第842話 貪る魔王

竜の里の管理はとりあえずライアーに任せ、ヴェーン邸に戻った。皆落ち着かない様子で作戦決行の報せを待っている。

僕は天使を出来る限り吸収するようにと言われたからそうするつもりだ。その前にアルとクラールに一言言っておこうと部屋に入ると見知らぬ少年が居た。


『ぁ、おかえり~』


僕とほとんど同じ身長、クルクルと巻いた白い髪、羊の角に耳、黄土色の布だけを肩から被り、顔を白い画面で隠し、素足で絨毯の上を歩いて僕の方へ寄ってくる。


『やっと戻ってこれたよ~、も~、キツかった~』


彼は何の躊躇もなく僕に抱き着く。僕は彼の背に腕を回し、強く抱き締め返した。


『……無事だったんだね』


『無事じゃないよ~、すっごい飛ばされたんだから~、でもター君が黄衣持っててくれたおかげで目印になったよ~』


『よかった、ハスター……もう会えないのかもって、思って……』


ペラペラの布だった黄衣の中に僕と似た体型の少年が居る。体温がある。僕に触れる彼の実体には骨がなかったのに、今は人間と同じ手で触れてくる。


『その格好はどうしたの?』


『さぁ~? なんかこうなってた~。多分~、クトゥルフを封印し直せたから~、人界の神話成分が薄まって~っていうかにゃる君が吸い上げて~、僕に回す余分なのがなくなったから~かな~?』


よく分からない。表情で伝えるとハスターは仮面の下で笑みを零した。


『邪神成分が抜けたってことだよ~、正真正銘僕は善なる神に戻ったんだ~』


『そっか、ぬるぬるは邪神成分だったんだね』


『みたいだね~、今はモコモコでしょ~? イカが抜けて羊が強くなったからね~』


ハスターはそう言いながら僕の手を掴んで黄衣の中に入れる。黄衣の内側は柔らかな羊の毛に覆われており、肌は絹のように滑らかで……


『……なんで何も着てないの! どうしてそこに手を突っ込ませるの! 僕の服貸すから着て!』


クローゼットから引っ張り出した適当な服を投げ渡す。ダメージジーンズに肩出しシャツ……まぁ、ないよりはマシだ、僕の趣味ではない服だし押し付けてしまおう。


『下着は自分で買いに行って、お金あげるから』


何着か買えそうな金額を入れた財布を渡し、部屋から追い出す。

彼が生きていたこと、元気そうだったこと、追い出せたこと、それらへの安堵のため息をつき、ベッドに腰かける。


『アル、起きてる?』


『……あぁ』


『クラールは寝てるね。サタンに言われたし、僕今から天使を吸収しに行ってくるよ、話し合いでなんとかなることもあるし、戦ったとしても今の僕なら無傷で勝てるから、安心して見送ってくれる?』


丸まって眠っているクラールの頭を撫で、続けてアルの頭も撫で、立ち上がろうと力を込めるとアルの尾が胴に巻き付いて僕をベッドに転がした。


『アル? 僕、大丈夫だから。ね? 戦争終わったらいくらでも構うからさ』


『……ヘル、天使を吸収するのはもうやめて』


アルの鼻先が腹や首筋にぐりぐりと押し付けられる。匂いを嗅いでいるのだろう。人間の常識を持つ僕としては恥ずかしい行為だが、獣のアルにとっては普通だし僕もいい加減慣れてきた。


『貴方は少し前から匂いがしなくなったんだ』


『……匂いがしない?』


『貴方にあるのは私が付けた私の匂いだけ、貴方の匂いは消えてしまった』


着ている服を捲って鼻に押し付けると獣臭がした。


『気配も段々と変わってきた、貴方が別人になっていくんだ。だから、私は……怖くて。布団に潜り込んでくる貴方が貴方だと思えなくて、私を撫でる手つきは変わらないのに気配が変わっていくのが恐ろしくて、貴方に怯えてしまって……』


このところアルに怯えられている気はしたが、そんなふうに感じていたのか。だがそれなら解決済みだ、酒呑がサタンに似たようなことを聞いていた。


『大丈夫だよアル、サタンと酒呑が話してたでしょ? 僕の気配は変わっていくのかもしれないけど、僕の根幹は揺るがないって。ほら、人間は食べた物で身体を作るから、何ヶ月かすると成分的には別人になるって言うでしょ、似たようなものだよ』


ハスターから聞いた話も織り交ぜてアルを説得しようとしたが、アルは背を撫でようとした僕の手を優しく押し返した。


『アル……アルは僕が弱い子供じゃなきゃダメなの? そうじゃなきゃ愛してくれないの?』


『……貴方が貴方である証拠が少しずつ貴方から消えていく。怖くて堪らない』


『僕は僕だよ、アルと出会った時のことも、アルが守ってくれたことも、アルと初めてキスした日のことも、アルと結婚したことも、全部全部僕だけの思い出だよ』


『…………本当に、貴方の中は貴方だけなのか?』


もちろん、そう言おうとした。けれど声が出ていかない。アルとの日々は僕だけの思い出ではない、僕は僕だけの存在ではない、僕は幾つもの天使が重なった上位存在で、彼らの魂は僕の魂と溶け合ってアルとの思い出も共有されている。ヘルがその魂達の中で唯一自我を保っているから僕は僕だと思っているだけで、僕は本当は僕ではないのかも……何を言っているんだ? 僕は……僕は僕だ、アルを愛しているのは僕だ、アルを幸せにするのは僕だ。


『……ヘル?』


ベッドを降りて窓に向かう僕を不安げな瞳で見上げるアルが愛らしいと感じているのは僕だ。


『待っててね、アル。天使を片っ端から吸収してくるから、この部屋で僕を待ってて』


『やめて……ヘル、これ以上私のヘルに妙な物を混ぜないで』


『たくさん食べなきゃ強くなれない、強くなきゃアルを守れないだろ? 大丈夫、アル、この世界をアルの為だけに平和に変えてみせるから』


『ヘルっ……待って、行かないで! 私を置いて行かないで、ヘルっ!』


窓をすり抜けて飛び立ち、振り向くと窓を開けもせず僕を見つめるアルが見えた。笑顔で手を振ってカヤを呼び出し、娯楽の国へ向かった。

酒色の国ほどではないがネオン看板が多く、酒色の国よりも店内から漏れる音が大きい、そんな不健康な街が娯楽の国。前に来た時よりも活気がないのはマンモンが呪いを弱めたからだろう、煙草を吸う人々の瞳も前に見た時より明瞭だ。


『ゼールークー、出ーてー……こいっ!』


国の中心で透過を解き、竜の里に生やしたものと同じ大樹を生やす。アスファルトがヒビ割れて木の根が蠢き、小さな芽は大樹へと成長していく。

耳の上辺りから生えた篦鹿の角にふらつきつつも周囲から魔力を吸い上げて大樹に注いでいると、不意に右の角が砕かれた。


『随分化け物じみたな魔物使い! 来てくれて助かったぜ、天界はてめぇを危険視して単独での接触禁止令なんてビビったもん出しやがったからな』


僕の角を蹴りで砕いた男──ゼルクは僕から距離を取って着地した。刺々しい金髪も、伊達眼鏡の下の赤紫の瞳も、何一つ記憶の中の彼と相違ない。

女神に教わった力を使わないよう意識すると左の角と右の角の残りがヒビ割れたアスファルトの上に落ちる。


『ゼルク、僕とひとつになろう。天界を落とす算段は整ってる、無駄な足掻きは苦しいだけだよ、僕に魂をちょうだい、そうすれば永遠の安息が手に入るよ』


考えるまでもなくペラペラと言葉が出ていく。これはきっと僕が取り込んだ天使達の影響だ、ヘルという少年は口下手だった。


『魂……ねぇ。イイぜ』


『え……? い、意外だね……君がそう言うとは思わなかったよ』


『タダだなんて言ってねぇだろ? 魔物使い、喧嘩しようぜ。てめぇが勝ったら俺をやる、俺が勝ったらてめぇは天界連行だ。助っ人はナシ、取り込んだ連中の力を使うのはアリ、ただし透けるのはナシ、どうだ?』


彼らしいと言えば彼らしいのだろうか。


『魂を賭けて真剣勝負だ』


『いいの? 君、博才ないのに』


『負けなしのZEROをそんな煽んなよ』


強面の彼の背に白い翼が生えるのは、輝く光輪が浮かぶのは、何だかおかしく思える。


『いいよ、乗った。やろう』


彼のような単純に強い相手と戦えば自分の強さを試せる。天界からの神力供給が増えている訳でもない天使一人に苦戦するようなら戦争には勝てない。


『へへっ……楽しませろよ?』


『そっちこそ』


ゼルクは自分の羽根を何本も毟った。白い羽根は彼の手の中で鋭いナイフに変わる、指の間に挟まれたそれはまるで爪のようだ。

戦闘狂の彼にとっての喜びは戦うこと。そして彼が彼でいられるのはこの戦いが最後。それならフェアにやってやろうと僕は透過を使わずに爪を避けた。

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