第446話 未来への声掛け

頬に何かが触れる。アルの舌ではない、誰かの手だ。そう感じた僕は目を覚まし、手の感触に集中した。

筋肉質ではないけれど男の手、指は細長く、僕よりも大きく、爪の長さは──


「……にいさま?」


半ば寝言で呟いた。


『正解』


楽しそうな笑い声とその言葉が降ってきた。

僕はゆっくりと起き上がる。アルを起こしてしまわないよう慎重に。

上体を起こした僕の頭から手をどけ、兄はくすくすと笑っている。


『……仲、良いみたいだね』


「うん……? まぁ、良いけど」


『ふふふっ……妹、ふふっ……はははっ』


妹? 僕は弟だ。兄の言い間違い? いや僕の聞き間違いか?

手慰みにとアルを撫でようとすると、既にアルを撫でていた兄の手とぶつかった。


『妹……』


まさか、いやそんな馬鹿な。


「あ、あの、にいさま? 妹って、あの……」


『アル君……いや、アルちゃんだよ。ふふっ、僕姪っ子二人欲しいなぁー。甥っ子は一人でいいよ。それが最低ね、多ければ多いほど嬉しいな。ま、犬は多産だし余裕だよね?』


何を言っているんだ。


「あ、あの、アルは……その」


『分かってるよ、ヘル。全部聞いた。ふふっ……お兄ちゃんに手伝えることあったら言ってね。未来の妹と甥姪の為だ、何でもするよ』


兄のぶっ飛んだ思考は今に始まった事ではない。だが、今ほど驚いたのは初めてだ。全部聞いたと言ったが何を聞いたのだろう、ベルゼブブあたりが適当な事を吹き込んだのではないだろうな。

僕が戸惑ったりベルゼブブを恨んだりしていると、アルが目を覚まして僕に擦り寄る。


『あ、おはよアルちゃん』


『む……兄君、如何した』


『別に? ちょっと様子見に来ただけ』


『そうか? しかし……何だ、急に「ちゃん」など……気味が悪いぞ』


先程からずっと機嫌良く笑っているし、本当に気味が悪い。


『兄君、その……悪いのだが、用事が無いなら……だな』


『あ、分かったよ。ごめんごめん、気が利かなくて。じゃ、ごゆっくりー』


兄はアルが言わんとしていたことを汲み取り、それに応じた。

全く意味が分からない。

兄が言葉に出さない気持ちを汲み取るなど、兄が気を利かすという言葉を知っていたなど、機嫌が良いまま他人の気持ちに従うなど、ありえない。


『…………おはよう、ヘル。寝てしまっていたな……そろそろ腹が空いたのではないか?』


アルは少し眠ってアルコールが抜けたのか、いつも通り落ち着いた口調で話している。


『しかし兄君はいやに機嫌が良かったな』


「あぁ……アルのこと妹とか言って……変なの」


『妹? そ、そんな……私は、そんな……』


「アル?」


『…………う、うむ。改めて宜しくな、ヘル』


「うん……?」


僕の預かり知らぬところで話が妙な方向に全速前進──なんて冗談を言っている場合ではない。僕は中途半端に留めておきたいのだ、どうにか対抗策を考えなければ。


「とりあえず、ご飯……アル持ってくるの?」


『あ、いや、さっきは済まなかった。少し酔っていて妙な事を口走ったようだ。ちゃんと広間で食べよう、私が食べさせてやるからな。そうすれば皆……ふふ』


アルの背に乗せられ、廊下を行く。ふと戯れにアルの視界を借りた。

青みがかったぼやけた世界、赤い覚えがあった絨毯も緑であろう観葉植物も同じ色で、僕の眼なら見えていないであろう真横や斜め後ろの壁まで見える。蛇の尾の視界らしい紫がかった世界では何故か床を透けて地下の機械らしき何かが見えた。


「……ねぇ、アル。アルって好きな色何?」


こんな視界なら赤系統の色は好きではないだろう。


『…………赤、橙、黄、緑、藍、青、紫──』


「お、多いね?」


まだまだ答えそうだったが、あまりの多さに遮った。宝石の色を決めようと思ったのに何色も言われてはたまらない。


『……貴方の瞳に見つけた色だ』


「そんなにあった?」


『貴方には見えていないかもな。魔力の色だ。貴方の魔力は時々で色を変え、何層もの輝きを見せる。玉虫のように、虹のように、あらゆる性質を従える……素晴らしい色だ』


瞳や髪の色が変わり始めた頃は嫌で嫌で仕方なかった。ただでさえ魔法が使えない出来損ないの異端児だったのに、今更色素異常まで、と。だから右眼を隠す為に髪を伸ばして──けれど髪もどんどん白くなって──嫌で、怖くて、死にたくなって、怖くて。迎えに来た兄が髪や瞳を見て僕を捨てたらどうしよう、と毎日毎日不安に押し潰されそうになっていた。


「…………そんなに綺麗なの?」


疎ましかった瞳が愛される要因になるなんて。それを目を失ってから知るなんて。なんて皮肉だろう。


『ああ、頻繁に見惚れていたよ』


アルは気後れする程に僕の瞳を真っ直ぐに見る癖がある。僕がそう感じていたのは、そうか……僕の瞳がアルにとっては美しかったからか。


『……ヘル?』


「ごめんね。最近見せてあげられなくって」


顔の真ん中が熱くなる。僕は上擦ってしまう声を無理に整え、アルの頭を撫でた。



ダイニングに到着し、椅子に座らされる。アルの視界で見える皆の形は僕が見ていたのと変わりないけれど、それに彼らが持つ魔力の色が追加されている。

酒呑は青っぽく、グロルは緑っぽく、兄とフェルはコールタールにも似た黒色で、茨木は薄い水色。

ベルゼブブは──何色もの絵の具をパレットに叩き付け、乱暴に混ぜたような色。何年も放置したパンに生えたカビのような色。それらが少女の身体から溢れ出し、蟲にも見える不気味な影を作っていた。

匂いも形もないのに色だけで吐きそうだ。僕は強く目を閉じ、共有を切った。


『ヘル、あーん』


精神的な疲れはアルには悟られなかったようで、唇にフォークに刺さっているらしい食べ物が触れる。

視覚が無く味覚が弱い僕には口に含んだって何を食べているのか分からない。この食べ物は匂いが薄いし、食感も在り来りなものだ。


『……あ、あのねお兄ちゃん。食事終わったら、話が…………ぁ、や、やっぱり、いいや。なんでもない』


怯えたようなフェルの声。


「おーさま……ぐろるね、さいきん、ぐったりしちゃうの。はしってないのに、ずっとはしってたみたいになっちゃうの」


疲れている様子のグロルの声。


『余分に魂ありますからねぇー。それでなくても器が追いつこうと無茶な成長してますし、そりゃ疲れるでしょ』


興味が無さそうなベルゼブブの声。あぁ、ダメだ、さっきの気味の悪い色を思い出す。


「うっ……」


『お、おい、ヘル? どうしたんだ、食べられない物は無かった筈だぞ?』


吐きそうだけれど、吐くことは出来ない。あと一押しがあれば胃の中身をひっくり返せるだろうに、あと一押しがない。

他の者はあんな魔力を見ておいてよくベルゼブブと話したり彼女の近くで食事が出来るな。

憂鬱な気分のまま食事は終わり、僕はリビングのソファで休んでいた。肉体的なものではないから兄に治してもらうことも出来ない。


『ヘル……吐くなら吐いた方が楽だぞ。妙な物を食ったのかも知れん』


『変な物なんて入れてないよ!』


アルは体調が悪い僕を気遣ってか僕から離れて遠巻きに声をかけている。要らない気遣いだが、アルを呼ぶ余力は無い。

調理担当のフェルは向かいに座っているらしく、疑いに憤っている。


『本当に入れてない? 君最近様子おかしいからね、信用出来ないな』


『やめたりーな、他誰も何もなってへんやろ。食いもん関係あれへん』


『他はバケモノばっかりだろ』


食べ物に関係が無いのは事実だ。それは言っておくべきなのだろうが、口を開くと吐いてしまいそうで、でも吐けはしないだろうという妙な直感があり、吐く苦しみだけを味わう気がして、口を開けない。


「半分人間の俺も平気だぜ?」


『……あの子供は? どうだった?』


『あぁ……女子会やなんやて蝿に引っ張られてって……まぁ平気そうやったで』


『ならフェルの料理のせいじゃなさそうだね、良かったねフェル』


疑っていたのは兄なのに、兄はまるで自分以外の全てに疑われていたような声色で言った。


『駄犬、女子会とやらには貴様は行かなくていいのか?』


『……私はヘル傍から離れん。そもそも私は女子ではないしな』


ベルゼブブは無性別だとか言っていたし、茨木も女子と言うには大人の雰囲気があるし、アザゼルは言動がオッサン臭いし、女子などグロルの他には居ないのではないか。


『茨木参加しとったし頭領連れてってもええんちゃう?』


『そういえば菓子を用意するとか……よし! 代わりに我が行ってやろう!』


『その立派な鬣はなんだニート!』


頭に響く魔獣達の声に耐えているとバーンッと大きな音を立てて扉が開く。


『何してるんですか先輩! 女子会の花は恋バナです、貴方が居なくては始まりません!』


『ベルゼブブ様……で、ですが、私はヘルの傍に……』


『放っときなさいそんな胃腸薄弱系男子! どうせブラコンさんが治します。ほら、行きますよ!』


『ヘル! 今日は早めに寝るんだぞ、毛布にしっかり包まるんだ、眠る前には水を飲んでトイレにも行って……あぁベルゼブブ様御容赦を! 尾を引っ張るのはやめ──』


ベルゼブブの声を聞いて色を思い出し、再び特別強い吐き気の波に襲われる僕を放ってアルは引き摺られていった。僕の心配とずるずるという音を置いて。

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