第868話 Herrschaft

音楽を司る天使と天国の歌を司る天使を取り込んだ僕の演奏と歌唱は素晴らしいものだっただろう。自分では分からないし、拍手する者は居ないけれど。


一通り演奏を終えてエレクトリック・ギターを影の中に戻す。直後、背後で咆哮が上がった。振り向けば槍を無理矢理引き抜いたと思われるサタンが竜の姿のまま勝利を喜んでいた。


『サタン、勝った?』


枯れ、散った花を踏みつけてサタンの元に走ると彼は大きな頭を地面スレスレに下ろし、口を開けて長い舌を突き出し、舌の上の翼と目の集合体の残骸を見せた。それを吐き出すと竜は黒い焔に包まれ、褐色肌の美男の姿になる。


『魔物使い、ほら』


『ありがとう』


真っ白の真球を渡され、それを直ぐに飲み込む。するとズタボロになったメタトロンは消え、僕の翼が増えた。


『へっ……!? 今まで見た目は変わらなかったのに……』


何十枚もの翼が……しかも羽根の一枚一枚に目が……気持ち悪い。


『二、四、六──十六、十八! かける二で……三十六!? 三十六枚あるよサタン!』


数え終わる頃にはルシフェルがサタンの隣に並んでいた。


『えっ、と……何だっけ? 何を……ぁ、そうだ! 生命の実!』


枯れた花畑の真ん中に立った大樹はまだ枯れていない。僕は赤い実をなっているだけ取り、影の中に入れた。


『……嘘じゃなかったんだね、本当に……これを食べさせればクラールは……うん、そりゃそうだよ、神の果実だもん。天使や人に不可能な奇跡も起こせるよ』


メタトロンを取り込んだことで彼女が最初に持ちかけてきた契約の内容が真実だったと分かった。


『あれ……? 僕、なんで実が欲しかったんだっけ……クラール……クラール? え? く……あれ、今、僕……誰の名前を』


たった今頭に思い描いていたはずの者の顔も名前も思い出せない。自分の顔と名前も分からない。目の前に居る彼らの名も分からない。


『僕、僕は……誰? 僕は、何……?』


『魔物使い……あぁ、魔物使い、此方へおいで』


スーツに身を包んだ黒髪に褐色肌の男が手を広げる。金色の瞳は優しく細められており、僕は彼が信頼に足る人物だと悟って彼に抱き着いた。少し前まで彼の名前は覚えていたはずなのに、彼が誰なのか知っているはずなのに、分からない。


『雨を降らすにはまず雨雲、生体電気を操るのは加減が難しいから壊れてもいいものにだけ使って、契約の時には代償を必ず……』


忘れた何かを思い出そうとすれば力の使い方ばかり頭に浮かぶ。


『神様? 神様、どうしたの? サタン、神様どうしたの?』


『これは神様ではない、魔神王様だ、そうだろうルシフェル。我ら魔性の王であり、神なのだから』


『ぁー、んー、そうだね、じゃあ魔神王様、どうしたの?』


緩くウェーブがかかった長い金髪の女がその赤い瞳に僕の顔を映した。


『天使を取り込み過ぎて少し混乱しているだけだ。何も問題ない』


男に抱き上げられたので彼の首に腕を引っかけ、頭から生えた腕や背中から生えた翼などを消し、人の姿に戻る。


『……さて、神を殺すか』


『あぁ、そうだね、恨みがある……私を愛さなかった、私を認めなかった、正しい私を悪だと断じた神……! あれ? 何も居ない……神も、何も……』


僕を抱えた男と金髪の女は大きな扉を抜けて玉座の間へ辿り着く。しかしそこには何もない。


『いないな。とうに神は去っていたのか……? 人に愛想を尽かして、メタトロンを代理にして……? とにかく、人格はもうここには居ない、別世界へと旅立った、残るのは概念だけだ』


『……えーと?』


『誰も居ない玉座に座るだけで天界の主は描き変わる』


歩くことで起こる心地好い揺れに目を閉じていると大きな椅子の上にドサッと落とされた。


『さぁ……魔物使い。残留する神力全てを吸収し、その心を完全に壊し、神に至れ』


頭を撫でながらそう言われて、僕は深く息を吸った。そうすると白一色で光に包まれていた玉座の間が黒一色の闇に閉ざされた。


『ふ、ふ……ははっ、はははははっ! やった……やったぞ、遂にやった! 余の悲願は達成された! 天界は余の手中に落ちた!』


男がダンッと足を踏み鳴らすと黒い焔が広がり、玉座の間を整えた。まだまだ薄暗いが赤っぽい灯が点き、深い赤色の絨毯が敷かれ、壁や天井の彫刻なども様変わりして僕の目に届いた。


『おぉー……天界がどんどん魔界風に……』


『ふん、もはやここは天界ではない、魔界と同じだ。余は人界に連なる上位界を二つとも手にした。余が、サタンが、全ての王だ』


『魔神王様は?』


『もう動かん。ほら、ルシフェル、一度人界に戻って勝利と功績を報告するぞ。魔界から人界や天界に移住したがる者も出るだろう、竜の里も解放して好きな場所で好きなように暮らし、余を讃えるよう整えなければな。忙しくなるぞ』


男は愉快そうに高笑いしながら玉座の間を、いや、天界を後にした。僕には彼が天界を去ったのが分かる、天界の隅々まで手に取るように分かる、僕の支配する空間なのだと認識できる。


『魔神王様……? 動かないなんて、そんなの……嘘だよね? 魔神王様は私を愛して私を褒めてくれるんだよね?』


女は僕の前に留まっている。僕はそっと手を伸ばし、屈んだ彼女の頭を撫でた。すると不安そうな顔は一転して笑顔に変わり、立ち上がった。


『だよね! じゃあ魔神王様、すぐに奥方を連れてくるよ!』


魔神王とは僕のことか……奥方? 僕は結婚していたのか? 覚えていないな。僕の妻はどんな人だろう、美人だといいな。


『えーっと、シェリーちゃんだったかな? おいで』


女は僕の影に手を突っ込み、何かを掴んで引っ張った。その何かは竜の角だったようで、美しい水色の鱗を持つ竜が僕の影の中から現れた。


『シェリーちゃん、竜の里に入れてくれないかな? 魔神王様の奥さんを呼びたいんだ』


竜はそのつぶらな瞳で僕を見つめた後、可愛らしく甲高い声で返事をして、石の床を爪で彫って円形の模様を描き始めた。その模様が完成すると女は円の中に飛び込み、水面のようになった石の床の中に吸い込まれた。


『きゅーぅ、きゅいきゅい!』


竜が甘えるような声を出して膝に鼻の先端を乗せてきたので撫でてやる。竜は嬉しそうに鳴いて僕の太腿に鼻先を擦り付けた。

手足を動かす気は起きないが、撫でて欲しそうにする誰かを撫でるのは反射的に行える。声の出し方も表情筋の使い方もハッキリとは思い出せないけれど、撫でられて喜ぶ誰かを安心させるための微笑みは作れる。


『きゅ? きゅうぅ、きゅいぃ、きゅい!』


竜が鳴いて僕の膝の上から離れ、石の床に彫った円の中から帰ってきた女を顎で指す。女は白い仔狼を咥えた銀狼を連れていた。


『奥方連れてきたよ、魔神王様』


銀狼は僕の前まで来ると僕の膝の上に仔狼を落とした。反射的にその仔狼を撫でる。今までと違って反応がないし、体温も低い、柔らかさもない。


『ヘル……勝ったんだな、おめでとう……でも、貴方が戦っている間に、クラールはっ……私に毛繕いされながら、貴方を呼びながら、眠るように……死んでしまった』


この仔狼は死んでいるようだ。


『生命の実を食べさせれば助かるかもって話だったのに……惜しかったねぇ』


『あぁ……そうだ、たった今ルシフェルに生命の実の話を聞いた。済まない、ヘル……後、後十分、私がクラールを踏ん張らせていられたらっ……言ってしまったんだ、私は。貴方を呼ぶクラールに……何とか目を開けていようとするクラールに「また会えるから無理はするな」と……言ってしまったんだ』


銀狼は仔狼の母親らしく、酷く悲しんでいる。子供が死ぬ気持ちは僕には分からないが、とても悲しいことなのだろう。


『あまり留まらせていたら魂も壊れてしまう。魂が壊れたら生まれ変わりにすら会えない……だから、もう大丈夫だよと言ってあげたくなって……言わなければと思って……私は、馬鹿だ、大馬鹿だ……ヘル、ヘル……ごめんなさい、ヘル……ヘルっ、ヘルぅ……』


銀狼は僕の膝に前足を乗せて大きな頭を僕の胸に寄せた。仔狼にはなかった体温に、鼻腔に届いた獣臭に、僕の心と頭の奥の深いところが揺さぶられた。


『ア、ル……?』


『あぁ、ヘル。アルだよ、アルギュロスだ……済まない、ヘル……もう、子は……居ない。私しか……アルしか……居ないんだ』


『アル……』


銀狼は普通の狼とは違っていた。光を吸い込むように黒い翼を生やし、漆を塗ったような光沢を放つ黒蛇を尾にしていた。その黒蛇の美しい鱗には醜い傷痕があった、その傷痕は文字のようで、こう書かれていた。

Herrschaft──と。

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