第307話 何よりも醜い感情

水飛沫を浴びながら、僕はゆっくりと目を閉じる。

もうこのまま死んでしまいたい。どうしてナイフを置いてきてしまったのだろう。いや、どうしてライアーを殺した後すぐに自分の喉も切り裂いてしまわなかったのだろう。


『ヘル! ヘル、大丈夫か、ヘル!』


顔に生ぬるく濡れた柔らかい物が押し当てられる。

僕の名を呼んでいる者がいると気が付くまでには時間がかかった。

アルが僕の顔を舐めているのだと気が付くまでには、さらに時間がかかった。


「…………アル」


『怪我は無いか? 何処に居たんだ? あの魔獣共は貴方が呼んだのか?』


「……会いたかった」


『そ、そうか。それは良かった。私もだ、ヘル、貴方に逢いたくて仕方が無かった』


僕は寝転んだまま、腕を上げてアルの頭を抱き締める。

少し体勢を変えたせいで岩の尖った表面が背にくい込んだが、そんな痛みを気にする余裕は今の僕にはなかった。


「僕には君しかいないよ、アル。君だけだよ、僕の傍にいてくれるのは、僕を見捨てないのは、君だけ……」


『そんな事は……』


「何? 見捨てるの? 君も僕を見捨てるの? 他の奴らと一緒なの?」


『私だけではないと言っているんだ。貴方の傍に居るのは私だけでは無いだろう?』


「…………どこにいるの? 見てみなよ、いないじゃないか」


周囲に生き物の気配は無い。


『今この場所には居らずとも、貴方を大切に想っている者は大勢居る』


「大切って……今、ここに、いないのに? ときどき変なこと言うよね、アルって」


片時も離れず傍に居なければ、愛は証明されない。

それはアルも同じだ。

アルの意思ではないにせよ、僕とアルは時折離れ離れになる。

アルは今朝、僕について来てくれなかった。僕はそのせいで愛してくれる人を殺してしまった。

暑いからなんて理由でアルが同行を断らなければ、ライアーは僕の兄になってくれていたのに。


「…………ねぇ、アル。僕のこと好き?」


『何を言っている、当たり前だろう』


「愛してる?」


『勿論だ』


「……口で言われたって信じらんない」


『…………どうすれば信じる?』


言葉は簡単に偽れる、態度なんて演技でどうとでもなる。

となるとやはり、僕の為に死んでくれたら、となるのだろう。

アルはそれで二度死んでいる。

けれど今目の前に居るアルは造り直されてから、まだ僕の為に死んでいない。

一度目に生き返ったアルには僕の記憶が無かった。今のアルは僕の為にどこまでやってくれるだろう。


「アルは僕の為に何をしてくれるの?」


『何でも』


「死んでくれる?」


『勿論』


「……死ぬより酷い目に合わされても僕が好きって言える?」


『ああ』


『僕が君を嫌いって言って、殴っても、殺しても、愛してるって言ってくれる?』


『当然だ』


こんな問答に価値はない、口だけなら何とでも言える。

やはりナイフを捨てなければよかった。

……僕は何を考えているのだろう。アルを傷つけるなんて、決して許される行為ではないのに。


『不安なのか? ヘル、私が信じられないのか? ならどうにでもすると良い。貴方が満足するまで私を嬲ると良い』


「……そんなこと、しないよ」


この街は人の精神に悪影響を及ぼす。

記憶が混濁し、疑心暗鬼になり、凶暴性は増す。

このままここに居れば僕はアルに暴力を振るうようにだろう。

僕は兄とは違う、愛していると宣いながら殴ったりしない。


「……アル、乗せてくれる? 神降の国に行こう、あそこならきっと大丈夫。僕は君を信じられる。僕は幸福でいられる」


『全て貴方の思うがままに』


アルは寝転がったままの僕を尾で掬い上げて、その大きな背に乗せた。

アルの背に乗るのはなんだか久しぶりな気がして、少し泣きたくなる。

柔らかい銀毛の感触を全身で味わって、黒蛇の胴を締め付ける感覚に悦びを覚える。


アルが水気を吸った翼を揺らして、飛び上がろうとしたその時。

水面に巨大な蝿の上半身が現れる。

気持ちの悪いそれの姿と咆哮はどこか獣を思わせた。


『……ベルゼブブ様』


真の姿を晒したベルゼブブは集まって来た海洋魔獣を喰い散らかす。

いつもの僕なら、あの魔獣を集めた僕が殺したようなものだ、と泣き喚いて謝っただろう。

でも今の僕にはそんな善良な感情は無かった。

海が真っ赤だな、なんて見たままのくだらない感想しか浮かばなかった。


『ヘル、目を閉じておけ。すぐに着くからな』


僕がいつものように自分を責めると思ったのだろう。

僕を気遣ったアルの言動が嬉しくて、それにそぐわない僕の心を蔑んだ。


「……好きだよ、アル」


自分で自分を蔑む。そんな救いようのない僕の心を救いたくて、アルに愛の言葉を囁く。


『ほ、本当か? 嬉しいぞヘル、私も貴方が好きだ』


心の底から喜んでいるような、そんな上擦った声色は僕の心を締め付ける。

こんな単純な言葉で、飾りっけのないそのままの言葉で喜ぶなんて。

なんて、愛らしい。


「…………大好き」


醜い欲望に満ちた言葉を、アルは美しい愛の言葉だと勘違いする。

そんな純粋なアルがたまらなく愛おしい。

アルに釣り合わない醜い僕がたまらなく憎い。

憎悪の対象が愛情の対象に大切にされている、それが一番許せない。


『ヘル、ほら、着いたぞ。深夜だからな……正当な入国は出来ないだろう。どうする?』


神降の国を囲う分厚い城壁の上、長らく整備されていないであろう埃を被った砲台の横。

アルは僕を下ろして、美しい月に向かって遠吠える。

その声も、その姿勢も、完璧と呼ぶに相応しい美しさだ。


「……仕方ないよ。朝まで門の前で待とう」


『いいのか?』


「ちゃんと手続き踏んで入らないと働けないもん」


所持金は常にギリギリアウト。

就労許可の印を見せなければ、まともな所では雇ってもらえない。


『それもそうだな。降りて回り込もう』


アルは僕を乗せて、壁から飛び降りる。

高い所から落ちる感覚は、何度味わってもなれない。

恐怖でアルに抱き着く力を強くすると、アルはそれを喜んでさらに無茶な飛行をする。

真っ直ぐに降りればいいのに、壁を蹴って横向きに走るように降りていく。


『ここだな。夜明けまではあと……四時間程度か、この門が開くのはそれより遅いだろうな』


「そっか」


一番大きな門、正門と言うべきだろうか。僕達はその門の前で待つことにした。

以前兄が壊した壁は再建中らしく、穴は隠されていたが足場は見えた。

神降の国はどんな所だろうか、前に来た時はよく分からなかった。

今はあまり長居は出来ないだろうけど、もし住み心地が良ければ最終的な住処にしてもいいかもしれない。

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