戦端

森暦196年夏下月。


夜はまだ冷え、昼は汗ばむ陽気のこの時期。


ファブニル一族が挙兵した。

黄迫軍2万、ファブニル領から徴兵された民兵1万、ルーザースからの増援雨月旅団1万、そして中央諸侯連合1万がこれに迎合し5万の軍勢となった。


時を同じくしてバラドゥア当主ユーロニモス・バラドゥアが挙兵。領軍1万を率いて東進した。


ファブニル当主シカダレスはグレンデルに王家への謀反の芽有りとして賛同者を募っていた。

ファブニルの思惑に乗る形で東進したバラドゥアであったが、南方の雄エリンドゥイルがこの動きに合わせて挙兵。ファブニーラ東方20里の位置で見合う事となる。


軍を率いるエリンドゥイル家嫡男イングヴェイ・エリンドゥイルの言い分は、俗臣ファブニルに迎合し悪戯に国を荒らす事、之国に穂先を向ける事と同義也という至極真っ当なもので、イブル川支流を挟んで2軍は対峙することになる。


一方此れを機に領地拡大を狙う中央諸侯はグレンデルに協賛する北方諸侯領へ向け其々進軍。対し北方諸侯はロボクに駐在する軍勢を王都モルンパーチから出撃させ王都近郊に留める事で牽制。またアゾク要塞からも派兵する事で各領主の陣営が孤立しない様目を光らせた。


諸外国勢はガルクルトが呼応して挙兵したもののクサビナを越境する事はなく、南のリュギルに向けて進軍した。

リュギルはそれに対し国境で迎え撃つべくケルレスカン北西に陣を張った。


一度クサビナに敗れたマニトゥーは口を閉じた貝のように動かず、一国ではさしたる力も発揮できないアゾルトも黙した。


ラクサスはベルガナとの戦線を維持できず各地で敗戦を続け、本隊はラクサス北東の都市ヴィルマで籠城戦の構えを見せていた。


ファブニル当主シカダレスは奸臣グレンデルを討つべしと国王に書状を送り続けたが赤鋼軍は動かず、ケツァル近郊は不気味な平穏を保っていた。


そして渦中のグレンデルは雪解けからグレンデーラに領民を収容し、その上でグレンデーラ西の街エケベル郊外に聳え立つ3つの塔、三塔の砦に3000づつ兵を押し込め、本隊はエケベルの街を要塞化して2年半かけて増兵した5000と本隊6000で防備を固めた。


青鈴軍5000はグレンデーラに残りミトリアーレとカネラグレンデルが守る。


そして本隊を率いるのは14年前に陰嚢を失っても暴れ続けた当主コンドール・グレンデルとその叔父マトウダである。


三塔の砦は其々独立したグレンデル岩で構築された堅固な塔が八半里の距離で正三角形に並び、相互に援護をし合う変わった形状の砦である。


しかし大軍相手に防戦に適した砦ではなかった。

誰もがこの布陣に疑問を抱いていた。


黄迫軍がイブル川支流を渡河し、グレンデーラとの中間地点、三塔の砦まで10里まで辿り着いた所で月は移り、秋上月が訪れた。


秋上月初日の夜の事であった。

煌煌と篝火が焚かれたエケベルの高い壁を守衛の目を掻い潜り複数の人影が登り、超えて行った。


その数は10や20では効かない。

7丈はある青白い壁を綱も道具も無しに音を立てずに、まるで虫の様に登り光を避けてエケベルの街に消えて行くのだ。


コンドール・グレンデルは徴用した町長の屋敷で会合を行なっていた。

三塔其々の指揮官であるネス・グレン、ダフネ・グレンデル、シキミ・グレンデルを呼び寄せた大々的なものである。


ネスの副官で元カヤテの部下であるグラハム・グレンデーラ、ダフネの副官としてサルバとウルクの夫妻、シキミの副官としてハミルトン・グレンデーラ。


そして兵糧他軍備の一切を取り仕切るトクサ、それを補佐するブローバ・グレンデーラ。

グレンデルの諜報部隊狼を指揮するガリア・グレンデルと実働隊長であるウォルサム・グレンデーラ。


最後に参謀のオスカル・ガレとその補佐シャーニ・グレンと護衛でありオスカルの妻でもあるアイリ。


全てが此処に集っていると言っても過言では無い。


「敵は5万。南のケツァルからグレンデーラに赤鋼軍がいつ押し寄せても可笑しく無い事を鑑みれば籠城する訳にもいかん。かと言って倍以上の敵に会戦を挑むは愚行。」


コンドールが口火を切った。


「ラクサスが出てこなかったのは運が良い。ベルガナの近年の動きは脅威だが今回に限っては助かった。」


マトウダが続ける。


「そうとも言えません。ラクサスが健在であればケツァルを狙っていた可能性も有ります。であらば赤鋼軍を釘付けにできた可能性も有りました。」


シャーニが意見を挟んだ。


「あの腐肉漁りどもは此処ぞとばかりに我等の領土を切り取ろうとしたろうよ。」


ガリアが壁に寄りかかりながら気怠げに話す。


「何にせよ、動かぬ理由があろう。こうまで求心力を失った以上其れを取り戻さんとするは必至。此方が最も苦しい場面で仕掛けて来よう。」


「少なくともファブニルの苔豚共を駆逐してから散りたいものねぇ?」


コンドールにダフネが返す。


「…兎角、初戦が戦い易くなったのは事実です。」


オスカルが口にすると皆が頷く。


「……ん?」


ウォルサムが鋭い狐目を窓の覆い布に向ける。

風を受け緩く揺れる。


屋敷の周りは青鈴軍ぐの手練れにより厳重に警戒されている。何かが起これば知らせがあるだろう。


一同はそんなウォルサムの様子を伺っていた。

と、唐突に天井の太い梁から何か塊が落ちて来た。


それは黒い鬼を模した面を被った男だった。目の部分に円形の石がはまっており不気味さに輪をかけていた。


「皆様、一日月振りです。突然の来訪失礼致します。…グレンデル当主様、お初にお目にかかります。森渡りのリンレイと申します。」


仮面を取った男は腰を折る。

礼儀は払えども決して膝を着く事はない。下るつもりはないと言う意思表示と思われた。


穏やかな顔付きの男で微笑を浮かべているが背筋が粟立つ程の強烈な意志を感じさせた。


部屋の中に居た数名はこの男に覚えがあった。

リンレイに続き音も無く複数の黒い人影が天井から降り立つ。皆が其々異なった仮面を付けている。


皆が皆一流以上の戦士である事がコンドールにも分かった。

中でも異様な雰囲気を纏って居るのが狐の面を付けた男だった。


他にも数名、何らかの獣を象った面の者、人の顔を象った面の者、他ちらほらと立ち姿だけで相当な力量持つ者だと見分けられた。


涙を流す女の表情を象った面を被った者が其れを外す。

カヤテであった。


コンドールは息を吐いて眉間を揉み込む。

己らが捨てた子女が其れでも味方を引き連れて危機に駆け付けてくれると言うのだ。仕方が無かったとは言えなんと業の深い事かと考えた。


「話しは聞いております、リンレイ殿。我等としては少しでも味方が多ければ有難い。…貴公等に何を返せばいいのやら」


「ではグレンデーラ城近くに館を頂き、有事の際に素早く貴家と面会出来るようにして頂ければ有り難く存じます。さすればこの様に突然現れなくとも済みますので。」


ひっそりとシャーニが胸をなでおろすのをコンドールは見た。

今迄はカヤテの婿からシャーニに文が届き、そこから重要な情報が展開されていた。


グレンデルにとって得しかない提案である。

恐らく彼等は今まで姿を薬師や平民に紛れ込ませ様々な国や街を出歩いて来ているのだろう。


グレンデルに彼等が滞在する為の館など必要はない筈だ。

彼等の協力に対する対価としては余りにも帳尻が合っていない。


「その提案は有難く思う。此方としても各地を巡る貴公等の鮮度の高い情報を得られる事は有益である故」


リンレイは穏やかな表情を変えず首を垂れて礼を示した。

優雅な仕草である。


「当主様。お願いがございます。この度幾らかの精霊の民がグレンデル勢に加勢をしてくれると言う話になっております。森渡り同様グレンデーラに拠点を置かせては貰えないでしょうか?」


カヤテが膝をついて願い出た。


「その者達と直接合わぬ事にはな。しかし問題は無いだろう」


亜人と交流を持てる機会は得ておきたいコンドールは考えた。


「早速ですが、体制について」


別の鬼を模した仮面を外し中年の男が言葉を発する。

仮面は同じ鬼でも仔細が異なっていた。


「私の名前はガンケン。お見知り置きを。…我等は既に小隊をクサビナ中の森や街に潜ませ各勢力の情報を集めております。現在黄迫軍はエケベルから東に10里の位置におり、これまでの行軍速度から考え3日後の昼にエケベルに姿を現しましょう。…我等の有用性を示すためにもこれより夜襲を行い気勢を削ぎ、エケベルで優位に戦えるよう運んで見せましょう。」


これより、という言葉が気になった。

今から此処を出て馬で駆け続けようと10里の先では日も登っている筈だ。

猿の面を被った男が渦巻き状の面を被った男に指示を出す。

翁面の男は窓から顔を出しきいきいと音を鳴らした。

夕方に素早く飛び回る蝙蝠がよくこんな声を出しているとその音を聞きながら考えた。


この者達が訪れ何が変わるのか。

コンドールには判断が付かなかった。

強力な戦士である事は分かる。

彼等は何かを成そうとしている。それが何かは分からない。

コンドールは座して待つしか無かった。




エケベルから東に10里の黄迫軍、中央諸侯、雨月旅団の連合軍の野営地を森の中から見つめる集団がいた。


猿を象った面を被る男を中心に10名が闇に潜んでいた。

猿面の男は篝火を見つめながらぼやく。


「もう一月一滴も酒飲んでねぇ。手が震えるわ。」


「シャハン様。それは依存症に陥ってますよ。長生きしたければ控える事です。」


「はぁ。もうやんなっちまうなぁ。美味い酒を楽しく飲む。これの何が悪いんだ?」


「それは毎日常軌を逸した量を飲酒している所では?」


部下である白詰草の葉を象った面の男ソウホウが窘めるとシャハンは気だるそうに首を振った。


「いやいや、俺そんなに飲んでねーし」


「それは無いです。そんな事ばかり言ってるとシャリュウちゃんに嫌われますよ?父親が娘に好かれるには清く正しく生活しなければ」


シャリュウとはシャハンの娘で今年13になる。


「それな。俺の洗濯物と自分の洗濯物同じ水で洗われたく無いって自分で洗濯しててよ。泣けるぜ?」


ソウホウはもう手遅れでしたかと嘆いたが人ごとなので軽かった。


「何にせよ戦争とは本当に醜い。大層格好の良い事を皆言っていますが、所詮は利己の為のお為ごかしです。全く隠せていない!」


「やだやだ。戦争なんて早く終りゃ良いのにな?面倒臭ぇ。早く酒飲みてぇよ」


「隊長は怨敵フレスヴェルとは戦いたく無かったのですか?」


鯰の面を被った女スイレンが割り込む。


「いや、だってあいつらフレスヴェルじゃねーじゃん」


シャハンは眼前の敵兵達を顎をしゃくって示す。


「ですが醜い連中ですよ?己の権勢の為にこれ程の戦を起こすのですから。私は心情的にもグレンデルに着いて良かったと思っています。」


「お、ちょっとやる気出てきた…が、俺達の任務は此奴らの様子を一晩見守るだけだ。何もなければ明日にはファブニーラに入り3日後にはバラドゥアとエリンドゥイルの戦場に向かう」


「何も無ければですよね?」


冗談めかしてスイレンは言うと寄って来た羽虫を払う。


「お前、そういう事言うんじゃねぇよ。余計な事くっちゃべると案外現実に起きちまうんだぜ?」


「下らないですよ。迷信深いですね?シャハン様は」


「馬鹿お前!俺程精霊信仰暑い人間滅多にいないぜ?」


その時、彼等の強化された耳に一族からの合図が届く。


合図を聞き届けシャハン達は仮面越しに視線を交わし合った。


「おいおい本気かよ?凄え指示だな?」


「隊長。良いのですか?」


鯰面の下でスイレンは尋ねる。


「虐殺せよ、だってよ?誰か途中で盛ってねぇか?流石にこの人数では無理だろ」


「有り得ます。エケベルとここの間に展開している部隊だと…エン家のエンボクとか?……ですが、問題は無いでしょう。」


シャハンにソウホウが返す。

シャハンは長く蝙蝠の鳴き声を喉から発して、返答を終えると体内で濃く強い経を練り始めた。


「よぉしお前ら、殺すぞ」


シャハンは矢継ぎ早に手信号で指示を出し始めた。

全員が左拳を顳顬に当てがう。

森の闇に解けるようにシャハン隊は一瞬にして消えて行く。


皆仮面から覗く瞳が月光を反射してぎらぎら光っているように見えた。




雨月旅団を率いるアシャは己が到達点を間近にし逸る気持ちを押さえつけ黄迫軍に続き従軍していた。


雨月旅団と言う大きな傭兵団を持ち武力を手にした。

だが領土の小さなルーザースでは地位や領土を得ることはでき無い。


黄迫軍に付き従いグレンデルさえ討てば残る北方諸侯は瓦解する。


後は黄迫軍と共に反乱分子である貴族を討ち何処か一領地を得るも良し、ファブニルが信ずるに値しなければ何処かを雨月旅団で襲撃し実効支配するも良し。そう考え戦の趨勢を見極めようと注意を払い続けていた。


グレンデルは領内を踏み荒らされるを良しとせず領土の東端の街エケベルに籠っている。斥候よりエケベルは要塞化されているとの報告が有ったが、決して守り易い土地では無い。倍以上の数で当たれば陥とす事は難しく無いと考えられた。


3日も行軍すればエケベル近郊に到着する。

今まで少なくない戦に参じたアシャだったが、今回の戦は間違いなく未だ嘗てない規模となることは明白だった。既に周辺各国も含めた動員兵数は10万を超え、クサビナ王家の方針如何では15万も越える事が予想された。


今何故王家が動かないのかは分からないが、アシャのやる事は変わらない。

戦い、武功を挙げるのだ。


つらつらと自身の幕営の中で考えていた。

蝋燭の細い灯りが揺らめきアシャの影を揺らしていた。

寝台に腰掛けたアシャの足に地面から振動が伝わる。


「敵襲か?」


考えるが斥候から伏兵の報告は無い。戻らなかった斥候も存在していない。


クサビナは平地が多く、森がまばらな箇所が時折見受けられるが、伏兵の可能性がある地は全て調べさせて報告させている。

伏兵はあり得なかった。


地響きが少しづつ近付く。

アシャは慌てて幕営から鎧を身に付けながら出ると仮眠を取っていた兵士達も幕営から出て来る所だった。


皆一様に西の方角を見つめて話し合っている。


「お前ら!ぼさっとするな!装備を整えて敵襲に備えろ!」


馬を持たせ鎧に乗ると諸侯の陣営が慌しく人が動き回っている様子が見て取れた。


「アシャ。どうする?」


白狼隊の隊長スプンタが寄って来て尋ねる。


「四方雁行の陣で西を二重。一層目を長槍、二層目を弓だ。」


スプンタと他の2隊長が指揮を始めアシャを中心に陣形が築かれていく。

そうこうしているうちに騒動が徐々に近付いてくる。


松明の灯だけでは遠くで何が起きているかは確認出来ない。

近付く地響きに兵達は怯え、互いの顔色を伺っていた。


「…クシャラ、斥候を出せ。」


青龍隊の隊長クシャラに指示を出し様子を窺わせる。

その時だ。風に乗って男の悲鳴が聞こえ始めた。


「間違いない!行軍方向から敵襲!距離からして黄迫軍と交戦中と思われる!敵は騎馬を想定しろ!四方雁行の陣を変形、五重笠の陣を取れ!一層そのまま、二層長槍隊!三層四層盾兵!五層弓隊!急げ!」


アシャの指示で生き物のように隊列が変わる。

そして闇の中から何が近付いて来るのか息をこらし武器を握り締めて伺った。


アシャの目は到頭松明が飛び散って行く様子を視界に収めた。

いくつかの幕営が炎上して周囲をより明るく照らす。

その灯りを背に黒い塊が四方八方に飛び散って影を残した。

人だ。人が何かに吹き飛ばされて宙を舞っているのだ。


鳥肌が立った。


地響きも悲鳴も雨月旅団の陣営に猛烈な勢いで近付いている。

アシャが漸く自軍に何が起こっているのか確認できた時にはそれは眼前まで迫っていた。


「はははははははははははっ!殺せ!殺せっ!」


黒尽くめの猿を模した面を付けた男が巨大な猪の牙を掴み片手で槍斧を振り回して駆けてきたのだ。体高と幅は人の身長の2倍。下顎から突き出た4尺にも及ぶ牙は苔生しており先端は皹が入っている。


アシャはそれが現実の光景か分からなかった。

大猪の後ろには一回り小さな猪が続き、黄迫兵をなぎ倒していた。


後ろの猪の何頭かにも黒尽くめの者達が登場し武器を振るっている。


「うわああああああああああああっ!?」


誰かが叫ぶ。

それに吊られ彼方此方で悲鳴が上がった。到頭それらが雨月旅団に肉薄する。

先頭の猪に向けられていた長槍は男の槍斧にあっさり全て跳ね除けられる。


そして二層目の水平に構えられた槍を返す手で薙ぎ払う。

信じられない膂力だ。槍と一層目の兵士を薙猪は勢いを微塵も衰えさせずに盾兵にを抜き怒涛の如く去って行く。


後には武器を掠らせることもできずに押し破られた兵達と幾許かの死傷者が残されただけである。


「何だ…今のは……」


惨状を呆然と見遣った。

正にあっという間の出来事であった。


「ハウルト様!?」


「隊長!?お怪我は?!」


赤鬼隊の隊長が地に倒れていた。

一瞬死んだのかと不安に駆られたがすぐに兵の手を借りて起き上がる。


アシャは馬を寄せてハウルトに声を掛けた。


「大丈夫か?」


「…ええ、何とか。ですが凄まじいですね。女の戟を受けたのですが、受けきれず飛ばされました」


「…女?」


「ええ。渦巻きの形をした仮面を付けてましたが胸が揺れてたんで…」


「そんなものを見ているからやられかけるのだ。…クシャラ!奴等が引き返して来ないか…あ?」


地響きが再び近付いて来る。


「再劇だ!攻撃を受けるな!奴等は直進するだけだ!」


再び大きな猪とそれに追従する集団が視界に映った。

巨大な一頭の後ろに30頭の一回り小さいがそれでも大き過ぎる猪が続いている。内5頭の上に黒尽くめが跨って脇で盾を掲げる盾兵を長柄の武器で薙ぎ払っていた。


「殺せ!我等への恐怖をその目に!脳裏に刻み付けろ!はははははっ!」


隘路に伸びた1万の雨月旅団の中を猪達は僅かな時間で駆け抜け、黄迫軍の尻にぶち当たって行った。


この日、夜襲で死傷した兵は全体からすれば微々たるものだった。

3桁を少し超えた程度だろう。


しかしたったの5人に僅かな時間で負わされた被害と考えれば印象は覆る。


そしてアシャを始め、各陣営の首脳陣や兵達はグレンデル側に恐ろしい力を持つもの達がいることを明示され、士気を下げる事となった。

敵は5万の兵を横断したのだから。




エケベルの町長館で1刻半待機していたグレンデルの首脳陣はじっと佇む黒尽くめ達と無言の空間でただ見つめ合っていた。

そんな中唐突にガンケンと名乗った男が顔を上げる。


「夜襲が成功しました。とは言え敵は大軍。被害は微々たるもの。しかしこれが一晩に何度も、連日に渡りくれ返されればどうなるでしょう?」


「…成功?本当に夜襲を敢行したのか?」


ガリアが疑問を投げつけた。


「そちらの暗部は今早馬を走らせている様です。半刻程でエケベルに辿り着くでしょう。」


「っ!?」


ガリアは自分の管轄する暗部の動きが把握されている事実に息を飲むが、それでもまだ半信半疑であった。


「…もしそれ程の速さで情報伝達が出来るならこれはとても有利な事だし、先程の夜襲にしてもかなり有意に事を運べる。」


オスカル・ガレが眉間に親指を押し付け地図を凝視しながら言う。


「オスカル殿。予定通りこのままエケベルで敵軍と当たるか?」


「ええ。まずは一度ここで敵の勢いを食い止め気勢を削がなければグレンデーラまで止める事は叶いません。……ねえ、シンちゃん、いるんでしょ?」


オスカルの問いかけに狐面の男が仮面を外す。

コンドールはその男を注視した。

最も強いだろうと見立てた男だ。そしてこの男がカヤテを娶った。

武を尊ぶグレンデルではあれど、カヤテを妻にと望む男は居なかった。

余りにも強い為に男が恐れをなしたのだ。

そのカヤテをか弱い女の如く扱うこの男にコンドールの興味は尽きない。


シンカは無表情で中指と親指を折りたたんだ右手を軽く上げてオスカルに合図を出した。


「リンレイ殿、ガンケン殿。申し訳ありません。どうしてもシンカ殿と会話するのが楽なもので…」


「構いませんよ」


リンレイが柔和に答え、ガンケンが頷く。


「グレンデーラに続く各方面からの路を皆さんに監視してもらう事は可能なの?」


早速オスカルはシンカに向けて話しかける。


「既に配置している。国内の大都市から人口500人以上の街までも同様。最も遠いバラドゥーラの情報でも2刻もあれば情報は行き渡る。他ラクサス、ロボク、マニトゥー、アゾルト、ランジュー、ガルクルト、リュギル、ルーザース、オスラク、アガスタら周辺諸国からの情報も入手可能だが、此方は1日、2日の差が生じる。」


「凄い!そんなに凄い伝達網があるなら色々な事が出来る!」


オスカルは地図上の駒を睨みつけ、頭を掻きむしった。


「…森渡りの夜襲はかなり有効だけど、このままだと斥候狩りが始まるかな。ガリア殿、ウォルサム殿、狼達が夜襲の報を持って来て確証が得られたら敵軍を張っている彼等を下げましょう。シンちゃん、恐らく敵は隊を割って迂回路を進み、エケベルで青鈴軍を釘付けにしつつ別働隊でグレンデーラを襲撃。或いは背後から挟撃。私ならそうする。」


「兵数は2倍半ですからね。無理に落とそうとしなければ4万もあれば十分。1万でグレンデーラを落とすのは至難でしょうから、此処は大きく回り込んでエケベルの背を突く方が現実的ですね」


オスカルにシャーニが答える。

グレンデル一族がそれに混ざり議論を始める暫くすると広間の戸が叩かれる。


コンドールが入室を促すと汗だくの一族の女が駆け込んで来た。


「火急の用にて直答御免!2刻程前に猪に乗った5人程の者が野営中の敵軍に突撃致しました。」


コンドールはよくわからない単語に眉を顰める。


「…5人?」


「は。それと猪30頭であります。その者達はエケベル方面の路から突撃して行きました」


「その者達はそこに立つ者と同じ格好であったか?」


急ぎ此処まで辿り着いたのだろう。荒い息を堪え、額から大量に汗を滴らせている。

狼の女はちらと周囲を見て腰の剣の柄を握った。

気付いていなかったのだろう。


気持ちは分からないでもなかった。

これだけ鍛え続けたコンドールでさえ今の彼らから気配を感じ取ることができないのだ。


戦えばコンドールが勝てる相手も数人見受けられる。

だが事気配の有無に関して言えば不気味な程に感じ取れないのであった。


「は、はい。面の造形は異なりますが…」


答える狼の女を下がらせる。

疑ってなどいなかった。しかしたったの5人で5万の軍勢に夜襲をかけるとは正気を疑う選択だ。

コンドールは森渡りの様子を伺う。


「誰だ?」


「シャハンだ。」


「酔っていたのか?奴は馬鹿か?」


どうやら森渡りにとっても正気の選択ではなかったようだ。


コンドールは考える。

カヤテの式に出たミトリアーレとカネラ、それにダフネからの連携は受けている。


カヤテが結婚したシンカという男はコンドールの一人娘ミトリアーレを謀略から救い、ロボクの侵攻からグレンデルを救い、アゾク要塞で青鈴軍を含む多くの兵を救った。そしてたった1人でコンドールらが切り捨てたカヤテを救った。


彼の逸話は眉唾な話が多い。

しかし己の娘やカヤテ、ダフネ達が虚言を吐くとも思えない。


コンドールははたと思い至る。

ケツァルに潜り込ませていた狼の報告に狐面の男が1人で王城正門から乗り込んだと。

皆シンカの仕業だと言った。

彼が被っていた仮面は正しく黒い狐である。


「シンカ殿。其方は何故狐の面を被っているのだ?」


コンドールは尋ねる。

一族の者は突然何を、と言った様子でコンドールを見た。


「…争い事に身を投じるは其れを避けられなかった己の不徳の為すところ。その恥ずべき顔を隠し剣を振れ。そんな言葉が我等には伝わっています。皆、不徳とは思っておりませんが、肌の色は闇に浮きますので仮面を被ります。…仮面の形状は家により変わります。本来私の家は人の顔を型どりますが、私は十指という立場にあり、十指の者は獣を象った面を被ります。私は黒い狐が好きなので狐の面を着けています」


この場に獣の面の者は4人。皆コンドールを含めた一族の者より腕が立つ。


狼の面を着けた男、雌牛の面を着けた体格の良い女、白髪交じりの髪が漏れ出ている熊の面を着けた男、一角馬の面を着けた華奢な女。一体何をどうすればこれ程腕が立つ者が揃うのか。コンドールは疑問に思った。


オスカルが森渡りの伝達能力を元に戦略、戦術を組み立て、それを皆が確認する。


「連日の夜襲で睡眠不足の敵兵が相手であれば出城を建てて先鋒を其処で受け止め跳ね返すのも手でしょう。出城には本陣から兵を出し、引き上げ時は南北の塔から援護を行えば無事に本陣へ帰れるでしょう。」


「出城建築には森渡りも協力しましょう。スイデン。スイ家とヒン、コウ、ハン、テン、ウン家を率いて出城建築に協力して下さい。」


オスカルの言葉を受けてリンレイは岩魚の面を着けた男に指示を出す。


「承知」


男は左拳を顳顬に当てるとその場で飛び上がり、梁に掴まり、よじ登りそのまま消えていった。


「…では出城の建築は儂が請け負おう。トクサ、行兵を選出せよ。」


「では私はマトウダ様のご指示で図面を起こしましょう。」


マトウダとシャーニが話を始め、トクサが部下を呼び出し指示を出し始める。


戦の準備が着々と進められていく。

コンドールはかんがえる。

グレンデルを打倒しようと企むファブニルは再起不能な程に叩き潰さなければならない。


先のマニトゥー大使暗殺とその濡れ衣。己の娘を、跡取りを謀ろうとしたのは彼等に違いない。

家としても父としても許すことは出来ない。


王家も同じだ。

この戦の結果次第ではグレンデルはクサビナ中から逆賊と見做されるかもしれない。

だが千年に渡る忠節をこの様な形で裏切った王家に降るはグレンデルの威信に関わる。


結果がどうなろうと戦わなければならない。

それが武を尊び名を築いてきたグレンデルの当主としての矜持であった。


グレンデルはこの森渡りという一見怪しげな者達と生死を共にする。

見方によっては危険極まりない選択だろう。

だが、これ程の武を誇る者達と生死を共に出来る事は一武人として誉に値する。


当主として有るまじき考えなのは分かっていたが、コンドールは彼等への好意を元に受け入れたのだった。




東進する対グレンデル連合は連日の夜襲に碌な睡眠も取れず行軍速度を遅らせていた。


敵の夜襲は多岐に渡った。

初日の猪の爆走から始まり森の中から兵糧、幕舎に向けての火矢や火行法。


高低差のある崖を通る際には岩や矢、行法を降らせられる、湿地帯では水を増水されて足場を乱され、時には指揮官を狙った狙撃まで敢行されていた。


領主が2人と指揮官数名が犠牲になり、防御系の行法が常時行われる形となり、負担も増えていた。

最初の夜襲から3日後の夕刻、黄迫軍の陣営で戦略会議が行われていた。


ファブニル公シカダレス・ファブニルに次男のゼンマ。黄迫軍の軍団長を務めるグネモに副団長のトウヒ。血族数名に部隊長数名と黄迫軍の分隊である強襲部隊、銀鳴隊の隊長ウラジロ。


ルーザースから援軍として訪れた雨月旅団のアシャと隊長の1人ハウルト。


クサビナ貴族ヴィゾヴニル候を筆頭に中央諸侯が13名。彼等の軍事を担う者が40名のそうそうたる人員である。


「まさかグレンデルがこの様な手を取ってくるとはな」


盟主であるシカダレスが苦々しい口調で話す。


「森に潜んで夜を待つ。諸刃の剣の戦法です。山狩りをしても痕跡すら見出せない。かなりの手練れです」


黄迫軍副団長トウヒが答える。

彼は山狩り隊を部隊長に行なわせていたがその部隊長を狙撃で殺されていた。

敵の姿は確認すら出来ていない。


「グレンデルの狼か。歯痒い」


当主の次男ゼンマがぼやく。

首脳陣を含め皆寝不足で顔色は悪い。


「トウヒ殿。黄迫軍1万を率いて北の隘路を行進み、大きく迂回しエケベルの後方に出て強襲して頂きたい。敵はこの動きを読んでくるだろう。ウラジロ。銀鳴隊を引き連れてトウヒ殿に先行して隘路の周辺に火を放て。この時期の森は延焼はしない。煙で狼を燻り出せ」


ゼンマの言葉にトウヒとウラジロが両手を突き出してから胸の前で手を握り合わせる。

心に風あり。

ファブニルの敬礼である。


「隊列を変えましょう。先鋒の皆様の軍勢は度重なる夜襲で疲弊しています。黄迫軍が位置取りを変えて先鋒を担いましょう」


規模は小さく、被害も少ないが度重なる夜襲の影響は大きい。

特に諸侯が位置する軍勢の先鋒は夜襲時に必ずと言っていいほどに被害を被っていた。


「いや!それには及びませぬぞ!少なくとも我が軍はこの位置取りを変えるつもりは断じて有りませぬ!」


ヴィゾヴニル候が木製の机を平手で叩き、大きな音を立てる。

他の諸侯達も口々に同意した。

彼等の怒りは凄まじい。

グレンデル領に入れば全てを蹂躙し尽くす勢いだ。

口々にグレンデルに対する罵詈雑言を並べ立てる。


「皆様がそうも仰るのであればこのまま進みましょう。…但し、くれぐれも黄迫軍本隊が追い付くまで敵に攻勢に出てはなりません。如何なる罠が仕掛けられているか分かりません。タングリス伯、ヒルディス伯、お二方は半数の500づつを割き銀鳴隊同様周辺を焼き狼どもを燻り出して下さい。狼狩りです」


諸侯もゼンマもうっそりと笑う。

ファブニルはこれまで千年の間、常にグレンデルと比較されてきた。

ファブニーラを発展させ、森を切り開き交易を行い国を富ませようとその一振りの豪剣で群がる外敵を斬り払うグレンデルに劣って来た。

兵を鍛え、将に至るまでもが武に行法を鍛えたが今一歩及んで来なかった。


確かにグレンデルは強い。

欲が少なく興味は己の武と土地、人民にしか目を向けず、しかしファブニルよりも厚遇されてきた。


確かにファブニル一族はグレンデルの精強さには一歩劣る。


しかしそれでも十分な強さで国土を守って来た。

それに加えて巧みな話術や賢さでクサビナを守って来た。


クサビナ建国時、初代の国王となったモウテ・フレスヴェルとバウム・グレンデルが友人であったというそれだけで後から同盟を結んだファブニルが幾ら努力しようとグレンデルより厚遇される事は無かった。唯の一度も。

千年もの間。


シカダレスはグレンデルが男系の後継を作れなかったと知った時、精霊の啓示であると考えた。

グレンデルが滅ぶ時だと。そして十余年かけて策を巡らせ、謀略を仕掛けた。


上手くはいかなかった。しかし細く繋がる糸を手繰り寄せ、ついにグレンデーラに向けて兵を起こすに至った。

シカダレスの脳裏にこびり付いた記憶が蘇る。

まだ若かりし頃エメリック王子の出生祝いに参内し、シカダレスは始めてコンドールと顔を合わせた。


歳も近く、剣も行法も修練を積んでいたシカダレスはまだ見ぬコンドールを常日頃から意識して己を磨いて来た。


そしてあの日。顔を合わせ、シカダレスは敵意を剥き出しにしてしコンドールを見遣った。

だがあの男が目を向ける先に自分はいなかった。


何を考えているのかも分からぬ表情で淡々と祝辞を述べて彼は直ぐにケツァルを辞した。

屈辱だった。


以来ずっとあの顔が憎しみに歪む様を見たいと考えて来た。


それは妄執と言えた。

ファブニル一族の誰しもが多かれ少なかれこの思いを抱いていた。


内政を仕込んだ長男のフィリコと軍事を仕込んだ次男のゼンマ。

漸く彼等は辿り着いた。グレンデルの領土最東の街、エケベルまであと1日の距離だった。




エケベルでオスカルは地図を眺めていた。

森渡りの襲撃が功を奏しファブニルの進軍は予定を2日押していた。


「オスカル殿。」


鋭い眼光で穴が空くほど地図を見るオスカルにリンレイが話しかける。


「…なにか?」


「連絡が。貴方の読み通り1万程が本体を離れ北路を取ったと。それから赤毛で長髪の男が先遣隊を率いて森に火を放ちながら進んでいるようです。」


「一族の人は大丈夫なのですか?」


「この時期の木々は水分を多く含みます。油を撒いても延焼はしません。下草や腐りかけた落ち葉が燻って煙は出るでしょうが」


森渡りは既に各地に散りこの町長館にはリンレイとガンケン、それにエンクと呼ばれる炎を象った仮面の男が残りグレンデル首脳陣に情報の連携を行なっていた。


オスカルの友人シンカは街を出て北の塔に入っており此処にはいない。


「その煙は大丈夫ですか?」


「ええ。問題は有りません。今は土蔵を作り篭っていますよ」


「良かった」


溜息を吐くオスカルを半眼でシャーニが見ていた。

オスカルは森渡りに対し感情を移入し過ぎるきらいがあった。


命を救われたシンカの親族と言うことを気にしているのだ。

シャーニはシンカの一族がどうこうなる筈がないと考えている。


「その男、ウラジロ・ファブニルですね。赤髪のウラジロ。長曲剣を自在に操るファブニル一の手練れです。王剣流仁位、風行、水行法使いです」


シャーニは話す。


「クサビナの三英雄の1人か・・。ウラジロは何か強い行法を使うの?」


「カヤテ様には及びませんね。しかしあの男の操る竜巻は巨大です。対策をしなければ少なくない被害が出ます。」


ウラジロ・ファブニルは30前後の男で十年程前のガルクルトとの小競り合いで名を成した男だ。


北東の国境線を挟みバラドゥアとガルクルト貴族が衝突し、ガルクルト王軍が増援を送った。

対抗して派遣されたのが黄迫軍であり、ウラジロは中隊長としての参戦であった。


ウラジロは多くのガルクルト兵を斬り刻み、巨大な竜巻で100を超える重装兵を巻き上げ一度に殺した。


風にたなびく赤毛の髪をもって赤髪のウラジロとして名を成した。


「ウラジロはそのまま進んでエケベルの背後に現れる。何もなければ3日後に。リンレイ殿、ウラジロと背後の分隊を1日到着を遅らせる事は可能でしょうか?」


「可能です。やりましょう」


「ガリア殿、ウォルサム殿、斥候狩りを引き続きお願いします。出城は敵諸侯勢の到着まで見られたく有りません。」


「分かった。」


「引き続き。徹底させます」


狼を動かすガリアとウォルサムが短くオスカルに答える。


「マトウダ殿、先行する諸侯勢千を先んじて叩きましょう。彼等は襲撃で怒りに燃えている。必ず食らいつきます。一当てして退いて下さい。出城に引き付け、殲滅します。先遣隊が殲滅された事を知った諸侯勢も同じ様に喰らい付くでしょう。これを出城で迎え撃ち打撃を与えましょう」


「分かった。千の兵をゲルトに付けよう。彼奴は騎馬での強襲、撤退戦が得意だ」




森暦196年夏下月下旬、森に火を放ちながら進むタングリス伯とヒルディス伯の先遣隊は中央諸侯勢に先立ちエケベルの街近郊の平原に到着した。


500づつの軍勢を率いるのはタングリス伯の三男アーネスト・タングリスとヒルディス伯の次男ジョシア・ヒルディスであった。


彼等は若く初陣であった。

2人が平原に馬を進み入れた時、奇妙な臭いが漂っていたがそれにさしたる違和感を持つことは無かった。


「…砦?」


ジョシアは平原の先に見える扇状の壁を見て疑問を抱く。


「エケベルに砦があると言う話は無かったですが」


馬を並べたアーネストが返す。


「報告しましょう。伝令を呼べ!……ん?」


広い平原にグレンデル兵の影は見当たらない。

しかし馬蹄が出す地響きが耳に届いた。


「敵影は有りませんが…なんだ?」


中央諸侯勢の失点はいくつかあった。


エケベルに物見に行かせた斥候が帰らない事を当然敵が行うであろう斥候狩りと判断したこと。


唯の小規模襲撃部隊の炙り出しと考え戦さ経験の少ない若者に経験を積ませようと考えた事。


騎馬の先頭が森から現れた時、2人は何の戦闘準備も整えられていなかった。


「て、敵!?森からだと!?」


「応戦しろ!」


2人は咄嗟に指示を出した。


彼等が平原に踏み入った時に漂っていたが臭いは魍魎避けの薬煙であった。

森渡りが軍を森に隠す為に焚いていたのだ。


先頭をかけるエリヤス・グレンは青鈴軍に於いて苛烈で名の通る男だった。


「続け!俺に続け!豚どもの腑を食い散らかすぞ!」


馬に揺られながら抜刀し掲げてタングリス、ヒルディス分隊の横腹に突撃した。


2隊は散発的に矢を放ったがその幕は薄く矢は打ち落とされて1人もかける事なく突撃を受けた。


森を抜けたばかりで伸びた隊列はあっさり分かたれる。


地鳴りと共に駆け抜けゲルト・グレンデーラの隊は円を書き方向を転じると浮き足立った兵に正面から突撃した。


「腰抜け共が!黄迫軍を出せ!貴様らでは相手にならん!」


エリヤスは馬蹄の響きと剣戟、雄叫びに掻き消されないよう大声で侮辱をする。


尋常ならざる大声であった。


「雑魚共が!興醒めだぞ!早く消え失せろ!ただし睾丸は置いて行けよ!」


馬上で伯爵軍の騎兵を豪剣で斬り伏せながらエリヤスは挑発を繰り返す。


「おのれ!汗猿め!皆この卑怯者を押し返せ!」


突撃をぎりぎりで持ち堪えた様子を確認しアーネストは叫ぶ。


「狼狽えるな!奇襲を仕掛けて尚押し留めている!グレンデルとは大したことがないな!」


混戦が続き半刻、敵味方入り混じった戦場でじりじりと青鈴騎兵が退がり始める。


「退け!出城へ撤退しろ!」


ゲルト・グレンデーラが声を張り上げる。

周囲の兵を斬り倒していたいたエリヤスも声に合わせ馬首を返した。


「糞がっ、退け雑兵!」


自身の馬の両脇でエリヤスを狙う騎兵の頭を続け様に叩き割ると馬を走らせる。


「敵は我等に背を向けたぞ!追い縋り討ち果たせ!」


ジョシアは剣を持った右手を真っすぐと伸ばして剣先を走り去ろうとするグレンデル勢に向ける。

数は同数。

しかし勢いはこちらにある。

馬を駆り出したジョシアにアーネストも続く。


出城からぱらぱらと矢が放たれる。

騎兵も歩兵も丸盾を掲げて矢を防ぐ。

脱落者も現れるが微々たる被害だった。


逃げるグレンデルの背中にもう少しで追い縋れる。

その時遠くから高く鋭い笛の音が響き渡った。

散発的だった矢が滝の様に降り注いだ。大地に畑の作物の様に矢が生え立った。


始めの掃射でジョシアは全身に矢を生やし息絶えた。

アーネストは太腿と肩に矢を受け落馬する。


「ジョシア様が!?」


「駄目だ逃っ」


撤退を告げようとするジョシアの副官が喉を射られて口角から血の泡を吹き出す。


「アーネスト様!お退がりください!」


兵士達に促され馬首を返したアーネストが見たのは出城の北東の森から現れる一隊であった。

更に今まで追っていたゲルト・グレンデーラの隊も方向を転じ迫る。


「罠だったか……己れ…」


アーネストは呻く。

浮き足立った上に挟み撃ちにされた兵達は成すすべなく命を刈り取られていった。


まともに打ち合おうにも睡眠不足で疲弊していた。

ましてや相手は青鈴軍。

半刻の後には平原は死体と血で覆われていた。




半日後、陽が傾いた頃にタングリス伯とヒルディス伯を含む中央諸侯勢がエケベル近郊に辿り着いた時、そこは様々な魍魎が集る餌場となっていた。


人の集団を察知し鷲爪鴉の群れが飛び立ち、斑紋狼の群れが腕や脚を加えて森に逃げ去る。


「息子は!?息子はどうなった!?」


ヒルディス卿が半狂乱になって平原に飛び出そうとした。


針金蟻の行列が肉片を森へ運び込む様子を見て中央諸侯の盟主であるウィルフレド・ヴィゾヴニル侯爵は剣を抜いた。


連日の夜襲、度重なる兵糧への攻撃。

挙句狼狩りは効果を得られず到着して見れば先遣隊は殲滅されているのだ。


「皆の者!確かに我等はゼンマ殿よりは本隊を待つ様言い含められている!だが!グレンデルのこの所業を許して良いものか!?いや!許してはならない!」


彼等は普段ならもっと慎重になっていただろう。

だが怒り、高揚、欲望、それらが入り混じり正常な判断力を欠いていた。


この状態こそがオスカル・ガレの作り出した状況であった。


グリューネ三英雄の戦術だったのだ。


ウィルフレドの声に領主達も兵達も声を上げた。

地鳴りの様に鬨の声が響き渡り、子を失った2人の伯爵がいの一番に飛び出した。彼等に吊られるように兵達が走り出す。


黄迫軍の頭脳、ゼンマ・ファブニルの意図しない形で戦端は開かれた。


地響きと共に9千の兵が出城に向けて駆ける。

攻城兵器も無い。精々が梯子程度である。


先頭をグレグ・タングリス伯は馬を操り駆けていた。


そこは未だ矢の射程外だった。


グレグを始め兵達は未だ距離のある出城に対し矢除けの対策を取ってはいなかった。


出城の一角に彼等は居た。


トネリコの弓を引きしぼり、弓を番える手から矢に経が流れ、蜷局を巻くように絡みつく。


ファブニル一族に近い髪の色だが、彼等は更に薄い。

麦穂色の髪に白い肌、薄青い瞳。


イーヴァルンの女、ファラが一矢を放つ。


放たれた矢は山形に進まず直線に飛んだ。

その矢は馬を駆るグレグの頭部を正確に捉え、後頭部を破り兜すら大穴を開け彼から命を奪った。


ファラの弓射に続き200人のイーヴァルンの民達が矢を放つ。

風に揺れる己の外套、髪、肌に感じる其れを元に狙いを定める。


彼等の矢は始めの一射同様木々から溢れた光の様に真っ直ぐに進み、一矢も外れる事なく諸侯兵に突き刺さり、後頭部を吹き飛ばして背後に抜ける。


彼等は将校を見定めて狙撃を行なっていた。

馬から落ちた彼等は背後から駆け寄る馬や人の足に踏まれ挽肉となって行く。


本陣で待機するウィルフレド・ヴィゾヴニル侯爵の元に伝令が駆け込む。


「申し上げます!グレグ・タングリス伯爵様、その次男モード・タングリス様討ち死に!」


更にそこへ別の伝令が駆け込む。


「申し上げます!ヒルディス卿の弟君、マルコム・ヒルディス様、その子息のヘンリー・ヒルディス様討ち死に!」


ウィルフレドは机を殴りつけて立ち上がる。


「何が起きておる!急造の砦風情に何が出来る!卿らは何故討ち死にした!?」


「敵勢力に恐ろしく弓の腕が立つ者達がおります!その腕皆百発百中かと!」


「行兵は何をしておる!?」


「風流陣を抜いて頭を吹き飛ばすのです!」


「…誠か?!」


もう1人の伝令も頷く。


「己れ、己れグレンデルめ!全軍で押し潰せ!」


雨霰の様に降り注ぐグレンデルの攻撃の中、梯子が立て掛けられる。


青鈴軍が登りくる兵に矢を射かけ地面に返す。


「そろそろ此処は退こう。場所を移すぞ、ファラ」


「そうね。皆!北の砦に移りますよ!」


告げるヴィダードの兄カリムに返し、ファラはイーヴァルンの民に呼びかける。


イーヴァルンの民が引いた隙間に別のもの達が押し入る。女も男も一様に体格が良く、女ですら6尺を超える者が殆どで、浅黒い肌、額には半尺の角が生えていた。


グレンデル兵が矢を放ち岩を落として撃退する最中、彼等は梯子の前に立ち棘付きの鉄棍を担いで武人像の様に腕を組んでそれを待った。


1人の男がグレンデル兵を斬って梯子から出城の狭間を乗り越えて通路に降り立つ。


「暴風のキース!一番乗り!」


名乗りを上げて周囲のグレンデル兵を牽制する。


「俺がやる!ダゴタのアジズ!お前の頭を潰す者の名だ!」


一際大柄な7尺半もの背丈があるダゴタの民が吼え名乗った。


対しキースが動く。


振りかぶり上段から鋭い一撃を頭目掛けて放つ。

アジズはキースの剣に己れの巨大な棍を合わせた。


キースの剣とアジズの鉄棍がぶつかり合う。

アジズの鉄棍があっさりと打ち勝ち、力負けしたキースの頭が瓜の様にかち割られた。


「はははははははっ!雑魚が!」


アジズは崩れて落ちようとするキースの身体を横殴りにして出城の狭間から打ち上げた。


梯子から次々と登ってくる兵達をダゴタの民の戦士達はその膂力と腕力を持って打ち飛ばしていく。梯子を登り出城に侵入出来る諸侯の兵は居なかった。




「木を斬り倒して丸太で門を破れ!」


本陣でウィルフレド・ヴィゾヴニルが参謀に怒鳴りつける。


「は!直ちに」


参謀は直ぐに控えの兵に指示を出した。

中央諸侯の兵達は消耗激しかった。


「恐れながら申し上げます!ホープニル子爵御子息のサイモン・ホープニル様、討ち死に!マナガル子爵御子息マーティン・マナガル様、オリバー・マナガル様、討ち死に!」


駆け込んで来た兵士が矢継ぎ早に告げる。

同じ報は別陣の子爵達にも届いているだろう。


ウィルフレドのいる本陣からでも木の葉の様に出城から打ち落とされる自軍の兵士の姿を見とめる事が出来た。


切り倒された数本の太い木の幹が戦場に運ばれていく。

途端に矢が丸太に集中し、グレンデル兵得意の火行法が丸太に向けて飛ぶ。


「怯むな!門さえ破ればこの兵力差!買ったも同然!進め!進め!」


ケルヴィン・スジルファル子爵が馬上で張り叫ぶ。

周囲を4人の行兵が風行法で守っている。


「子爵様!キース様が討ち死にされました!」


「なにいっ!?」


暴風のキースはスジルファル子爵に仕える剣客であった。


雨霰の様に降り注ぐ矢の中ばたばたと倒れる兵士達を鼓舞し丸太を運ばせる。


「ヴィゾヴニル候は何を考えている……攻城兵器を待たずして砦攻めなど…無謀にすぎるぞ…」


戦場の騒音にそのぼやきは掻き消される。

ヴィゾヴニルの兵が矢や行法に倒れると代わりにスジルファルの兵が丸太を運び出す。


先頭の丸太が火行法・炎弾の集中砲火を浴びて中央から折れる。


「その丸太は諦めろ!砲火から丸太と運び手を守れ!行兵!何をしている!砦の兵は精々3千、此方は9千!怖気付くな!」


周囲の兵達が雄叫びを上げて進んで行く。


「俺に続けぇ!盾を構えろ!密集陣形を取れ!」


巨漢の髭面の男が叫ぶ。

ケルヴィンが抱える傭兵のグラントルである。


彼には500の全軍の内100を預けていた。


風行法の壁を矢が一矢抜けて風を切る音と共にケルヴィンの脇を抜けていく。

土埃と共に駆け行く諸侯の兵達が倒れて行く。

それでも始まってしまった以上引くことは出来ない。


子爵であるケルヴィンが侯爵であるヴィゾヴニル候に逆らう事も出来ない。


出来ることは如何に兵の消耗を避けるか、如何にして目的を遂げるかだ。


「遅れるな!遅れれば針鼠だぞ!」


密集陣形を組んだグラントルの部隊は行兵を守りつつ進む。自身は巨大な鉄の丸盾1つで身を矢面に晒し、兵士達の雄叫びや絶叫の中味方を鼓舞してじりじりと進んでいた。


砦の上で1人の兵士が手を振るのがケルヴィンには見えた。


火線が一直線にケルヴィンに伸びる。

火行法火綱渡り。


しかし炎の射線はケルヴィンを囲む風流陣に流されて脇の大地に突き刺さり土塊を周囲にまき散らした。


「進め!このままではただの的だ!門を打ち破り敵に目に物を見せてやるぞ!」


近くの兵士達が雄叫びをあげる。

地響き、爆音、絶叫、雄叫び。それらの音で鼓膜が痛む。


一際大きな炎弾が飛来しケルヴィンの20歩先に着弾した。

すぐ近くにいた兵士が爆発で足と腸を撒き散らしながら高く舞い上がった。


ケルヴィンは雨の如く振る血を眺めながら溜息を吐いた。


出来ることならこの様な戦には参じたくはなかった。


しかしスジルファル子爵家はヴィゾヴニル侯爵家と外戚関係にある。

ケルヴィンの母がウィルフレド・ヴィゾヴニルの3人目の妹なのだ。


ウィルフレドが母をどう諭したかは知らないが、直接文を送られた上に母に言われれば断ることはできなかった。


じりじりと進み金属製の門まで後20丈まで迫った時だった。

門が開いたのだ。


「いかん!守りを固めて正面を開けろ!丸太は捨て置け!」


グラントルが叫ぶ。

開いた門から何が出てくるかと身構える。

猛将エリヤス・グレン率いる騎兵だろうか。


予想に反して門の隙間からは黒尽くめの男達が現れた。


彼等は面をしており顔は確認できない。


「子爵様!行兵です!お逃げください!」


ケルヴィンを守っていた行兵が叫ぶ。


「お前達を置いて1人で逃げられるものか!…退がれ!全軍退がれ!何かくるぞ!」


声が届いた者が慌てて出城に背を向けて走り出す。


スジルファル領兵は撤退戦の調練も行なっていた。


彼等は盾を背後に掲げて素早く走る。

その背後で黒尽くめの男達数十名が一同に手を着いた。


「土行がくるぞ!急げ!」


グラントルがもたつく若い兵士の首根っこを捕まえて叫びながら最後尾を走っていく。


黒尽くめ達を起点として地面が鋭く針山の様に隆起し、迫る領兵達を貫き始めた。猫の毛が逆立つように、波が襲い来るように土の槍が押し寄せる。


「逃げろ逃げろ逃げろ!遅れるな!止まれば死ぬぞ!」


地面が軋みながら土槍を無数に突き出し逃げ遅れた兵達を貫いていく。百舌の早贄の様に多くの兵が槍に穿たれてぶら下がり、まだ命あるものは呻き踠いていた。


早くに撤退していたケルヴィンの勢力は法の範囲から辛うじて逃れる事が出来ていた。

酷い光景だった。


黒尽くめ達が再度手を地に着く。

砦の門から真っ直ぐに土の槍が大地に吸い込まれ平坦な道に変わる。


すると門から騎兵が飛び出てその道を通り諸侯勢に突撃をかけた。

兵数は約1500。態勢を崩した軍勢に勢い良く突撃した。


数は此方より圧倒的に少ない。だが迎え撃つ事は出来ない。


「皆、退け!奴等の進行方向に位置取るな!」


「密集陣形を組直せ!急げ!」


ケルヴィンとグラントルの指示で自軍の兵士達が集まり固まった。


上空から降り注ぐ矢と行法が収まる。

馬蹄の音と振動と共に騎兵が猛然と駆けて諸侯軍に突撃した。


「微速後退!陣形は維持!」


駆ける騎兵の将とケルヴィンの目が合った。

エリヤス・グレンは携えていた槍を担ぎ上げる。


「おらぁ!」


槍がケルヴィンに向けて飛ぶ。

ケルヴィンは身体を逸らして槍を躱した。態勢を戻すとエリヤスは既に駆け去っており、諸侯軍に食い込んで周囲の兵士の頭を叩き割っていた。


出城の両端部では未だ激しい攻防が続いていたが中央部は既に瓦解していた。


「烈火のエリヤス。名付きだけある戦いぶり。グレンデルには名付きが多いから気が重いですな。子爵様、矢張り黄迫軍を待たなければ…。此処は引くべきです」


「分かっている。しかし他の諸侯の手前此処で引くわけにもいかん」


守りを固めたケルヴィンの部隊を攻め難しと取ったのか、グレンデル騎兵は彼等を避けて背を向けて逃げる兵達を蹂躙した。

そして一通り暴れ回ると馬首を返して出城へ向かう。


エリヤスの兵は此方の反撃により包まれる前に素早く駆け去っていったのだった。


彼等が駆る馬が土煙を巻き上げ、それが微風に吹かれて流れ行く。


後には草地の上に死体が残るだけだった。


ずたずたに引き裂かれた諸侯軍は撤退し出城から半里の位置に陣を張って警戒した。既に日は落ちかけており薄暗かった。


諸侯勢は1万前後の兵数を初戦で4割も失った。惨憺たる結果であった。


夜陰に乗じて獣や鬼、爬が森から抜け出し死体を食い漁る。


黄迫軍が野営地に辿り着いたのは翌日の昼下がりの事であった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る