ったが、メチャ子は漠然とした不安を感じるのだった。

 彼を突き動かすのは邪心や野心でなく知的好奇心。そうなのだろう、だが逆に言えばそれは無邪気な子どものように先の読めぬ心情。ヴォーダンがアンズーをけしかけてきたのも、ただ私たちの物語に結末をつけるため。もし、負けていたら…?

 弱肉強食のサバンナに降伏などあり得たのだろうか?


 そして、この世界には北欧神話の残滓が数多く残されている。漫画にゲームに映画の題材、それは考古学者の惜しみない努力によって現在まで忘却を間逃れた神話の子孫。また、アモのように自覚はなくともゲルマンの血を引く者…北欧との縁を抱えている者も居る筈だ。


 彼が再度好奇心を抑えきれなくなる日もそう遠くないのでは?

 その時はきっとまたメチャ子がお節介を焼くことになるだろう。精霊と人の架け橋になる。それはメチャ子を突き動かす行動原理なのだから。


 悪意なき悪は御しがたく縛り得ぬもの。だが、優しさと宿命からくる一途な正義もまた大きな力を持っているものだ。


 どちらが勝るかは、その時が来れば分かるだろう。 

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