イーヴァルンのヴィダードと言う人物について考える。

彼女は正確には人間では無いが、便宜上人という呼称を使う。シンカにとって彼女は形容し難い複雑な感情を抱く相手であった。


イーヴァルンの民は元々排他的な民族である。

その中でもヴィダードは輪をかけて他民族との関わりを避ける思想を持ち、彼等の縄張りである森に侵入する者に対しての攻撃性は筆舌に尽くし難い程のものであった。


シンカ自身も気儘な一人旅の果てにシャハラの森を訪れ彼女に唐突に襲われたのが、初めての面識であった。


弓の扱いと風行に長けたイーヴァルンの民然とした能力をもっており、見かけも色素の薄い輝く麦穂色に透き通る様な白い肌。


樹上生活に適した細く軽い体に鋭利な輪郭の顔。

顔の部位も整っており、イーヴァルンの民の中でも取り分け美しい面立ちであった。


特に目を引くのはその目だ。

やや垂れ気味の眦の中には、澄み切った空のその更に上澄みの様な空色の瞳が収まっている。

儚い色合いの中にあるそこだけイーヴァルンのヴィダードという存在を主張している様にシンカには見えた。

薄い色合いの瞳は彼女の強烈な意思を如実に表し得体の知れない魅力を放っていた。


目を合わせるとまるでヴィダードが目を通して体に入り込んで来るかのような気さえする。

多くの者は彼女の瞳を恐ろしく感じた様だがシンカはその範疇に含まれなかった。


風に揺蕩う柔らかそうな緩い巻き髪。

空気に溶けて消えてしまいそうな儚げな白い肌。

直ぐに折れてしまいそうな華奢な体躯。


そんな中に違和感すら覚える強い瞳が嵌っている様は不思議な魅力を感じさせていた。


口を開かずともその攻撃性や執着、頑迷さ、自尊心等の他者とは折り合いにくい要素を煮詰めた感情が内心に渦巻いている様が見て取れるのだ。


7年前の事だ。

シンカが東方を当て所なく彷徨い、気儘に精霊の民との交流を深めていた頃に初めて出会った。


当時イーヴァルンの里には何度か訪れた事があったが、シャハラの森に脚を踏み入れた経験が無かった為無断での侵入を行なっていた。


イーヴァルンの民はシャハラの民を森の精霊の御使であると考えて信奉しており、シャハラの民と森を神聖視している。


また古代の森が起こる以前に悪しき馬の一族、テュテュリス人により侵攻を受けた事が伝承されており、他種族に対する排斥感情が未だに根強く残っていた。


彼等が神聖視するだけあり、シャハラの森には魍魎が生息していない。


当然許可がおりる筈も無い為無断で踏み入った折にヴィダードの哨戒網に引っ掛かってしまった。

結局ヴィダードを撃退したシンカは彼女を抱えて里まで運んだ。


郷に入りては郷に従う。

旅に於いての鉄則である。


この時のシンカはヴィダードの名すら知らなかった。

それでも彼女を殺さなかったのは決して好意を覚えたから等と言う理由では無く、非が自らにあったからである。


彼等の守る森に自分本意な理由で侵入し、戦士に攻撃される。


其れを恨みに思うのは逆恨みにも程がある。


始めての邂逅はこうして終わった。

言葉一つ交えぬ殺伐としたものだった。


2度目は直ぐに訪れた。

彼女は里を出てシンカを追って来た。

抜き身の剣を片手に崖の上から飛び降りて斬りかかってきた。

シンカは殺さずに無力化した。


以来手を変え品を変えシンカの事を付け狙うようになった。

ある時は沼の中で待ち伏せし矢を射て来た。


ある時は超長距離狙撃で眉間を狙われた。

昼夜問わない襲撃は2ヶ月に渡った。


シンカが彼女を殺さなかったのは一重にイーヴァルンの民との関係悪化を恐れていたからである。

森を出て南下し青金山脈へ向かう途中、シンカの殺害にかまけて森に対して意識が疎かとなったヴィダードは魍魎に襲われる事となった。


見殺しにしても良かった。だが、シンカは恩を売り排他的なイーヴァルンの民から知識を得ると言う下心の元彼女を救う事にした。


怪我をし、意識を失った彼女を安全な場所へ連れて治療を施し、その場を去った。


砂漠で再開する前に顔を合わせた最後の機会であった。


少なくとも最後に対峙した折、ヴィダード確実に憎しみの感情をシンカに対して持っていた。

偏執的な執着心を以って執拗に命を狙われていた。


だからこそ砂漠で再開した際の言動はシンカにとって理解の出来ない異質なものだったのだ。


彼女をそうまで変えた御導き。

解せなかった。


その仕組みを解明しなければヴィダードに対して真に向き合う事は出来ないだろうと考えていた。

同じお導きでも出会ってから徐々に関係を育んで来たナウラと再開していきなり態度が変わったヴィダードとを同一に受け止める事は難しかった。


逃げるつもりはない。だが夫として、家族としてこれからを共にするのであればこの蟠りの解消は必要不可欠だとシンカは考えていた。


ヴィダードは歪な女だった。


抱けば折れそうな華奢な見かけに対し強力な行法と弓、短剣の腕前。

清冽な見目に対しねっとりと絡みつくような話法。

許容的な言動に対し一概的で頑迷な思想と感情。

そしてそれらを煮詰めて凝縮し閉じ込めたような眼の光。


誰しもが一目見ただけでその異質さに気付く。


だが懐に入れば包容力があり、一概的で頑迷なだけに他の全てを捨て去るほどに一途で情熱的だった。


はっきりといえば、その歪さや自分にだけ見せる暖かみに魅力を感じてもいた。


しかしシンカの感情は彼女の変化に追いつけていなかったのだ。


考えている事、趣味嗜好、将来、家族、糧。

それら色々な事。

そういったお互いに関する事を話し擦り合わせて初めて、心を折り重ね、伴侶として認め合える。そうあるべきだと考えていた。


だが、それがグリューネのガレ領、ボニの街で崩れてしまった。

ナウラとヴィダードはお導きと言う謎の習性により強引にシンカとの関係を詰めた。薬を盛り、酒で潰して強引に身体の関係を持ったのだ。


ナウラはこれまでの関係から比較的速やかに受け入れる事ができた。

だがヴィダードは違った。

ヴィダードの心を知りたかった。

しかし彼女は内心を話す事はなくただ好意をシンカに示し続けたのだった。だからこそ踏み込みきれなかったのだ。


春が終わりに差し掛かる、汗ばむ陽気が多くなったある日。

スライの街の宿屋、自分の寝台でシンカはぼんやりと過ごしていた。


ナウラ達3人は修行に出掛けた。部屋でユタの為の編上げ靴を拵えて、三寸半の踵を貼り付けていた所だった。

部屋の戸を叩かれた。

ヴィダードがやって着ていた事は合図の前から匂いで分かってはいた。


「宜しかったですか?」


爪で貼り付けた踵を弾き音を確認しながらうなづいた。


「この前私が怪我をした時に2人で話をしようと言ったでしょお?」


「覚えている。」


「明日、お昼から街に出てお話ししましょお?」


「ああ。お巫山戯は無しだぞ。」


答えるとヴィダードは笑った。

カヤテが笑うような大輪でもなく、ナウラが笑うような小花が咲くような笑みでもない。

小さな花が何輪も細かく咲いた様な。そんな連想をさせた。


「私、明日の準備をするわぁ。街に出て様子見をします。」


ヴィダードは言うとシンカの部屋を出て街に繰り出していった。

大方めかしこむ為の服を買ったり滞在する食事処などを事前に調べておくのだろう。


シンカは編上げ靴の作成に意識を戻した。

踵を貼り付け、靴全体に大角青蛙の油を塗り込んで防水処置を施す。


最後に靴底に反発性の高い皮を入れて紐を通した。

出来上がった靴を見回しているとナウラとユタの足音が聞こえてきた。


いつの間にか日は傾き、夜が近付いていた。

自室に2人は向かい、シンカはその足音を聞いていた。ナウラが写した粳吼山遺跡の壁文字を読み込んでいると扉が開いた。


「・・ヴィーはいないのですか?」


「うん?街に出ていってから戻って来ていない。」


「街に?1人でですか?珍しいですね。」


思わず本当に珍しいと思っているのかと問いたいほどの無表情でナウラは返した。


「明日昼前からヴィーと2人で出掛ける。」


「成る程。そう言う事ですか。分かりました。ではヴィーが戻って来たら食事に行きましょう。」


3人は各自部屋で待った。


だが結局、ヴィダードがその日の内に宿に戻ってくる事は無かった。


「遅いですね。」


ナウラが腹を押さえながらシンカの部屋にやって来た。


「・・・・・」


そこに不機嫌な様子のユタが続く。

ユタは自身の欲望に忠実だ。空腹と寝不足状態では不機嫌になる。


ただでさえ三白眼により目付きが悪いが、今は眉間に皺も寄っており話しかけたくない雰囲気を醸し出している。


彼女がただの美しい女性に見えるのは物を食べている時と寝ている時だけだ。


「もうこんな時間か。様子がおかしいな。」


「ヴィーがシンカとこれ程の時間離れる等、作戦中以外考え難いですね。」


「俺は控えて欲しいが、まあ概ねその通りだろう。」


「街の輩程度がヴィーをどうにかできるとは思えませんが、山渡りの事もあります。」


「うん。分かっている。俺は先に行く。お前達は腹拵えをしてから来い。」


ユタがハッと顔を上げて顔を輝かせた。


シンカは立ち上がると武器だけを手に宿を出た。

ヴィダードの足跡は大通りまでは追えたが、直ぐに判別が付かなくなる。


人口の多い町だ。大勢の足跡にヴィダードの足跡は消されてしまった。


ヴィダードが向かっていた方向にそのまま向かう。

用心深く周囲を見回し、細い通路や家屋の扉があれば必ず確認した。

通路は足跡を。家屋は扉周辺の匂いを確認する。

暫く歩いていると店じまいをしている服屋の女を見つけ、声をかけた。


「女将。物を訪ねたい。連れを捜しているのだが。」


「ああいいよ。どんな連れ?」


女は気安く答えてくれた。


「美しいが不気味な雰囲気の女だ。肌が白く、目は空色。」


「ああ!うちの商品を見てたよ。薄い青、空色の長丈の上着を買ってくれたよ。」


「布の生地は何でできている?」


「・・今それが必要なの?」


「ああ。同じ色の布が分かれ道に落ちていた時、それが綿と麻なら。」


「そう言うことね。綿よ。」


「歩いて行ったのはどちらだろう?」


シンカは礼を述べて指が刺された方向に歩き出した。日が暮れはじめ、通りの露店が店じまいを始めて行く。


ヴィダードの思考を再現する。

ヴィダードは服を買った。上着と靴を買い、食事処を見繕うだろう。


入念に脇道や家屋を確認して歩き、シンカは靴屋に辿り着いた。

扉の取っ手の匂いを嗅ぐ。


僅かに豊かな森の匂いが薫った。ヴィダードの匂いだ。


彼女の体臭は非常に薄い。人いきれの中を追うのは難しいだろう。


服を買い、靴を買い、飲食店が立ち並ぶ区画に向かうだろう。

その道程をシンカは辿った。

飲食店が立ち並ぶ区画に辿り着くと更に入念に足元を確認し始めた。


道行く人々は煩わしそうにゆっくりと歩くシンカを避けて進んだ。

日が沈み、仕事終わりの労働者達で賑わう一画を抜ける。


もしヴィダードが襲われたと言うのであれば、それは往来の激しい通りでは無いはず。今ではなく昼に人気が無い場所が該当するはずである。

であれば飲屋の多い区画だろう。

通りを進み飲屋の通りに差し掛かる。


「・・・」


血の匂いが僅かに香る。嗅ぎ覚えのある血の匂いだ。

それもごく最近。ヴィダードの血の匂いだ。


だが量は多くない。其処まで強い匂いでは無い。精々蒸留酒1杯程度だろう。


匂いをシンカは辿った。通りから脇道に逸れて奥まった街角に辿り着いた。

足元には多くの足跡が入り乱れている。

ヴィダードの物も見受けられる。


「ここか。」


しゃがみこんで地面を調べた。

通りから此処まで争った痕跡やヴィダードが引き摺られた形跡を持つ足跡は無い。

顔見知りか?或いは騙されて連れられたか。

ヴィダードの血痕は余り多く残っていない。軽傷だ。恐らく頭部を殴られて頭血ったのだろう。倒れ、血が残った。


ヴィダード以外の血痕も見受けられる。

其方は量が多い。傷口は深いだろう。

4つの血溜まりが見受けられる。


足跡で状況を推察する。

ヴィダードは服と靴を買い、明日利用する食事処、或いは酒場の下見に訪れた。


そして何者かと遭遇、始めは諍いは無くこの路地裏に訪れた。

だが何らかの会話の挙句決裂。ヴィダードは暴れて4人に重傷を与えたが、自分も頭を殴られて意識を失い連れ去られた。


足跡は大きさ的に成人男性程度と考えられるが柔らかい土の上の足跡が余り沈み込んでいない事から軽装備で尚且つ小柄と想定された。


血の匂いを嗅ぐ。血中の脂質や酒精がほとんど無い。油物、肉、酒を嗜まない様だ。


イーヴァルンの民と見て相違ないだろう。

だからこそヴィダードは路地裏まで付き従った。


思ったより面倒な事態だ。ただの人攫いなら殺して奪い返せば良い。

だがイーヴァルンの里は排他的だ。人間と関わったヴィダードを里へ連れ戻しシンカとの関係を断つ事もありえる。


今日の昼過ぎの会話が根性の別れになる可能性もある。

その時シンカの心に涌き出でた感情は怒りだった。


何故怒るのか、始めシンカは分からなかった。

女との別れは今まで幾度も経験して来た。

時には無理に分かたれた事もある。


シンカは考えた。何故自分は怒るのか。ヴィダードとは何だ。自分にとってどの様な存在なのか。

自分の女。自分の伴侶。弟子。家族、妹。

つらつらと彼女を表す言葉を並べてみる。


妻。


最期に出でて、しっくりと腑に落ちた言葉はそれだった。

そうか。自分は妻を奪われたのか。


妻を傷付けられ、拐かされたのだ。

少なくとも一度合わなければならない。


取り返すとは言わない。ヴィダードの意思がわからない。

話さなければならない。意思を確認しなければならない。


「森渡りの目鼻から逃れ得ることは出来んぞ。狼より早く嗅ぎつけ、梟より早く見つけてやる。」


独言た。


負傷したイーヴァルンの民の血の匂いは強い。まだ辿ることができる。

匂いを辿って行くと街の東門へと続いていた。

シンカは急ぎ宿へ戻ると荷造りを始めた。

ナウラとユタは食事を終えて戻って来ていた。


「ヴィーは見つからなかったのですね。」


「ヴィー。いなくなっちゃったの?」


「痕跡は見つけた。街から出た様だから、装備を整えて追跡する。命に別状はないだろう。」


「誘拐ですか。・・・シンカ。怒っているのですか?」


「まあな。」


「何があったのですか?乱暴されたのですかっ?!」


「そう言うことはないだろう。怪我はした様だが重傷ではない。では俺は行く。東門から森へ向かう。痕跡を残すから支度を終え次第追え。」


薬師の装備を見に纏いシンカは足早に宿を出た。

魍魎の少ないヴィティアは夜に門が閉まらない。東門を出ると森へと続く足跡を追った。


イーヴァルンの民は足跡を消して歩いている。

例えば地から顔を出した岩を踏み、草を潰さず砂地に足跡が残らぬ様歩くものだが、痕跡を追い、匂いを嗅いで着実に進んでいった。


半刻程で森に体を潜り込ませた時には、既に日は沈み空には月が顔を見せていた。

小型の夜行性の魍魎の気配が立ち込める中シンカは潰れた苔を捜し、

倒木に着いた泥の跡を捜し、滑る様に森を渡った。進む事一刻にしてシンカは大きな岩宿に辿り着いた。

彼等の痕跡はぷつりと糸が切れた様に、そこで立ち消えていたのだ。


「俺を舐めるな・・・」


1人口布の下で呟いた。

足跡は岩宿の中に続き、そこで最新の注意を払って確認しても痕跡を見出せなくなってしまった。


シンカは地に耳を当てた。

選択肢は2つだ。

1つはここを出て森を渡る道程。もう1つは岩宿の中、地中に続く洞窟だ。


足跡は聞こえない。

イーヴァルンの民はこの洞窟を抜け終わったか、森を渡ったかだ。

地の匂いを嗅いで回る。少しの間相手が此処で休みを取った事は分かる。

岩宿から出て辺りを調べた。

イーヴァルンの民は樹上を渡る術に長ける。

だが彼等とて自然法則を無視できる訳ではない。木に登るのであれば地を蹴り枝を掴む。


地を蹴る時、彼等が幾ら体重が軽くとも地に痕跡は残る。

シンカの目にはその痕跡を見つける事ができなかった。

であれば彼等は洞窟を抜けたと判断できる。

岩宿に戻ると地下に続く洞窟に足を踏み入れた。

洞窟は鍾乳洞であった。地中の石灰が析出し鍾乳石と石筍が生成されている。


だが割合としては圧倒的多数を石柱が占めていた。古い鍾乳洞だ。

相手は痕跡を断つために最新の注意を払ったのだろう。痕跡は見当たらなかった。


絶望的な状況だ。なんの痕跡もない。鍾乳洞は枝分かれし、幾筋もの道を葉脈の様に広げている。当てずっぽうで見つけられる可能性は低い。

この状況からはヴィダードをさらった者共を見つけ出す事は不可能だ。


普通の者なら。


シンカという人間が森渡りを含む人類史上稀に見る強力な戦士たらしめる所以は術技の多彩さでも経験の豊富さでも知識の量でもない。

経の扱いの巧みさこそがシンカを抜きん出た戦士たらしめているのだ。


普通の行兵は目の前に何某かの球を浮かべたり刃を象ることに経を使う。

勿論シンカも必要な場面ではそれを行う。


だがそれ以前に、シンカは脳に経を行き渡らせ思考を早め、目に経を浸透させて視力や動体視力を上げる。

神経と筋肉の筋1つ1つに行き渡らせて鍛えた戦士を凌駕する反応速度と動き、力を実現する。


内に作用させるだけが経の使い方ではない。

シンカは片膝を着くと薄く鍾乳洞の中に経を流し込んでいった。


この鍾乳洞には数こそ少ないが満遍なく豹紋蝙蝠が生息している。糞が散見できる。

広めた経から同時に洞窟中の蝙蝠の様子を観測させる。

夜が更けて行くこの時刻、豹紋蝙蝠達は活発に活動し其処彼処を飛び回り餌を取っている。

幾重にも別れる洞窟の中、個別に見ればただ活動を行っているだけだが、同時に確認すれば一箇所だけ動きに違和感を覚える。


様子を上手く表現する方法は無い。その程度の違和感で、個別に見ても何らおかしな様子は確認できないだろう。


人が通った為に浮き足立っているのだろう。

誤っていれば取り返しはつかないだろう。


シンカは狼の様に素早く暗い鍾乳洞の中を駆け抜けた。

つまづく事も石柱にぶつかる事も無い。川が流れて行く様に止まる事なく駆け抜けた。


半刻走り続けるとシンカは地上に抜けた。

足元には足跡を確認することができた。

つまり、元々この鍾乳洞でシンカを巻く手はずとなっていた事が伺える。


イーヴァルンの民はヴィダードの身の回りに森渡りがいる事を認識していた。

だから誘拐後痕跡を残す事を厭わず鍾乳洞まで急ぎ、そこで撒こうと考えた。

今は油断し配分も落ちているだろう。

走りながら足跡を観察する。


イーヴァルンの民の男が13人内5人が重軽傷を負っている。

イーヴァルンの民の女が2人。

そして人間の男が1人だ。

月光の下木立の間を駆け抜け、一刻程足跡を追い続けると等々集団の姿を捉える事が出来た。


「狼が来るな・・」


壮年のイーヴァルンの民が呟く。

その直後、シンカは木陰から飛び出し集団に対峙した。


「なっ、追って来たのか!?どうやって!?」


男が眼を見開いて口を開いた。

見渡す。足跡から推察した人数に間違いは無い。

中にカリムがいる。

彼は顔に痣を作り、拘束されていた。


「お前がシンカとやらか。」


壮年の男が鋭い目つきでシンカを睨め付けた。

人間で50代程の見かけだ。実年齢は100を超えているだろう。


「シンカだ。ヴィダードを取り戻しに来た。」


「・・世迷いごとを。娘を人間なんぞの側に置けるものか!」


口元がヴィダードと似ている。ヴィダードの父という言葉に偽りはないだろう。


「痕跡は残さなかった!何故此処まで追ってこれた?!魍魎の類なのか?!」


「気を付けろ。強力な行兵だ!」


「ダール様とヴィダードを守れ!」


男達が弓を構えて立ちふさがる。


「本人同士が望んでもか?」


シンカは無手で相対した。ヴィダードが去りたいと言うのならいい。そうで無いのなら血を流す事も厭わない。相手がその父であってもだ。

ヴィダードは女に頭部の手当てをされながら力無く横たわっている。


娘を殴らせたのか。それが父親の行う事なのか。


「娘を出血する程殴る者に親の顔をされたくは無い。」


意外な事に顔を顰めてちらと憎々しげに木に背を預けて立つ人間の男に視線をやった。

手傷を負った男たちは手当てをされ痛みに呻いていた。


「シンカ殿。」


拘束されたカリムが呻きながら口を開いた。


「私の所為だ。ヴィーは幸せにやっているからそっとしておくべきだと、父に告げたのだが・・・納得して貰えなかったのだ。すまぬ。」


「イーヴァルンの女が人間の男に導かれるなど。作り話も大概にするが良い。」


「作り話など。父よ。後悔する事になるぞ。」


見るからに頑迷そうな面構えだ。この男は人への憎しみを抱えて百余年も生きて来たのだろう。


何と無く流れが掴めた。


里を出たヴィダードを求めて彼女の父は彼女を追った。

その中には彼女の兄も含まれており、そしてカリムはヴィティアのスライで到頭妹を見つけた。


兄は導かれたヴィダードの幸福を信じ、それを父に告げた。だが父はそれを信じなかった。


「俺とてイーヴァルンの民だ!妹の不幸など望むものか!俺はこの男がヴィダードと触れ合うのを見た!なんなら試せば良い!」


「娘を何処の者とも知れぬ野蛮な男に触れさせるものか!」


そして到頭、騒ぎ過ぎたのかヴィダードが呻き、意識を取り戻した。


「・・・ぅ、父様・・・ここは・・・」


「おお!気付いたか!?大事無いか!?」


「頭が・・ここは、森?そんな!私は帰らないとあれ程!」


「落ち着くのだ、ヴィー。人間は狡猾だ。我らの女を求めて奴等は手練れ手管を使う。」


「嫌っ!嫌あああああっ!貴方様ぁ!折角結ばれたのに!そんなっ!嫌あああああああああああ」


ヴィダードの取り乱し様は哀れなほどであった。

両脇でヴィダードの世話をしていた2人の女は宥めようと声を掛けた。


「どうして!?私は幸せだったのに!父様は私の不幸を望むのですか!伴侶を無くした彫像に私になれと!?まだ!生きて!一緒に居られるのに!?」


「人間相手に何を言っている!」


「もうあの苦しみを味わうのは嫌よぉ!連れ去るくらいなら殺してぇ!」


「ヴィー。俺は此処にいるぞ。」


泣き喚いて居たヴィダードは声が聞こえた瞬間目を見開いて此方を見た。


「あっ」


「お導きもイーヴァルンも人間も、俺には関係無い。」


「里の事に部外者が口を挟むな!汝に何が分かる!」


「分からんさ。だからヴィダードに尋ねに来たのだ。俺の元を去るのがヴィダードの意思なら引き下がる。」


「そんな訳ないっ!貴方様!ヴィーは!」


「ヴィダードは黙っておれ!人間の口車に乗せられるな!」


ヴィダードの父ダールは顔を赤らめ、唾を吐き散らしながら怒鳴り散らした。


「お前はどうしたい!俺はお前の事を自分の女だと思っているぞ!俺の嫁に来い!ヴィダード!」


「っ、う、ぁ、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」


ヴィダードは美しい顔をくしゃくしゃにして張り叫ぶように泣いた。


生まれ出た雛或いは赤児が力の限り声を張り上げ泣くように。

自分の存在を周囲に、世界に刻み込むように。


「シンカ様は、私の、夫です!他の誰でもありません!そう導かれました!」


「な、なんと!」


ダールは目を剥いて驚きを露わにした。


「人間との間に御導き!?」


「あり得ない。勘違いでは無いのか?」


ざわめくイーヴァルンの民の奥で、木にもたれかかって居た長身の男が身体を立てた。

長丈の外套の上からでも分かる。逆三角形に鍛えられて筋肉の発達した男だ。浅黒い肌はドルソ人にしては薄い。髪は焦茶。ドルソ人とシメーリア人の混血。ヴィティア、ラクサス、ベルガナ辺りの出身だろう。


感じる威圧感はかなりのものだ。


「女を攫う仕事だと、金を積まれて同道してみれば。なんだこの三文芝居は。」


つかつかと3人の女に近付くと手前に居たイーヴァルンの女を張り倒した。


「用心棒と雇われて居たが気が変わったぜ。おい旦那!この女3人、追加の報酬で貰っておくぜ。」


「何を馬鹿なことを!報酬は既に支払っているぞ!」


「あ?じゃあ返すから女貰っていくぞ。いいだろ?」


「良いものか!約束を違えると言うのか!?」


「あー?だってよ。いーばるんの民とか言ったか?頗る別嬪じゃねーか。こんな女見てたら犯したくなって辛抱堪らねーよ。」


暗い目つきだ。欲望にぎらぎらと光った目は女達を見据えている。


「なんと言うことを!矢張り人間は薄汚く欲望に濁っている!」


「分からねえな。力のある者に従うのが筋だろ?嫌ならお前らも力で歯向かえばいい。そうだろ?」


男が剣の柄に手を添える。

シンカに注意を払って居た男達は一斉に人間の男に武器を向けた。


「ふん。てめーらみてぇな生っ白い豆苗野郎共に舐められたもんだぜ。」


男は無造作に座り込んでいるヴィダードの腕を掴んだ。


「触るな薄汚い輩が。私の心も体もシンカ様のものだ。」


「は!生きがいいな!いいぜ。いつまで強がれるか楽しみだ。あの薬師の前で擦り切れるまで犯してやるぜ。それが嫌なら這い蹲って俺の逸物を舐めるんだな!」


「愚か者め。その様な未来永劫あり得ないわぁ。何故なら。私は導かれているから。森の精霊様。私をお護り下さい。私はただ1人の殿方に帰属する者。ヴィダード ダール ファルド!」


「いかん!よせヴィダード!」


「あ?」


始め、シンカにはヴィダードが何を行なったか分からなかった。


「そんな!では本当に!?」


「そんな事が!?あり得るのか!?」


男達が慌てふためいた。

そして気付いた。ヴィダードの肌が。男に握られた腕が。白く透き通って居た肌が灰色に変色して居た。

いや、変色しただけでは無いだろう。それは硬質化して質感すら変じさせていた。

ヴィダードの体は石に変わりつつあった。


「私はイーヴァルンの民、ヴィダード・・・導きの君・・以外、に・・から・・だは、ゆる・・・さ・・・・ぬ・・・・・・」


「あ?何だこれは。石に変わっただと?」


男はヴィダードの彫像から後ずさった。

シンカの目の前が真っ赤に染まった。

ヴィダードの呼吸音が、心拍音が消えた。


「許さぬ。許さぬぞ!絶対に許さんぞ糞共め!」


シンカの体から経が迸った。笠が勢いで弾かれ外套が棚引く。

背嚢と外套を打ち捨て翅を抜き構えた。


「汝等、生まれ出でた事を後悔させてやる!」


「ま、待て!落ち着け!」


「この人間!?尋常では無いぞ!不味い!説得しろ!」


「まさかヴィダード、本当に人間とお導きが・・」


男共が囀るが、シンカはその言葉を認識するのを辞めた。

ヴィダードが石に変わった。森渡りの知識ではこれを治す手立てを知らない。


つまり、シンカにはヴィダードを治す事が出来ないのだ。

シンカはヴィダードを失ったのだ。


「おのれ傭兵!娘によくも!」


「許さんぞロクア!導かれた女を拐かすなど!?硬像になる程の苦痛を与えるなど?!呪われたぞ!」


「呪いぃ?てめえ等の信仰なんぞ知ったこっちゃねぇが、こいつが勝手に固まっただけだろうが。呪いだと?馬鹿馬鹿しい。」


「か、か、勝手に、だと?娘を汚して、勝手に、だと?」


「この男、我等を愚弄し腐って、許せん!」


シンカが動く前にイーヴァルンの男の1人が短剣を構えてロクアと呼ばれた男に肉薄した。

ロクアは掴んでいた剣を振りかざした。


外套に隠れて見えていなかったがその剣身は5尺もの長さがあり、幅も半尺、暑さも鎬の根元近くに至っては半寸もの厚みがあった。

男は片手でそれを高々と振り上げ、切り下ろした。


イーヴァルンの男はすんでの所で短剣を掲げ、斜めにして剣を受け流そうとした。


「いっ!?」


男は短剣を押し込まれた挙句それを折られ、更には右腕を断ち割られた。そのまま段平は鎖骨を折って体に深々と食い込んだ。

肺まで食い込んだだろう。


「マリク!」


接近しようとしたもう1人も横薙ぎの一撃を受け、剣で防いだものの吹き飛んで転がった。

シンカはこの隙に残るイーヴァルンの民に斬りかかろうと身体を沈めたが、眼前に手を拘束されたままのカリムが飛び出し立ち塞がった。


「待ってくれシンカ殿!我等の落ち度である事は重々承知している!だが!むざむざ一族を殺されるわけにはいかない!」


残る3人のイーヴァルンの民は遠巻きにロクアを囲んでいる。


「ダール様。信じがたい事ですが、ヴィダードが像に変じた以上、ヴィダードが導かれていた事は疑い様の無い事実。ならば相手はこの男で間違い無いでしょう。」


女が口を開いた。

ダールは眉間に皺を寄せ、歯を食いしばった。


「・・・娘の言う事を信じずむざむざ同胞を失って、この様だ。お前がヴィダードの導かれた相手だと言うなら、あの石化は難なく解ける。案ずるな。いや、お前にしか解けんと言った方が良いだろう。」


「・・・・・」


「奴は我々だけで何とかする。汝は娘を連れて此処を立ち去れ。・・・娘を・・頼む・・」


「・・・」


ダールはカリムの拘束を解き武器を構えた。カリムも弓を構える。


「おいおい!お前ら全員束になっても俺には勝てねえよ!馬鹿か!?・・まあ止めはしねえ。ちょろちょろされるのも目障りだ。此処で全員殺しておくのも手か。」


「退いていろ、イーヴァルンの民ら。」


シンカは翅を構えたまま歩を進める。


「おー。臭え奴が来たな。お前は劇でもしてる方が似合うぞ。」


「シンカ殿!此処は我等に任せ妹を!」


「いや。・・ヴィダードを俺に預けて問題無いと、見て理解してもらう。」


「ほお?俺とやる気か?おとなしく逃げておかなかった事を後悔させてやるぜ。」


ロクアを囲んでいた3人が斬られた仲間の下に駆けて介抱を始める。他の面々はさらに後退してシンカとロクアを囲んだ。


「千剣仁位、王剣礼位。銀剣のロクア。」


「千剣徳位。シンカ。」


ロクアはシンカの名乗りを訝しみ目を向けた。


銀剣のロクア。死んだと思っていた。

11年前までラクサスで活動していた有名な傭兵だ。


今ラクサスで名高い黒風ルイヒと白激アクアの師としても名を知られている。

だがとんと噂を聞かなくなった為死んだものと考えられていた。


ラクサスの将軍位に就いていたこともある男だが、武力を尊び戦争時には必ず略奪を行なったと言う。


ラクサスはクサビナ王国と頻繁に衝突していた軍事大国である。

その国の将軍位にして戦場を駆け抜けた。


銀剣の由来はその大きな鋼の大剣が由来か。

経は多くはないが僅かには扱えるだろう。構えは変わっている。


千剣の亜流か。右手に剣、正眼に右足前。だが空いた左手を緩く前に出している。


先の動きを見る限り型は後の先。仁位を名乗る以上雷光石火を放つ事はできるだろう。


反撃を誘い更に反撃するのが効果的だろう。雷光石火を放たせない為に足運びには注意が必要だ。

月光が幾筋か漏れて幾筋もの銀色の帯を垂らしていた。


風は無い。外套を脱ぎ去った為に外気に二の腕が晒されている。

やや汗ばんだ肌に夜の森の空気が染み込むように触れる。


だが肌寒くはなかった。内から熱が湧き出て蒸散させていた。


同時に纏わり付くように全身の皮膚から経が漏れ出ている。

小さい魍魎はこれだけでシンカを避けていくだろう。


対するロクアは彫像のように動かない。

後の先。シンカの動きを待っている。

どう動くかを思考する。


動いたのは矢張りと言うべきかシンカであった。中腰から予備動作なしで流れる様に動いた。


先のイーヴァルンの男とは比べるべくも無い突進にロクアは反応した。


だが間に合わない。シンカの突進は大剣を合わせられる様な速度では無い。

翅を持つ腕を押し出そうとした。


その時ロクアの左手がひくりと動き、突き出されようとするのをシンカは見た。


迷いはなかった。地に付こうとしていた左足。本来なら体を前に進めるべく蹴り出す足を強引に張り後ろへ跳躍した。跳躍距離を稼ぐ為身体も前後に回転させた。


シンカの頭下を風が駆け抜けた。元々伸びた右手と突き出した左手が揃っている。行法の名は杭打ち。


成る程。初見殺しである。

間に合う速度ならば大剣で力任せに叩き斬り、大剣の間に合わぬ速度で迫るなら風行法で仕留める。


杭打ちは発生が早い替わりに範囲は狭く、飛距離も短い。

だが起点となる手元付近での貫通力は群を抜いている。


宙に浮いたシンカに向けてロクアは大きく踏み込んだ。

横薙ぎに振るわれた大剣がシンカを上下に断つべく唸りを上げた。

避ける手立てはない。


「っらあっ!」


見ものしていたイーヴァルンの民達はシンカが2つに分かたれて腸を撒き散らしながら吹き飛ぶ様を疑わなかったろう。


だが。ロクアの一振りはシンカが打ち出した右の掌底により大きく軌道が逸らされ、シンカを傷つける事なく大地に突き刺さる事になった。


「は?」


そしてそのまま両手を握り合わせた。


「っ!」


危険を感じたロクアは身体を投げ出し九死に一生を得た。

直前までロクアの顔があった位地が月光に煌めいた。

空気が凍り、僅かに氷の結晶が散ったのだ。

シンカが地に足を付くのとロクアが立ち上がるのは同時だった。


だがその内心は天と地との差があった。


シンカは怜悧な表情で凍てつく視線をロクアに投げかけていた。

身体は万全で反応も優れている。経の巡りも速やかであった。

そしてロクアに対する強い怒りのもと迅速に殺すべく思考を巡らせていた。


一方のロクアは心臓の動悸と滲み出る脂汗を抑え、認めがたい事に足の震えまで隠さなければならない事に屈辱を感じていた。


何故気付かなかったのか、自身を責めていた。

今なら分かる。目の前で奇妙な剣を構え、浅い中腰で千剣流正眼の構えを取る男の異質さが。


戦場から去って12年。感覚が鈍っていたのか。


強い戦士と何人も闘った。そして殺してきた。闘う前から相手の実力を推しはかり勝てるなら勝つ。危うければ状況を引き寄せてきた。


弱者を貪り糧として、強者を打ち倒して鍛え高みに立っていた。

自身の腕と軍。2つがあれば何にも負けないと考えていた。


大国クサビナに戦を仕掛け数年。

今も思い出せる。

其れまで順調であった大国との戦。ロクアは銀剣の2つ名とともに彼の赤鋼軍すらも押す闘いを繰り広げていた。


思い出す。

戦場に青い旗が翻った時の事を。

そしてロクアは知ったのだ。

世の中には決して剣先を向けてはならない相手がいる事を。


今でも幻では無いかと考えすらする。

炎の中に立つ10をいくらか越えた程度の幼女の剣にロクアは敗れた。


其れは才能だった。あり得ない事だ。幼子に大の大人が負けるなど。力では優っていたのだ。当たり前だ。


当時ロクアは既に仁位を得ていた。だが、技術に敗れた。

その後どうなったのか記憶は曖昧だが、白い光に包まれロクアは意識を失った。


ラクサスは敗れ、ロクアは生死不明のまま国を出奔した。

以来ぬるま湯に浸かってきた。その結果が今だった。


亜人程度と舐めてかかっていた。何故気付かなかったのか悔やんでも悔やみきれない。

逃れられるか考える。


無理だろう。自身の手癖の悪さで奴の女を奪うと告げ、知らぬとは言えその女を石へと変えた。

闘うしか無い。あの時は成すすべなく逃げた。今度はあの時に捨てた誇りを拾う。


だが現実上手くいくのだろうか。

奴は初見でロクアの必殺の行法を躱した。

並々ならぬ勘だ。警戒心も兎並みだが熊の様に獰猛で蜻蛉の如く速く、燕同様に身軽だ。


今も瞬き1つせず此方を伺っている。

まずロクアの必殺の横薙ぎを空中でいなして見せたあの術技が分からない。


巨岩を打ち付けられた様な痺れが今も手に残っている。

身のこなしも千剣流のものでは無い。

今の構えから高位の千剣使いである事は伺えるがロクアの杭打ちを寸でで躱した動きは鈴剣使いの物だ。


行兵としても一流。

足が震える。だが恐れていても先に動くわけにはいかない。其れがロクアの長年培ってきた戦い方だからだ。


其れ以外の方法は付け焼き刃だ。

シンカは再度動いた。左手の杭打ちに気を割き正面から突撃した。


ロクアが取った手は大剣による反撃だった。

左手を剣に添えシンカの速さに合わせたのだ。

其れはシンカの意表を突く結果となった。空気を割く音と共に逆袈裟に切り上げられる大剣はそのまま進めばシンカの腰骨を砕き、反対の肋骨を叩き割って抜けていくだろう。


シンカは低く身体を屈め、蛙の様に地に這いつくばって豪剣を躱した。


「おおおおおおおおおおおおおおおおっ!」


ロクアが吼えた。

左脚を進め剣を振り下ろす。速い。

千剣流奥義怒濤の剣だ。


剣を無理矢理制して四方八方より斬り払う。

怒濤の剣は一息のうちに三度合計20以上剣を振る事で奥義としての体裁を成す。


縦横無尽に迸る大剣。シンカを竹割にしようとする豪剣を身体を開いて躱す。すぐさま振られる横薙ぎは身体を低くして頭上を通過させる。返して袈裟斬りを身体をずらしてすれすれで躱した。


シンカは確実に見切って躱していった。

ロクアの怒濤の剣は一息に4度、合計36回の攻撃であった。


しかし其れはシンカを近寄らせない為の牽制にはなれど当たる事はない。


其れはロクアにも分かっていた事だろう。

千剣流奥義怒濤の剣の最後の一太刀は横薙ぎであった。

シンカは其れを潜って躱す。


技が終わった。

無理に振り続けた腕には疲労が溜まる。

腕だけでは無い。息も当然切れる。怒濤の剣は強力な奥義ではあるが、その間に仕留められなければ大きな隙を生む諸刃の剣だ。


すかさず攻めるべく這いつくばっていた状態から身体を起こし、翅を持つ腕を伸ばした。

だが其れはロクアの欺瞞であった。もう一振り。シンカへ向けて大剣が振られていた。


シンカは剣が近付くのを左目で見ていた。

刻一刻と刃が迫る。シンカは前傾になっていた。下がる事は出来なかった。

刃が顔先三寸まで近づいた時。大剣は跳ね上げられた。

拳が剣の平を突き上げたのだ。

ロクアはそのまま後方に跳躍した。

追おうとしたシンカへの牽制に剣が袈裟に振られた。

追わなければ当たる事はない。

だがシンカは横に跳ねて剣線の延長線上から逃れた。


直後シンカが立っていた位置を鋭い風の刃が走り抜けた。

風剣だ。


「逃げてばかりじゃねーか。玉ついてんのか?あ?」


「無為に打ち合い刃を潰すなど愚か。玉も付いている。嘘だと思うなら俺を殺して確認してみるがいい。汝よりも大きい陰囊が付いているはずだ。うん。無理だとは思うが。」


「・・・・」


ロクアは青筋を立てた。

彼は優れた戦士だ。今まで挑発をされた事が無いのかもしれない。

カヤテ グレンデル程の腕では無いが、以前闘った中では鉄鬼の団ルシンドラやアゾクで倒したロボクの将校よりも間違いなく腕が立つ。


だからこそ煽られた事がなかったのかもしれない。

だが、それでもロクアは剣を構えて動かなかった。


彼の戦法は後の先を取る事。

挑発にも乗らない。2つ名が付くだけのことはある。


ロクアは内心で歯噛みしていた。

ロクアは剣士として戦場に出た14の時から一度しか剣で敗れた事がなかった。

戦場で名付きと合間見えたのは都合5人。1人目は勝ったが逃し、4人目までは斬り殺した。そして5人目に敗れ軍を去った。

その5人目、当時10歳前後のグレンデル一族の幼女より確実にこの男は優っている。


シンカという薬師との接戦の際、1度目に出した杭打ちと2度目に出した風剣による風刃。この2つを出して血を流さなかった者は過去に1人しか存在しなかったのだ。


ロクアは荒々しい性格をしているが戦闘方法は極めて忍耐強く、奥の手はぎりぎりまで隠す用心深い物である。


其れを絶対の場面で繰り出し、悠々と擦り傷無く捌かれていた。


シンカは再び正眼に浅く構える。

足の間隔は前後に肩よりやや広く。

遠くで梟が鳴いた。柔らかく、だが物悲しい声は森の闇に染み込んで消えていった。風も無いのにシンカの跳ね放題の癖毛が緩くそよいだ。

その動きは2度の突進と比較し倍の速さがあった。

今までシンカの動きに合わせられていたロクアであったが今度は間に合わなかった。辛うじて柄を剣筋に合わせた。


そのままシンカの素っ首を叩き落とそうと剣を振るい違和感を覚えた。

柄が2つに割れていた。


「はあ?」


シンカはロクアが混乱した瞬間を見逃さなかった。

翅を左脇まで引き、素早く振った。

ロクアは防ぐべく剣を挟む。


「岩断ち・・かよ。」


千剣流奥義の1つ、岩断ち。

予備動作が大きい代わりに硬い物体を切断する事ができる。

今回はロクアの段平が断たれることになった。


ロクアは剣を捨てて両手を突き出した。

杭打ちでシンカに風穴をあける狙いだがやはり狙いは外れた。


宙へ跳んだシンカは厳しい表情のロクアの頭部を刈り取った。着地し、少し立つと鈍い音と共にロクアの頭部が地に落ち、其れからもう少しして体がどうと下草の上に倒れた。


僅かな土埃が立ち月光に照らされながら消えていった。


「・・・強い。」


取り囲んでいたイーヴァルンの民が呟く。


「本当にヴィダードは元に戻るのか?」


「ああ。・・すまないシンカ。父には説明したのだが人間と導かれる事などあり得ないと。硬像は導かれた者が別の異性に触れられた際に起こる現象だ。導かれていない者には起こらない。」


「奇特な。」


「人間にお導きは無いのであったな。」


カリムが縛られていた腕も揉みさすって溜息をついた。


「父も理解したはずだ。像になるのであれば、導かれている証でもある。そのヴィーが好意を示し続ける相手が御導きの相手だ。もはや人間かどうかなど関係が無い。」


「あれはどうすれば治る。」


「抱いて撫でてやれ。他の人間では駄目だがお前なら問題無い。」


シンカは石になったヴィダードの元まで歩いた。

ヴィダードがそのまま固まった美しい石像だ。

毛髪の一本一本、衣類の皺までが表現された像として、売られればさぞや高い値で取引されるだろう。


壊して仕舞えば元に戻らないかもしれない。

冷たく硬い頬に手を当てた。


ヴィダードを抱きしめた事はあっただろうか。

ヴィダードは決して背は低く無いが、皮下脂肪が全く無く、贅肉も無い。


だからこそ夜抱く時は強く抱いて壊してしまわないか不安になる。


固まったヴィダードを抱き締めていると徐々に温かみが生まれ、柔らかくなり始めた。


「ヴィー。」


石、それも結晶石灰と思われる石像がすうっと滑らかできめの細かい肌に戻った。

ヴィダードは潤んだ目でじっとシンカを見上げた。


美しい顔立ちだ。瞬きがなくて恐ろしいが。


「・・・やっぱり来てくれたのねえ。」


「お前には迷惑を掛けられてばかりだ。血の繋がりを甘く見るな。お前はどうでも良くてもお前の家族はお前を心配している。ナウラやユタですらお前を心配するのだぞ。」


「・・・・・口付けを」


「・・・・・」


鼻をつまんだ。だがしっかりとヴィダードの唇に自分の唇を付けた。

これで彼女の一族も信じるだろう。


シンカは立ち上がると打ち捨てた背嚢を拾い、ヴィダードの頭を治療した。


続いてロクアに斬られた2人に薬を処方する。


2人目は骨折だったが腕と肋骨数本を折っていた。

骨の接着を早める薬効の湿布を貼った。

1人目は腕が切断され肺が破られている。破れた肺から血を抜き傷口から臓器の破れを接着するべく薬を塗り、また口腔から粉薬を吸引させた。

臓器の再生は小型の蟲、青桐渦虫を磨り潰すした軟膏と、その乾燥粉末を使う。


腕の再生は更に複数の薬を使う。ただ今回は欠損部位が残っている為、再生では無く接着が治療の手段となる。薬剤は同じでも治療にかかる時間は段違いだ。


血管等の再生は先と同じ青桐渦虫の軟膏を。神経の再生は爬の瀬赤山椒魚の皮膚を乾燥粉末にした物。残る骨や筋肉は川鞘の内皮をすり潰した軟膏を使い再生させる。緊急を要する場合はそこに赤渡鹿の雄の幼角を合わせる。


ヴィダードが抵抗した際に傷付けた5名の切り傷もそのまま治療した。


「流石だ。その薬は一体何で出来ているのだ?」


「門外不出だ。」


治療を終えナウラとユタが追い付くまでの間休むことに決めて木の根元に腰掛けるとカリムに声を掛けられた。


「その薬が有れば里の者の死亡率を下げられる。何とかならないか?」


「お前達は俺にとって誘拐犯だ。怪我をしたところで自業自得である。だがヴィダードの同郷のものでもある。好意で治療したが、この術を見せぬ方が良かったか?」


「・・・いや、お前の怒りは分かる。懸念も分かる。欲をかいた。」


「・・・森渡りを里に受け入れるのだ。さすれば請えば現物が手に入る可能性は高い。我らにも汝ら同様掟がある。知識は拷問されようとも吐かぬだろうし、襲われても1人で10人は道連れにするだろう。」


「我らはそのような事はせぬ。人間と同列には扱わないで欲しいな。里の者の多くも人間から知識を得るなど屈辱と考える者が多い筈だ。」


「・・・まあそんな事はいい。1つ森渡りからイーヴァルンの民に正式に忠告する。三度笠を被った者達、山渡りに不穏な動きがある。出会っても適当にあしらった方が良い。騙されるな。」


「忠告痛み入る。気を付けよう。」


新たな人の気配が近付いてくる。気配は消しているが微細な地面の振動で感知する。

歩法でナウラとユタであると分かる。


「ダール。」


シンカはヴィダードの父親の元に歩み寄った。


「・・・人間風情が。」


ダールは額に手を当てて木に凭れた。


「貴方が人間をどう思っているかは分からない。だが俺は女を粗末に扱う様な育て方を親から施されていない。それは貴方にも分かった筈だ。」


「・・・・」


「人一倍の守る力も持っている。貴方の娘を貰いたい。」


「拒否しても強引に攫っていくのであろうが。」


「ヴィダードが嫌がるのなら置いていくしかない。」


「ヴィーは嫌ではありませんっ!」


話しを聞いていたヴィダードが余計な口を挟む。


「・・・無口で陰気で攻撃的だった娘が、明るくなったものだ。」


ヴィダードの現在の言動が一般的な意味で明るいかは甚だ疑問だが、昔の様に問答無用で襲いかかる事は無くなった。


言葉数も増えたのかもしれない。


「ヴィダード。・・・本当にいいのだな、この人間で・・」


「だから良いって言ってるでしょお!?無理やりこんな所まで殴って連れ去るなんて!もう里には2度と戻らないわぁ!」


ヴィダードはダールの胸板を拳で3度ほど殴った。


「お、おい・・それは言い過ぎだろう・・?」


娘に弱い父親の姿がそこにはあった。


「それにお前を殴ったのはあの汚らわしい人間が突然!私達はお前を」


「煩いわぁ。こんな所まで連れて来てよく言うわぁ。」


親子の口喧嘩を見ながらシンカは溜息をついた。

最近は騒動ばかりだ。これが女難の相と言うものなのだろうか。


荷を纏めているとナウラとユタが戦闘のあった森の空き地に駆け込んできた。


「ヴィー!」


相変わらずの無表情でナウラが声をあげた。


「無事ですか!?血は止まりましたか!?」


「と、止まったわよぉ。シンカ様のお顔が見えないから退いてくれる?」


「・・・・」


「冗談よお。来てくれたのねぇ。」


「当たり前です。ヴィーは私の妹です。姉が妹を心配するのは当たり前でしょう。」


「・・・・妹ぉ?私が?・・・言いたくはないけど歳は私の方が」


「無駄に歳だけ食っている貴女の様な世間知らずの我儘がよく言います。言っておきます。歳だけ取っていても何の意味もありません。もうじき43でしょう?人間で言うと閉経がそろそろ始まる歳です。年増と言われる年代です。ヴィーは年増の割に心も身体も少女にすらなりきれていません。」


「・・・・」


ヴィダードは不気味な微笑みを浮かべると奇声をあげてナウラに突進した。


「・・ヴィーが無事で良かったよ。・・ナウラも嬉しそう。」


「もっと別の表現方法をして欲しいがな。」


「・・ナウラとヴィーは仲良いよ?」


「それは理解している。」


「良かったね。美人な娘を捕まえられて。」


「まて。どう考えても捕まえられたのは俺だ。」


「そうかもしれないけど・・はたから見ればそうは見えないよ・・」


シンカはナウラとヴィダードを見遣る。

2人とも初めて会った時よりも内面的に随分と成長した。


かけがえのない女達。

1人でふらふらと旅歩いていた時には予想だにしていなかった事だが、シンカは今の生活を楽しんでいた。


1年と数ヶ月前、シンカはアガスタの王都アガスで1人酒を飲みながら自身の今後について考えた。

カヤテと出会った直後で、自分のやりたい事を見出した時分だったか。


あの頃は特定の恋人もおらず、漠然と使命について考えていた。

結婚し、子供を弟子として術技知識を伝える。結婚相手は義理の姉妹で妥協する。


今は自分を慕う女に囲まれ望みを果たしている。

金もない。権力もない。必要ない。

言う事を聞かない女達と過ごし、触れ合う。

体を駆使して森へと潜り危険と引き換えに金を得て、不自由の無い生活を送る。


栄光も無い。名誉も無い。

貴族や豪商から見ればシンカの生き方は価値の無い物だろう。

彼らは金や権力で人を傅かせ、自らの手を汚さずに更に上昇しようと蠢く。

民を搾取の対象と考えていかに搾り取り自身の益にするかを考える。


豪勢な食事を食べ切れぬほど作らせ、豪奢な装飾品で身を飾り美しい女を侍らす。

その生活を幸せと考える者は多いだろう。


だがシンカはそうは考えていなかった。


強い雨が朝から降り続く中、宿から出るのを嫌い、寝台にかけて取り留めのない話をナウラとヴィダードとするだけの1日。

騒がしい酒場で飲み食いしながら旅の感想を言い合う時間。

不満を抱いた事は無い。


だがヴィダードを失おうとして、そして取り戻した今、初めてこれが幸せであったことにはっきりと気付いた。


暴れ回っている2人を見ていて漸く気付けた。

早く宿に帰り、抱き締めて口付けしたい。

何に代えても守りたい。


この女の為なら死ぬ事も厭わない。

これが愛か。長い事忘れていた。


胸の内に暖かい感情が沸き起こる。穏やかな感情をこうして抱くことができる。そして自分を慕ってくれる人間がいる。


自分は間違っていないのだとはっきりと自覚できた。

それはシンカにとって何にも勝る承認であった。




ヴィティア王国、王都スライ。

ヴィダード誘拐から数日後、シンカは現地の長丈の黒い民族衣装と白の筒履を纏い、街の一角に佇んでいた。

ヴィダードが山渡りの毒矢に倒れた時より約束していた2人きりでの逢引である。


同じ宿ではあるが、四半刻早く宿を出て待ち合わせ場所で待機していた。


待っている間に1度女に声を掛けられた。


遊びの誘いであった。良い身なりをしていたせいだろう。


女との約束があると断ると直ぐに喧騒の中に消えて行った。

時間ぎりぎりにもう1人の女に絡まれた。

中々見目麗しい女だった。

女との約束があると告げても

「私の方が貴方を楽しませることができる。」

と言い引こうとしない。

そうこうしているうちに着飾ったヴィダードが歩いて来た。

此方の姿を見つけた瞬間から目が怪しげな光を湛え、周囲の人混みが割れた。


「貴方様ぁ?この女は何処の誰でしょぉか?」


声を掛けられ、振り返った女は固まった。

当然だろう。これ程美しい女は生涯で出会えるかどうか怪しい程である。

何時もは後頭部で丸めている輝く麦穂色の髪が下され、柔らかそうな緩く波打った髪が動きに合わせて揺れていた。


「待ったぞ。ヴィー。」


絡んで来た女はヴィダードの狂気の瞳を覗き込んでしまい慌てて退散して行った。

シンカの鼻は僅かな尿の臭いを嗅ぎ取っていた。


「ヴィーがいるのに早速女とは、ヴィーは頭が可笑しくなりそうよぉ」


「もう可笑しいから、そうなると普通の女に戻ると言うことか?・・それはいい。早く可笑しくなれ。」


「ぐ、ぐ、ぬ、ぬぅ・・・こうなったら、貴方様が他の女に見向きしないように身体をばらばらに分けて塩漬けに・・」


「そんな事をすればもう抱く事も話す事も出来ないな。さよなら、ヴィー。」


「あっ、あっ、あっ、しません!ヴィーはもっと貴方様と一緒に!」


「そうか。じゃあ行くか。」


ヴィダードの手を取ると歩き出した。

手を取られたヴィダードは不思議そうに繋がれた手を見つめた。


手を繋ぐと言う知識が彼女には無いのかもしれない。確かに今までこうして2人で街を歩いた事は無い。手を握った事は無かったかもしれない。


手を引いているとヴィダードは薄く可憐な口角を引き上げて美しく笑った。


ヴィダードは誘拐された日に買っていた空色の民族衣装に下は白の筒履きを身に付けている。


髪には以前買い与えた稚児車の髪留めを、一房だけ横髪を括るのに使っていた。

瞳と髪留めと長衣の色が合っていて似合っている。


「ヴィー。綺麗だな。」


「そお?」


イーヴァルンの民は美しいと言われる事を喜ばしい事と捉えていない。

返事は味気ない。


「ヴィー。可愛いぞ。」


面白く無かったシンカはそう付け足した。

効果は覿面でヴィダードの頰に赤みが差した。


「貴方様のヴィーですよ。」


「うん。ヴィーは重たい女だからな。生半可な男では相手に出来ないだろう。」


「貴方様に相応しい女と言う事ぉ?嬉しい・・」


シンカの嗅覚はヴィダードが興奮している事を察知した。

何処にその要素が有ったのかシンカには分からなかったので、何時ものことながら不気味に感じてしまう。


話しも微妙に噛み合っていない。

だが既に、シンカにとってその事は考慮に値しない瑣末な事だ。


結局の所、人は自分に好意的な人物を好み、敵対的な人物を嫌う。

シンカとてそれに変わりはない。自身を慕うヴィダードを嫌いになる事は出来なかったというだけの話である。ただの好意はそれほど珍しく無いが、彼女は盲目的だ。


少々変質的部分はあるが、シンカに制御出来るのであれば問題では無い。


2人で街をのんびりと歩き、食事処を目指した。

場所はヴィダードが探し出した野菜料理主体の店だった。


店は木造で、樹皮を削り落としていない木材が多用されており木々の臭いを感じ取ることが出来た。


彼女も故郷が恋しいのかもしれない。


ヴィダードは口数が少ない。

シンカがここ1年で出会った女達は軒並み口数は少ない。

1番多かったのはシャーニ グレンだろうか。彼女は1人で勝手に話し続ける。

ヴィダードに関して言えば、口を開かずにじっとシンカの顔を見つめているか、ただシンカに触れているかが殆どである。


だが話し掛ければ反応はある。


「今日は何かしたかった事はあるか?」


料理を注文した後に口を開く。


「そうねえ。夜に抱いて貰えれば後は一緒に居られればいいわあ。」


「人のいる所でそう言う事を臆面もなく言うな。」


「貴方様に聞かれたからぁ」


「小声で言うか隠語を使えと言っているんだ。」


「まぁ・・」


何が楽しいのかヴィダードは微笑を浮かべながらシンカを見つめ続けた。


食事を終えると再び街を歩いた。

そろそろこの街を出てコブシに向かおうか考えていた。人通りが多い区画を抜け、街の南にある大きな湖の畔まで手を繋いで歩いた。


湖には木材で組まれた桟橋が岸を埋め尽くす様に架かり、桟橋に天幕を張った船が所狭しと着けられている。

船には家族が住んでおり、日々湖の魚を捕って糧を得ている。

今も昼の魚を捕る船が何艘も漕ぎ出して網を湖に放っている。


陽射しを反射して輝く湖面をゆっくりと湖畔を辿りながら2人で見つめていた。


「ヴィー。」


「なあに?」


今まで何処か聞き辛く感じて有耶無耶にしていた事を尋ねようと口を開いた。


「初めて有った時のことを覚えているか?」


「勿論よぉ。運命の出合いねえ。」


「ヴィー。真面目な話した。茶化さないでくれ。」


「茶化してないわぁ。私、本当にそう思ってるわ。」


シンカを見上げる瞳を見つめ返した。


「俺にはどうしても御導きと言う特性が理解出来ない。触れ合って関係を築きその上で気持ちを通わせ人間はお互いを愛する。或る日突然気持ちが通う御導きにお前達は最大の信頼を寄せる。だが俺は人間だ。どうしても付いていけないのだ。特にお前の場合。勿論今でこそ愛おしくは思うが、それでも何故お前が俺を愛するのか俺は知りたい。」


「・・・覚えてるわぁ。貴方と闘った時の事。」


「何度もな。」


「私は・・里にいた時、シャハラの民を強く信奉していたの。無条件に彼等を敬いその森を守る事に意義を見出していたわぁ。今のナウラの歳には里の戦士団に入り魍魎や他民族を排除していた。20年以上そうして来たわ。そんな時にシンカ様がやって来た。成す術なく負けたわぁ。」


「俺はお前を殺さなかった。自身がイーヴァルンの民の禁を犯している事は分かっていたからな。彼等との対立を避けるためだった。」


「そうよねえ。分かってたわぁ。貴方に害意がないことは里も分かっていた。でも私は分かった。私だけは。闘ったのは私だけだから。貴方が悪意を持ってシャハラを襲えば誰も止めることが出来ないって。だから殺さなきゃならない。それに屈辱だった。今まで口を開く間も無く侵入者を除いてきた私が情けを掛けられた。情けを掛けられた理由は全く私とは関係なかった。凄く憎んだ。だから追い掛けて殺す事にした。」


「お前は粘着質だ。」


「そうねぇ。初めはシャハラやイーヴァルンを出た以上殺されるかもしれないと思っていたわぁ。だからシンカ様と闘って、敗れた後は恐怖で吐いたものねぇ。」


「イーヴァルンやシャハラに危害を加えるつもりは元々無かったがな。」


「それは2回目に闘った時に何と無く分かったわよぉ。でもねえ。私は老練な男にも負けない腕を持っているつもりだったの。危機感は消えたけど誇りは穢されたままだった。貴方は強かった。勝つ想像すらできなかった。その内私はシャハラの信仰心を喪っている事に気づいたの。だってそうでしょお?イーヴァルンを守るシャハラ。でも貴方はシャハラの民なんて目じゃないくらいに強い。貴方の戦士としての力は信奉に値したの。」


「どれ程続いたのだったか?」


「夏が秋になるくらいねぇ。」


「お前には本当に迷惑を掛けられる。昔も今も。」


「うふふ」


綺麗な笑い声だった。涼やかで耳に心地よかった。


「それで?」


「どのくらいかしらぁ?半分くらいで私は貴方様と闘う事を楽しみ始めたの。今度はどうやって襲うか考えて楽しんで、実際に退けられてあんまりにも歯が立たないからそれを笑った。1番笑ったのは土行で逆さまに埋められた時かしらぁ?」


「俺は面倒だった。闘えば時には気配に魍魎が引き寄せられるからな。」


「それで、最後ねえ。あの時はどうしてたんでしたっけ?」


「うん。確か風行 小々波で俺の脳を揺らして動きを抑えた後に風行 金縛りで耳を潰そうとしていたな。」


「そうねえ。そうしたら、小々波は樹を盾に躱されて金縛りは耳を塞いで防いで、私の矢を跳んで躱したんだったわねぇ。どうして矢の軌道がわかったのお?」


「空気の振動だ。」


「あぁ・・経を薄く出して。」


「空気の振動くらい経が無くてもヴィーだって感じ取れるだろう。張りめぐらせる方が精度は高まるがな。」


「最近はそれも出来るようになっできたわぁ。私は貴方様のように見えない霧のように噴き出すのは難しいわねえ。蒲公英の綿毛の様に広げるのが向いているかしらぁ。」


「お前は3人の中で1番放出に適性があるからな。」


「遠くの術を知る事で他の民族には負けたくないわねぇ。特に肉団子には。」


「悪口は程々にしろよ。」


「いいのよぉ。あの娘、この前私の事麦の穂って言ったのよ。」


「陰口は拗れる。言うなら直接だ。」


「そうねぇ。ナウラは言わないの?」


「うん。言わないな。ナウラはお前を家族と思っている。意地悪はお前にしかしない。喧嘩が楽しいのだろうな。」


「私だって家族だと思ってるわぁ。姉とは思っていないけれど。」


ヴィダードはひくりと口元を痙攣させた。


「よかったじゃないか。若く見えて。」


「良く無い。」


表情が失われて来たのでこの話題は辞めにした。


「ヴィーの腹を殴って意識を奪おうと駆け寄った時に獣脚爪竜に襲われたのだったか?」


「そうねえ。貴方様が首を落として・・それからどうなったの?」


「ヴィーは首無しの竜に吹き飛ばされた。勢いが失われなかったからだ。」


「貴方様が守ってくれた記憶を私はきっと一生忘れない。あの時私は導かれた。」


「確かナウラが導かれたのも助けた時だったな。助ければ導かれるのか?」


「里ではそうでは無かったわぁ。関係があるかは分からないけど、貴方様が放った経の中にいると凄く気分が良くなる。」


「経か。何か関係があるのだろうか?」


スライの湖トレッサ湖は湖畔の5分の1が、スライの街に含まれている。

その3分の1程をシンカとヴィダードは歩いていた。

時折湖面に亀や蛙等の穏やかな気性の魍魎が浮かんでいる。


大きく美しい湖だ。


「だから、私が貴方様に伝えたいのは、急ではないという事なの。貴方様にとっては険悪な関係に見えていたかも知れないけれど、私は貴方様との仲を詰められていたの。分かるかしらぁ?」


「うん。よく分かった。」


「そこから5年と少し。貴方様には分からないと思うけどぉ、とても辛い日々だったわぁ。黒山脈の北も南も軒並み回ったの。」


「大陸東の南部は俺も足を踏み入れたことはないぞ。行く時は案内して欲しい。」


言うとヴィダードは頼られたのが嬉しかったのか奇妙に腰をくねらせて踊った。


「貴方様と結ばれた夜も忘れないわぁ。貴方様・・もうヴィーを置いて何処にも行かないでください・・」


「約束は出来ない。こんな世だ。命を投げ出さねばならん時も来るかも知れない。だが順当に行けば俺が死に、ヴィーが死に、ナウラが死ぬだろう。それは幸福なことだと思う。」


「貴方様を探し回る日々はまるで拷問にかけられている様でした。居場所の情報と引き換えに何かを強いられていれば。私は何でもしたでしょう。」


暫く2人で何も話すことなく畔りを歩いた。


「ありがとう。漸く腑に落ちた。お前の気持ちが分かった。」


「触れていたい。声を聴いていたい。私はシンカ様に全てを捧げることができます。」


「俺もお前を愛しく思う。俺の妻になってくれ。」


「・・・・」


ヴィダードは涙を流した。

涙は止まることなく次々に両目から溢れ出す。

シンカはヴィダードを抱き締めてそれを肩で受けた。


2人は湖畔を後にして酒場に向かった。

小洒落た酒場に入るとヴィダードはシンカの正面では無く隣に掛けた。


ヴィダードは酒はあまり飲まない。

代わりにシンカのお酌や摘みを食べさせたりと甲斐甲斐しく世話を焼きたがる。

側から見ると反吐がでる程甘ったるい光景だろう。


「ヴィーは何かこれからやりたい事はあるのか?」


「貴方様の子を孕んで産みたいわぁ。」


「子供が好きだったか?」


「好きも嫌いも無いわぁ。自信が無いから産まれたらナウラに世話を手伝わせればいいのよぉ。」


「おい。」


「だって子供に掛り切りになったら貴方様のお世話を出来ないじゃなぁい?」


勾玉木から採れる種実を炒めた物を摘み蒸留米酒を口に含む。

この酒は米酒の元となる酒母に蒸した米を加えて発酵させた後に蒸留したものだが、ヴィティアではそこに果実を漬け込んだ酒がよく出回っている。


「俺は自分の事は自分で出来るぞ。子の世話も当然手伝う。」


「後は添い遂げたいわ。」


「分かっているのかな?俺は先に死ぬのだぞ?」


「・・分かってるわ。」


「森渡りは人間の中でも比較的長生きする方だが、それでも後50から精々が70年だ。」


「ヴィーは100程です。嫌です。」


「それより早くに追い掛けてきたら絶対に許さんぞ。」


「・・・・分かったわぁ。でもナウラは貴方様が100まで生きたとしても60年は残されるのねぇ。」


「あいつはお前程弱くは無い。割り切ってくれるだろう。」


「・・お導きはそんなに甘いものでは無いけどぉ・・。時には耐え切れず命を断つ者もいるのよぉ?」


「何なのだ、お導きとは・・」


ボソボソと会話を続けながらそこで2刻程を過ごした。

酔いが回り会計を済ませて店を出ると蒸し暑い街を並んで歩いた。


「貴方様は本当に後3人も伴侶を迎えるつもりなのぉ?ヴィーだけじゃ駄目ですか?」


「さりげなくナウラを外すな。」


「だって。」


「俺の親は俺が幼いうちに森に飲まれた。2人は里に決められた伴侶だった。あまり仲は良くなかった。俺は自分で嫁を選びたいと考えた。その後母の弟に引き取られることとなった。養父は5人の妻を持っていた。5人の養母は平均4人の子供を最終的には産んだ。まだ増えている可能性もある。煩い家だったが、彼らは俺を受け入れてくれた。今更1人増えたって変わらないとな。彼らのあり方は俺の憧れとなった。」


「いいお養父さんだったのねぇ。」


「養母もな。ナウラとヴィーも連れていかなければ。それに式も挙げなければならない。イーヴァルンの様式はあるのか?」


「いいの・・?」


「式は女の為にやるものだ。リュギルの白山脈麓、結晶堂での挙式などは王侯貴族に人気があるが、イーヴァルンはどの様な様式なんだ?」


「シャハラの森に木漏れ日の丘という場所があって、イーヴァルンの民はそこで導かれた事を里の者やシャハラの民に祝われるの。白と緑の婚礼衣装を着て伴侶の儀式を終えると皆に祝われ、後は夜まで踊るの。月の見える丘で夜更けまで歌って、食べて、踊るの。」


「おお!人間の儀式とは異なるな!婚礼儀式とは何をするんだ!?」


「伴侶の女が精霊に歌を捧げるのよぉ。シャハラの民がそれに合わせて梢と葉を擦らせて、未婚の女達が歌を歌う女の体を白樺の木の葉で叩いて清めるのぉ。それでねぇ、木漏れ日の丘は藤の枝で被われてるからヴィーは儀式をするなら絶対に春の上月後半がいいわぁ!ヴィーの妹もその季節で、藤の花がすごく綺麗だったの。ヴィーも歌うなら藤の花の下がいいわぁ!」


ヴィダードも少し酔いが回っているのか、夜道での声が大きかった。


「お前妹いたの?というか歌歌えるの?」


「イーヴァルンの女は儀式のために小さい時から歌の練習をするのよぉ。」


「今度聴かせてくれ。」


ヴィダードの腰を抱き宿に戻った。

今日は久しぶりにヴィダードを抱く。

深い口付けをして衣類を脱がせる。稚児車の髪留めを外して部屋の机の腕に置いた。


ヴィダードの抜ける様な白い肌を撫でる。

細くしなやかな足、腰には脂肪のかけらも付いていない。

肋骨が少し浮き出し、腹は皮下脂肪が少ないため割れている。


乳房は殆ど無くシンカの手で作った椀よりも少ないだろう。


芸術的な美しさだとシンカは思った。無駄を省いた究極の女体。

浮き出る骨格すら美しい。


力を込めれば折れてしまいそうな腰を抱いて寝台に横たえた。


白い。清潔な敷布と遜色のない肌の白さだ。桜色の小さな乳首が控え目に存在を主張している。淡い色のきめ細かい髪が広がっている。


色合いも、存在感も儚いヴィダードの体の中で瞳だけが強烈に自己主張をしていた。

その瞳が真っ直ぐにシンカを覗き込んでいる。

瞳から見受けられるのは肯定だけだ。拒絶の意思など微塵もない。


ヴィダードはシンカに全てを許し、明け渡す。


「愛している。」


シンカに必死にしがみ付くヴィダードと何度目かの逢瀬を行った。

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