抱擁

雪が3日程降り続け、良く晴れた朝だった。


大きく欠伸をして隣で寝こけるユタの鼻の穴に詰め物をして遊び、息苦しくなって目覚めたユタと暫く戯れた後肌寒い屋内に肌をさすりながら居間に向かった。


今では丁度リンファが暖炉に火を入れているところだった。


「お早う。」


「うん。お早う。」


声を掛け合い一瞬過去に戻った様な気がした。

こんな事がリンレイ家で暮らしていた頃有った気がしたのだ。


「朝食は何にする?」


尋ねられ無言でリンファの隣、厨房に立った。

手を出されるので炒め物用の鉄板を無言で手渡す。

替わりに俎板を差し出すと豚の塩漬けの塊を渡されたので薄切りにして行く。


リンファは鉄板の上で採りたての烏骨鶏の卵を6つ割り黄身を指で刺して潰していく。

其処にシンカは薄切りにした肉を放って行った。


「・・凄い。熟年の夫婦みたい。」


起きて来たユタが2人の手元を覗き込みながら言った。


こうした作業は若い頃から2人で行なっていた。シンカにとっては今更特に気にするべき事でもなかったがユタにとっては物珍しく映るらしい。


リンファの顔を見ると少し俯いて顔を赤らめていた。口元が緩んでいる。

どうやら嬉しかったらしい。


リンファはシンカと同じ29歳だが知らずに歳を推察すれば24.5にも見える。


農民たちは日に肌を焼かれ10は歳をとって見える。

貴族の娘達は不摂生で30あたりから老化が激しくなるが、健康に良い食事を心がけ、よく身体を動かし、荒れた肌には薬を塗る森渡り達は男女共に年相応よりも若く見える。


リンファは優男のリンレイと歳を経て尚美しいリクファの娘だけありその容姿は優れていた。


猫の様な切れ長で大きな吊り目に濃い眉、稍厚い唇と口元の黒子。気の強さが顔にまで滲み出る様だが、何処か妖艶さも内包しており里のおやじ達からの人気は高い。


比例する様に身体も肉感的で自覚があるのか胸の谷間が少しだけ見える様に衣服を着用している。

恐らくシンカ手を出す様に態とそうしているのだろう。


そんなリンファだがナウラの爆発力には一歩及んでいない。

今更胸の谷間程度ではぴくりとも反応しない。

純真さは当に失われていた。


リンファが何故自分に拘ったのかシンカは分からなかった。

彼女なら里の中でも強く賢い者と添い遂げられた筈だし、外に出れば其れこそ貴族の男でも引っ掛ける事は出来るだろう。


麺麭を焼き終わる頃には全員がのそのそと集まって来る。

里での冬は恐らくランジューの冬より寒いだろう。皆縮こまっていた。


朝食を食べ終わり柑橘の砂糖煮を茶に混ぜて飲んだ。


「なあシンカ。私の一族はどうなっただろうか?」


暖炉の熱と茶の暖かさで身体を温めているとカヤテが不安そうに尋ねてきた。


「クサビナは国土の大部分が冬下月から春中月まで覆われるからな。雪が積もった路を行くのはあまりにも危険だ。貴族間の工作活動も停止する。」


「そうだな。其処から軍備の増強を始めても夏中月迄は軍は動かせない筈だ。」


「その辺りの軍関係の事は分からんが、軍備が整い次第会戦と言うことも無いだろう?」


尋ねるとカヤテは頷いた。


「それに此度はあのグリューネの英雄オスカル・ガレ殿が我が一族に付いている!・・・ところでオスカル殿とは一体どの様な経緯で知り合ったのだ?」


小首を傾げてカヤテはシンカに尋ねた。

可愛らしい仕草だ。少し開いた唇に接吻したいと考えた。


「オスちゃんは頭が切れすぎたんだ。平和が訪れたグリューネではそれは恐怖に値したのだろう。まあ出会ったのは酒場だが。」


カヤテは半目になってじとりとシンカを見た。

大方、また酒場か。とでも考えているのだろう。


「覚えています。目付きの鋭い中年男性だとは思っていましたが、未だに私にはただのおっさんとしか感じられませんね。」


「オスカル・ガレの勇名はクサビナまでも届いていた。グリューネの三英傑。オスカル・ガレ、アロルド・ドナ、エルラド・ベネの3人だな。戦略を得意とするオスカル殿に内政に秀でたのエルラド。謀略を得意としたアロルド。クサビナにも部に優れる将は多く居るが、彼等の様に戦略や策謀に優れる者は少ない。私たちを追い落とそうとしたシカダレス・ファブニルに宰相のフランクラ・ベックナートと同格と言えるだろうな。グリューネは国土を拡大してムスクアナやアガスタを併呑しルーザースへ迫ると考える者も多かった。それなのに突然!馬2頭と」


「サビとミラです。」


興奮し始めたカヤテの話の腰をナウラが折った。


「喧しい!サビとミラと女子供だけで現れたのだぞ!何事かと思ったわ!ぶぅっ」


卓に上がり干し肉を噛んでいたアギが尻尾でカヤテの顔を叩いた。煩かったようだ。


「兎に角だな、あの国は最南の小国と侮るのは余りにも危険なのだ。オスカル殿が抜けたからとは言え、いつ勢力を拡大するかまるで分からん。」


「それは無いのでは無いか?」


シンカは首の垢を擦りながら聞く。


「何故だ?」


「・・・。」


シンカは無言を貫いた。


「シンカ。何を隠している?」


だんまりを決め込むシンカを厳しい目でカヤテが見る。


「妻に隠し事をするのか?怒らないから言うのだ。」


少し悲しそうな表情をするカヤテに到頭シンカは白状する。


「・・・エラルド・ベネ、殺しちゃった。」


「んお?」


「オスカルもエラルドもいないし、大丈夫だろう?」


もじもじと言うシンカにカヤテは柳眉を釣り上げた。


「何故そう言う大切な事を話さない!?」


「いや、違うんだ。直接やったのはヴィーだ。俺はまあ外すけど脅し位にはなるかなと考えていたが、ヴィーが本気出して頭を吹き飛ばしてしまってな。まあ苛立ってもいたしその場の勢いでオスちゃんには死んで当然とか言ったが実は俺もびっくりしていたのだ。」


「ヴィーのせいにするな!其方がやらせたのだろう!」


「はい。御免なさい。」


シンカはしょんぼり項垂れた。

しょぼくれた様子を見たカヤテは僅かに眉根を寄せる。


カヤテは色恋の駆け引きを苦手とし、想いの丈を面と向かいぶつけ、相手にも其れを乞う。


恐らく今のカヤテは強く言い過ぎて嫌われるたりはしないか、愛想はつかされないか。そんな事を考えているのだろう。


「・・・続きだが、オスカル殿はアルベルト王が大貴族レゾ家の当主キンバル・レゾと直接対決をしている内に他の5貴族を順に征服していったと言う事だ。手練れ手管を使い別個撃破を完遂した。その間苦戦する主君に増援を送り続けてもいる。」


ユタは椅子に座ったまま寝始めた。退屈しているらしい。

ヴィダードはシンカの顔を穴が空くほど凝視を続けている。瞬きすらしない。


「レゾ家の兵は精強で他の追随を許さなかったが、オスカル殿はキンバルの部下が送った兵とアザノ川河川敷で戦い策を持って撃破した。そして到頭キンバルを大群で追い詰め、これを討ち取るのだ。5つの国を落としたオスカル殿をキンバルは自分に味方する様諭したそうだが、これをすぐさま断ったそうだ!」


「カヤテ、それオスちゃんに聞いただろう?2割誇張されている気がするな。」


「何っ!?そうなのか!?」


とはいえオスカルが並々ならぬ才覚を持っていることは確かだろう。

出世欲もかなり強いと見ているし2人の嫁に加えて身命を賭して家族を守った美人の侍女2人に早晩手を出すに違いない。


或いはもう孕んでいるかもしれない。

そんなオスカルだ。家族の為にグレンデーラで力を振るうだろう。


「しかしカヤテは好きだな、そう言う話が。俺の頭とカヤテの頭、大きさは俺の方が大きいがきっと水に浮かべて先に沈むのはカヤテの頭だな。」


「何?どう言う事だ?私の方が脳が多く賢いと言うことか!?」


シンカは真面目な顔でカヤテを見る。


「知らないのか?脳よりも筋肉の方が比重が大きい。」


カヤテが騒ぎ出した事は言うまでも無い。


暫くして数日振りに外に出ようと家の戸を開いた。

戸の前に積もっていた雪を無理矢理押し広げて戸を開けた。

雪は腰高まで積もりこのままでは出歩くことはできない。


口から火を吹いて雪を溶かそうとするナウラの唇を指で摘んで阻止すると鼻から煙が吹き出た。


「熱っ!あっつ!?」


高温の煙を手に浴びて慌てて積もった雪に腕を突っ込んだ。


「僕もやりたい!」


ユタが訳の分からない事を言うがナウラは無視していた。


罔舎に向かい鋤を手に取る。

干し草の下で懇々と眠るハナとミネの巨体がちらりと見えた。


「雪を火で溶かせば水ができる。この気候では明朝までに凍ってしまう。此処では余りにも危険だ。」


手から白炎を迸らせていたカヤテがさっと手を背後に隠した。


厚手の皮手袋を嵌めててシンカは雪掻きを始めた。

石塔が建っている位置以外から雪を落とせば下の人に被害が出る事はない。


良く晴れていたが、遠く、ガルクルトやクサビナの方面には鼠色の雲が広がっている。

昼過ぎにはまた雪が降るだろう。


開いた扉から子狼バラカが走り出ていく。

その背中には澄ました顔のアギが激しく揺られながら乗っている。


飛び出したバラカをナウラが慌てて追いかけて行った。


「ねえカヤテ、雪の中で試合しようよ。」


雪で家を出られない間に皆で作った雪中装備を着込んだユタがカヤテの袖を引いた。


白茅の笠に白海豚の外套に編上げ靴、筒履き、鎧下、胸当て、手甲、口布全てが白い素材で作られている。


特に防寒対策として外套と鎧下は凝っており、外套の内側は白狐の毛皮が縫い合わされており、鎧下は生地の中に雁の綿毛が詰められている。


ユタに急かされてカヤテも家を出て行った。

家の中にはヴィダードとリンファと3人が残った。

ヴィダードは体脂肪が少なく寒いのか厚着をして暖炉の前に肘掛けを引き摺り座り込んでいる。

こそこそと手元で何かを弄っていたがシンカは見ないふりをした。


「少し散歩でもするか?」


リンファに声を掛けた。

リンファは頷いて里で汎用的な作りの釦で前合わせにする外套を羽織り首に鼬鼠の襟巻きを巻いた。


2人並んで階段を登る。

リンファの手がそっと差し出されシンカの指先を柔らかく握った。


それをシンカは握り返す。冷えた指同士が互いに寄り添い温め合うように絡み合った。


強く冷たい風に煽られながら切り出した階段を2人で登り、長老の横穴を通り過ぎて更に上、崖の上までたどり着いた。


千穴壁の頂上、魍魎除けの様々な木々で構成された森の際にはイーヴァルン方式の物見小屋が樹上に作られている。


イーヴァルンの里は基本的に石材で地の上に作られている。

樹々を極力傷付けない為だが必要に応じて樹上に物見小屋や樹から樹に渡る吊橋が架けられている。


物見小屋は高い枝に確と固定され遠方を確認出来る様窓が四方に設けられ、落ちぬ様幹と他の枝に固定させると同時に枝に過負荷がかからぬ様工夫されている。


2人は梯子を使い物見小屋に入った。

異変を感じた時に使う施設の為人はいない。

ごく小さな小屋の中には小さな卓と椅子が2つ置かれており、2人は其々座ると窓から遥か眼下の里を眺めた。


雪に染まった里の景色は見慣れてはいるが、矢張り懐かしかった。

リンファとこうして物見小屋で雪景色を眺めるのも懐かしい。


椅子を寄せたリンファはシンカの肩に頭を乗せた。

髪から彼女の淡い野花の香りが漂った。


窓から吹き込む冷たい風がその香りを押し流し、冷え冷えとした冬の香りを代わりに届けるが、それも直ぐに霧散して再びリンファの匂いに包まれた。


「里は・・・変わってた?」


尋ねるられた言葉に首を振る。

三千年もの間さしたる変化は無かったのだ。

たった10年で変わりはしない。


豆粒よりも小さく映る森渡り達が雪掻きを始めた。

その跡地で修行をするのだろう。


シンカは肩に乗せられたリンファの頭に自分の頭を傾け寄せた。


「懐かしい。」


リンファは小さく呟くとシンカの左腕を取り、自身の両手で掌を包む。


思いの丈をぶつけ合った日、シンカは心中に葛藤や怒り、悲しみなど様々な感情が渦巻いて感情を爆発させた。


リンファと寄りを戻すと決めてからも暫くはどう対すれば良いのか分からず付かず離れずの距離を保っていた。


だがこうして触れ合ってみて分かった。

矢張りシンカはリンファの事を愛している。

数年経っても忘れられない程なのだ。当たり前といえば当たり前だ。


家族、弟姉としての愛なのか恋人、伴侶としての愛なのか悩んでいた。

捩じくれた数年がそうさせていた。

しかし他の兄妹に抱く感情とは異なる事も確かだった。


顔を見て、話して、触れ合って。

確かな情愛が息づいてる事は確かだった。


そして今恋人の様に2人でひと時を過ごし、シンカははっきりとリンファを女として好いている事を自覚した。


気の強そうな目と眉、ふっくらとした唇に口元ほくろ。それらを見ていると彼女を抱き締めたいと感じるられるのだった。


彼女との思い出がシンカの脳裏をよぎる。

共に里を駆け巡り、共に学び修練し、家族と共に食卓を囲む。


手を繋ぎ、口付けをし、褥を共にした。


雨の日も風の日も雪の日も必ず触れ合い口付けをした。


そしてあの日が来た。


気付けばシンカは彼女を抱き締めていた。


あれ程一緒の時間を過ごしていたのにシンカとリンファは分かたれてしまった。


それはリンファが悪かったのかもしれない。だがシンカにあと少しでも勇気や意気地が有れば手放す事はなかったのだろう。


身を寄せ合い隣り合い、体を支え合ってシンカは11年前の気持ちをはっきりと思い出したのだった。


シンカには見えなかったが抱き締められたリンファは驚いた様子だった。


表情も唖然としていた。

何が起きたのかもよく分かっていなかった。


だが嘗て自分の不用意な発言で失い、凍り付いて固まっていたシンカのリンファへの感情が氷解し、溶け出た雪解け水が包みを破る様に溢れ出したのだと何となく理解した。


少し目を大きく開き、前歯が少し顔を出してシンカの肩口からぼんやり小屋の天井を眺めていた。


だが何が起きたのか分かり驚きの感情が抜け落ちてどこか茫洋とした表情を形作っていた。


シンカの体が小刻みに震えていた。

首筋に暖かい雫が滴るのを感じた。

リンファも思わず強くシンカの背を搔き抱いた。

辛かった。


戻るか分からぬ思い人を待ち続け、不安に胃の腑を締め付けられて来た。

再開して彼との全てが失われたのだと分かり来る日も1人で泣き腫らした。


それでも尚諦められなかったのだった。


どんな事でもお互いに分かち合って来たが、それはもう失われていた。


リンファは小さい頃からシンカが好きだった。

子供の時から大人びていて、気遣いが出来て、優しかった。

シンカは恋人に尽くす所があった。自分が特別な存在だと感じることができた。

精悍で力強く、能力や経験に基付く自信に溢れていた。

弟の筈が憧れすらあった。


彼の匂いが好きで、顔が好きだった。自分を見つめる眼差しが好きだった。

11年を経ても其れは変わらなかった。


シンカに真実を話し選択を委ねた日、リンファは失う覚悟をしていた。

だがシンカは自分を見捨てなかった。彼の優しさを思えばそれは必然だったのかもしれない。


嬉しかったが過去の様な仲には戻れなかった。

他の妻達の目もさる事ながら、拗れた時間をどうやって元に戻せるかが分からなかったのだ。


それはお互い様であったのだとリンファは考えていた。

自分の気持ちはシンカへ向けられていたと思う。

しかし、過ちから自分からシンカを求める事はどうしても出来なかった。


虚栄心や独善的な自己愛、誇りの類では無い。拒絶されるのが怖かったのだ。


シンカは泣いていた。思いをぶつけた日も今も。

自分の所為で誇り高く、身も心も特別強い愛しい人を泣かせているのだ。


気付けばリンファの頬を涙が伝っていた。

ごめんね。ありがとう。愛してる。


そんな言葉がぐちゃぐちゃに胸中で混ざり合い、口から言葉が溢れるのを妨げていた。

腕は強く彼の体を抱きしめ、無表情で涙を流していた。


「お前を失わなくて良かった・・・」


絞り出す様にシンカが言った。

その言葉を聞いたリンファはもう堪える事が出来なかった。


彼と同じ様に身体を震わせ顔を歪ませた。

声を出さずに静かに、だが激しく泣いた。


元には戻れないかもしれない。

家を共にしてもそんな不安を抱えていた。


表面上は軽口を叩いたり共に過ごしたり元に戻れても、心は変に歪んだままかもしれない。

その覚悟を決めていた。仕方ない事だから。


今リンファは自分が愛されているのだと深く理解することができた。


「あんたとまた一緒にいられて嬉しい・・。」


もう思っていない事は言わない。冗談でも嘘は吐かない。

心の中で誓った。


2人はお互い顔を見合わせ11年と数月ぶりの口付けを交わした。

それは塩辛い味がした。


この日を2人が忘れる事は将来無いだろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る