第688話 気分爽快
昼頃に起きてヴェーン邸に戻り、土と血にまみれた服のままダイニングに入り帰りを知らせる挨拶をすると、フェルの悲鳴が返ってきた。
『何!? 何!? どうしたの!? にいさまにはお兄ちゃんとお姉ちゃん二人でゆっくり話してたって聞いたんだけど……』
『うん、話してた』
『肉体言語という名の大喧嘩!?』
喧嘩はしていないのだが……まぁこの有様では仕方ないか。
『クラールは?』
『昨晩はにいさまが見てて、今朝からは僕、今は……えっと、その棚の下に潜って寝てる』
フェルが指した先、拳が入るかどうかも怪しい床との隙間から純白の尾がはみ出していた。
『……弟君、兄君は何処に?』
『にいさまなら買い物、ライアーさんは行方不明』
『…………そうか』
フェルがアルと話している隙に冷蔵庫を開けて食べ物を物色していると、扉を閉められ頭を挟まれた。
『痛い痛い痛いっ……何するのフェル』
『冷蔵庫開けっ放しにしないで! 中の物悪くなるだろ!』
人の頭を挟む方が中の物に悪影響だと思うのだが。
『その格好のままウロウロしないで! お風呂入って着替えて来てよ!』
『分かったよもう……何か軽いもの作っててくれるとお兄ちゃんすごく嬉しいな』
食べなくても問題はないが、気分として腹が減った。ダイニングから出て部屋に向かい、着替えを取って言われた通りに風呂に向かった。
『はぁ……もう。ぁ、お姉ちゃん、にいさまに何の用事なの? 急ぎ?』
『…………いや、よく良く考えれば今見ても意味は無いだろう……また今度でいい』
ズタズタに引き裂かれた服は風呂場のゴミ箱に捨てて、乾いた血をシャワーを浴びながら泡と爪で削って落としていると、アルが入ってきた。
『……済まないな、乱暴で……』
『ん? いいよ、割と好きだし。仕方ないよね、人造、特に合成魔獣は新種の厄介な生き物作らないように、そういう機能や本能は取り除くって前兄さんに教えてもらったんだ』
『…………そうか』
『だから無理矢理引き出すと食欲と睡眠欲でカバーすることになるから、噛むしちぎるし急に寝るし……まぁ、うん、痛覚は消せるし、本当にああいうの割と好きだから気にしないでよ』
濡れた毛皮が足に、腰に、腹に触れる。アルは僕の胸に頭を押し付けている、人間ならば胸元に顔を埋めて泣いていると言ったところか。
『本当に……気にしないで。僕が無理矢理発情状態にさせてるんだ、本来無い生態だもん、そりゃちょっとくらい我失うよ』
『…………疑って済まなかった』
『ぁ、そっち?』
『……そっちも、だな』
シャワーを止め、アルを連れて湯船に浸かる。水を吸った重い翼を肩にかけ、尾の蛇のつぶらな瞳に笑みを渡す。
『しかし、ふふ……面白かったな。弟君がああも貴方を信用していないとは』
『本当だよ……僕ってそんな浮気しそうに見える?』
『見える。だが、有り得ないな、貴方が獣以外に欲情出来ないと昨日分かった』
『……出来るよ!? いや出来るってのもおかしいけどっ……』
『出来ない。貴方の思考様式は深くまで理解した』
やはり兄がアルに流した僕の思考は加工捏造すり替えなどをしたものではないだろうか。
『……まぁ信用してくれたなら良かったけど』
『…………狼の群れに囲まれて服を脱いだりするなよ?』
『僕を何だと思ってるの!? 深層心理の欲望だけ汲み出してそれを基準にしないで、僕には知性も理性もあるの!』
嫌疑が晴れたのはいいが別の勘違いが生まれてしまった。思考からなるものだけあって弁明が難しい。僕は弁明が思い付かない悪い頭と兄への恨みを織り交ぜて、苛立ちをアルの全身シャンプーとして消化した。
『はぁ……ぁー、指痛い』
『マッサージまでしなくても……しかし、うむ、気持ち良かった……翼のせいか凝りが酷くてな』
『肉球ぷにぷにさせてよぉー……』
『硬くても良いなら』
イヌ科はネコ科よりも肉球が乾燥していて若干固いと思うのだが、アルとカルコスだけにある違いなのだろうか。
『ねぇアルほっぺた踏んでー、肉球マークつけてー』
『床に寝るな、汚いぞ』
『何か……疲れた。マッサージとか昨晩のアレとかじゃなくて、何かこう、精神的に……? 大変なこと多かったからかなー……緩んでるなぁ……』
『あぁ、緩んでいるな。本当に踏むぞ』
顔を横に倒してアルの進行方向に寝転がる。警告を何度も無視しているとアルは僕を踏んで一人でダイニングに向かってしまった。
『お兄ちゃんおかえり、コーンスープ余ってたからとりあえずこれ……何お兄ちゃん、ビンタでもされた?』
本当に肉球跡が出来ていたらしく、フェルに怪訝な目で見られながらの遅い昼食。それが終わればまたゴロゴロと怠惰に過ごす。
『ヘル、ヘル、クラールが起きたが棚の下に挟まって動けず泣いている。抜いてやってくれ』
『何してるのもう……持ち上げるからアル引っ張ってあげて』
起きたクラールにご飯をあげて、遊んで、また眠ったクラールと共に僕達も眠った。
日暮れに自然と目を覚まし、寝惚けて僕の髪を食べているクラールの口から髪を抜き、寝惚けて僕の服の中に頭を突っ込んでいるアルの頭を布越しに撫でる。
『……なぁ、ヘル』
『起きてたの?』
『あぁ』
なら服の中に頭を突っ込んでいるのは故意なのか。
『ヘル……覚えているか? いつか言った事を』
『アルが言ったことなら覚えてると思いたいな、でもその言い方じゃどれか分かんない』
『…………貴方が何処の馬の骨とも知れぬ阿婆擦れに拐かされるような事があれば──その者を腹に納めると』
聞いた覚えはあるな。聞いた当時は喜びの他に若干の恐怖を覚えたと記憶している。
『……覚えてる。でもダメだよそんなの』
『…………そう、だな』
『どこの馬の骨とも知れない阿婆擦れって……そんなの食べちゃダメ。アルは僕以外の人食べちゃダメなのに、そんなの食べちゃダメだよ。食べたら無理矢理吐かせてやるからね、きっと苦しいから食べちゃダメだよ』
襟が内側から押されて伸び、服の中から黒い鼻先が飛び出る。鼻の先端から伸びる美しい銀色の鼻筋の向こう、まんまるに開かれた黒い瞳が可愛らしくて、また服の上から頭を撫でた。
『…………貴方はそういう人だったな』
『……もしかして今のメルの話? ダメだよ? メルはアルにとっても友達でしょ、友達食べちゃダメ』
『あぁ、食べないさ。少し安心した……後、メルを言ったつもりは無いぞ』
安心した、はこちらの台詞だ。物騒なことばかり言われては心臓がもたない。
『……けれど、貴方が浮気をするようなら私は親友や兄弟でも喰ってしまうかも知れん』
『いや僕ネコ科には興味無いよ』
『………………兄弟でも、とは例え話だ』
興味無い、とは語弊があるか。クリューソスの毛皮は美しいと思うし、ネコ科の運動能力は素直に凄いと思う。何よりあのしなやかさはとてもセクシーだ。
しかし、しかしだ。イヌ科以外には……いや、アル以外には僕を昂らせる何かが足りない。これが愛か? いやいや愛にしては薄汚いな。
『僕アル以外には多分たたな……いや、うん、なんでもない』
思考でさえ自己嫌悪を煽られるのに言葉にするなんて以ての外だ。兄に流出されないうちに忘れてしまおう。
『……私が言いたいのはだな。私は貴方が浮気したとしてもやはり人型が良いのだろうと納得するつもりだが──』
『いや、狼がいいな』
『話は最後まで聞け。納得するつもりではいるのだが、貴方が他の女と……なんて、考えただけで苦しい。きっと耐えられない。我を失って相手を喰うだろうし、貴方にまで牙を剥くかも知れん。だから……』
『だから僕以外食べちゃダメだってば』
『頼むから話を聞いてくれ。浮気相手どころか貴方をも傷付けるかも知れないんだ、自分を抑えられる気がしない。だから、どうか、浮気なんてしないで欲しい。いいや、浮気でなくとも他の女とあまり仲良くしないで欲しいんだ』
浮気する気なんてサラサラないけれど、疑われるような行為も気を付けよう。僕の仲間の女性は何かとスキンシップ過剰だし、しっかり跳ね除けなければ。ところで──
『……アルよく酒呑と酒盛りしてるけどあれは』
『アレは飲み友達だ』
『…………酒の勢いってあるよね』
『ヘル、普通獣をそういう対象としては見ないんだ。だが……そうだな、貴方が嫌だと言うなら……控えよう』
『……ごめん。嫌っていうか……ちょっとやり返したくなって。アルお酒好きだもんね、それをやめろなんて言えないよ。大丈夫、僕も疑ったりしないから好きに飲んで』
ちょっとした冗談の復讐だったがアルは耳を垂らして落ち込んでしまった。僕の冗談が下手なのかアルが真面目なのか……どちらにしても予想出来なかった僕が馬鹿だ。話は逆効果になりそうだし、気持ちは抱擁で伝えてみよう。
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