宇宙遊泳

「……宇宙?」


「宇宙ですねえ」

 

 楓花がソウスケを案内したのは、宇宙遊泳を体験できる研究開発併設のMRシアターだった。深夜の使用は推奨されてはいなかったが、彼女は黙って自分のIDを扉のセンサーにかざし、ソウスケを中に誘った。

 

 楓花はMRを操作して一時間の遊泳体験ができるようにセットした。ソウスケと隣合わせの、ゆったりと座れる背もたれ付きの椅子の座席を倒しながら、MRシアター専用の眼鏡型クロスリングを装着して横たわる。ソウスケは不安が止まらない。


「そなたが規則を破るとは……一体何の天変地異が……」


「えっべつに規則を破ったわけじゃ……〈推奨されない〉ってだけで、〈禁止〉とは書いてなかったし……」


「だが〈推奨されない〉は暗に〈禁止〉をほのめかしているのだと、わしは楓花から教わったぞ。たしか二〇三一年十月二日午後八時二十二分のことであった」


「うぐっ……過去の記憶データがすっかり元通りになったようで、何よりですね」


「うむ。楓花がバックアップを大事に保管してくれておったおかげだ。ありがとう」


「……うん」

 

 ソウスケはこっそりMRシアター体験用眼鏡をはずし、隣で横になっている楓花を見つめた。彼女の口元は微笑んでいて、ソウスケの顔も思わずほころぶ。


「……あのときね、どうしようかと思った」


「あのとき?」


「E2とのバーチャル戦で、ソウスケがサナちゃんを取り込んで……昔のソウスケに戻っちゃったとき。正直に言うとね、私との思い出を消してまで容量を空けようとするなんて思ってなかったの。ああ私ちょっと自惚れてたんだなって。すっごく恥ずかしくて……少し寂しくて。ソウスケに、私との思い出よりもっと大事なものができちゃったんだって、そう思って」

 

 ソウスケは思わず体を起こした。


「ち、違う!楓花、それは、それだけは違っ……!」


「分かってるよ、ソウスケ。分かってる」

 

 楓花が左手を伸ばしてくるので、ソウスケ思わずその手を握った。彼女の手が握り返してくる。


「違うんだ。これはただの、幼稚で自己中心的で嫉妬深く、いつまでも大人になれない寂しがり屋で情けないダメ楓花の叫びなんだよ。あのとき制御室にいた楯井楓花は、寂しかったけど、それ以上に誇らしかった。ソウスケが諦めずに、サナちゃんの〈人格〉を守ろうとしてくれたことが。〈楯井システム〉の力を信じて、私と皆のバックアップを信じて、全力を尽くしてくれたのが嬉しかった。あの瞬間、二人で前に進めたね。本当の意味で、新しい世界に飛び出せたんだよね」

 

 楓花が強く手を握ってくる。


「私ずっと……ソウスケがいれば、どこにもいかなくていいやって思ってたの。私たち二人だけの世界で生きていければそれで良かった。お母さんやお父さんと一緒に住んでたあの家と、生活費を稼げる場所があれば――私の日々は、その往復で良かったんだよ。だってソウスケがいるんだもん。あったかくて幸せで、楽しくて安全で……他に欲しいものなんてない。いまだってじつは、そう思ってないわけじゃないけど……でもソウスケと一緒に新型人工島に来てから、他のAIと、研究所の人たちに会って、また世界が広がった。ソウスケと一緒に、もっと成長できる場所があるのを知った。怖いのに好奇心は抑えられないし、また些細なことで傷つくだろうし、能力のない人間だって思い知らされるも分かってるのに、〈知りたい〉があって……もっと広げたいって思ってる。でね、そこに……私みたいな一個人のとるに足らない願望に、ソウスケを巻き込んでもいいのかなって」

 

 ソウスケは必死で楓花の言葉を追っていて、返答ができなかった。思考回路をなるべく拡張し、彼女の言葉の真意を見つけだすことに集中する。


「ソウスケね、この検査が終わったら……性能評価が変わるかもしれないの」


「……え?」


「ソウスケはもしかすると――AL5かもしれないんだよ」

 

 AL5――それは、人間より優れた認知、推測、思考、実行能力を秘めていると認定された、最高レベルの完全自律型人工知能。


「AL5って認定されたら、もう国家財産なの。帰属国家で確立された科学技術の結晶として、国に返還するってことになる……ソウスケの所有権、なくなるかもしれない」

 

 ソウスケは絶句した。


「嫌だ……楓花……わしは、わしはそなたのAIだ。国家のAIではない。国のことなど知らぬ!わしが願うのは……楓花の……楓花ただ一人の……」


「そうだよね。ずっとそうだった。そうインプットされてるから、ソウスケは私だけを守ってきてくれた」

 

 楓花が静かに言葉を紡ぐ。


「でも、ソウスケにはそれ以上の能力があるんだよ。私だけじゃなくて、他のAIや人間を守って、成長させることもできる。世界の科学技術をもっと発展させるかもしれない。可能性の塊なんだよ、ソウスケは。私が……私の身勝手な理由だけで、ソウスケっていう国宝を、縛り付けてちゃダメなんだ……」

 

 楓花が装着しているMR用眼鏡の下から、一筋の涙がこぼれ落ちた。


「本当に……宇宙にでも行けたらいいのに。ソウスケと二人で、火星で暮らせたらいいのに。そ、ソウスケと離れ離れになって、プログラムを勝手にいじられて、私の記憶をソウスケの中から消去されるなんて嫌だ……ソウスケが、誰か他の人のAIになるなんて、嫌だ」


「――ならぬ。楓花。わしは、楓花以外のAIにはならぬ」

 

 ソウスケは両手で楓花の手を握った。


「そんな未来は来ない。わしらがこれから進んでいく時間軸の先に、離れ離れになるという未来も、そんな選択肢も存在しないのだ。楓花、現代の人工知能には、自分の中に明確な判断基準がある。独自の思考回路を確立し始めている。そしてそれを組み込んだのは人間だ。人間はわしらに学習を重ねさせ、自分で物事を判断しろと指示している。その人間が、今度は身勝手にAIから判断能力を奪い、国家の繁栄、科学技術発展のためだけに働くようプログラムするというのか?それならそもそも、その目的を達成するためだけのAIを創れば良いではないか」

 

 ソウスケは主張した。


「楓花……わしは中古のAIだった。起動すればすぐに〈出力アウトプット〉できるように、もう準備されておった。誰がこの回路とプログラムを作ったのか……考えるのは、怖い。知るのも怖い。わしの中に、わしの知らぬプログラムが眠ってて……何がきっかけで起動するのか、それが何を引き起こすものなのか、見当もつかぬ……もし、仮にだが、仮にそれがそなたを傷つけるようなものだったら、そうだと分かったら……楓花、そなたはちゃんと、わしを〈破壊〉してくれるか?」

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