黒翡翠

クサビナが誇る最大の都市、王都ケツァルは大陸で最も栄え、最も巨大な都市である。丘陵地帯に築かれたこの都の最も高い位置に築かれた王城は壮麗で遠く離れた地からでも晴れた日であれば見て取る事ができる。


謂わばクサビナ王国の象徴とも言える建造物であった。


大陸最大の国家でその歴史も現行の国家の中で最古ではあるが、一方でクサビナは厳格な統治を行っているかというとそう言う訳でもない。各地の貴族が領主として地域を納めその税収が中央の資金源とはなっているものの、王族が統治に口を出す事は基本的に無い。ただしそれは善良な統治を行っていればとの但し書きが付き、圧政に対しては厳しい取り締まりが行われる。賄賂も零とは言わないまでも横行しておらず、歴史の中で大貴族が圧政により処刑された例も存在する程度には王権も機能しており千年近い統治の歴史はこうした統治体制の元成り立っていると歴史家は論ずる。


しかしそれは決して彼ら王族、貴族が善良である事を証明する訳ではない。

長い歴史の中で自国を守る為に定められた法に王侯貴族が則っているだけであり、彼ら自身が市民や農民を慮っている訳ではない。


秋の下月のとある日、王城一角の軍議の間に数人の男が募っていた。

重厚な石造りの大きな卓、その最も置くに腰掛けるのはクサビナ王国の国王であるラムダール8世。初老だが目つきの鋭さが目立つ男だ。


ラムダール8世の右手には彼の長男である第一王子エメリック。エメリック王子は20代半ばの精悍な顔つきの青年だが、父に似てその目は鋭い。


エメリック王子の正面に第二王子のロドルファスが掛けている。ロドルファス王子は柔和な顔つきの20代前半の若者であるが纏う雰囲気は尋常のものではない。衣服の袖から僅かに見える腕の筋肉は発達し鍛えている事が伺われる。


エメリック王子の右手に禿頭のひょろりとした枯れ柳の様な印象の老人、宰相のフランクラ・ベックナート。フランクラの正面には堂々たる体躯の禿頭の男がどっしりと腰掛けている。グリシュナク・バラドゥア。クサビナ王国の将軍である。


宰相フランクラの右手には30代後半の美しい黒髪を伸ばした青い衣を纏った男が掛けている。このトクサ・グレンデルはクサビナの紫書記官を務めているグレンデル一族のひとりである。


トクサの正面には燃える様な赤毛を整髪剤により撫で付けた男が掛けている。

神経質そうな見かけで時折爪を噛む仕草を取る。ザミア・ファブニル紫軍務官である。


トクサとザミアは王城に於いてグレンデル公とファブニル公の名代としての立場も兼ねている。

トクサの右手には紫財務官であるパーシヴァル・エリンドゥイル、その正面に紫諜報官のヴァルプルガ・マクロリー。


最後に入り口の扉前に親衛騎士長のシキミ・グレンデルが立っている。


この場にいる10人がクサビナ王国の首脳陣である。


「さて、まずは此度のロボク戦線。少数ながらよくぞ守りきった。トクサ。お前の父にこの言葉、申し伝えるがよい。」


口火はラムダール8世が切った。トクサ・グレンデルはマトウダ グレンデルの3男である。


「は。有り難きお言葉に御座います。」


「しかし万が一を考えれば援軍を求めるべきであった様にも思うがな。どうだ?」


国王の問いに答えたのはトクサではなかった。すかさず、トクサが口を挟む前に宰相のフランクラが口を挟んだ。


「恐れながら陛下。まずロボクとマニトゥーと伴にアゾルトが攻め入る事を考慮し、ファブニル公の黄迫軍は動かせませなんだ。赤鋼軍も南東のオスラク、東のリュギルが同調するともわからず。」

「と、言う体であろう?爺。爺は国益にならぬ事はせんと信じておるから問い詰めもせんし、此度は青鈴軍が獅子奮迅の働きで倍数の軍を破り我が王国に被害が無かった故罪も問わぬが。程々にせよ。なあ、ザミア。」


ラムダール8世はファブニル公とフランクラの共謀によりグレンデルが単独でロボクと戦う事になったと睨んでいた。


「他国の有象無象に我が神聖な国土を踏まれる事は我慢ならぬ。企みもまあ良い。切磋琢磨せよとも思う。だが他国に攻め入られる隙を与える様な謀は許さん。ザミア、次は無いとシカダレスに伝えよ。」


「そのような・・しかし陛下のお心は必ずや父に伝えますれば・・」


脂汗を一条流しザミアは答えた。


「父上。お戯れはこの辺りで・・」


「ふむ。ではエメリック。」


「は。此度の件、ロボク風情が我らがクサビナを誑ろうとは身の程知らずにも限度がある。陛下と相談の上見せしめにロボクを攻めるのが良いとの結論がでた。」


名を呼ばれた第一王子が戦についての見解を述べた。


「エメリック様。ロボクのみ・・ですかな?」


フランクラが片方の眉を上げて尋ねた。


「無論、マニトゥーも同罪である。あれらの国は我らに生かされている事を理解せねばならん。」


「は。皆の衆。宜しいか?」


フランクラの言葉に各々がちらと視線を交わす。


「恐れながら。直に冬が来る。あまり深入りすれば北国から戻れなくなる。如何?」


野太い声で言葉少なく問うたのは将軍のグリシュナクだ。


「落とせる範囲で良い。雪が積もる前に引き上げよ。」


「は。兵数は如何程に?」


「ロボクに3万、マニトゥーに3万で十分か?」


「エメリック様。ロボクは先の戦で多くの兵を失いましたがマニトゥーはまだ多くの兵を温存しております。」


汗を流しながらザミアが諌言を行った。これに対しトクサが片目を半眼にして不快感を表した。

大方西側のロボクはグレンデルが主体となりマニトゥーはファブニルが主体となって攻める事を見越し、自軍に宛てがわれる国軍が増えるよう意見したのだろう。


「ザミア。でもロボクにはクサビナ憎しで建てられたアゾク要塞があるよ。2万で君はアゾクを落とせるんだね?」


トクサが口を開く前に第二王子のロドルファスがザミアを問い詰めた。


「・・申し訳ありません。アゾク要塞の存在を失念しておりました。」


「紫の軍務官がアゾクを失念する?面白く無い冗談だね。」


「ザミア。次は無いと言ったぞ。」


「は・・・」


王子どころか国王にまで責められたザミアは俯き顔を上げなくなった。

ファブニルとグレンデルは建国当初より権力闘争を行って来た2家だ。

時には血で血を洗う血腥い内乱をも行って来た。そもそもはあまり権力欲を持たないグレンデル一族を歴代の国王が重用して来た事実を同じ家格のファブニル一族が不満に思った事から2家の争いは始まっている。


またザミアは本来書記官を務めたいとの希望を持ち王城入りを果たしているが、一つ年下のトクサにその地位を搔っ攫われたという事もありファブニル一族の中でも特にグレンデルを敵視している。


首脳陣はそれを知りつつも軍務官としての力量が優秀であるため釘を刺すに留めているという状況だ。


「赤鋼軍より1万ずつを裂く。ロボク戦線はエメリックが総大将をせよ。グレンデルは5千を出せ。残りは西部、北部諸侯より徴兵せよ。ザミア。配分はお前に任せる。マニトゥー戦線はグリシュナクが率いよ。ファブニルからは同じく5千。バラドゥアから5千。他東部諸侯より掻き集めよ。


「は」


エメリック、グリシュナク、ザミアの声が重なる。


「パーシヴァル殿、ザミア殿と協力して兵糧の用意を頼みましたぞ。」


「承りました。」


「ヴァルプルガ殿は各国に怪しげな動きが無いか十分に注意を祓払ってくだされ。」


「承知」


フランクラの指示に二人の官吏が了承を示し軍議は終了となった。


この後は各々が部下に情報を連携し戦支度となる。

椅子より立ち上がったトクサは扉の前に立つシキミの肩を叩く。


「我が一族からは誰が将として出るか。」


「姪のカヤテだろう。」


「カネラ叔父上はカヤテを勘当したのではなかったか?」


「勘当は勘当だろうさ。だが当主様は許されている。今から思えば家の利害関係に縛られず思う様に生きて欲しいとの願いだったのやも。」


「ありえるな。それよりも私の従姪は戦場では使えるのか?」


「残念ながらあれは俺より腕が立つ。剣の腕はアグニ・マウリッツに後少しと言ったところだ。」


「ああ・・そう言えばあれは私の甥のナツネが死んだ時分のいざこざからミト様を連れ帰ったのだったな。ナツネは大分腕が立った様に記憶しているが死んでしまった。」


「ナツネは千剣流の礼位だ。まだまだだった。」


「ふむ。しかしアゾクとなると剣の腕ではどうにもなるまい?」


「当主が青鈴軍の副長に着けた。間違いはないだろう。」


「まあ、そうか。」


トクサはぶっきらぼうな年下の従兄弟の肩を叩き部屋を出て行った。


「・・・・」


シキミは王族の3人が出て行った反対の戸から部屋を出て行った。

部屋に残されたのはヴァルプルガ1人となる。

不要と考え報告を行わなかったが、間諜より妙な証言が入っている。


ヴァルプルガは先のマニトゥー大使殺害事件からの一連の動きを間諜により探らせていた。

グレンデル一族は強固な一族間の繋がりがあり、またその一貫した身体的な特徴から間諜を潜らせる事ができていない。

従って探るのであれば現地の調査を行うしか無い。


流れを辿るとマニトゥー王都カランビットで仲裁を行うマニトゥー大使であるレダンが殺害される事となる。レダンを殺害したのはロボク側の大使であるロシウの手の者と推察される。このロシウという者とシカダレス・ファブニルがやり取りを行っていた痕跡は掴んでいる。


そこからがヴァルプルガには理解出来ないのだが、どうやらレダンを殺した男をカヤテ・グレンデルが打ち取った様なのだ。どのような経緯があれば暗殺者と対面を果たすのかが全く理解できない。

ミトリアーレ・グレンデルの機転で即座にマニトゥーから出国を行い、マニトゥー軍の追っ手を避ける為に一度ロボクへ入国する。

ロボクからは鉄鬼の団に追われ国境付近でミトリアーレ一行は壊滅する事となる。


先のグレンデル一族2人の話に出ていたナツネという一族もそこで命を落としている。そこまでの確認も取れている。


なんとか鉄鬼の団一陣を打ち破り生き延びたミトリアーレとカヤテはその後何を思ったか森に足を踏み入れている。他の生き残りや用意していた先導役が居た形跡はない。


足跡などの痕跡は2人の物しか存在しなかった。後続の鉄鬼の団がその後を追う。数は大凡50。その後大型の魍魎の襲撃に合い鉄鬼の団は壊滅している。反面ミトリアーレとカヤテは怪我一つ負わずにグレンデーラにたどり着いている。


しかも、魍魎襲撃後はミトリアーレ一人分の足跡しか間諜は探し出す事が出来ていない。カヤテの痕跡はグレンデーラの城に二人で現れるまで忽然と消えてしまっているのだ。


そのような事が果たして起こりえるのだろうか?

貴族の娘を連れた鎧装備の女騎士が突如森に入り、追っ手が都合良く魍魎に襲われ壊滅。


その後のロボク戦線も同様だ。

ロボク軍にはヴァルプルガの間諜が忍び込んでいた。

5人忍び込んでいた。1人は討ち死にした。3人はその末路すら定かではない。

1人は恐怖に気をやってしまったのか「うし」としか話さなくなってしまった。


どうやら戦闘中に魍魎の大群がロボク勢を襲ったという噂程度の情報は入手する事が出来た。都合良くロボク勢を魍魎が襲う。


理解できない。


カヤテに何か秘密があるのだろうか?

しかしヴァルプルガにはそうは思えなかった。

彼が知る他のグレンデル一族は武力を尊ぶ嫌いがあるが、至極純朴な精神状態の一族である。


分からない。聞いた事も無い術だ。

只の偶然なのだろうか・・・?


「マクロリー様」


「む」


気付くと人影が部屋の隅に佇んでいた。


「クライか。戦がある。ファブニル、グレンデル、パラドゥア近辺に人を入れておけ。お前はカヤテ・グレンデルに近づけ。行け。」


人影は頷くとヴァルプルガが瞬きをした隙に消えてしまった。


「・・・」


立ち上がり、部屋を出る。何か、目に見えぬ不気味な物が蠢いている気がした。



秋の下月が終わる頃。ナウラの森での実地訓練は効果を現し始めていた。薬の調合は特に成績がいい。宿屋で薬の調合を行わせていると部屋の扉が叩かれた。


息づかいでカヤテだと言う事が分かる。それともう一人。かなり大柄で戦闘の訓練をした者だ。


「どうぞ」


声を掛けると、失礼する。との声と伴に扉が開いた。

今日のカヤテはやはり一人ではなかった。

彼女と男は青と紺の将校服を着込んでおり、今日の来訪がお忍びでは無く公的な物である事が伺える。脇に立つ禿頭の大柄な男が腰を折る。


「初めてご挨拶させて頂く。サルバと言う。青鈴軍でカヤテ様の副官を務めているものだ。」


「初めまして。私は薬師のシンカと申します。ご丁寧に痛み入ります。此方は弟子のナウラです。」


「ナウラと申します。」


「突然の来訪申し訳ない。シンカ、人目が多い場所では少々困るがサルバだけであれば何時も通りのやり取りで問題ない。」


「ふむ。であれば。して今日の用向きは?」


先日と同様の口調で話し掛けるとカヤテは華やかな笑みを浮かべた。


「うほっほ、これは。」


サルバが怪しげに嗤う。

二人を部屋に通すと椅子を薦める。

シンカとナウラは寝台に腰掛けた。


「其方が不用意に口を開くとは考えていないが念の為。これから先の話は他言無用で頼む。ナウラも頼むぞ。・・さて、此の度先のロボク南下に対する報復として出兵が決まった。総大将は第一王子のエメリック様。赤鋼軍1万を率いている。諸侯より1万5千、そしてグレンデルの青鈴軍より5千。これは私が率いる事となった。」


「ふむ。嫌な予感しかせん。」


「恩になった其方に此の様なお願いをするのは本当に心苦しく思っている。本当だ。だがあまりいい予感がせぬのだ。一緒に従軍してはくれまいか。」


そう言うとカヤテは深々と頭を下げた。


「シンカ殿。あんたの事は賢者だと聞いている。俺が頼んでも意味は無いだろうが、カヤテ様は優秀な騎士ではあるが、兵を率いた経験は少ない。どうか支えてはくれまいか。」


サルバも立ち上がり深々と頭を下げるのだった。


分かっている。森渡りの知識にはそこまでする価値がある。千年や2千年ではきかない知識の積み重ねには万金の価値がある。


「覚えているか。初めて国境で出会った時。俺はお前達貴族や軍人と関わり合いを持ちたくは無かった。たまたま争いに居合わせたあの場から去りたかったのだ。だから呼びかけを無視したのだ。」


「覚えている。其方のお陰で救われた。」


「貴族は嫌いだ。軍人も嫌いだ。人を、民を数としてしか見ていない。村が一つ滅びた。なんだ、一つか。お前達はそう言う。」


「私はっ・・そんな事、考えた事も無いっ」


「知っている。カヤテがそんな貴族ではない事は。だがな。ロボクを責める事をどう思っている。それは必要な行為なのか?国の面子を重視して、必要の無い戦争をするのだろう?何人が死ぬ?その醜い有様を俺に間近で見ろと言うのか!?」


「その死人を減らす為の其方の助力だと思っている。」


「・・・・部外者に頼るしかないと言うのに戦争を行うのか。」


「私とてこれが必要な行為とは思っていない。だが、もう始まってしまうのだ!・・であればその中で最善を尽くすのが私の軍人としての責務だと思っている。中央や赤蛇どもは何時もそうだ。下らん矜持で我らグレンデルを穢すのだ。・・・すまん、愚痴になった。」


「あの時、お前達を助けた事が失敗だったとは思わせないで欲しいものだ。」


「無論だ!・・それに、私は・・其方に嫌われたくない・・信じてくれ・・」


「・・条件がある。ロボクで村や町での略奪行為をクサビナ軍が行うなら抜けさせて貰う。後は、従軍はこの一回きりだ。それが約束だ。」


「問題ない。だが敵兵の処刑は止められぬ。市民は自国の民となるのだ。その位は解いて見せる。」


「継承順位第一位の王太子にか。」


「勘当されたとは言え当主にグレンデルの名を名乗る事は許されている。グレンデルの名は伊達では無い。我らは古くより正義を貫いてきた。グレンデルに見限られた王族に人はついて来ぬ。」


「言った通りになれば良いが。後はナウラを連れて行く。目を離さぬようにするが、其方も気を付けてくれ。」


「分かった。」


話は終わりだ。

寝台に置いたままにしていた獣の皮を手に取る。

カヤテは深く息を吐いた。


「シンカ。やはり其方は只者では無いのだな。当主様やアグニ様にも勝る迫力だったぞ・・」


「確かに。俺もそう思う。あんたの師に会って見たいな。」


「煽てるのはやめろ。今日は機嫌が悪い。帰って貰えるか?」


「ふむ。そうしよう。出立は7日後だ。サルバを迎えによこす。では。」


「貴族に何とも、中々の言い草だなぁ。ではな。7日後の未明に。」


2人は素早く撤退していった。

暫くの間シンカは革を鞣す作業に集中し、ナウラも空気を読んでか無言で調薬を行なっていた。

しかし一刻半もすると調薬が終わり、もじもじと挙動不審な動きを取るようになった。


戦争のこと。人間のこと。森渡りのこと。ナウラのこと。カヤテのこと。

空空漠々と考えていると何時の間にか日が暮れかけていた。

気付くと手元の革はなめし終わり、それどころか縫い始め、外套としての体裁が整い始めていた。


「・・もうこんな時間か。」

顔をあげるとナウラの姿がない。

立ち上がり衝立の向こうを確認すると寝台に丸まりあどけない表情を晒していた。


彼女は丸まりながら腹を押さえている。腹が減っているものと思われる。

眠りこけてまで空腹を主張するとは。

寝台に腰掛けて顔にかかる艶やかな白い髪を耳に避けた。


髪を掻き上げるように撫でると頭蓋の小ささを感じられる。

繊細で柔らかい毛質だ。


「お前を危険に晒してしまう。」


「俺の、目に入れても痛くない大切な弟子だ。」


「森渡りは戦争に携わるべきでは無い。我等は傍観者でなければならない。」


「だが、良く無い事が起きる気がする。俺は行くべきなのだと。そう感じるのだ。」


「ああ、そうか。俺は踏ん切りが付いていないだけなのだな。」


「お前を置いてはいけない。だが連れて行けば危険だ。」


自分の選択が正しいのか確証が持てない。世に絶対はない。だがそれでもある程度の見通しは立つものである。情報が少なすぎるのは間違いが無い。身一つであればそれでも良かったろう。


「だがナウラがいる。この娘の命が失われる選択は避けねば・・だが行かずにカヤテが死ねば俺は生涯後悔するだろう・・・」


ナウラの頭を撫でながら再度思考に落ちて行った。


どれ経ったか辺りは冷え込み、また陽も落ちて暗くなって明かりを灯さぬ宿の一室は夜の帳に犯されていた。身体の芯に染み入るような冷えと闇が澱のように部屋に積もっている気さえする。


まだどうするべきかシンカには判断がつかない。

撫で過ぎたナウラの頭髪は乱れてしまっていたが、一向に目を覚ます気配はない。

立ち上がり自分の寝台に戻ろうとするとナウラの腹の虫が鳴く音が聞こえた。


思わず笑みを浮かべてしまう。


「すまんな。起きろ。飯を食おう。」


体を揺すると目を開いた。

2人で飯屋を探し夕飯を取ることにした。


肉を出す店に入り注文を終えると素早く出された野菜を食べ始める。


「先生。迷っておられるのですか?」


「・・・」


「・・珍しいですね。悩みとは無縁に思えましたが。」


「言っていろ。歳をとれば柵が増えるのだ。」


「私は先生と何処までも一緒に行きますよ。それとも、私は邪魔でしょうか?」


「元より未熟者お前を置いて行く気は無い。」


「なら、良いではありませんか。何を悩むのですか?」


「・・・」


考え込んでいると料理が運ばれて来た。しかしあまり食欲は湧かない。


ナウラの方を見ると口元がほんの僅かに綻んでいる。

シンカの観察力を持ってして始めて分かる程度の微々たる変化だ。

飯を前にした喜びかと考えたが、どうもそうでは無いような気がする。


「先生。貴方の選択は常に正しい。ですが、もし誤りだったとしても貴方には力がある。先生の勘はどうするべきだと訴えているのですか?」


責任。


人の命を預かる事。


それは薬で人を治療する事とは訳が違う。病や怪我は薬師の責任では無い。


しかし今回は訳が違う。恐らく結婚し所帯を持っても同じ葛藤を抱く事になるのだろう。


自覚していなかった。甘い気持ちであった。ふらふらと好きな事だけをして生きるのとは訳が違う。


大切な存在の命を預かり、何を選択するにもそれを天秤に掛けなければいけない。誤れば必ず、一生後悔する。


「赴くべきだと。感じている。」


「では一緒に赴きましょう。それが正解です。」


ナウラは自分との事を何と考えているのだろう。シンカには分からない。


飯を食べ終わると酒は飲まずに宿に戻る。

ナウラは食べ過ぎて今は何も入らないらしい。

シンカの方は食があまり進まなかった。


これ以上悩んでも仕方がない。何日考えてもこの感情に折り合いは付かないだろう。


であればできる限りの準備をし、必ず全てを守るのだ。


眉間に寄っていた皺を指で解し息を吐いた。


「お前には負けるよ」


その後の数日間シンカは戦争の為の準備を行った。

自身も体術の型を舞い、修めた武術の技の確認を行った。経を練り法を起こす一連の流れを何度も実行し急激な行法の行使に身体を慣らしていった。


またナウラの装備を整える作業も行っていった。手始め森渡り達が身に纏う厚手の外套を完成させ、上まで覆う口当てを作った。最後にシンカの拘りである笠を編み上げた。


これにはナウラも殊の外喜んだ様で、早速無表情で笠を被りじっとシンカを見つめた。


「ああ。一端の森渡りに見える。知識も技術も伸びている。この調子で励めよ。」


言うと表情は変わらないが足取り軽やかに部屋を一周した。


「うん。」


大きな乳が揺れて見目麗しい。

何より笠一つで喜ぶ様が愛らしい。


最後にイブル川を北西に向けて遡り森へ入ると更に上流へ向けて川を辿った。


小さな滝があり、薄緑に色付いた滝壺を見つけると水をひと掬いし目前で手から零してみる。

僅かな粘性が見て取れた。

近場で穴を掘り木の根を齧り取っていた小鬼を見つけると首を落として殺し、其れを滝壺に放り投げた。


水音と水に混ざる血の匂いを嗅ぎつけ、巨大な鯰が水面に躍り出て一飲みで小鬼を腹に収めてしまう。

シンカはすかさず風行・紫電を行い、百歳鯰の命を奪った。


水面に浮いた鯰が浅瀬まで流れ着くと、その背を割り二つの浮袋の間から黒い宝石を取り出した。

磨いた黒翡翠の様に輝く漆黒の珠だ。色はナウラの瞳と全く変わらない。

人間の眼球よりも一回り小さい大ぶりなな珠を手に入れるとホクホクとした気分でグレンデーラに戻り木を削り出し、砥木を加工して受けを用意し黒虎の髭を首紐とした首飾りを作った。

残る3日をかけてシンカは珠に経を込めて行った。


「ナウラ」


「何でしょう」


室内で体術の型を繰り返していたナウラを呼び止めると出来たばかりの首飾りを無言で渡した。

受け取ったナウラは暫くの間中心で輝く珠を見つめていた。


「これは・・。・・・・これは、何と言えばいいのか。・・・どんな犠牲を払ってでもこれを手に入れたいと思わせる魅力があります。この様なものを貰っても宜しいのですか?」


「俺にはそれ程魅力は感じられない。ナウラがそれに執心してしまうと言うならば、それはお前の物になるべき物だろう。お前に産まれた娘がお前と同じ瞳の持ち主なら、その娘が成人した時に譲り渡すのだ。人の仕来りではあるが悪い仕来りとは思えない。母から娘に何か物を遺す。悪くないと思う。」


「先生。これは、これは、何か対価が無くてはなりません。」

ナウラは珠の首飾りを大切そうに握りシンカに瞳を向けた。

眉が僅かに寄っている。心なしか瞳も潤んでいた。

「俺の経を込めておいた。珠は魍魎が持つ経の源であると言われている。現に経を蓄えておくことができる。従軍の際、いざという時に使え。俺の都合で戦に赴かせる詫びだ。」

「・・・」

彼女は暫く口を噤んでいたがやがて何処か呆れた様な視線と共に口を開く。

「先生。その様な後ろ向きな理由でこれは受け取れません。」

シンカは女との付き合いは人並み以上に持っていた。

だからナウラが求めているものも用意に理解できた。

それに、最早シンカとナウラの師弟には人並み以上の堅い絆が生まれていた。

お互いの事は恐らく肉親や夫婦以上に理解しているだろう。

「ナウラ。お前の為に作った。弟子に対する俺の気持ちだ。大切にしろよ。」

頭を撫でると彼女は穏やかな笑みを浮かべた。

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