第773話 四人兄弟
会話が止まった後の静寂を切り裂くのには勇気が必要が、今回はクラールがやってくれたので僕の勇気は目減りしなかった。
『おとーたぁ、ふぃな、しぇー……おきゃーり!』
フィナンシェをクラールに与えて、ライアーと目を合わせる。アルの唾液がズボンを浸透して太腿が濡れていくのを感じる──人の膝で寝るなら涎を垂らさないで欲しい。
『……何か、さ。きっかけとかあった?』
ライアーの固定観念を壊すのは面倒臭そうなので、先に僕の疑問を解消させてもらうことにした。
『きっかけ……きっかけ、ね。兄さんって呼びだしたのはあの日……キミの娘が死んだ次の日だったね』
僕は無意識に服の上から胸を引っ掻いた。思い出したのだ、冷たい身体を、小さな棺を、埋まっていく土の音を────あれ? 手の中に蛇の身体があったような……あぁ、また、幻覚か。
『それ以前から何かと近くに座っていたりはしたけど、深い接触はなかった。急になんだよ、本当に、急に。意味分かんない』
急で行動理由が分からないのは兄の特徴とも言える。僕は「そんなものだよ」と言ってしまいそうな口に手を添え、視線でライアーに話の続きを促した。
『……理由は分かんない。聞きたいなら起こす?』
続きはないようだ。
『んー……勝手に起きるまで待つよ』
再生は進んでいるし、固体に戻りつつもある。急ぐ必要はないだろう。クラールもまだまだフィナンシェを食べたいようだし。
『…………ボク、土に骨粉撒いててね。栄養のある土を身体にするとキミからもらう魔力の消費効率が良くなるからさ』
沈黙に耐えかねたライアーが別の話を始める。彼は仕事がなく僕に構われない日は土いじりか夢いじりをしている。ちまちまやるのが好きなのだろう。
『骨粉手に入れるのに彼の食事は有用でね。何考えてるのか全く分からないから気持ち悪いけど、精神的な面以外では損はない、むしろ得があったから気にしなくていいよ』
兄の食事のゴミ? まさか、骨粉とは牛や鹿のものではなく、人の……?
嫌な気配を感じ取った僕は話題転換を促した。
『ゆ、夢! 夢の街……どんな感じ?』
『え? ぁ、あぁ……うん、まぁ、良い感じだよ』
突拍子もない質問に返ってくるのは中身のない答え。
『……え、と……キミ用の家は完成した。プールも温泉もある……街も、うん、商業施設ばかりで民家はないけど、街っぽくはなった』
『じゃあ今晩招待してよ、僕とアルとクラール、三人で遊んでみたいな。あ、もちろん兄さんも……』
『えっ……あっ、じゃ、じゃあ、えっと……完成度上げておくよ!』
ライアーの姿が崩れ、山盛りの土がソファの上に現れる。その土から黒い霧が吹き出し、僕の首から下げてある形見の石に吸い込まれた。
夢の街はライアーが言ったほどの完成度ではなかったのだろう。悪いことをしたな、誘われるまで待つべきだった。
『…………ん』
ライアーが消えてしばらく、溶けていた兄の身体が完全に固体に戻った。居眠りの後のようなぼうっとした表情で首を回し、隣の山盛りの土に少し驚いていた。
『にいさま、おはよ』
『おとーと……えっと、僕何してたっけ』
頭を殴られて溶けていたのだ、そりゃ記憶も飛ぶか。
『何でライアーさんのこと兄さんって呼んでるの?』
『………………忘却まほ──』
『魔法禁止』
『──う……おとーとぉ、意地悪しないでよ……』
魔物使いの力を意識すれば見つめるだけで兄の魔法を封じることが出来る。微笑みをたたえたまま、兄の困り顔を見られる。
『吐かされたくないなら答えてよ。別に笑ったりしないよ?』
『……特に理由はないよ。ただのおふざけ』
おふざけなら僕の記憶を弄ろうだなんて思わなくていいだろう。僕が来ても構わずに意地悪く笑ってライアーをからかっていればいい、ライアーも僕の前の方が嫌がるはずだ。
『…………僕は魔法使いだからね。本能的に求めてしまう』
じっと見つめていると兄も僕が納得していないのが分かったようで、ため息をついて目を逸らして話し始めた。
『神様の形……そして、君の気配。僕が愛してしまうモノ、僕が何より愛する者…………僕は天才、僕は兄、僕より優れた者なんて居なかったから、僕が甘えられる者も居なければ甘えたいと思うこともなかった……疲れてるんだよ、僕』
『……ここにはにいさまより凄い上位存在が何人も居る』
『そう……だから余計疲れる。今まで居なかった上が急に現れたんだ。媚び売りも屈服も上手くやれずに虚勢張って……』
兄が僕に自分の弱みを見せるなんて珍しい。僕が兄の上になってしまったからだろうか。兄は自分も他者も有能か無能かでしか分類出来ない人間だ、間も順位もない。自分よりも有能な者を見た時点で自分を無能に分類してしまうのだ。
『…………僕に甘えてもいいよ?』
『いーやーだ』
俯いていた顔に笑みが戻る。正面から向き合った僕によく似た顔が何故か幼く見えた。
『君には甘えて欲しいんだよ』
『兄さんには甘えさせて欲しいの?』
『それはプライドが許さない。彼はライバルだ、最強の魔法使いの座、君の兄の座も、奪い返さなきゃね』
不器用で悲しい人。
『……にいさま、僕に似てるよ』
必死に隠す傷を癒したくなるのが、その傷を見るのが自分だけであるようにしたくなるのが、アル曰く僕に抱いた母性と恋心。
『恋人でも探せば?』
そうすれば兄も僕と同じに乾いた心が潤って、世界の色がその虚ろな瞳に映るだろう。
『君以外の生き物になんて興味無いね』
『そう。まぁ、適当に探しておいてあげるからお見合いでもしなよ。ご主人様の命令だよ、僕の忠実な下僕のにいさま』
『……りょーかい。見つからないことを祈るよ』
とは言ったものの心当たりがある訳ではない。それに兄の精神を安定させれば僕にもメリットが多いとはいえ、兄への恨みが「もう少しだけ苦しめてみろ」と囁いてくる。
長い道のりになりそうだ。僕も兄も不老不死なのだから、それでもいいか。
『わぅ……おとーたん、ぁっこぉー』
『ん? はいはい。どちたのクラールぅー……わ、口ばっちいね……』
机にクラールの口周りに付いた食べカスを落とし、改めてしっかりと抱き上げる。高い高いをしろとか、眠いから揺らせとか、そんなものではなくただ甘えたかっただけのようだ。可愛いことこの上ない。
『ふふ……あまーい匂いするね。後でお母さんに掃除してもらおうね』
幼い獣臭さに混じるフィナンシェの甘い香り。ベタつく口周りをアルがするように舐めてみようかとも思ったが、やはり人間としての躊躇いが勝ってしまう。
『……怒鳴ることも突き飛ばすことも殴ることも刺すこともない。忙しいなんて言って放ったらかしにしないで、外の害から必死に守って、微笑んで育てる』
クラールと戯れていると不意に兄が呟いた。独り言だろうか。
『…………それが親なら、僕達の親ってなんだったんだろうね』
『……にいさまは可愛がられてた』
『違う。怯えてただけだ。彼らが気にしてたのは世間体と僕の機嫌だけ』
兄は僕の顔を見ようとはせず、天井の模様やソファの縫い目などに必死に意識を移そうとしていた。
『……一ついいこと教えてあげる。君が無能だって分かる前から、父さんも母さんも、僕と君を愛してなかった。愛してたのは僕と君が将来得る富と名声だけ、素晴らしい子を育てた賛辞が欲しくて育ててたんだ』
『…………なんとなく分かってたよ、そんなこと』
『君が、産まれる前に……心を読んだ。雌雄の無能共は僕を利用しようとしてた……笑えるね、凡人は僕に使い潰されるのが至上の幸せだって言うのにさ』
虚勢を張る癖が出来上がってしまっているらしい。泣きかけていたって嫌味を混ぜなければ本音を晒せないなんて、本当に……僕と同じに憐れな人だ。
『……にいさま』
『………………ん?』
『恨んでるし許さないけど、僕はにいさまのこと家族だと思ってるよ』
『…………ありがとう』
兄はそれきり何も言わず、ソファの上に蹲っていた。何を考えているのか、どうして欲しいのか、僕は理解しようともしない。
それが僕の復讐だ。
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