第297話 ライアー
僕はあれから何時間もずっとアルを抱き締めていた──らしい。らしいというのは、聞いた話だからだ。
僕はあの後夕食時にまた錯乱して、ベルゼブブに殴られて気絶したのだと。
風呂に入ろうとしたのは覚えているが、頭を打っただとかその後の言動だとか、そんなことは何も覚えていない。
『……思い出してください、何が怖かったんですか?』
「覚えてないんだって、何なのさ怖いって」
『ヘルシャフト様が仰ったんです、怖いだのなんだのと。それで先輩に抱きついてるんでしょ?』
僕の腕の中にはアルがいる。僕は覚えていないけれど、アルは錯乱する僕にずっと呼びかけていてくれたらしく、今は疲れたのか眠っている。
『教えてくださらないと対処のしようがありません』
「……頭打ったんならそれで昔のこと思い出しただけだろ、色々酷いもの見てきたし……ちょっとくらい変になっててもおかしくないよ」
『暗い、寒い、貴方様はそう言っていた、暗くて寒いところで怖い目にあった、そんな経験があるんですか?』
「暗い、寒い……いや、分かんない」
覚えていない話をしても仕方ない、ベルゼブブはまだ聞きたいようだったが、僕は数時間後に迫った新しいバイトの仕事を覚えることにした。
メモを取り出して読んでいると、ベルゼブブは僕の肩に小さな頭を乗せて背後から覗いてくる。
『何ですか、それ』
「バイトの仕事内容メモ。君が仕事しろって言ったんだろ」
『あぁそうなんですか、頑張ってくださいね。あっと……言い忘れるところでした、ヘルシャフト様はあまり地上をうろつかないでくださいね、天使に見つかったら面倒なので。海中か室内にいてください』
「分かった。このバイト海の中だから心配しないでよ」
『危ないのは宿に帰ってくる時ですかね、気を付けてください』
ベルゼブブはアルを片手で持ち上げ、僕にしっしと手を振った。
まだ時間が会ったのに、部屋を追い出された。
正直に言えばよかったのに? 全くその通り、ベルゼブブに遠慮する必要なんてないのに、癖なのか僕は彼女に言われるがままに部屋を出た。
首飾りをかけて、水中都市に早足で向かう。
時折に空を見上げたが空を飛ぶものは見えなかった。
ベルゼブブの警告を思い出し、水中なら散歩しても大丈夫だと判断する。
そう深くはないから、空からでも見ようと思えば見える気もするのだが。
「……あ、レストランある。僕でも食べれるのかなぁ」
海の中の建物の壁には首飾りと同じ模様が彫られており、どれも泡に包まれてている、
外から見える店内に人間の姿はない。半人半魚の、深き者とかいうのがひしめき合っている。
ただ異形なだけと分かってはいるが、獣人のように美しくなく、亜種人類よりも醜悪な見た目は嫌悪感を覚えた。
首飾りを売っている店は地上にあるのに、水中にいるのは深き者ばかり。人間は見当たらない。
僕は彼らに見られている気がして、それも負の感情を抱いた視線に感じて、バイト先へ急いだ。
まだ開店していない店に裏口から入り、ぼうっと音楽を聴いているらしい店主に話しかける。
再生されている音楽は神聖なものにも、薄気味悪いものにも聞こえる。くるくると回る円盤は僕の目を回す。
「……あの、すいません。ちょっと早く来ちゃいました」
すっと店主の顔を覗き込む。
……寒気がするほどに美しい。
閉じられた瞼、それに揃った長い睫毛、綺麗に鼻筋の通ったその美顔は、同じ人間のものとは思えない。
「…………あの」
楽しげに形が変わる唇は歌を口ずさんでいるらしく、指や足先はトントンと一定のリズムを刻んでいる。
僕に気が付いていない。触れるのは気が引ける。
どうするべきかと立ち尽くしていると、不意に店主の目が開く。
僕を捉えて、見開かれる深淵の如き瞳。
『もう来たの?』
くす、と笑い店主は机の上の機械を操作し、円盤の上を走っていた針を上げる。
円盤の回転は次第に緩やかになり、やがて止まる。
「来る前に、街を散歩しようと思ったんですけど……気が変わっちゃって」
『…………あぁ、恐くなったの?』
「……え?」
どうして分かった、僕はそんなに怯えた顔をしていたか。
店主はくつくつと愉しげに、ナイと同じ笑い方をした。
僕はベルゼブブに相談しなかったことを後悔しながらも、相談していたらこの店に乗り込んでいたかもしれない、勘違いで店主が殺されるかもしれない、と開き直ろうとした。
『人間が珍しいんだろう、ボクだってキミを珍しいと思っている』
「そ、そうなんですかね。なんていうか、疎まれてるっていうか、そんな気がしてしまって」
『まさか、彼らは人間が大好きだよ』
「……そうなんですか?」
とてもそうは見えない。
僕を見るあの濁った瞳からは、好意なんて感じられない。
『地上に人間がいるだろう? あれは全部彼らの妻と夫さ、彼らは人間の伴侶を欲しがっている』
「そ、そうだったんですか……」
『この街で彼ら同士でくっつくことはまず無いね』
「へぇ……」
それは、かなり珍しいんじゃないか?
異種婚なんてそうある話じゃない、しかも街全体だなんて。
少し嫌な空気を感じ取った僕は話題を変える。
「あの、仕事って……メモは見たんですけど、ちょっと分からないこともあって」
『そう? どこ? 教えるよ。と言っても大したことはしないんだけれどね、本当に普通に接客してくれるだけでいいからさ』
「僕、接客初めてなんですよ。自信もないし……ほら、僕愛想悪いですし、上手く話せませんし……」
『そう? 上手く話せてると思うよ。それに不慣れから来る愛想の悪さは魅力にもなる。人は処女性が大好きだからね』
「…………僕男ですし、ここって普通のカフェですよね?」
そう、至って普通のカフェ。半魚達が液体を飲むことが出来るのかは知らないが、店内には豆を挽く器具もあった。
『あっはは、勿論そういう意味じゃないよ。君はそのままでいいってことだ』
「そ、そう……ですか。ありがとうございます」
そのままでいい。その言葉は素直に嬉しい、泣きたくなるくらいに。
僕はずっと自分が嫌いだから。
『君は注文を取ってきて、それをボクに伝えて、出来たものを運ぶだけでいい』
「……分かりました」
『うん、頑張ってね。間違えったってボクは怒らないから』
「…………お客さん、怒りません?」
『怒ったらボクが庇ってあげる「新人なんですー」ってね。それに、そんな短気な客はボクの店には要らないな。ゆっくりと時間を忘れる為の店だからさ』
店主は優しく僕の不安を解きほぐす。
その温かさに、ナイではないかと疑ったことが恥ずかしくなった。
僕は心の中でそれを謝罪して、精一杯の笑顔で「頑張ります」と答えた。
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