第507話 副王の胎内で

僕──いや、僕の前世を乗せたレヴィアタンは浜辺に身体を乗り上げ、僕を月光を反射する白砂の上に落とした。


「レヴィ! おいで」


巨大な海蛇が消え、深い海色の長髪を二つ結びにした少女が現れ、胸に飛び込んでくる。どんとぶつかった感触はないが、視界の揺れは感じる。


「……っと、わっ……ふふ、こけちゃったよ」


砂浜に身を横たわらせ、膝から下を打ち寄せる波に浸し、レヴィアタンが化けた少女を抱き締めている。

何と言うべきか……僕の前世ながら調子のいい男だ。


『ぬしさま……ぬしさま、ずっと、ここに』


「僕もそうしたいけどね、明日は内陸部でのお仕事だし、レヴィはお留守番ね。夜はまたデートしよ」


『……わかった、ぬしさま』


仕事は何をしているのだろう。まだあまり文明は発達していないはずだ、これが何番目の前世なのか、僕が今生きている時代から何年前なのかは分からないけれど。

これから何時間もレヴィアタンとのじゃれ合いを見せられるのも嫌だ、仕事とやらまで早送りと行こう。


『慣れてきましたね』


「あぁ、ウムルさん……まぁ、慣れてきました」


内陸部での仕事とは言っていたが、視界一面の緑……これは山の中だろうか。


『魔物使い殿、そろそろ村に着きます』


「ん、じゃあ君たちはここまででいいよ」


周りに居たオーク達を下がらせ、一人で獣道を進んでいく。後ろからガサガサと音が聞こえるから、オーク達は隠れてついて来ているようだ。警備だろうか?


「人間だけが住んでる村で、猟奇的な殺人が起こって、村の連中は魔物が村人に化けてると思い込んで、毎日毎日疑わしい村人を大勢処刑してる」


『……魔物の気配はないです』


「天使の調べは?」


『……猟奇殺人を誤魔化すための方便を信用してしまったのだろうと』


前世の僕もオーク達には気が付いているようで、振り向かずに会話している。


「……でも万が一があるかもって俺の魔眼で見て回れって? 天使の捜索を躱す魔物なんか居るわけないだろ……ったく。君たちは村人に見つかるなよ、本当に居たんだって思われたら面倒だからな」


少々乱暴に吐き捨て、開けた土地に──村であろう場所に辿り着く。木で組まれた家々はところどころ壊れており、地面には血が撒き散らされていた。


「…………オークたち! おいで。人、居ないみたいだ」


声色一つ変えず、オークを呼び寄せる。

どうやらこの僕はかなり魔眼の扱いが上手いようで、人間の微弱な魔力すらも一定距離なら感知出来るらしい。

僕は未だに魔物すら物を挟んでは見つけられない。力としては十分育っているはずだから、これ以降は自身の応用次第なのだろう。


『死体の匂いは新鮮です』


「流石はオーク、鼻が鋭い。そして僕は勘が鋭い」


大きな白い羽根を広い、オーク達に見せる。


「犯人はまだ近くに居る……なんてね、挨拶していこうか」


指で弾いて羽根を捨て、血腥い村の奥へと進んでいく。進むにつれ血溜まりは彩度を増し、叫び声が聞こえた。その声に僕は走り出したかったけれど、前世の僕は走らなかった。


「…………なにやってんの? 君」


悲鳴が聞こえた家に声をかける。すると開け放たれた玄関から中年男性の無惨な死体が転がり出てきた。僕ならそれに目を奪われ吐き気すら覚えただろうが、前世の僕は一瞥しただけだった。


『あぁ、魔物使い。人間は醜いね、どうして神様はこんなの作ったんだろう、どうして私よりも可愛がるんだろう、理解出来ないよ』


玄関から出てきたのは血塗れの女。長い金髪と白い十二枚の翼を赤く染めたルシフェルだ。


『自分勝手に疑心暗鬼になって無実の同種を殺し、安心と悦に浸る。疑心暗鬼を煽る者や化物の目撃を騙る者、もう嫌だと泣き叫び悲劇に浸る者! 誰も彼も醜い、醜悪過ぎる!』


「……放っておけば一人になるまで続くのに、わざわざ殺しに来たんだ」


『…………魔物使い。君には人間らしさが無い。だから唯一、好きな人間だよ』


ルシフェルは怒りと正義感に溢れていた表情を柔らかいものに変え、僕の頭を撫でる。


『……君は美しい。人間の醜さがない。欲望も狡猾も、邪淫も暴食も、何もない』


「…………そう見えるだけだよ」


『知っているかい魔物使い。君はアダムとイヴ以前の人間なんだ。神様が作った欠点のない道具なんだ。だから美しい! けれど……転生してしまった君には原罪がある。だから醜さに覆われてはいる、けれど中は他の人間と違って美しいんだ』


「はいはい、ありがたいお話はまた今度ね。ところでルシフェル、弟さん可愛いね」


『……あぁ、確かに私の弟は可愛いが……急に何を。いや、今世の君には見せていないはずだぞ?』


前世の僕の視線はルシフェルではなく、その背後のルシフェルによく似た彼女の半分程の背丈の天使に注がれていた。ルシフェルもその視線に気が付き、振り返って彼を見つける。


『ミカ……! どうしたんだ、こんな所に……』


『…………しんげん、したよね』


『進言? あぁ! 神様にだな? したとも。人間なんて今すぐ滅ぼしてしまいましょうと、人界は天使が管理しましょうと、神力と魔力を二界に供給する為の界にしましょうと……進言したけれど、それが何だ? もう許諾されたのか?』


『……しつぼうしたよ、にーに』


その小さな身体の倍以上ある大剣が現れ、剣から炎が巻き起こる。並の天使よりも大きな翼を広げ、ミカはルシフェルに剣を突きつける。


『…………ごうまん。それが……ルシフェル、きみのつみ』


『ミカ……? 何を』


ミカは素早い動きでルシフェルの腹に大剣を突き刺し、その身を焼く。だがルシフェルは簡単にミカの小さな身体を蹴り飛ばし、剣を引き抜いた。


「……ルシフェル! その翼……」


『魔物使い、早く逃げろ! 山火事になるぞ! 翼なら今再生して……ぇ? 何、これ……何で、何で、何でっ……!?』


一度燃え尽き、再生した翼は夜の闇よりも深い黒だった。どんな悪魔よりも禍々しく、冒涜的な美しさを持つその翼は元の白い翼と同じ大きさと形をしている。


『どうして……どうしてどうしてどうしてっ! 私は誰よりも何よりも尽くしてきたと言うのに! この私を! 最も優秀なこの私を! どうして……堕とすのですか! 神様ぁっ!』


ピシッと光輪にヒビが入り、ルシフェルは絶叫した。


『……そのごうまんさがわるいって、ずっと、いってたただろ!』


全てを浄化するように炎が巻き上がる。あっという間に山を包み、村など跡形もなく消える。ルシフェルはその一瞬前に僕とオークを二匹抱えて飛んでいた。


『……嘘だ、嘘だ嘘だ嘘だ……私が堕ちるなんてありえない。何かの間違いだ、こんな、こんなの……ありえない』


「ルシフェル! ルシフェル、これ以上は俺を巻き込むなよ、海に落とせ!」


『…………魔物使い。あぁ、すまない。君の部下を……四人ほど、掴み損ねた』


『兄貴……』

『兄貴達が……』


『ごめんよ豚共、後でしっかりお詫びするよ』


ルシフェルは黒くなった翼を畳み、急降下する。岩山の上に降り立ち、僕とオーク達を落とす。


「痛た……あぁ、どうやって降りよう」


『…………なぁ、魔物使い。何か……今までと違う力が溢れてくるんだ』


「魔力だろ。堕天したんなら人界に溢れてくる魔界の力も使えるようになるはずだ。ほら、ちょっと目を合わせてみろよ」


ルシフェルは赤い瞳を不安そうに震わせながら僕と目を合わせる。


「…………活性化。ぉ、すごい、レヴィ越え……外に出すだけで呪いになった」


『の、呪い?』


「そう、呪い。多分……人の精神に影響を与える類のだね。この土地に染み付いたかも……やっちゃったかな」


ルシフェルの呪いというと『傲慢の呪』だ、希少鉱石の国がそうだったはず──休眠状態だったけれど。そもそもの原因は僕だったのか。


『そんなものが私に……待てよ、この力は人間を滅ぼすのに便利かもしれないな』


「……性格悪い感じになるけど自滅していきそうだね」


『あぁ、完璧だ。人間の醜さが引き立てば神様もきっと人間に見切りを付ける、私を見てくれる! 私を天使に戻してくれる!』


ルシフェルは魔力を──呪いを撒き散らしながら飛び立った。きっとこの後封じ込められるのだろう。上に島が造られて、人が住んで、何万年も過ぎて僕が来て──彼女はアルを殺すのだろう。

魔物使いは唯一好きな人間だと言っていたのに、そんな僕をも憎んで僕を最悪の方法で苦しめた。


「…………早送り、しよう……」


岩山をオーク達と降りる風景なんて見ていても仕方ない。

僕は鎖に繋がれ槍に貫かれ長い間投獄される苦しみを想像し、魔物使いをも恨んでも仕方ないのかもしれないと結論を出し、それとアルを殺したことは別問題だと再び恨みを深めた。

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