迎春の宴
森渡りの深い雪で閉ざされた里にも漸く年の瀬が訪れた。
ダーラが1人孤独に夜の書館で干し肉を齧り、寒さに身を縮ませて外套を体に巻き付けながら本の項を繰っている時、シンカは暖炉の側に置いた座り心地の良い椅子に深く腰掛け、林檎酒を嗜んでいた。
当然周りには5人の妻が同じ様に椅子にかけておもいおもいに何かをしていた。
年の瀬は家族顔を合わせて日を跨ぐまで起きている事が森渡り達の風習だった。
ナウラは森渡りの書館から借りた書籍を林檎酒を飲みながら捲っている。
ヴィダードは短剣で
集中して少し尖った唇が可愛らしい。接吻をしたくなる。
ユタは炒った木の実をぽりぽりと食べながらぼんやりと赤い光を放つ炭を見つめている。恐らく頭の中には何も無いだろう。
カヤテは絵を描いている。見える限りでは里の子供が雪玉が投げ合っている光景が小さく描かれている。千穴壁の上、遠くからそれを眺める構図だ。
こう見る限り美しく見えるがその実は酷かった。高度な技術で球を投げ合う3人2組の子供達に脇で酒を飲みながら勝敗を賭ける大人達。
最後はランマという少年が12発雪を立て続けに掬い投げた後に4尺飛び上がり空中から4発を投げ付けた所で勝敗が付いた。
その場でその技には礫連弾という名が付き、スイ家の男が土行法でそれを再現していた。
カヤテは本当に絵が上達した。物によっては値が付く物も最近は描けている。
リンファは僅かに微笑みながら目を伏せて指輪をなぞっている。
この雰囲気を楽しんでいるのだろう。何か物思いに耽ていた。
この光景をダーラが見れば本当に発狂して憤死すらあり得るだろう。
世の中の幸不幸とはそんなものだ。
「ユタ。そろそろ食べるのは辞めたらどうだ?明日は嫌という程食事が出る。」
惚けた表情でユタが顔を上げた。それでも尚目付きは悪い。時折山砂狐を彷彿とさせる。山砂狐は驚く程不細工だがユタは愛嬌がある。
「?」
シンカは溜息を吐く。
「明日の為の料理を皆で作っただろうが。里の皆で餅搗きもする。この時間に食べ過ぎると明日の料理が台無しだぞ?」
「大丈夫だよ?いつでも食べられる。心配性だね、シンカは。」
「・・心配?」
首を傾げる。ユタと話していると良く物事や言葉の意味があやふやになる。
「いいわね、好きに食べられて。普通の女は腰回りとお腹を気にしてそんなに食べないのよ?」
「腹筋してるもん。」
因みにシンカは女特有の謎の腰肉の手触りがとても好きだ。自分の上に跨った女の腰肉は必ず触って撫でて掴む。
この謎の肉が有るのは残念ながらナウラとリンファだけだ。
とは言いつつもユタは豆の盛られた器を足元に置いて足を小刻みにぶらつかせた。
穏やかな生活だ。これこそがシンカの求めていたものだ。
しかし雪が溶ければ戦争が始まる。
里の者にも死者が出るだろう。
しかしそれでも森渡り達はグレンデルに肩入れする事に決めた。
敵対組織が国家の後ろ盾を得ようとするなら己らもそうしなければ地力に差が生まれる。
幾ら知識や武力に差があれど、それは何れ覆されてしまう。
森渡り達は同胞の人死にを受け入れたのだ。
近頃は雪中行軍の訓練をシン家一同で行っていたが、3日前から訓練を中止し家中の掃除を手分けして行い、昨日と今日の午前中で年明け3日分の食事を作り置きしていた。
そして夕刻位からのんびりと今年最後の夕食を取り、後はゆったりとしていた。
後3日間は訓練も戦争の話も無しだ。
シンカは結婚式の事すら忘却の彼方に流し去っていた。
結婚式の事を考えると腹痛になるのだ。
精神的な物だろう。
「ユタ。シメーリア人女性は30代半ば過ぎれば急激に体型が崩れると聞きます。」
ナウラの言葉にリンファが半目で眼を付けた。
反面ユタは可愛らしく小首を傾げた。
人間の三代欲求は食、眠、性と言うが、ユタは4大欲求だ。つまり運動である。
訓練、修行、鍛錬など身体を動かさない日が続くと寝不足や空腹時の様に不機嫌になる。
そんな日は激しく寝返りを打ち翌朝には1番内側の毛布を寝台から蹴り出すのだ。
何時も食べている所為かユタは暖かく、同じ床で寝る時は夏は暑苦しく冬は抱いて寝ると心地よい。
「ナウラ。酒も太る原因の一つだ。人の事ばかり言えんぞ。」
「この私の減り張りの効いた身体を知っての暴言ですか?」
ナウラはおやおや、と鼻で小馬鹿にした鼻息を吐いた。
「乳と尻に脂肪が溜まっている、つまり脂肪が付きやすいと言う事だろう?」
「かっ?!」
無表情のまま喉から奇妙な音を鳴らした。
矢を鑢で削っていたヴィダードが上機嫌で鼻歌を歌った。
「この際だ。シンカ、其方は誰が1番好きなのかはっきりしてみてはどうだ?」
何がこの際なのか、まるで脈絡が無かった。
カヤテは何時もこの面倒な話題を振る。
全員がその度にひくりと僅かに反応する。
「前から思っていたのだが、それを聞き出して何か良いことがあるのか?順位が仮に着いても終わりの見えない喧嘩が始まるだけでは無いか?」
「カヤテは随分な自信を持っていますね。戦争の駒に」
「言わせんぞ!あの時の私には私なりの立場があったのだ。お陰で大勢の部下やクサビナ兵を生かすことができた。深く感謝している!」
「なんとまあ。それだけですか?気付いていますか?カヤテ、貴女は助けられてばかりです。」
大業な仕草でナウラはカヤテを揶揄った。
その表情は壁の染みでも見つめるが如く色が無い。
「だからこそ恩返しにこうして一緒に」
「なんと。恩返しですか。シンカに対する愛では無いのですね。」
「ち、違う!言葉の綾だ!どうして其方はそう人の上げ足ばかり取るのだ!」
興奮し始めたカヤテを手で制してシンカは口を開く。
「今まで話した事は無かったが、ナウラと始めて出会い話をした時、人間の俺と共にいる事を厭うて狩幡で働いて金を稼ぐと言い出したのだ。」
「シンカ。右も左も分からなかった若い時分の私を責めようと言うのですか?」
「違うな。お前は分かっていた。後ろ盾の無い、況してや人の言う亜人である自分が人の街で碌な働き口を得られないであろう事をな。」
「喧しいですね。色々なことがあり、環境が変わり過ぎていて見通しが立っておらず、誤った事を口に出したに過ぎません。」
「うん。まあそれはいいのだ。だが、あの時と随分と変わったなと改めて思ったのだ。間違い無く落差はカヤテより大きい。」
言うがナウラの表情は変わらなかった。だが褐色の肌、目元がほんの極僅か赤らんでいた。
「あっ!ナウラ恥ずかしがってる!」
ユタが嬉しそうに指摘し、そのユタに無表情で眼飛ばした。
「しかも街を歩くときに人混みで手を引いて俺は怒られたのだ。御導きが下されていない異性の肌に触れてはならないと!親切心だったのに!」
「事実しか私は話していません。シンカ。この話を辞めてください。」
ナウラの目が100分の3寸細められる。
「いやだ。ナウラは俺に常日頃から言っていた。エンディラの民、つまり自分が人間の俺に導かれる事は無いと。それなのにいつのまにか導かれたとか何とかで今度は嫌味を言われたのだ。」
「そうは言っても其方らは私の目からは仲良く映ったぞ?」
弟子として、妹として大切にしていたから。
その言葉をシンカは口に出さなかった。
流石のナウラもその言葉を否定する事はなかった。
「成る程。ナウラは否定しないのか。口では色々言いつつも俺と仲が良いと自覚していたわけか。」
揶揄って口に出すとほろりと涙が右目からこぼれ、胸元に小さな染みを作った。
「いけないのですか?」
突然の事に一同何の挙動を取ることも出来なかった。
「仲が良いと思っていてはいけないのですか?」
頭を掻いて唸る。
まさか揶揄って泣くとは思わなかった。
ナウラはその面の皮の厚さに似合わず情緒豊かで涙脆い。
シンカは泣いているナウラを見て焦りや申し訳なさは覚えない。
自分の性格が歪んでいるのか分からないが愛らしいと思ってしまうのだ。
カヤテ、ヴィダード、ユタは珍しい物を見たと言う表情だ。
リンファは付き合いがさして長くないためシンカとナウラの顔を交互に見比べている。
「お前は人を揶揄うのは好きだが揶揄われるのは駄目か。」
「・・・」
こう言う時のナウラは後で不貞腐れながら甘えてくるのでそれを楽しみにする事にした。
「ねぇあなた様?来年の冬は此処で過ごすのぉ?それとも向こうの家ぇ?」
言われてシンカは考え込む。
半年後には間違い無く内乱が勃発しているのだろう。それが冬までに終息しているとは考えにくい。
「コブシの山間に家を建てたんだっけ?いいなぁ。あたしも行ってみたい。」
「次に行く時は皆一緒だ。」
リンファに答えるシンカの顔をヴィダードは見つめ続けている。
少し前ならリンファに対して付いて来なくても良い、等と言っていたが最近は何も言わなくなった。慣れてきたのだろう。
ヴィダードはシンカに関すること以外の感情をあまり維持できない。
それでも今回は長かった方だ。
焚き火の音に混じり遠くから梟がふた声、鳴き声を上げた。
ここまで声が届くと言うなら大きな梟なのだろう。
恐らく月梟だろう。
月影と同じ色の羽毛に大きな身体。羽毛を膨らませると丸くなる事から名付けられている。
「向かいのお山が春になると桜で満開になるのよぉ。」
ヴィダードが自慢げに口に出す。
「温泉も引き込みました。景色を眺めながら入浴する事が出来ます。」
「いいなぁ。ねえ、必ずあたしも連れてってよ?」
リンファは置いて行かれる事を潜在的に恐れている節がある。
少し憐れだが自業自得だ。
肌が若返ります、と無表情で告げるナウラだが彼女は未だ20歳である。聞く人が聞けば怒り狂うだろう。
一同は寛ぎながらぽそりぼそりと会話を続け、軈て大分夜が更けた頃其々の部屋に戻っていった。
こうしてまた1年が終わった。
翌日は連日の曇天が嘘の様な晴れやかな晴天が広がっていた。
積もって固まった里の雪が陽の光を反射して輝いていた。
鋭い煌めきが目に飛び込むと目に痛みが走る程だ。
早くから里の皆は活動を始めていた。
シンカ達も揃って崖を降り大きな広場に集った。
「やあシンカ、リンファ。それにシンカのお嫁さん達。今年も健やかに。」
「父さん。母さん達も。今年も健やかに。」
リン家の皆と挨拶を交わしていると3人の男がやって来た。
クウロウ、センテツ、サンカイの三馬鹿だった。
「おーっ!お揃いじゃねーか!・・何だよ、その朝から嫌なものを見たみたいな顔は。」
「俺の心の内がよく分かったな。」
センテツに嫌味を返す。
「なぁシンカ。俺も到頭今年30になってしまう。誰か良い女の人、紹介してくれないか?閉経は最低条件で出来れば入れ歯している方がいい。」
「本当に気持ち悪い。あんた子孫残す気皆無よね?」
サンカイの言葉にリンファが答えた。
周囲では幼い子を持つ親達がクウロウの視線から我が子を隠していた。
因みにセンテツは女には興味がない。そう言う輩だ。
彼が懸想しているのはシンカの親友であるヨウキだ。
シンカはヨウキが里に帰ってこない理由はこの男に有ると考えている。
この男は細面で清潔感が有り猫っ毛の男を好みとしている。正にヨウキの見た目なのだ。
三馬鹿を追い払った所でとソウハ、ジュナの夫婦を見つけた。
ジュナの腕には1歳程の赤児が抱かれている。
ジュナの腕の赤児を先日共に戦ったジュリが突いている。
「ソウハ!ジュナ!子供が産まれたのか!」
シンカは手を振り声をかけた。
「おめでとう。」
赤児の額に手を当てる。
「良かった!ソウリュウと言うんだ。お前に祝福してもらえるとはな!」
手から経を滲ませて小さなソウリュウの身体を一巡させた。
祝福とは赤児が産まれた際にその誕生を祝い、健やかな成長を願って赤児の身体に経を巡らせる行いを言う。
迷信だが、森渡り達にはこれを行う習慣が根付いている。
産まれた子を連れて祝福を強請りに行く行為は自発的な祝福では無いと見なされているのだ。
そうでなければ子が生まれる度にシンカの元に親が訪れるだろう。
「欲を言えばシンカに師事させたいけどね。」
「俺はもう弟子は取らん。俺のやる気は隣で鮭冬葉を齧っている阿保弟子が全て吸い取っていった。」
皆の視線を集めた三白眼の女は干物を食べながら何故か嬉しそうに微笑んだ。
そんなユタをジュナは呆れた表情で見つめた。
暫くすると5人の長老がえっちらおっちら崖の階段を降りて来て広場の正面、盛り土の上に更に雪が積もった場所に立った。
それを眺める里の同胞達は千を超えていた。
五頭の背後に立つ今日の世話役ジュリンが両手を突き出し追風を起こした。
「皆!また今日より新たな日々が始まる!皆が健やかに過ごせるように一同に祈願したい!」
矍鑠とした挙動で朗々と言葉を発するウンハの言葉に一同は聞き入った。
「・・昨年度は由々しき事態が起こった。我等の同胞が不当に略取され、数名が命を落とした。最期まで争った同胞達の英霊に黙祷を捧げようぞ!」
やや聴き取りにくいエンホウの言葉に皆が俯き目を閉じる。
シンカは再び故人との思い出を振り返り偲んだ。
親を無くして川辺で1人川面を眺める幼いシンカ。その頭を撫でるテンキの柔らかい笑顔を思い出し目頭が熱くなった。
僅かに震えた肩をカヤテがそっと摩った。
穏やかに日々を過ごしていても時折彼らの事を思い出す。
獣に噛み付かれ、抜けて肉に埋まった牙の様にその傷は遺族や同胞を永久に苦しめるのだ。
そして遣り返すと言う事は同じ行いを自分達も繰り返しているに過ぎない。
負の連鎖だ。
だがシンカはそれが不毛だとは思わない。
やられたら遣り返す。己の自尊心を保ち、心を守る為に。
森渡りは1000年前の教訓を元にシンカと同じ思想を持つ。
争えと。
「我等は山渡りにその身を脅かされている!長く人目から姿を隠す隠者の如き在り方を変える時が来た!敵は権力に阿り我等を害そうとしている!里の同胞を、各地に散り根を下ろした同胞を守る為に!我等は大国クサビナのグレンデル一族に助成し憎き王家、魍魎フレスヴェルと事を構える!」
腰痛を隠しアンジが張り裂けんだ。
この話は既に各家に伝わっている。新年の抱負として改めて述べているに過ぎない。
「各家15歳以上を対象として戦士を募る。各家の家長、或いは家長が選出した代理を長とし雪解けの後に参戦する!各自装備の確認、感覚の鋭敏化、練経の訓練を努努怠らぬよう確と心得よ!」
リクゲンが最後に締める。
1000人の同胞達が雄叫びを上げた。
あまりの音量に里の周囲から身体の小さい鳥達が飛び立った。
五頭は不特定多数の前では見栄を張り矍鑠とした様子を崩さないので実物を知らない者からは大層敬われている。その言葉の力は大きい。
「ではこれからの戦に向けて六頭、十指から皆へ向けて言葉を送りたい。前へ!」
集まる集団の中から十数名の男女が抜け出て高台の上に立った。
その数14名。
「おいシャハン!シンカ!お前ら年始早々さぼるとはいい度胸じゃの!?」
足りぬ2名はシャハンとシンカだった。
「いいのかシンカ?」
脇のカヤテがこそこそと耳打ちする。
「行きなさいよ早く!ほら!」
リンファに背を押されて仕方無しに前に出た。
同じく集団から蹴たぐられて前に出たシャハンは猛烈な酒の臭気を漂わせていた。
飲み明かした事は想像するに易い。
億劫そうに十指の場に加わった。
この場に立つのは11年ぶりの2度目である。
「ガジュマ王城の戦いで十指を14年務めたテンキが命を落とした。仲間を守る立派な最期だったと伝え聞いている。そして新たなる10本目の指にセン家のセンヒが選ばれた。センヒ。挨拶を。」
ウンハに促されてセンヒが一歩前に歩み、大勢の同胞に視線を向けた。
緊張で手足が細かく震えているのを察してシンカはそっと両手を握り、口から水蒸気を吐き出しセンヒの身体に柔らかく吹き付けた。
「・・セン家家長センリの長子、センヒです。お見知り置きを。若輩の身では有りますが、戦いの場で皆を率いる一指に選ばれた限りは亡きテンキの様に同胞を守り、里の安寧を保つべく尽力致します。どうぞ私にお力添え下さい。」
一礼して下がると皆の拍手が鳴り響いた。
ウンハは続けて十指達に一言づつ話をさせた。
そして最期にシンカに振る。
「最後に11年の間姿を消していたシンカが戻って来ている。シンカ、話を。」
話を振られたシンカは一歩前に出てナウラ達を見つめた。
「十指、副戦士長のシンカだ。この十数年大陸中を旅して来たが、昨今のクサビナの張り詰めた空気は戦乱の続くどの国よりも張り詰めている。里を出ていた者には肌身で感じられた事だろう。長く安定して来た大陸中央の情勢は1000年振りに乱れようとしている。長く燻り続けた火種が大陸中を席巻する大火となり里まで迫り、延焼させる事だろう。我等はもう傍観者では居られない。森の様子も可笑しい。何かが変わろうとしている。俺は家族や同胞の為に争うつもりだ。皆も自分の目や耳で得た知識を元に何をするべきか判断して欲しい。・・流れに身をまかせる事無かれ。己の目と耳、肌で感じ、争え。その為の力を我等は持っているはずだ。」
若くシンカを始めて目にした者達が騒めく。
その経の濃さ、巡る速さ、多さ、力強さに。
シンカの語りに強弱は無かった。だが多くの者が感化され雄叫びを上げた。
史上初めての参戦である。慄き恐る者は多かっただろう。
シンカとて恐れはある。だがそれよりも家族や友人、知人を守りたいと言う気持ちが遥かに優っていた。
戦争等という愚かしい事に手を汚す事に悩む事もある。
だが長く思い悩んだ先には妻達の顔が浮かぶのだ。
やらなければやられる。だから武器を手に取り経を練る。
思想などただのこじ付けに過ぎない。結局人は自分の身と心を守る為だけに何かをするのだ。
自分が大切だから。家族を失い傷付きたくないから。
魍魎達と何も変わらない。
それがカヤテやナウラ達と出逢って学んだシンカの哲学だった。
シンカに続いて六頭が言葉を告げると新年の集いは終わり、食事の支度が始まった。
戦えなくなった者達や子供達が会場を作り、料理が始まる。
その間に土俵が作られて戦士達が木製の武器を手に試合を始めた。
10代後半から20代中盤までの者達が勝ち抜き戦を始めたが、目を爛々と輝かせてユタが参戦した。
その様子を汁物を啜りながら応援した。
ユタは準々決勝の一つ前で敗れて悔しそうにしながらも笑っていた。
そんな彼女の頭をシンカは撫でた。
酒を飲もうとするとヨウロに腕を掴まれる。
「お前と赫兵の試合を見てみたい。」
「おおっ!いい酒の・・賭けの・・・あーっ、若い者の勉強になるんじゃねーか?」
ヨウロの案にシャハンが乗った。
それを聞いていた周りの者が囃し立て始めた。
シャハンはまるで心の内を隠せていない。私欲に塗れた提案だった。
大陸中で間違いなく十指に入る程名高い赫兵と自分達の腕に自負がある一族で群を抜いて腕が立つシンカ。
その試合に興味を持て無い者は居なかった。
実際シンカとカヤテは修行は共にしても打ち合った事はなかった。
森渡りの無手を教わり更に力を増したカヤテと四行無しで戦ってどうなるか、確かに興味がなくもなかった。
千剣流の徳位に至り、更に無手をも身に付けたカヤテは矢張り木刀を手に取った。
対してシンカは何も持たず土俵に上がった。
森渡りの試合は武器、或いは掌で触れられた方の負けである。
クウハンが土俵際に立ちにやりと笑いながら審判を買って出た。
「すまないシンカ。幾ら夫とは言え私は武人だ。勝ちを譲る事は出来ん。」
カヤテは木刀を扱きながら全身の筋繊維、神経、血管一本一本に経を纏わり付かせた。
「・・・・・」
シンカは右足右手前、左足後ろで2寸程体を落とした。
右手は顳顬から少し前に握って突き出し、左手は緩く開いたまま中段で突き出す。
カヤテは右足前、剣先は中段の千剣流の正眼の構えを取る。
「纏経有り!四行無し!致命傷有り!即死無し!先制一本!・・・始め!」
宣言から僅かな空白も無くカヤテが動いた。
「カヤテ!負けなさい!」
ヴィダードが叫ぶ。
後ろ足で強烈に地を蹴りカヤテは即座に己の間合いを詰めた。
シンカはそれに併せて左足を前に出し半身となった。
続けて握った右拳を強く左掌に叩きつける。
無手・空砲。
凝縮された経が右拳から射出され間合いを詰めるカヤテに向けて飛ぶ。
カヤテは其れを只の木刀で斬り割った。
振り降ろされた木刀が逆袈裟にシンカに迫る。
カヤテの腕前だ。打ち上げて逸らす事は出来ない。
掬い上げるように迫る剣に向けシンカは両腕を交差させた。
無手・牙切り。右腕の尺骨、左腕の橈骨で物を断ち切る技であった。
カヤテは察した。
振りを止めて右脚で地を蹴り大きく後退した。其れをシンカは追う。
後ろにあった右脚を蹴り込んで宙へ跳ねる。飛び退るカヤテとの間合いは変えず天地を入れ替えて牽制に右拳を突き出した。反転し、宙から額めがけて突き出された拳をカヤテは剣の腹で受けた。
ただ受ければ拳から空砲が打ち出されてカヤテは致命傷を受ける。
拳を受けたカヤテの剣は斜めに刃が立てられていた。
カヤテの向かって左側を凝縮された経の塊が吹き抜けて行く。
その先で試合の成り行きを見守っていたラン家の男とテン家の女が素手で空砲を上方に受け流した。
無手・雨傘である。
空砲を受け流したカヤテだが、その身体は衝撃に流されていた。
カヤテはその力に争わず素早く左脚を軸として回転し振り向きざまに剣を振った。
しかしそこに既にシンカの頭は無い。
「ち!」
剣を殴った力を利用しシンカは更に1尺浮き上がり、カヤテの頭上から左脚を垂直に振り下ろしていた。
通常の人間なら鞠のように首が飛びかねない一撃を体を大きく落として躱す。
シンカはカヤテの背後に流れるが、残る右脚を追随させる。
流れる様な2連の無手・羽断ちであった。
カヤテは既に背後に振り返り二足めを打ち払うと剣を振っていた。
「割波!」
出の早い奥義が繰り出された。
地に降り立っていないシンカには避ける手立てはない。
シンカは其れを危なげなく雨傘で打ち払うと地に降り転げ、左右から挟む様に足を振る。二足折り。
其れを素早く摺り足で後退し空振らせると転げたシンカの足を狙い剣を振る。
「ふん!」
稲を刈る鎌の様に振られた剣だが、両腕の力だけでシンカは浮き上がり其れを躱す。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ!っ!はっ!ふっ!」
万全の体勢を整えていたカヤテは息を吐く間も無く縦横無尽に剣を振り始めた。
千剣流奥義、怒涛の剣だ。
経を纏い無手を学んだカヤテの怒涛の剣は止まる事なく200太刀に及ぶ攻撃を繰り出せる。
防戦はさしものシンカも分が悪い。
最初の数撃を雨傘で萎やし逸らすと迫る剣体を落として躱す。
以降を際で見切って紙一重で躱し、距離を取る。
カヤテは其れに追随し仕留めんと迫った。
まだ若い同胞には2人の動きの速さのあまり何が起きているのか判然としていない。
カヤテの怒涛の剣は微塵の隙も窺えない彼女らしい正攻法の剣だった。
性格を表す様に真っ直ぐで振れず、曲がらなかった。
それは読みやすいとも言い変えることが出来る。
攻撃に合わせれば反撃は容易い。
彼女の腕が無ければ、の話だが。
カヤテの剣は速く強い。豪剣だった。
目の前に立つ敵を齢9から屠ってきたのだ。
その一刀をシンカは潜って躱し振られた木剣の後を追う様に手を振り峰から掴みにかかった。
察知したカヤテは怒涛の剣を取り止めて腕を引き付け八相に構えながら後退した。
シンカは追わず数歩下がると転げた事で衣類に着いた土を叩き落とした。
「凄い・・・」
「シンカは兎も角、此れが赫兵か。」
「在野にこれ程の手練れが居るとは・・」
「全然見えなかった!」
「それはお前の修練が足りん。」
観戦している同胞達が騒めいている。
「カヤテ、早く負けなさあい。旦那様にちょっとでも怪我させたら絶対に許さないからぁ。」
ヴィダードの粘つく声にカヤテが眉を顰める。
「ヴィー、怖い事を言うな!私もシンカも加減はしている!」
2人は夫婦だ。どうしても致命的な一撃を避けてしまう。
「おいおいおい!こっちはお前に賭けてんだよ!ちゃんと戦ってくれよ!」
シャハンが瓢箪から直接酒を煽りながら野次を飛ばしてくる。
シンカは考える。
カヤテは強い女だ。シンカであれば寄りかかる事が出来ると考えたからこそ着いてきてくれているのだ。
ならばこの試合、負けは勿論の事、分ける事も許されない。
飯事の様な試合ではあれど自分の腕を示し彼女が己を託すに値する相手だと安心させてやらねばならない。
カヤテの目を見つめる。
カヤテは八相の構えのまま動いていない。相変わらず隙が無かった。
先は反撃を狙った構えを取っていた。
次は異なる。
右足前、左足後。幅は狭く、爪先は内に向き踵が開いている。
左足を1寸半上げて打ち下ろし、足の平から経を噴出させた。
縮地法という歩法がある。
鈴剣流でもその一部が伝わるが、足運びや体捌きで相手の距離感を錯覚させる技術であるが、シンカぎ使った技はその最上位に位置するものだった。
里の者でも体得できる者は限られていた。
無手・蜂鳥渡り。
経により脚力を増し、強く地を蹴り相手に瞬時に迫る事は誰にでも出来る。
足裏から経を放出し爆発的な推進力を得る事も森渡り達には容易い。
しかし其れを同時に行いつつ体勢は一切変えず、地を滑る様に足を動かす事なく進む蜂鳥渡りを使える者はこの里にすら20も居ないだろう。
カヤテの目にはただシンカが後ろ足を僅かに上げ、また地に着けただけに見えていた。
風も無いのにシンカの癖のある髪がそよいでいる。
そう見えていた。
ふと気付けばシンカは目の前に迫っていた。
「あれ?」
ずっと見ていた。
瞬きすらしていない。
それなのにシンカはカヤテの眼前、手の届く距離にいた。
カヤテの翡翠色の瞳とシンカの焦茶の瞳が真っ直ぐと見つめ合っていた。
カヤテは八相に構えたまま透き通る様に白い首を柔らかく掴まれていた。
「其れまで!」
クウハンが制止をかけるが誰の目にも勝敗は明らかだった。
「狡いぞ!何だその技は!?私に隠していたのか?!隠し事か!?」
「凄いよシンカっ!僕にもそれ教えてよ!」
カヤテが悔しそうにシンカの両肩を掴んで揺さぶりユタが背後からシンカに飛びついた。
出遅れたヴィダードがユタを背中から引き剥がそうと奮闘していた。
「すっごい!あれが蜂鳥渡り!」
「始めの打ち合いも俺なら10合でやられてたぞ。」
「シンカとあれだけ打ち合えるなんて、赫兵は人間なのか?」
「鬼が変化でもしたか?」
観客達が其処彼処で此方を見て囁いていた。
「あれだけ綺麗な蜂鳥渡りは初めて見た。ただ呑んだくれていたわけでは無い様だな。」
クウハンがシンカの肩を叩いた。
クウハンも蜂鳥渡りを体得した1人である。
「シンカ。あの気持ちの悪い動きは何ですか?鳥肌が立ちましたが。」
「勿体ねぇ!嬢ちゃん、あれ程の技生きてる内にそう見られるもんじゃねーぜ?」
シャハンが戦利品を手にふらふらやって来てナウラに絡んだ。
その視線は厚着の下、ナウラの肢体輪郭をなぞる様に見ていた。
「ほう?ならば見物料を取らねばな。その手の瓶はリシリア産の黒黍の蒸留酒。それも匂いからして20年は樽で寝かせたものだな。置いていけ。」
「おいっ!」
シャハンは瓶を背後に隠した。
しかし背後にはナウラが回り込んでいた。
「露骨な視線有難うございます。見物料として頂きます。」
ナウラの腕力に敗れて呆気なく高級酒を奪われたシャハンは捨て台詞を吐きながら駆け去っていった。
その手にはカヤテの勝利に賭けた者達から奪った戦利品がまだまだ抱えられていた。
森渡りの里では決して強い者が異性の眼鏡に叶うというわけでは無い様で、試合で勝った男に女が群がる訳でも無かった。
しかしシンカの様子を遠巻きに伺う若い女がちらほらと伺えた。
目敏く察知したナウラはヴィダードと視線を交わしシンカを守る様に立ち牽制し始めた。
ナウラの記憶では大陸中の様々な街で一定数シンカに視線をくれる女は現れていた。
その気持ちが分からないナウラでは無かった。
シンカの経は兎に角強く濃く、彼の側にいれば経に包まれて心安らぐことが出来た。
人間は導かれないと言うからまだ良いが、イーヴァルンやエンディラの民であれば一度彼に導かれれば取り返しのつかない事になる。
なるべく連れて行きたくは無かった。
挙式の為に里に帰るのであれば里の女の目に触れない様注意しなければならない。
始めナウラには予想だに出来なかった。
何故御導き相手に複数の妻が居るのか。
己が導かれたのにも関わらずシンカは何処吹く風で苦しんだ事も懐かしい。
これ以上増えない様5人、いやユタは役に立たないので4人で厳戒態勢を敷く必要がある。
そう言う不安や苦労はあるが、伴侶としての能力や人柄には不満は何一つ無い。
強さは言わずもがな、良く気が付き世話をしてもらえる事にナウラは甘えていた。
毛先が傷んだ髪を切って貰ったり、荒れた肌に薬を塗り込んで貰ったり、爪を切って磨いて貰ったりとその内容は幅広い。
料理も上手く酒も作れる。家事もだらけず金を稼げて伴侶としての能力は大陸中の水準を大きく上回るだろう。
頭を撫でる優しい手つき、人混みでそっと腰を抱き寄せる腕。
褥でも愛を感じる濃い時間を過ごすことが出来ている。
人間達がシンカに目を留めるのも分かる話だ。
それに加えて不可解な事がある。
シンカの胸元辺りから何とも落ち着く良い香りがするのだ。彼の胸元に顔を埋めて眠るのがナウラの幸せの一つだった。
カヤテ達に聞けば同意は得られるが、シンカには分からない様で懸命に身体を擦り洗う様を見て笑ったものだ。
元々伴侶の良し悪しを比べる習慣はエンディラには無い。
しかしシンカが他所の女に色目を使われて其れを歯牙にもかけず遇らう様はナウラを少し得意な気分にさせた。
自分の努力とは関係無い所で得意になってしまい自身の性格の悪さに落ち込む事もある。それは兎も角、ナウラの自慢の師であり伴侶なのだった。
周囲に尊敬されて、それでも仏頂面で気にも留めないシンカの横顔を見てナウラは鼻が高かった。
そんなナウラを見てシンカは微笑すると頬を撫でた。
彼に触れられるのは心地が良い。嬉しくなる。
老人達、子供達が料理にある程度方を付けると魚介で出汁を取り、コブシ産の味噌だまりで味付けをした汁物が配れた。
先程巨大な臼に5人の杵持ちと5人の合いの手、都合10人で演舞の様な餅つきを行った結果の餅が入っておりユタが幸せそうに熱さに呻きながらも食んでいる。
ヴィダードはシンカの世話をしようとして拒否されうじうじとしながら側に控えている。
カヤテは1人先のシンカの足の動きを真似しており、リンファは同性の友人達と怪しげな会話をしていた。
ナウラはシンカの顔を盗み見る。
人は顔の造形を気にする。良し悪しはナウラにはよく分からなかった。
だがシンカの表情は好きだ。
優しげな眼差しに目が合えば少し上がる口角。
見つめているとシンカと視線があった。
真っ直ぐ見つめられてナウラは嬉しくなり笑みを作った。
シンカはそれに合わせて自分も笑みを浮かべる。
そんな細かい仕草が好きだった。
ナウラにはあまり自覚が無かったが自分は他人から見ると表情に変化が無く不気味なのだと幼い頃から言われて育っていた。
死別した両親はそんなナウラを避けて年子の妹を可愛がった。
里の者達も皆ナウラを避けた。
だが今共に過ごす人達は違う。
シンカはもちろんの事、他の4人もナウラを理解してくれた。
皮肉なものだった。肉親よりも出会って数年、リンファに至っては数月の者の方がナウラを理解しているのだ。
ナウラは思う。今の環境に至るまで、自分は不憫であったと。
無論世には自分を凌駕する不幸を抱える者が多い事は分かっていた。
しかし少なくとも、故郷に帰りたく無いと思う程度に自分の幼少期は陰惨たる物だった。
だが同時に、これほど素晴らしい伴侶を得られたと、家族を得られたと自慢したい気持ちが等分に存在していた。
シンカを見てナウラを詰った妹や故郷の者がどう思うのか。どんな反応をするのか。そんな事を恐れ半分、期待半分で考えた。
ナウラはシンカの袖を摘み、その肩にそっと額を押し当てた。
外套越しでもそれだけでナウラは安心出来るのだった。
こうして森渡り達の1年が始まった。この時は彼らは半ば予想出来ていた。
戦乱から身を隠し政争を傍観し数千年隠れ潜んで来た森渡り。
光の射さぬ森の、更に闇の中から時折尾の先だけ影だけ見せる
聡い者はその気配を1年後には感じ取ることが出来た。
そんな年の始まりであった。
しかし今森渡り達は波乱の気配をその身で感じながらも陽気に年明けを喜び騒いでいた。
或いは其れは津波の前の引き潮で打ち上げられ、その場で跳ねる魚の其れであったのかもしれない。
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