雨の魔女アモと傘職人アレックス 後編



 小雨の晩、アモがアレックスのアパートを訪ねると部屋の明かりが消えていた。

 そんな時はたいてい工房の方で残業をしているのだ。世界一の傘を完成させる為に。アモは部屋の窓を見上げたまま溜息をついた。最近はすっかり彼と勝負をするのが嫌になっていた。


 彼が未だに嬉々として勝負を挑んでくるのは燃える職人魂や目指す所があるせいだ。それは判っている。頭では判っているが、どうしても考えてしまうのだ。


 ―― コイツ、実は自分と離れたがっているんじゃないか。


 隣の部屋に住む女子大生がアレックスに好意を持っている事も知っていた。一方でこちらは終わることのない呪いに身を犯されている。雨と共に五百年もの歳月を生きた魔女なのだ。


 魔女は人を信じない。幾度となく人に迫害され、裏切られてきたからだ。


 ツンドラの永久凍土に匹敵する冷たい憎悪を抱きながら、アモはアレックスの工房へ足を向けた。きっと作業は難航しているだろう。究極の傘なんて作れっこない。気分転換も必要だ、そう誘って夜の街にくり出そう。楽観的な事を考え「へ」の字に締められた口を何とか笑顔に戻そうとした。しかし…。


 終焉というものは本人の予期せぬ内にやってくるものだ。


「アモ、丁度よかった。見てくれ、とうとう完成したんだよ」


 子どものようにはしゃぐアレックスには、何故アモが能面のように強張った表情なのかが判らなかった。


 自分の事で頭がいっぱいになったアモには、アレックスの手が傷だらけで目の下には疲労からくるクマが浮いているのも目に入らなかった。


「さあ、近くの公園に行こう。街中じゃ迷惑がかかるかもしれないし。さっそく勝負といこうじゃないか」


 アレックスの台詞が、打ちひしがれたアモへの止めとなった。


 ―― さっそく? さっそくって何? そんなに早く私たちの関係を終わらせたいのか? お前にとって私はなんだ? テスト用の風起こし機でしかないのか? これで用済みになったら私はどうなるんだ? なんでこうなるの? 私、何か悪い事した? どうして? いったい何がいけないの? この幸せがもう終わってしまうなんて。


 錯乱したアモは公園への道中、アレックスの腕にしがみついていた。俗にいう恋人繋ぎという奴だ。アレックスにはアモがふざけているのだとしか感じられなかったのだが。


 芝生の敷かれた広場。日中なら老人がゲートボールに興じていそうなそこは、二人には決して忘れられぬ地となった。


「この傘はグラスファイバー製。釣りのロッドにも使われるしなやかさと強度を併せ持った素材です。空気力学に基づいて作られたフォルムはどんな強風も受け流して屈しない。正に完成形と言えるでしょう。アモ、ありがとう。君が教えてくれなければ、僕はもっと早い段階で満足してしまい此処へは辿り着けなかったと思う」


 距離を置いて向かい合い、アレックスは込み上げる職人魂のままに熱く語った。

そして、アモは悟ったのだ。いったい何が悪いのか、何が二人の幸せな時間を終わらせようとしているのか。


 ―― あの傘め、全部あの忌々しい傘が悪いのか!


 アモの胸の内に溜め込んでいた黒い物が雲となって解き放たれた。いつもの勝負だと思い込んでいるアレックスは、完成品の性能を早く試したくてウズウズしている始末だった。

 しかし、実際その傘の耐風能力は歴代最高であった。アモの憎悪そのものというべき風は大の男が立っているのも困難な強さだった。それにも関わらず、傘は少し変形して圧を逃すだけで壊れはしなかったのだ。


「…やった…やっ…ぞ…!」


 風に掠れながらもアモの耳に届いたアレックスの嬉声。

 科学の粋を尽くして作られたあの傘は壊せそうもない。世界一の傘は完成した。もう二人を結ぶ糸は途切れてしまったのだ。その絶望がアモの頭に血を上らせた。


 ―― もう駄目なのね? どうしても、私から去るというのなら…いっそ…。


「こうしてやる!」


 彼の身を案じ、加減していた最後の一線をアモは踏み越えた。

 その風は停めてあった車が横転し、付近の民家から屋根が剥がれるほどだった。


 当然その風を受けたアレックスも無傷で済むわけがなかった。彼はタンブルウィードみたいに地面を何度も転がされて、仕舞には公園のガス灯に激突した。


 刹那、怒りと狂気に囚われていたアモも、その惨劇を目の当たりにして蒼白になった。文字通り冷水をかけられたようなもの。


「ああ、なんてこと! なんてことなの!」


 アレックスは頭と肩を強打し、意識を断ち切られていた。アモが駆け寄り揺り動かしても目を覚ましはしなかった。そして、突風と、その被害に驚いた市民たちが表に出て辺りを調べ始めた。


「おいおい、なんだったんだ。今のは」


「ふざけんな、路駐の車がうちの壁に突っ込んでやがる!」


「見ろ、人が倒れているぞ。おい、大丈夫か!」


 原因はアモなのだ。犯行現場に残っていればどんな目に合わされるか判らない。

 向かってくる人々と、気絶した恋人。交互に見ながらアモが出した結論は逃亡だった。魔女は人を信じないものだ。


 ―― うそ嘘、こんなのは嘘よ!


 巨大ナメクジが引く馬車まで逃げ戻り、カエルが化けた御者に帰宅を命じる。帰路、四輪馬車の中でアモは顔を覆ってさめざめと泣き続けた。卑劣にも逃げ出し、どうしてもアレックスを信じられなかった己への嫌悪で胃の中身を戻しそうだった。


 幸福の到達点は唐突な幕切れ。

 アモ愛用の蝙蝠傘は依然として彼女の肩にとまり、主を雨漏りから守り続けていた。傘と傘、科学と魔法の勝負という話なら勝ったのはアモの方だろう。でも、そんな事実はなんの慰めにもならなかった。


 それから数日、アモは呆けたまま森の別荘で日々を過ごした。

 地方紙では夜中の突風について扱われていたが、怪我人が出て被害があったという事しか書かれていなかった。死人は出ていない事だけがせめてもの救い。肝心な怪我の程度については一行たりとも触れていないのであった。


 さりとて、行って確かめる勇気も湧かず…。憂鬱な傷心はいつもよりもどす黒い雲を呼び、森に冷たい雨を注がせていた。


 そして事件から一週間が過ぎた。

 この日、久しぶりの招かざる客が別荘を訪問した。


「魔女アモだな? さる高貴な方の依頼によりお前には死んでもらう事になった」


 もはや、そういった物騒な業界のことを忘れかけていた。闇狩人であった。黒いコートにツバ広の帽子、得物は反り身のある鉈。ククリと呼ばれるものだ。アラブ系の浅黒い肌をした中年男性。いや、もう老人に属する年齢かもしれない。


 だが、その鷹よりも鋭い眼光と…その年に達するまで生き延びたという事実が…久しく眠っていた魔女の信念を揺り起こした。


「丁寧にご挨拶とは痛み入るわ」


「見ての通り、もう若くはないのでな。己の美学を優先させてもらう。納得のいかぬうちは命のやりとりを始められんのさ」


「処刑人なら上の命令に従うだけで良いでしょうに」


「息子をたぶらかし、その命を奪おうとした魔女を消して欲しい。そういった依頼なのだが…事実か? お前の噂は他所で聞いている。闇に蠢くクズとしてはまともな分類だと」


「ああ、そういうこと…」


 さる高貴な方とは、アレックスの親を差しているのだろう。質問の答えを先送りにして、アモは闇狩人に探りを入れてみた。


「その息子の方は…私のことを恨んでいるのかしら?」


「知らんな。だが、職人として大切な利き腕に軽くない傷を負ったそうだ。俺ならば恨む」


 乾いた笑いが唇から零れ落ちた。常時雨に濡れた顔は、涙が頬を濡らそうとも包み隠してくれる。闇狩人からしてみれば、それは壊れた笑顔としか映らなかった。


 ―― さあ、ここで死ねば、私と共に罪も消えるのだろうか?


 しかし、それは余りにも無責任な逃避にしか思えなかった。

 アモは保留しておいた闇狩人の問いに答えた。


「そう、事実ね。私は彼に殺意を抱いた。抱きました」


「ならば、依頼人の話をしたのは過ちだったようだ。残念だが、過ちはすぐに正さねばならぬ」


 男が腰の鞘からククリナイフを抜いて身構えた。文様が彫られ、仄かに青い燐光をまとった呪術的な武器だ。


 戦場の古強者、その実力に偽りがあろうはずもなく。

 元よりこれまでアモの首を狙うのは功名心にかられた新参、もしくは無名の狩人ばかりであった。彼女はただ世界を彷徨い続けるだけの存在なのだから。今回のような筋金入りの刺客はそう居るものではなかった。


 それでもアモが辛勝を拾い上げたのは地の利があったからに他ならない。葉露の森は彼女の別荘であり、そこに住む動物は勿論、生えた木々すらもアモの味方であった。梢が男の視界を遮り、逃げ回るアモの行方を眩ませた。野生の鹿やクマ、毒虫や蛇の類までもが狩人を目の敵にする。


 森そのものを相手取って戦えようはずもない。遂には歴戦の闇狩人も力尽き、武器を失ってアモの前に這いつくばる事となった。

 されどそれを見下ろすアモの目にも勝者の喜びはなかった。


「危なかったわ。お強いこと、ハンターさん」


「ぬかったか。だが、老兵の最期としては勿体ない戦場だった」


 呼吸を乱しながらも男の魂に恐怖はない。命乞いをする気配すらなかった。

 それが逆にアモの心を揺さぶった。ここで勝つべきは本当に自分だったのだろうか…と。


 アモは暫し腕を組んで考えた。狩人が何事かと訝しがる程の長考を経て、魔女は決心した。


 アモは自分の右肩にとまった愛用の蝙蝠傘を手に取り、男の前に投げ捨てた。


「貴方、私を殺した事にしなさい。いつかはバレる嘘でも構わない。ほんの数十年、いいえ十年ちょっとで良いから、私を死んだことにして」


「なんだと、それは侮辱か?」


「蔑みは勝者の特権。貴方に逆らう権利があって? その蝙蝠傘を証拠として持ち帰りなさい。依頼人の息子がアモのものだと証明してくれるでしょうよ」


「そいつを騙したい、と。…………そうかい。本気だったのだな。なら深くは聞くまいよ。お前の望み通りにしよう。偽りの栄誉は老兵の年金代わりに丁度よかろう。お使いの報酬としては悪くないな」


「そうそう、引退するのなら安い矜持など呑み込んでしまいなさい。賢いひと」


「老兵は死なず…いや、死ねずか。まさかこんな意味だとは思わなかった」


 アモが手当をしてやると、狩人はどうにか動けるまでになった。アモの蝙蝠傘を後生大事に抱え、負傷した足を引きずりながらも去っていった。最後に帽子を持ち上げて、魔女に敬意を示す事も忘れなかった。


 アモはその日の内に住み慣れた別荘へ火をかけ、痕跡をなくして森を出た。

 放浪の旅の再開だ。あとは、過ぎ行く時計が何とかしてくれるだろう。

 彼の方も、アモの方も。


 そして二年の月日が流れた。




 ――― 現在のローマ市内 ―――



 スペイン広場の大階段。その手すりには並んで腰かけた魔女と配達員がいた。

 長い話を終え、アモは一息ついた。


「…というわけでね、アモは自分を死んだ事にして…今は人目を忍びながらひっそりと暮らしているの。そうすれば彼は私から解放されて、またやり直せるでしょうから」


 それまでずっと頬を赤らめながら聞き惚れていたメチャ子であったが、その結びにはさすがに違和感を覚えて口角を綻ばせた。


「え、あの…人目を忍んでって…アモさんはどうしてローマの観光旅行を敢行したんです?」


 図らずもオヤジギャグになってしまった。アモは質問の意図を取り違えたらしく、自分に酔いしれた調子で応じた。


「昔ね、幸福だった時代に二人で映画を見たの。お忍びの王女と新聞記者がローマでデートする話。素敵だった。いつかあんな風に二人で観光しましょうねって約束していたの。何だか近頃それが忘れられなくて…」


「ええええ、それ自体は感動的なエピソードなんですが…何と言うか…その…良い話だったのになぁ。どうしてこんなオチにしちゃうかなぁ~」


「なによ? 言いたい事があるなら、ハッキリおっしゃい」


 表現しきれぬ複雑な感情からメチャ子は顔をしかめ、自分の携帯をベルトから外した。防水仕様のうえに透明なビニール袋に入れて雨対策は万全だった。


「アモさん、これ何をする機械だかご存じですか? というか、あの、すごく失礼な事を訊きますがインターネットって知ってます?」


「はて、たしかアレックスが写真も撮れる電話だって。だから、それを許可なく向けてくる奴のは、気付いたら壊してやったんだけど…ネット…うーん、それも聞いた覚えがあるな。そういえば、どうしてアレックスに私が生きているとバレたの? 彼の街には一切近付いていないのに。あの闇狩人が喋ったのかしら」


「そこですよ、アレックスさんがウチに配達を依頼するぐらいなんです。もうバレてますよね。闇狩人さんは多分裏切っていないと思いますよ。貴方が最後の最後でドジ踏んじゃったせいですって!」


 メチャ子はそれから懇切丁寧に、ここ数十年にどれほど人類の文明が発展したのか…端末とネットを利用した情報共有によって世界がいかに小さくなったのかを説明しなければならなかった。

 どちらかといえば、配達員もメカは苦手。決して得意分野の話ではなかったのだけど。嘘がバレた原因を知りたがるアモは、根気強くメチャ子の拙い話に耳を傾けてくれた。


「ふむふむ、つまり…今は誰でも・いつでも・どこでも写真撮影が出来て、その場で世界共有のネットワークに投稿することが出来ると。だから、私が首都ローマで目立った振舞いをすると、遠く離れた彼にも私の存在が知れてしまうのね」


「そ、そんな所です。実際ウチの会社が少し探りを入れたら、すぐに貴方の居所は探知できたので。住所不定の相手でも依頼を受けたのは、ちゃんと当てがあったからです」


「ふ、ふふふ、ははははは…成程、大ドジ踏んだわ。知れてしまえばなんとバカバカしい。魔女も形無しね」


 アモは腹を抱えてひとしきり笑ってしまうと、肩の力を抜いて配達員に掌を差し出した。


「荷物、もらうわ。お手数かけたわね。私のようなドジっ子魔女が今更恰好をつけても何にもならないし。つまらぬ矜持なんか呑み込んでしまえ、私が言われる台詞だったのね」


「プライドってヒノモトだと捨てるものなのですが、コッチは呑み込むものなんですね。捨ててしまえばそれっきりだけど、内側に隠しておけばまた使えるかもしれない。気遣いがあってアタシは好きです」


「人は状況に応じて『装う』生き物なのよねぇ。汚いこと、ふふ」


 アモは笑いながら受領書にサインをして、長細い箱を受け取った。

 防水ビニールを剥がし、箱を開いて出てきたのはやはり傘。


「え? でも、この傘は…」


 握りの部分が蝙蝠の鉤爪になっていた。その形状は見覚えのあるものだった。壊れた部分は作り直してあるし、デザインもずっとカラフルで見た目はまったく異なっていたけれど、その傘は間違いなくアモが闇狩人にくれてやった愛用品そのものだった。


「これは、あの傘を素材にしたのか…」


 アモが頭上で傘を開くと黒かった無地の蝙蝠傘は虹色のストライプ柄へと変貌を遂げていた。見惚れているアモに代わり、メチャ子は箱の中を探ってメッセージカードを発見していた。


「見て、メッセージがありますよ」


 カードを渡されたアモの頬が優しく緩む。大人の世界に興味津々、メチャ子はつい配達員の分を弁えず訊いてしまった。


「何が書いてあるの?」


「私と貴方にとって世界一の傘。是非とも、感想をお聞かせ下さい…だってさ。怪我は大丈夫だったのかね、アイツ」


「その傘、一朝一夕で作れるものじゃないよね? ネットに情報が出回るまで確信していたわけじゃないだろうけど…ずっと前から贈り物の準備をしていたんだ。貴方を信じて」


「そうねぇ、こんな時は…どうしたらよいのかしらね」


 アモは今なお振り続ける呪われた天を見遣り、独白するかのように続けた。


「五百年も生きた時代遅れの魔女。呪われた雨雲と共に彷徨い続けるだけの魔女が、どうしたら良いのかしらね?」


「…アタシも昔、母に泣きついては良く言われていました。『貴方は周りと違う特別な人間。でもそういう人には周りと違う特別な人生がある。それなら今の境遇を嘆くより特別な幸せを掴みなさい』って。完璧な苦しみのない人生なんてありません、大切なのは何をもって幸せとするか…それだと思います」


 メチャ子は水龍と人の相の子。頭に生えた鹿の角がそれを常時主張している。

 されど、特別な人間同士でしか通じ合えぬこともこの世にはあるのだ。


 アモは目を伏せてうなずいた。


「ありがとう、配達員さん。痩せても枯れても私は伝説の魔女。伝承通りの結末を目指さなければ駄目ね」


 雨の魔女が本当の笑顔を浮かべた時、青空が戻り天に虹がかかる…。

 その結びが単なる比喩なのか、実現する予言なのかは判らない。されど、アモは決めたのだ。そこを目指して進んでいくと。


 メチャ子は少し悩んでから一言付け足した。


「それに、呪いがもたらすのは悪い面ばかりじゃないはず。雨を必要としている地域は必ずあります。貴方が裕福なのは、雨を届けるそうしたビジネスに余念がなかったからでしょう?」


「あら、バレていた? そうね、旱魃の土地も潤えばやがて追い出される。そんな境遇ではあるけれど、愛する人と一緒ならばそんな旅も素敵かもしれない。探せば道はあるものね」


 メチャ子は喜びのあまりピョンピョン跳ねながら叫んだ。


「そうですよ、絶対にそうです!」


「ふふ、前向きなのね。それでは御機嫌よう、貴方の届けた笑顔、確かに受け取ったわ」


「あ、あの、ちょっと最後に一つだけ訊いてもよいですか? 貴方はどうしてそんな呪いを受ける羽目に?」


 去りかけたアモがメチャ子の追求に足を止めた。

 振り向いた魔女の目には言い知れぬ悲しみがあった。


「若き日の傲慢さゆえに、それ以上は長くなるけど…」


 そこでメチャ子は堪え切れなくなって、クシャミで会話の流れを断ち切ってしまった。長らく雨に打たれっぱなしだったせいだ。正直、寒気がするし頭痛もしてきた。その様を目にしてアモは肩をすくめた。


「もう帰りなさい。その話はまた今度ね。お大事に、幸福の配達人さん。貴方、たまには自分を労った方が良いわ」


 鼻歌を奏でながら、アモは傘を振り振り去っていった。傘に描かれた虹色の模様は、晴れやかな彼女の心境を表していた。


 心の底からアモが笑えた時、雲は晴れ空に虹が描かれる。その日が本当に来るのかはまだ判らない。けれど、その第一歩は間違いなくこの日に踏み出されたのだ。








 翌日、世界のどこかにあるフェニックス運送の社員寮では。

 すっかり風邪をひいてしまったメチャ子が自室のベッドで毛布に包まっていた。


「うー、水龍のムスメが雨に打たれて風邪をひくとは情けない。頭いたーい、気持ちわるいよぉう」


「はいはい、お粥を作ってあげるから寝てなさい」


 エプロン姿の金髪女性がタオルに包んだアイスノンをメチャ子の頭の後ろに差し込みながら言った。

 持つべきものは親切な先輩である。同じ配達員のイザベラが病状を聞き泊りがけでヘルプに来てくれたのだ。彼女は魔女であり、錬金術師。同じ魔女であるアモとは面識があった。


「アモって、人の話を聞くような性格じゃないでしょ? よくまあ上手くまとまったもんね」


「別にィ、ただ根気よく話を聞いただけ。そのせいでこのザマだけど」


「貴方の性格は判り切っているし、言っても無駄だとは思うけど。お客さんに感情移入し過ぎるのは良くないからね。配達員の仕事は言い切ってしまえば、荷物を届けること…それだけなんだから。別に受け取り拒否なら…それで…」


「よくない! 絶対によくなかった」


「だから性格は判っているって、私はね。でも、こないだ着任した新しい課長は別。ウチのエースは業務に私情を挟みすぎるってカンカンなの。仕事は山積みなんから、さっさと片付けて帰ってこい…と。前の課長はメチャ子贔屓なCEO兼社長ヴォイド氏の口利きがあったけど、今の人はバリバリのキャリアウーマンで…自分を貫く人なのよ」


「チェ、ロスったタイムはアタシの足で取り返すって言ってんのに」


「どうしても見て見ぬふりは出来ないの…?」


「関りを持たないようにするのは簡単。その方が楽なのは知ってる。でも、楽ばかりしていたらアタシの人生が一番つまらないものになっちゃう。アタシはアタシの幸福を目指して、ダンコ寄り道をする」


「はぁーあ、こりゃまた怒られるわ。仕方ない。私も一緒に謝ってあげるから、兎も角カゼを治しなさいな」


 満更でもなさそうに言うと、イザベラは鍋の様子を見に台所へ戻る。その途中、TVをリモコンで操作すると丁度イタリアの天候に関するニュースをやっていた。


『連日ローマを覆っていたしつこい雨雲が遂に重い腰を上げました。各地の水害に対する警戒は未だ予断を許さない状況ですが、どうにか峠を越えた模様……観光客が賑わうローマの街並み。それを取り戻せる日もそう遠くはないでしょう』


 そのナレーションがメチャ子への労いや感謝の言葉に感じられ、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 TVに映ったローマは快晴の青空。そこにかかった虹の橋は輝かしい未来へ通じているかのようだった。



 何を幸福とするのか、何をもって虚ろな心は満ち足りるのか。そんなものは人によってまるで違う。それでもメチャ子は完璧なハッピーエンドを目指して走り続ける。


 それこそが彼女に与えられた特別な人生だからだ。

 そこへ辿り着くまでどれほどの困難が待ち構えているのか、まだ知る術はない。 


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます