荒療治

魔獣達が一斉に吼える。ハスターを知覚したのではない、僕が突然自分の目を潰したからだ。しかし彼らを落ち着かせるのも逃げるのも後だ。

僕は思い切り両耳を平手で叩き、鼓膜を破った。


『………………ター君、ねぇ……仲良くしてよ……』


眼窩から血が溢れている。しかし痛みは消してある。何も見えないし何も聞こえない。けれど僕の襟首を魔獣のうちの誰かが咥えて走り出したのは触覚で理解した。


『へ……ヘル!  ヘルっ……あぁヘルぅっ! だから言ったのに……!』


頭がどこか冷たいところに落とされる。頭蓋骨に直接振動が伝わり、誰かが走ってきていると分かる。次の瞬間には視覚と聴覚が回復し、信じられないような美顔が目の前にあった。


『…………兄さん?』


会議室があった施設のようだ。ライアーに抱き起こされ、彼の背後にあった僕の土人形が崩れて消えるのが見えた。


『大丈夫? あの邪神に何されたの? 今はどこに居るの?』


『……いや、目と耳は自分で潰した。あと、多分……ちゃんと話せば大丈夫なタイプだと思う。一応目的は割と平和だから』


今の文明を消し去って、というところを無視すれば人間を守る気はある。だから折衷案さえ見つかればどうにかなる。ナイやクトゥルフほど擦り合わせが困難ではない。


『え? な、なんで自分で? ダメだよ、話し合いとか無理だって、邪神だよ?』


『いや、大丈夫。大丈夫な気がする』


僕が頭ごなしに否定したから強硬手段に出ようとしただけだ、多分。


『気がするって……さっきもそんなこと言ってたよね?』


『仕留めようと追っかけてきたりしてないだろ? だから多分大丈夫』


ハスターは室内に見当たらない。まだ外に居るのだろう。僕にさえ見えなくなっていないのなら、だけれど。


「……あれ、随分大勢居るね。君は本物かな?」


「本物だろ。ほらそこの土」


「……ちゃんと外に出しておくんだよ、汚した人が掃除するんだ、いいね」


ライアーが出入り口付近にまで来ていたのなら会議は終わったということ、セツナとメイラに出くわすのも不思議ではない。ライアーは軽いお叱りを受けて僕の人形だった土を外に運んだ。


「ん……? うわ、お前血まみれじゃねぇか! どうしたんだよ!」


『え、ぁ、えと』


素早く屈んで錬成陣を描こうとしていたメイラだが、傷がないことに気付くと疲れたような深い息を吐いた。


「なんなんだよこの血……血だよな? あぁ血だな…………ってこらこらこらセツナ舐めようとするなやめろダメだそれはダメだセツナぁっ!」


「……君の趣味は僕の趣味の妨害か何かかな」


「血は! ダメ! 絶対!」


僕の血を採取出来ずに拗ねてしまったセツナを壁に押し付けて怒っているメイラ、その向こうからアケヒ師弟がやって来る。


「うわっ! ま、魔獣……?」


『……兄さん、一回この子達家に連れて帰ろ。会談まだだよね?』


これから人通りは増えてくる。一々魔獣に驚かれていては面倒くさい。


『後一時間弱ってところかなー……血だらけだしシャワーでも浴びた方がいいね』


大きな魔法陣が床に描かれ、目を眩ませる光の洪水が収まると僕達はヴェーン邸の裏庭に立っていた。ライアーの言う通り王と会うなら綺麗な格好をしておかなければ、魔獣達は一旦庭に置いてシャワーを浴びよう。


『じゃあ僕お風呂に……わっ!?』


黒犬にシャツの腰の辺りを噛んで引っ張られ、尻もちをつく。驚きと鈍痛に怯んでいると伸ばした足の上に黒豹が乗り、顔をクリーム色の犬に舐め回される。


『わっ、ちょ、待って……ふふっ、くすぐったいって、重いし、どいて……ふふふっ』


鳥も僕の身体に集り始めた。懐かれるのは嬉しいしこの後に予定がなければ手足を伸ばして遊ばれていたいのだが、重要な予定がある。申し訳ないが透過して風呂場に向かおう、そう考えて実行する直前、魔獣達が一斉に庭の隅に逃げた。


『……どうしたの?』


手間が省けたけれどそんなに急に離れられては寂しい。ヨダレでびしょ濡れになった上体を起こし、魔獣達を見つめる。何かに怯えているようだ……そういえばさっきから唸り声が間近で聞こえる。


『………………お仕事お疲れ様。楽しそうだな、良い事だ』


地の底から響くような低い声。僕には怒気を孕んだそれの声に耳元で囁かれて何の躊躇もなく振り返るような勇気はない。冷や汗がどっと吹き出した。


『……やっぱ浮気に入るんじゃん』


ライアーが呆れた様子で僕を見下ろす。


『い、いや……違うよ。ただ、懐かれてる……だけ、で』


『そんなに垂れ耳が良いのか! 悪かったな立っていて!』


『ち、違う! 色々誤解だよ!』


ようやく振り返った先には牙を剥いているアルがいて、座り込んだままの僕の身体は勝手に後ずさりを始めてしまった。


『ほぅ? そうか、なら猫か! 気軽に遊べる女が良いんだな!』


『なんでそうなるのさ!』


『なら鳥……では、無いよな? 大きさに無茶があるぞ……』


『全部違うよ!』


どうやったら誤解が解けるのか、何故誤解しているのかも分からない僕には分からない。混乱しつつも浮気を否定していると太腿の上にクラールが乗った。


『おとーたん、おぁえりー!』


『ぁ、た、ただいま……』


庭で遊んでいたのだろうか? 全身が土にまみれている。どうしてあんなに早くアルが来たのかと思っていたけれど、帰ってくるタイミングが悪かったようだ。


『…………あの、アル……聞いて』


アルはぷいっと顔を背けて黙り込む。子供の前で怒鳴らないのは良いことだが、まず人の話を聞いて欲しい。


『ヘル、早くお風呂入って。会談間に合わないよ』


『…………まだ仕事があるのか?』


『ちょっと服汚れたからお風呂と着替えに来ただけだよ。ね、ヘル』


アルはライアーの方を向いたまま視線だけを逸らし、僕の胴に尾を巻いた。


『……こんな怪我をするような仕事なのか?』


黒蛇が血の跡に頬を寄せる。


『いや、これは……仕事関係なくて。次行くのも会談だから安全だよ』


『仕事関係無く何があったらこんなに出血するんだ!』


振り返ったアルは詰め寄りながら僕を怒鳴りつけた。その声色と大きさに心臓が早鐘を打つ、間近で発せられた怒声に何も考えられなくなる。


『あの……アルちゃん? 本当に大事な仕事だから、そろそろヘル離してくれないかな』


『………………嫌だ。怪我をするような仕事、他の女に舐め回されるような仕事、やらせてたまるか』


女……あの犬達は雌だったのか、確認すらしていなかった。


『いや、本当に大事な仕事なんだよ。ヘルはお飾りとはいえ国王に置かれてるんだからさ?』


お飾りならお飾りらしい仕事をさせて欲しい。


『…………なら私も行く。良いだろう? ヘル。兄君のスカーフもあるし兄君と貴方が傍に居るのだから危険なんて無い。クラールも貴方が帰って来てこんなに喜んでいる。まだ仕事があるなんて言ったら可哀想だとは思わないか?』


『いやいやいや……』


『いいよ』


『ちょっ、ヘル!』


『僕、魔獣調教師ってていなんだろ? 酒色の国っていう魔物だらけの国の王様だし。なら一人二人居ても大丈夫だよ』


むしろ箔が付く。そう言外に含ませてライアーを見つめると、どうなっても知らないとは言ったが許可を出してくれた。そもそもライアーの許可なんて要らないのだけれど。


『……じゃ、とりあえずお風呂入るね。兄さん着替えお願い』


クラールをアルの頭の上に乗せ、風呂場に向かう。立ち上がると同時に尾は解けて、アルは静かに僕の後を着いてきた。


『…………一緒に入る?』


血が乾いてパリパリと音を立てる服を脱ぎながら可能な限りの微笑みを見せた。クラールは元気に吠えて、アルは静かに頷いた。

大きな浴場で自分とクラールを洗い、隣に座ったアルの視線を感じる。


『………………ヘル。さっきは……その、済まない。貴方に私以外の匂いが付いていくのが耐えられなくて、それを良しとする貴方も気に入らなくて……つい、怒鳴ってしまった』


きゅうんと悲しげな高い声で鳴いて、額を僕の肩に寄せる。


『貴方が、私を愛してくれているのは分かっている。私達の為に働いているのも、分かっている……けれど、寂しくて…………帰って来たと思ったら、あんな。貴方は何ともないと思っているのだろう、ただ懐かれてるだけだと、そう言ったな』


黒蛇が再び胴に絡み、黒翼が肩を抱く。鏡に映る僕の姿は白より黒の方が多くなってしまった。


『…………私、を。獣を娶っているのなら、同じ獣とじゃれ合うのを私がどう感じるのか少しは考えて』


『……そんなに、酷いの? 僕……本当に、そんなつもりなくて』


舐めるのも擦り寄るのもペッティングには当たらないはずだろうに……これが種族の壁か? 難しい……魔獣には必要以上に関わらない方が良いのかもしれない。


『………………ごめんね。傷付けちゃったんだね。もうしないよ、どんな魔獣ともじゃれ合ったりしないから、ね?』


『ん…………ごめんなさい。ヘル、面倒臭いよな……私は。あぁ……そうだ、無論人型の女も駄目だぞ。私とクラール以外の女には触れないで』


さっぱりしているような態度を見せて、その実非常に嫉妬深い。とても面倒だけれどこのギャップが堪らない、僕に嫌われないか心配しつつも激しく僕を束縛しようとするその葛藤を振り切れない暴走が可愛らし過ぎる。


『…………ごめん。アル、ちょっと離れて』


『え……? ヘル? そんな……嫌だ、ヘル』


『いや、そういうんじゃなくて、その、大きくなっ……いや、えっと、欲情してます。離れてください、本当にちょっと……うん』


戸惑うアルにクラールを押し付けて、シャワーの温度を下げ、目を閉じて蹲った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る