第838話 魚臭い浸食者

兄が戻ったのですぐにアルの痕跡を追わせる。手のひらに浮かんだ魔法陣が矢印となり、方向を示す。ヴェーン邸を出てしばらく、繁華街に近付くと歌が聞こえてきた。緊急放送用のサイレンを使っているらしい。


『レヴィ? だっけ? これ巻いておいて』


『八岐大蛇、もしくは、伊吹大明神、そう呼べ』


兄は後ろ髪を一束ちぎってオロチに渡す。オロチの手の中で髪は触手へ、触手はマフラーに変わった。


『街中の吸鬼共が殺し合ってる……って訳じゃないね、家でやった暗示とは違う…………うん、解析できた。ただの洗脳みたいだね、信者に変えてるだけだ』


そこに込められている意味や意図を拾わなければ人魚の歌声は美しい。曲調に関わらずどこか悲哀を感じさせる声だということも人を魅了する要因だ。


『で、その信者共は敵である僕達を狙う……国民全員相手にするのは骨が折れるね。ま、放送なんてやってくれたおかげでその必要はないけど』


この国に放送局は一箇所しかない。兄もそれは分かっていたらしく、虚ろな瞳をして向かってくる吸鬼達を無視して空間転移を発動させた。


『……遅かったね~、ふふっ……仲間、誰か殺した?』


ツヅラ──いや、クトゥルフは人の姿に化けていた。アルの背に腰掛け、全身を赤く染めた零を抱えていた。


『クトゥルフ……』


『そんな恨みのこもった目で見つめないでよ~、怖いなぁ~。恨みたいのは僕達の方だよ~? 人界の隅っこに置いてもらおうとしてるだけなのに必死に追い出そうとしてさ~? 追い出された僕達がどうなるかも知らないでさ~』


零には辛うじて息があるようだが、現在進行形で臓腑を食い荒らされている。クトゥルフは僕を睨みながらも臓器を毟る手は止めず、美味そうに微笑んで指をしゃぶった。


『んふふっ……魔力潤沢な人間はイイね~、効率よくってさ』


後ろ手に雨水で剣を作り、隙を伺う。次に零の内臓を毟った時に踏み込もうと足に力を込める。クトゥルフの手が零の腹に向かい、掴み──零をこちらに放り投げた。


『にいさま……零さんお願い! 魔物使いの名の元に宣言する、アルギュロスは僕の物だ!』


腰を落として零を避け、アルの支配権を奪い返す。雨水の剣を振るって途中で鞭に変形させ、アルの身体に巻き付けて思い切り引っ張った。するとアルは僕の腕の中に戻り、クトゥルフは床に落ちる。


『オロチ、好きなようにして!』


アルを抱き締めてローブの中に隠し、頭をオロチの踏み台にされる。僕を踏み台に跳んだオロチの蹴りはクトゥルフの眼前で防がれた。結界がある。


『ふふ……ァ、ア……────……ァ、ァ』


大きく息を吸い、大きく口を開けた。歌われると察した僕はアルの耳を塞ぎ、自身の聴覚を捨てた。声は聞こえなかったが壁に亀裂が入り、放送局が崩れて瓦礫が降ってくる。しかし兄に貰ったローブを着ている僕には当たらない。透過するまでもなく防護結界がある。


『アル、クラール……連れてないの? どうしよう……どこに、フェル連れてない……よね、どうしよう……』


尾に巻いていたスカーフがないから、先程オロチの蹴りを防いだのはクトゥルフがアルのスカーフを奪っていたのだと分かる。ならクラールはどうだ? 未だにどこに居るのか分からない愛娘はスカーフを巻いているのか? 無事なのか? 瓦礫に埋もれてはいないか?


『クラール…………ぁっ、ま、待て!』


蝙蝠に似た翼を生やして逃げていくクトゥルフを土埃の向こうに見た。僕はクラール捜索を兄に言いつけてアルの背に跨り、オロチを呼んだ。


『遅いな、追いつかない、逃げられる、もう見えないぞ』


飛び乗ったオロチは僕の胴に腕を回してしがみつき、前方を睨んでいる。


『分かってる……!』


クトゥルフの暗示を解くのには手間がかかるし、まだ離れていない以上再びかけられる可能性が高い。だからアルの意識を乗っ取って飛ばせている、当然いつもより飛行速度は遅い。アルの肉体を僕が操作している訳ではないが、旋回や上昇の指示を出すのは僕だ、反射神経も動体視力もアルには遠く及ばない僕なのだ。


『……仕方ないな。落としてやる。力を寄越せ。血を呑ませろ。肉を喰わせろ。血肉を捧げ。吾に祈れ。吾を崇めよ』


『魔物使いの名を以て──八岐大蛇に魔力を注ぐ』


そう宣言した途端、肉体ごと引き摺られるような感覚に襲われる。魔力を吸われている。胴に巻かれていた腕が消え、背後に恐ろしい何かが顕現する。

急速に黒雲が空を覆い、背後に居た何かが消え、雲から巨大な蛇が生える。一体、二体──全部で八体。その八体の蛇は一箇所に集束し、何かを巻き込んで山の麓に落ちた。


『……アル、急降下!』


木々の隙間を縫って着地すれば地面に横になり少女の姿に戻ったオロチを睨むクトゥルフと、結界の上に乗って結界を蹴りつけるオロチが居た。


『仕方ないなぁ~……ァ、ア……────……ァ』


僕が追い付いたのに気付いたクトゥルフが僅かに眉を顰め、歌った。途端、オロチが首に巻いていたマフラーが燃え尽きたようにボロボロと崩れていく。


『さァ……土神、てめェの信者諸共全部喰わせろォッ!』


テレパシーを食らったのか、オロチは耳を塞いで硬直している。振るわれる肥大化した鉤爪を防ぐには僕は遅過ぎる。間に合いたいと願うことすら放棄して、オロチを庇う気すらなく、目を閉じる──金属音が鳴り響いた。


『鬱陶しいィ……スライム如きがッ!』


空間転移で鉤爪の軌道に割り込み、クトゥルフの攻撃からオロチを守ったのは兄だった。


『スカーフ、返してもらうよ』


クトゥルフが二の腕に巻き付けていたスカーフがひとりでに解け、兄の手に戻る。クトゥルフは肥大化した鉤爪を剥がし、血まみれの素手を懐に突っ込む。


「りょーちゃん! 戻って……!」


兄に抱えられていた零が手を突き出し、クトゥルフの髪や皮膚に白い膜が張り始める──しかし、凍り始めた腕をパキパキと鳴らしながら懐から取り出されたモノに零は力の使用をやめ、追撃のための魔法陣を浮かべていた兄も魔法を取り消した。


『……動くな』


呆れたような低い声でそう吐き捨て、僕を睨む。爪は再生したがまだ血みどろのその手にはクラールが掴まれていた。


『ぁ……ク、クラールっ……』


『動くなッてんだろ青二才ッ! ガキ捻り潰すぞ!』


『きゃうっ……!』


口汚い脅しと共にクラールを握った手に力が込められ、苦しげな甲高い悲鳴が小さな体から漏れた。


『あ、ぁっ……や、やめてっ、やめて……お願い、やめて……』


情けない声を出し、首を横に振る。それを見た兄はオロチを下がらせ、ゆっくりと戦闘態勢を解いた。僕達に攻撃の意思がないのを確認し、僕が涙を零し始めたのを見て、クトゥルフは口の端を吊り上げた。


『……君さ~、透過、とか何とか……変な術使うよね~? それ、解いて? そのローブも脱いで? 痛みも苦しみも何もかも受け入れて? でなきゃ……』


『した! いやっ、しました、解きました! だから……お願い、クラールには、何も…………っ!?』


胸の奥に突き刺さるような冷たさを覚え、掻き毟るようにシャツを掴んで膝を折る。この感覚には覚えがある、今僕は山の麓で溺れている、木々に囲まれながら肺を海水に満たされている。正座に似た体勢になって咳き込む。足首に巻いた鎖がジャリジャリと音を立てた。


『げほっ、ぇほっ……けほっ、ぅ……ぉえっ……』


『……僕の望みはね~、顕在化。この世界に実在するだけでいい、この星に君臨するだけでいいんだよ~、分かってくれないかな~、僕も君とこれ以上やり合いたくないんだよ~』


『ぅ……ふっ、ゔ…………くとぅ、るふ……』


ゆっくりと上体を起こし、長方形の瞳孔を真っ直ぐに睨む。


『…………何その生意気な顔。やっぱり弟って無能なクズしか居ないね……』


『君……いや、お前の敗因は……』


『……敗因? 何言ってんの……』


『無差別にテレパシーを送ったこと』


素早く立ち上がって鎖を巻いている方の足を空を蹴るように高く振り上げた。

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