第429話 覗き魔処理

従業員控え室こと更衣室の通気口に向かうには、どれだけベルゼブブが酒呑への嫌がらせを行おうとしても、少しの間は酒呑の望む景色を移さなければならない。


『一番でかいんどいつや』


『何でしょう……何て言うか、直接襲うより気持ち悪い感じしません?』


『せやねぇ、酒呑様気持ち悪いわぁ』


『……貴方本当に子分なんですか? 気持ち悪いとか鬱陶しいとか煩いとかアル中とかしょっちゅう言ってません?』


蝿はまっしぐらに通気口を目指す。酒呑が求めていた着替え風景は一瞬で終わった


『何してんねん今すぐ反対向けや!』


『嫌でーす。誰も求めてませーん』


『求めてるやろ男ばっかりなんやから! なぁ!』


酒呑は映像の前に立ち、全員に同意を求める。だが、誰も大きな反応を示さない。


「……子供じゃないと興奮しない」


『自分に聞いてへんわド変態! あにさん、お前どうやねん』


気を使って返事をしたリンを一蹴し、エアに詰め寄る。


『……美味しそうだなーくらい? 生殖機能無いしね、そりゃ性欲なんか無いよ』


「…………美味しそうカッコ物理……ははっ、怖……」


『自分元人間やろ!? そない急に欲はなくならへんやろ!』


酒呑に映像の半分以上が隠されてベルゼブブと茨木以外の誰も気が付いていないが、蝿はもう通気口の中に入っていた。


『せやったら弟! 狼!』


『ぼ、僕は……まぁ、ヘルの複製だから……それなりに。でも、ヘルは……その、見てもあんまりで、頭撫でられたり甘やかされないと……そんなになんだよね』


『……女に興味は無い』


酒呑が一人騒いでいる間に蝿は通気口を抜け、もう一つの従業員控え室へと向かう。


『茨木ぃ!』


『外立っとったらいくらでも引っかかりますやろ? 着替え覗いたって何にもなりませんよ?』


最後の砦にも理解されなかった酒呑は大人しく引き下がり、蓋が閉じたままの便器に腰を下ろした。ベルゼブブは遠慮なくその膝の上に座り、蓋は割れた。


『こちらは男性更衣室ですねー、やっぱり扉ありませんし、ちょっと眺めてから出ましょうか』


『誰が要るんや男の着替え……』


『私はちょっと欲しいです。他に欲しい方は?』


酒呑程の熱量はないものの、ベルゼブブも皆に同意を求める。だが、先程と同じように誰も反応しない。


「子供じゃないと……」


『貴方に聞いてませんよド変態、先輩どうです?』


『特に興味は有りません』


アルは返事するのも馬鹿らしいと思いながらも真面目に返し、ついでにとエアの胸に頬を擦る。

蝿はまた通気口を通り、今度は調理場へと向かった。事件はそこで起こる。


『…………ねぇ、さっきから何してるの?』


調理場には当然未調理の食材があり、廃棄された料理や放置されたまかないもある。蝿はそれを目に付いた順に貪っており、調査が全く進んでいない。


『いえ、その……ち、違うんです』


ベルゼブブは珍しくも本当に焦っている様子だ。


『何がちゃうねん言うてみぃ』


『……あの蝿は私の魔力から生まれた存在なんです。だから、食いしん坊なんですよ……そもそも頭が悪い上に生まれたてで正常な判断が出来ないんでしょうね。いやぁ参りました、私の操作より魔力の方が行動に影響を与えますからね、腹が膨れるまではどうしようもないです』


わざとらしく「あっはっは」と笑い、それから触角と翅を垂らす。


『上級悪魔に節制という言葉はありません。悪魔は欲望を満たす為だけに生きています。人間のように「我慢は美徳」だと言った概念はありません、清貧なんて以ての外』


俯いて、手を意味も無く擦り合わせる。


『……で、蝿女は何が言いたいの?』


『…………私は悪くな……いえ、悪くてこそ悪魔。帝王たる私に相応しい』


『残念ながら君に教育は出来ないからね。僕は君に何も言わない。でも、ヘルや他の悪魔にはこの失態を言いふらす』


『…………ごめ……何て……言えるわけないでしょ!? 私悪くないです! 知りません! 魔力の属性のせいでーす知りませーんもう何も聞こえませーん!』


壁に向かい、耳を塞ぎ、黙り込む。エアは殴りたくなる気持ちを抑え、餌を求めて飛び回る蝿の視界を眺めた。蝿の速度に映像処理が追い付かず、ハッキリとは見えない景色の中に隠し扉を探す。


「……イバラキさん。これ、スロー再生とか出来ない?」


『あぁ、せやねぇ』


映像が途切れ、また調理場に入った直後から始まる。自動的に録画されており、それを再生しているのだ。


『あかんなぁ。遅してもブレてはるわ』


「コマ撮りはどこまで行ってもコマ撮りかぁー。にしてもこの性能なのにこんな写り方って……この蝿どんなに速いんだよ」


スロー再生に意味が無いと判断した茨木は投影を終え、義肢を再び変形させた。光の筋が壁ではなく空中に調理場の風景を描いた。


「……3D投影?」


『あの蝿、振動でどこがどうなっとるか分かるみたいやねぇ』


「へー、エコロケーションみたいなものかな。超音波出してる訳では無さそうだけど」


機械に疎いエアとフェル、それに酒呑は二人の会話を漠然と聞いている。理解しようとする努力すら出来ない、知識が足りなさ過ぎる、予想すら出来ない、言葉一つ一つの意味が分からない、そんな具合だ。


『ふぅん……扉は一個だけやねぇ、他の壁や床も詰まってて、隠し扉や階段がある隙間はあれへん』


『……何かよく分かんないけどハズレってことだね?』


『せやねぇ』


『そ。広間に人はまだ居る?』


『蝿が動いてくれんとなぁ』


義肢がまた変形し、先程までと同じく蝿の視界を映し出す。見えるのはトマトの断面だ、恐ろしい速度で減っていく様子が分かった。

トマトを食べ終え、蝿は肉に止まる。映像の端にそろそろと動く料理人らしき者が見え──映像は暗転した。


『痛っ』


『……どうしたの?』


『潰されたみたいですね、たまによくあるんですよ、大きな蝿ですからね。そりゃ見つけたら潰しますよね』


『たまになのかよくなのか……まぁいいや。それで、収穫は無かったけどどうする気?』


『もう一回飛ばして広間の様子を見てきます』


ベルゼブブが指を鳴らすとどこからともなく無数の大きな蝿が現れ、エアが開けた扉の隙間から出て行った。

茨木はベルゼブブの頭からコードを引き抜き、義肢を元の形に戻す。触角はすぐに生え、外に行った蝿達と交信しているようにゆらゆらと揺れた。


『んー……客はもう居ないみたいですね。従業員も……責任者以外は帰りました。料理人達は仕込みが終わったら帰る的な感じでしょう。後は警備員……警備員、あぁいたいた。劇場に人が残っていないか見てますね』


大きな赤い瞳を閉じて触角を揺らし、翅を不規則に振動させる。薄緑に透ける翅には髑髏のような黒い模様があり、人界に存在する蝿とは違い四枚ある。

虫の翅が人の……それも少女の身体から生え、何の問題もなく動いている姿というのは人間には強い不快感を与えるものだ。


「…………ねね、フェル君」


『……何です?』


「君さ、服の趣味ってどんな感じ?」


リンは無意識に不快感から逃れる為に趣味に走った。


『お兄ちゃんと同じですよ、地味なのです。出来るだけ肌が隠せて、黒っぽいやつ』


「まさに今着てるやつだね。じゃあさ、露出度が高くてふりっふりでカラフルな服とか無理矢理着せられたらどうする?」


『そうですね、着せた人を殺します』


「……ヘル君よりアクティブみたいだね……あはは」


フェルは今リンを追い払う為あえて過激な言葉を使ったが、本当に手を出す事はない。フェルは自分の身を守るのには消極的だ。


「…………ヘル君とセットで双子コーデのミニスカとかどう? 魔法少女アニメみたいなやつ」


『……お兄ちゃんとお揃いってのは気になりますけど、あなたが勧める服なんて着ません』


「んーやっぱヘル君よりは気が強いのかな?」


フェルはヘルの双子の弟などではなく、ヘルの複製に過ぎない。だが、複製された後の経験は全く違う。その差異は時間と共に大きくなっていく。

知識の多さ、身体の丈夫さ、魔法使いであること、その他様々な分野でフェルはヘルに勝っている。だからヘルより強い物言いが出来る。とは言ってもヘルの複製であるから、嫌われてもいいと心底思った相手でなければ出来ないけれど。


『……すいません、もう話しかけないでくれませんか』


「俺めっちゃ嫌われてる、多分この中で一番心配してるよ?」


嫌われていると分かる程度の頭があるならどうして話しかけるという行動を取るのか、フェルは流石にそこまでの嫌味を言う気にはなれず、リンに背を向けて黙り込んだ。

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