第492話 まっさら
真っ白な天井だけを眺めている。昨日も、今日も、きっと明日も。
こんな訳の分からない空間で独り朽ち果てるなんて嫌だ。
現実に帰りたい。せめてアルに──いや、アルは僕を騙した、裏切った。違う、あれはアルの姿をしているだけ、この空間を作った何者かが僕を追い詰めようとしているだけだ。
現実のアルは僕の味方のはずだ。
アルは裏切り者だ。アルは味方だ。思考はその二つに集束して、何度も何度も繰り返される。
本当に狂ってしまいそうだと目を閉じると扉が開く音が聞こえた。拘束されていなければすぐにでも逃げ出してやるのに。
「お兄ちゃん……ちょっと、痩せたね」
僕の顔を覗き込んだのは僕の顔。
「…………ざまぁみろ」
彼はその口の端を醜く歪め、僕の髪を撫でた。
「ここ、精神病院か何かだと思ってるでしょ。違うよ? 修理もできないほど壊れた奴の隔離施設だ。恋人にそんな所に送られて、悲しい? 悲しいよね? ぁ、もう恋人じゃないか。あははっ!」
「フェル……? これ、外して」
「実は面会自由なんだよ? 昼間ならね。でも、アルちゃん一回も来たことないよね? なんでか分かる? もうお兄ちゃんには興味無いからだよ」
興味が無い? アルが? 僕に?
「ふふ……僕に乗り換えたんだ。酷い奴だよね。でも、可愛いよ」
フェルはシャツのボタンを外し、肩につけられた大きな歯形を見せる。
「……フェルは要らない人間だった。でも、ヘルはみんなに愛される人間だった。なのにヘルがダメになったから、代わりにフェルを消してヘルにしたんだ。こっちはなーんにも変わらないよ、フェルが消えただけ」
「…………大丈夫?」
「は? 何が? あははっ、本っ当にイかれちゃったんだ、かわいそ……ふふっ」
「痛くないの? それ。大丈夫? 化膿してるよ、ちゃんと手当しなよ」
皮膚に空いた幾つもの穴。そこから雑菌でも入ったのか周りは微かに紫色に腫れている。
「……っ、だからさぁっ! そういうのやめてくれないかな! せっかく僕も報われるんだって思ったのに、僕は何もしてないのに…………罪悪感凄いんだよ! なんで……なんでこの状況で僕の心配出来るの!? 本当に頭おかしいよ! 君もう人生詰んでるんだよ!?」
「…………確かに僕は人の心配なんてしてる場合じゃないけど、弟が怪我してたら心配するよ」
「なんなんだよっ! もういい! もう知らない! もう来ないからな、独りで死ねよ!」
フェルはベッドを蹴り、勢いよく扉を開けて出て行った。
あの歯形はアルのものだった、アルがフェルに噛み付くなんて一体何があったんだろう。
フェルがあんなに劣等感を抱いていたなんて、あんなに辛そうに嗤うなんて、みんなフェルに辛く当たっているに違いない。
早く出て、早くフェルに会わなければ。例え作られた空間でも唯一無二の弟を傷付いたままにはしておけない。
出たいと願っても、出なければと願っても、拘束された僕には何も出来ない。
閉じ込められてから何日経ったか、変わらない白い部屋に嫌気が差して目を閉じ、そのまま寝てしまった。
そうしたら僕は荒れ果てた地に立っていた。視界に入る髪は白く、景色は少し高い。年齢は元に戻ったようだ。夢を見ているのだろうか。
ボコボコと凹んだ地面には草木の一本もなく、見渡す限りの岩のような大地以外何も無い。少し歩けばふわりふわりと不思議な浮遊感を味わった。
少しの間歩き続け、僕は巨大な凹んだ土地に何かの影を見つけた。
急いで走り寄り、そして後悔した。
影の主は怪物だった。白みがかった灰色の脂ぎった肌、頭部らしき場所に生えたピンク色の短い触手。どう見ても話が出来る部類の魔物ではないし、そもそも魔物かどうかすら定かではない。
「はっ、初め……まして」
そう呟きながら後ずさる。
彼らが持つ槍が怖い。ぐにぐにと蠢くヒキガエルのような肌が気持ち悪い。トン、と先程滑り降りた壁面に当たり、これ以上後退できず登攀も不可能だと悟り、僕の足は勝手に力を抜いた。
『…………正当な手段を踏んでいない』
『……人間……夢見る人……でも』
『そういえば、少し前に……』
彼らはヒソヒソと話しながら僕の方へやって来る。口がどこかも分からない、声を出せるのかどうかすらも分からない見た目で、人間の言葉を操っている。
だが、聞こえてくる方向は彼らとは一致しない。頭の中で響いているような感覚だ。
『……初めまして』
「えっ……あ、あぁ……初めまして、ヘル……です」
大きな手が伸び、僕の目の前で開かれる。そっと手を置くと優しく掴んで、軽く振った。
『虐めがいのありそうな子供……』
『ダメだぞ。保護したらどうしろって……?』
握手を交わしたもの以外は後ろでヒソヒソと話している。小声にも関わらず僕にはハッキリ内容が理解出来た、やはり彼ら自身が音を発している訳では無い。
「あなた達は……えっと、なんて呼べば?」
『呼び方? あぁ……えぇと……』
彼らは顔を見合わせ、短い触手を震わせ、僕に向き直る。
『
「……ムーさん」
蠢いていた肌や触手が静止する。突然の略称は不愉快だったか。
『ムーさん……じゃあ、それで』
再び動き出し、僕の手を引っ張って立ち上がらせた。気に入ってくれたのか、気にしていないのか、まぁ不愉快でなかったなら良かった。
「……ムーさん達はここで何を?」
『…………サボり』
「仕事? 何してるんです?」
『……刺激的なことは言うな、と言われてる』
刺激的な仕事なのか。いや、今気にするべきはそこではない。
「誰に言われたんですか?」
『…………兄、と言えと言われてる』
「兄……? エアにいさま? ライアー兄さん?」
『嘘吐きだ、とも』
「…………兄さん?」
確かにライアーには嘘吐きという意味があるが、それは言葉としてであって名前としての意味ではない。それを言うなら僕なんて支配者だ、全く似合わない。ライアーだって嘘は上手くないだろう。
『思い出した。保護したら連れて来いだ』
『何かの拍子に理想世界が崩壊したらここに飛ぶと』
「……理想世界? って、まさか、さっきまでの……」
家族に囲まれ、確かに幸せではあった。人混みに慣れず倒れてしまったが、あの教室でも幸せに過ごせたのだろう。話しかけてくれた人は居たし、石も飛んでこなかった。
『せっかく作ってもらえたのに、何が不満だったんだ』
握手を交わした怪物は僕を肩車し、どこかに向かって歩き始めた。大きな手が足に添えられているのは少し怖く、視界に必ず触手が入るのは気持ち悪い。
「…………恋人だっていう設定の子に裏切られたんです」
『願望に反する出来事は起こらないようになってるはずだ』
「でも、僕の願いとは全然違うことばっか起こって……」
『それは有り得ない』
ありえないと言われてもたった今経験してきた事柄だ。願望に反する出来事は起こらない理想世界──水中都市でのゲームを思い出す。アレも似たような説明があった、しばらくすると嫌なことばかり起こった。
『……徹頭徹尾疑ってかかれば』
『……理想世界なんかじゃないと思えば』
前を歩く二人がボソリと呟く。
『……理想世界は反転する』
『……世界全てが牙を剥く』
疑ったら反転する? 僕が常に脱出を考えていたから、作られた空間だと思っていたから、閉じ込めた者の意図を読もうとしていたから、あの世界は歪んでいったのか?
『受け入れていれば、全て満たされた』
「で、でも、あれは現実じゃなかったんでしょ!? ならダメだよ、脱出出来てよかったんだ。僕は現実でやらなきゃならないことがたくさんあるんだよ!」
『それなら、それでいい』
「……ぁ、そ、そう言ってくれる……ん、です、ね」
少し語気を荒くし過ぎた。彼らは僕にあまり関心が無いようで、ライアーであろう者に言われて動いているだけで、先程も僕を責めている訳ではなくただ事実を話していだけだったのだ。
『…………でも、好意を無下にした』
「……かもしれないけど」
『………………しっかり話せ』
「うん……なんか、ありがとう……ございます」
宥められたような言いくるめられたような……まぁ、そう悪い怪物ではなさそうだ。
ふるふる震える触手もよく見ればピンク色で可愛らし──気持ち悪い。僕は触手を出来るだけ見ないように上を向き、肩車の揺れに身を任せた。
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