第630話 真紅にまみれていた可愛い子

全体的なシルエットが四足歩行の獣に近いことも、顔の形が犬に似ていることも理解していた。それでも仲間が居るこの部屋で口に出したくはなかった。


『……なんだろうね、これ。本当に……なんだろ。いつアルの中に入ったんだろうね』


赤紫色の肌に薄らと生えた毛は透明に近い。

太腿に擦り寄る気配を感じ、酒呑の背に隠れる。


『…………ヘル? 見せてくれ、何が居たんだ? もしかしたらクリューソスが言ったように何かの卵でも喰ったのかも知れん、興味が有る』


『……………………ダメ』


『……ヘル? 済まない、聞こえなかった』


『ダメっ! 見ちゃ、ダメ……!』


アルの頭を足で押しのけ、体当たりをして扉を開け、誰も居ない廊下を走った。どこをどう曲がったのかも分からない。誰も追ってきていないことを確認し、壁に背を預けて腕の中のモノを見る。ソレは逃げようとする訳でもなくもぞもぞと動いては甲高く弱々しい鳴き声を上げていた。


『……ねぇ、君……さぁ』


『あぅー…………ぉーん……』


『君っ、さぁ………………赤ちゃん、なの?』


当然のように返事は無い。

アルの体内に侵入しアルを苦しめていた異物、本来なら叩きつけて踏み躙るのが正しい対応。けれど僕には潰さないように恐れて手を震わせながら抱いていることしか出来なかった。


『…………頭領』


『ぅわぁああっ!? あ、ぁっ…………酒呑』


追いかけて来ていたのか? 一度確かめたのに全く分からなかった……いや、それも当然のことだ。こんな曲がりくねった場所で一度振り返っただけで油断した自分が憎い。


『酒呑っ……ねぇ、これさぁ、仔犬かなぁ、仔犬だよねぇ、形っ……的に、さ、犬だよね…………いや、狼……? アルに似てない? 耳とか、顔の形……ぁ、目開いてない……ずっと震えててさ、寒いのかな…………どうしよう、どうしようっ、どうしようどうしようどうしようっ…………絶対、まだ出しちゃダメだった』


『……頭領、それ』


『………………アルの、赤ちゃん。だよ、ね?』


僕の腕の中で震えるモノを見ていた酒呑の目が仄かな金色の光を放つ。


『………………あぁ、何やそれっぽいのん感じるわ』


魔力視だろうか、親子の繋がりまで分かるとは素晴らしい目だ、魔物が羨ましい。


『……どうしようっ、死んじゃうかな。戻して……も、ダメだよね。だって、血まみれ……これ全部アルの? この子の? どっ、どうしよう、どうしよう……僕っ、僕、僕……アルの…………自分の、子……殺しちゃう』


『落ち着け、頭領』


『うん、落ち着いてるよ、落ち着いてる。どうすればいいかな、戻してもダメだよね、ご飯……食べれる大きさじゃないよね、どうしようっ……』


落ち着いてるとは言ったものの、僕は叫んだり暴れたりはしていないだけでまともに思考出来ていなかった。しかし今度は酒呑に殴られることはない、仔犬を抱いているからか、彼も混乱しているからか、それを考える脳は停止している。


『……やることやってたんだねー。貸して、ヘル』


震える腕の中から仔犬を取り上げたのは黒い手。


『治癒、成長促進、治癒、成長促進、成長促進──』


ライアーの手の中、魔法陣に包まれ、仔犬はそのシルエットを大きくしていく。


『──洗浄。よし……これでどうかな』


僕の腕の中に戻された仔犬は白い毛に包まれ、赤紫色は見えなくなっていた。震えてはいるものの僕の腕を踏んで立とうとするような仕草も見せた。


『……多分、それが人間の手で育てても死なない成長度合い。元々流れる予定だったんだろうね、それがあの獅子の力で異常成長を…………魔力による負荷はこれが限度だ、これ以上は壊れてしまう。腹の中でもかなり成長を促されて育った子だからね、しばらくは成長を遅らせて霊体が追い付くのを待った方がいいかもしれない』


ライアーの解説は頭を通り過ぎるだけだ。

仔犬は僕の腕の中で身をよじって仰向けになり、薄桃色の肉球を見せた。ふわふわと立った白い毛の柔らかさと、震える短い手足。ぬいぐるみのようだという喩えの意味から意図まで全てを完璧に理解した。


『……可愛いっ! 待ってね、牛乳まだ余ってるから』


『待てや頭領、牛乳でええんか?』


『ダメなの?』


『……母乳は出ないと思うよ。ライオンの成長促進は胎児だけだろうし、出したのも腹を切って無理矢理』


『じゃあ何飲ませればいいの? 早く何かあげないと死んじゃうよっ……こんなに可愛いのに』


しかし僕に似ていないな。いや、僕に似た部分が一つでもあれば可愛さは消え去る。良い結果と言えるだろう。


『魔獣だし……多分これでいい』


ライアーは僕の手を取り、人差し指の腹の肉を抉り取った。


『いっ……! ぁ、あのさ……こういうことするなら事前に言って欲しいんだけど!』


あまりの痛みに仔犬を落としかけて、慌てて抱き直すと仔犬は口の傍に来た僕の人差し指を咥えた。


『ふぇっ……かわ…………え、ちょっと……』


傷口を舐め、指を吸い、まだ弱いながらも噛んでいる。


『…………大丈夫なの?』


『ヘルの血は魔物にとって完全栄養食……なんだよね? 消化できるように摂取させてあげれば魔力耐性も上がって成長促進の魔法ももっとかけられるし、いいことづくめさ』


『栄養価高過ぎへんか』


『大丈夫じゃない? 母乳も元は血だし』


『……それ言うたら爪も髪も内臓も同じもんやろ』


『いや、そういうんじゃなくてさ。ま、とにかく、ヘルは魔物使いでアルちゃんは最強クラスの魔獣、その子供なんだから魔力貯蔵量は多いはずさ、きっと大丈夫だよ』


ライアーと酒呑の静かな言い争いを傍目に仔犬に見蕩れていると、不意に僕の指から口を離し前足で押し返した。


『……もう要らないの? おなかいっぱい? おなかいっぱいなんでちゅかー?』


『……ヘっ、ヘ、ヘル!?』


『……っ!? 頭領!?』


指を口に触れさせてもそっぽを向いてしまう。満腹なのだろう。


『おとーさん指治しちゃいまちゅよー?』


『鬼! 殴って、殴ったら治るかも!』


『いっ、嫌や気持ち悪い! 怖い!』


指の傷を治し、その場に座り込んで仔犬を膝の上に乗せる。仔犬は震える四本の足で立ち上がり、膝に添えた僕の手にたしっと前足を置く。


『……っ、は……かわい……待って、無理……』


『殴れよ鬼! ヘルがどんどんおかしくなってる!』


『知らんがなそんなん言うんやったら自分殴りぃや!』


指をぴょこぴょこと上下させれば仔犬はそれを捕まえようとしてぴょこぴょこ跳ね、そのうちに転げて胡座の真ん中に落ちた。


『…………僕に似なくてよかった! 可愛い! 最高! 何っ……もう、最高! 世界一!』


脇に手を入れて抱き上げ、顔の傍に持っていって褒めていると、仔犬は弱々しく暴れて前足を僕の頬にたしっと置き、一瞬後に鼻先を触れさせた。


『やぁーんちゅーしてくれたんでちゅかー!? おとーさん殺す気でちゅね! 世の中のためになりまちゅよー! その歳で世界に貢献出来るなんてもうっ……いい子いい子超いい子!』


『鬼ぃ! ヘルがどんどん壊れてく! どうしよう……どうすればいいかな。な、殴る……? もうボクがやろうかな……』


『……いや、よう考えたら仔犬なんと自分の子供なんでデレッデレんなっとるだけ……おい!』


ライアーは酒呑が腰から下げていた瓢箪を紐を引きちぎって奪い取り、振り上げる。僕はそれを持ったライアーの腕を掴み、へし折った。


『…………殺すぞ』


手を離すとライアーの腕は元通りになった、血も出ていない。僕は仔犬を愛でる作業に戻った。


『鬼……鬼、ヘルが……怖かった』


『子育て中はどんなもんでも気ぃ立つからなぁ、近寄ったアカンわ』


『それ普通メスの方じゃないの?』


『せやかて自分に殺す言うんは余程やろ。嫁はん男勝りやし頭領女々しいし……まぁそういうこっちゃな』


『お兄ちゃんショックー……』


目の前に酒呑が屈む。仔犬を片手で抱き、もう片方の腕を酒呑の前に突き出す。


『…………何』


『嫁はん見せたらんでええんか?』


『………………あっ』


そうだ、産まれた……と言うか僕が無理矢理引き摺り出した直後は混乱もあってアルに見せないようにと逃げてしまったが、よくよく考えてみれば一番に見る権利があるのはアルなのだ。


『…………帰り道覚えてない』


『俺もや。兄さんは?』


『構造は頭に入ってる、着いてきて』


『……兄さん、さっきはごめんね。なんか……気付いたらやっちゃってた』


無意識に人の腕を折るなんて、僕も凶悪になったものだ。


『ええやん頭領、子供守るためや思たら立派やん』


『……そう、かな』


『折られてないからそんなこと言えるんだよ』


『俺かてえらい警戒されたわ。もうちょい近かったら鎖骨折られてたて』


褒め言葉に聞こえたが、やはり嫌味だったのだろうか。いや、酒呑にそんな意地の悪さはない。

ついつい深く考え込んでしまう自分の性格を反省しようと俯くと仔犬の姿があって、知性は溶けた。

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